カメラを片手に

不退寺、5月28日は業平忌

奈良は深夜に梅雨前線の通過に伴い一時強く降るも、午前7時過ぎに止む。
総雨量は32.5㎜で最低気温は午前9時過ぎの19.0℃、夕方から明日は晴れだ。
      11時半、19.2℃、73%

今日の誕生日の花はボタン科の『シャクヤク・芍薬』 、ユーラシア大陸
東北部原産の多年草で、中国から平安期に薬草として渡来する。
日本では「和シャクヤク」として一重咲きや翁咲きなど、比較的シンプルな
花形として発展したが、ヨーロッパでは「洋シャクヤク」として手まり咲き
やバラ咲きなど、弁数が多く香りの強いものが多いのが特徴となる。
近年は「ボタン」を含め「和・洋シャクヤク」との交配種も生まれている。
花は一重、八重があり、花色は赤、ピンク、白、黄、複色とさまざま。
花言葉は「はじらい」「慎ましさ」「はにかみ」

立てばシャクヤク、座ればボタン」といわれるほど、同じ科でよく似た
高貴な美しさと豪華さのなかにエレガントさを併せ持ちる好まれる。
鑑別点は、ボタンは木々で冬は枝が残るも、シャクヤクは草木のため冬季に
地上部は枯れる。

上記の「シャクヤク」の写真は、先日「不退寺」へ行くJRの踏切を渡った
小さな畑で撮る。

その「不退寺」の始まりは809年平城天皇が譲位後隠棲した「萱の御所」、
その後平城天皇の皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男「在原業平」が
暮らし、自ら聖観音像を刻み「金龍山・不退転法輪寺」と号し、阿保親王の
菩提を弔ったのが始まりと伝えられている。

切妻造・本瓦葺の四脚門の南門(重文)で、鎌倉末1317年の建造と判明したのは
昭和9年の修理で墨書銘が見つかったことから。
       

大きな板蟇股が印象的で、冠木上に笈形調の装飾があり、桃山期への先け。
      

本堂(重文)は室町前期まで、正面5間、側面4間、寄棟造・本瓦葺で、
正面3間、側面2間(三間四面)という古代以来の平面形式をもつが、堂内は
奥の内陣と手前の外陣(礼堂)に区画された中世仏堂に一般的な形式です。
明治時代に一時無住寺となるも、昭和9年の修理以後手は加えられていない。
  

上部の業平格子、太い線と細い線を組み合わせた菱形の格子の中に十字の模様
を入れた格子縞で、業平が好んだとされる。
江戸時代の歌舞伎役者歌右衛門が用いて流行ったと。 
大和北部八十八か所御詠歌が右に掲げられている。
観音をたゞ一筋たのみつゝ 不退の寺に急ぎまいらん
    
内陣中央には業平(825-880)自身が刻んだとされる「聖観音菩薩立像」重文、
胡粉地に極彩色が残る。
調査では平安時代中期900年代の桂の一木造、三尊像の脇侍と推定された。
更に奈良でも薬師寺東院堂の聖観音(国宝)と共に珍しい聖観音さまになる。
そして法華寺・海龍王寺の十一面観音とともに「佐保三観音」の一つです。
      奈良寺社ガイドより借用

本尊左脇に『地蔵菩薩立像』、多宝塔の千体地蔵の本尊かも
墨書銘によれば安浪作と。安阿彌のかへ字で、快慶を指すかも???

周囲に『五大明王像』、藤原時代中期の作風で重文に指定される。
ヒンズー教由来の神々で、不動明王(中央・本尊右脇)、隆三世明王(東)、
軍茶利夜叉明王(南)、金剛夜叉明王(北)、大威徳明王(西)、

業平の父『阿保親王坐像』鎌倉時代の作。
右側奥に2mほどの『八相涅槃図』 江戸時代、1923年に廃寺の西福寺より寄贈
左側奥には秘宝の『在原業平画像』江戸時代の作も拝見しました。
『興正菩薩像』は不退寺の中興、真言律宗西大寺の興正菩薩叡尊による。

境内右奥にある重文の『多宝塔』鎌倉時代中期、不退寺では最古の建築物。
伽藍図や大和図絵に二層構造の多宝塔が描かれているが、現在は初層のみ。
          
             大和図絵(国会図書館)

檜皮葺きの上層部が、明治時代初期の廃仏毀釈で取り払われました。
塔内に安浪(快慶?)作の千体地蔵が安置されたが、現在は数体残るのみ。
業平の命日11時から法要の『業平忌』、毎年5月28日にこの日のみ開扉する。


歌碑もあり、伊勢物語、第八八段から
『於ほ可たは津きをもめ て新古礼曽こ能徒裳れ は人のお伊登奈る毛乃』
「おぼかたは つきをもめでじ これぞこの つもれば人の おいとなるもの」
      

もう一つの歌碑、百人一首第十七 業平朝臣
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは
      

その奥に句碑がある
『佐保山は 終の棲み家よ つく法師』 恵穂
      

また花の寺としても知られ、500種類以上の植物が一年中花が途切れること
なく咲く。

ニセアカシアが咲きだしている。
       
     
業平椿は本堂横で来春に向けてお休み中ですね。
      



境内の西側は庫裏兼寺務所で、この建物は瑞景寺の庫裏として安政4年
(1857年)に築造後、明治18年(1885年)に長州毛利家によって寄進されたと。
      

その奥に古墳時代(5世紀)石棺、かつて不退寺の西側にあった平塚古墳から
国道24号バイパス工事にて出土する。
     

小一時間おりましたが、誰一人として来られず、このシーンとした佐保路も
良いものですね。

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