カメラを片手に

平城宮の北に接し残された古墳群

西風が吹きすさんでいるが、最低気温は6.7℃と冷え込みは緩い。
しかし日中の気温は13.6℃止まりで、座っていると暖房が必要なほど。
      11時、11.0℃、47%

若草山、芝は枯れ、広葉樹も紅葉は過ぎて落葉しているようだ。
      

我が家ではこの落葉で困っている。強く吹く西風で、ご近所の落ち葉が玄関先
に吹き込んでくるのは、毎年恒例だが・・・
空き家や手入れのされない家が増え、今日は3回も落ち葉拾いを。

さて先日、平城公民館の講座「平城宮・京の造営で消えた古墳と残った古墳」
大阪大谷大学教授 狭川真一先生のお話がありました。
この19日に現地学習会があり、集合は「平城天皇陵」です。


710年に遷都された平城京、その北の端、一つの円墳がギリギリ残されている
      

宮内庁にて「平城天皇陵」に比定されているが、平城天皇は824年崩御で、
古墳の墳形や出土埴輪などから5世紀のもので、時代が合わない。
「平城天皇陵」は地名から「市庭古墳・楊梅陵」ともいわれ、民家に挟まれた
円墳様ですが、実は全長253m(ランク10位大)の前方後円墳の後円部にあたり
佐紀古墳群の東群(コナベ古墳・ウワナベ古墳等)に属している。
平城京造営時に前方部は壊されたようだ。
その前方部はこの位置になり、小石の列で残される。

先生によると佐紀古墳群、5世紀の東群よりも、前の時代の古墳は西群と考え
ているということで、高塚古墳(称徳天皇陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、
陵山古墳(日葉酢媛命陵)、五社神古墳 (神功皇后陵)へと歩くのですが・・・
宮内庁の比定の古墳に自由に入れないので、入れる県指定「瓢箪山古墳」へ
寄り、後円部の頂上まで歩き、全容を掴む。

この古墳は古墳時代 中期前半で全長96m、後円部径60m 、高さ10m、前方部幅45m 、高さ約7m、2段築成とされ、奈良文化財研究所の初期研修(長さなどを計測する訓練)でかつては使われたとか。
前方部を南に向け約12mの空濠が巡るが、丸塚古墳と接する西南部には無く、丸塚古墳を避けて築かれたと考えられる。
   丸塚古墳⇐ 瓢箪山古墳前方部

さあいつもの気持ちの良い成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道を歩きます。
紅葉も・・・
成務天皇陵⇐日葉酢媛命陵

石塚山古墳(成務天皇陵)は4世紀末頃の三段築造で全長218.5mの前方後円墳
陵山古墳(日葉酢媛命陵)は4世紀末から5世紀初めの全長207mの前方後円墳
高塚古墳(称徳天皇陵)は5世紀前半の全長127mの前方後円墳

石塚山古墳(成務天皇陵)・陵山古墳(日葉酢媛命陵)・高塚古墳(称徳天皇陵)
この中で一番先に造られたのは・・・・・
      

石塚山古墳の壕が変異くびれ、狭くなっている。
 陵山(日葉酢媛命陵)が先ですね。
そして古墳の形状は、二段か三段だったことが樹林を通して分かります。
      

ここから直接、五社神古墳 (神功皇后陵)へ行かれるかと思いきや・・・
住宅地造成で壊された円墳の跡を歩く。道が真っすぐではなく曲がっていた

近鉄線を渡り、五社神古墳 (神功皇后陵)に、4世紀末(古墳時代中期初頭)に
佐紀丘陵の丘尾を切断して築造された、全長275mで全国で第12位の規模の
巨大前方後円墳です。
佐紀古墳群の西群が東群より先に築造されていたことが分かりますね。
     

一年に一度は訪れる古墳の道、こんなことがわかるのですね。
先生の話を聞きながら、古代へ思いをはせていた。
      
平城駅から近鉄電車に乗り、尼ヶ辻駅へ、
ここでは垂仁天皇陵が平城京域に残されたのは・・・




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