カメラを片手に

桜咲く畝傍山の麓にて

6時過ぎ屋根をたたく雨音で目が覚ませば、最低気温は13.6℃と暖かく5月頃
の気候に、またウトウトと。
珍しく二人とも用事がないので、渋滞を避け朝早く彼岸の墓参りのつもりが、
自宅を出たのは10時に。
やはり渋滞にあいました。両岸に植えられた桜並木の曽我川を行く予定が、
裏道から小さな高取川沿いを上がれば、背後の畝傍山は霞んでいるが・・・
川沿いの若い桜並木はチラホラと。


奈良市のサクラの開花は今朝発表になり、平年より8日早いと。
墓の近くでは満開の桜と、散り始めたハクモクレンの競演が見られた。

帰り道、背後の大和三山の一つ「畝傍山」199.1mにかかる雲もとれて、山肌
を彩るピンク色が中腹と裾野に見えませんか、サクラですね。

この写真の左端には「神武天皇 畝傍山東北陵」として比定される陵がある。

先日の講座「日本書紀が語る神武天皇の誕生ー大和での決戦ー 」から
神武天皇は左下の「神日本磐余彦(火ゝ出見)尊・カムヤマトイワレヒコミコト」で

日本書紀巻三、即位前紀甲寅年によれば、東征を決断するくだり
"東に美き地あり。青山四を周れり。・・・六合の中心ならんか。・・・”

東征へ 
十月五日 日向(宮崎)から東へ出発し、菟狭(宇佐)に至る。
十一月九日 岡水門(遠賀川河口付近)

東征二年目、三月六日に吉備の国に至る、高島宮で三年間船と兵糧を蓄える
東征五年目、二月十一日東へ出発、難波碕に到着
      三月十日 河内湖から大和川を遡り草香邑、ここまで戦はない
      四月一日 初めての戦いは生駒の豪族長髄彦と戦うも阻まれる

"今我は是、日の神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此天道に逆らふ”
太陽の子孫が太陽に向かい西から攻めるのは天道に逆らうことになる。
遠回りして東から攻めることに。
      

南下して熊野を抜ける際、天照大神が磐余彦(後の神武天皇)に夢に現れて
瑞夢として教えられたことは
「私が今八咫烏を遣わすから、これを先導者とするがよかろう」
吉野の険しい山を越え、大和に入る。
八月二日 菟田(奈良県宇陀市)に到着、首長の兄の計略を弟の密告で防ぐ
十一月七日 弟磯城は従うも兄磯城は従わず、滅びる。
十二月四日 宿敵、生駒の豪族長髄彦を撃つが・・・反撃を受ける

"金色の鵄有りて、飛び来りて皇弓の弭(はず)に止る。光り輝きて迷い眩う。”
大和地方を平定しました。
凱旋と即位、日本書紀巻三、神武天皇即位元年に
紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位して、初代の天皇となられる。
「辛酉の年の正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に帝位に即く。是歳を天皇の元年とす。・・・神日本磐余彦火ゝ出見天皇と曰う

天皇が本当に実在したと思われるのは、10代崇神天皇(三世紀後半)からだと
されており、その根拠と考えられるのは
①即位は辛酉の年、紀元前660年(縄文時代末期から弥生時代早期)、合わない
 易緯(エキヰ)によれば、
"辛酉(しんゆう)を革命と為し、甲子(かつし)を革命と為す。・・・
 六甲を一元と為す。七元にして三變有り。三七乗じて廿一元を一ボウと為す
・・・つまり60年で元に戻り乗ずるは21回、60×21=1260年
1260年後は推古九年(601年)も辛酉の年で、大革命となる聖徳太子の
冠位十二階・憲法十七条制定されたことから。
同じ大革命の神武元年を1260年前の辛酉と設定したのではと考えられる。

②日本書紀巻四、崇神天皇十二年九月十六日から
 神武天皇は「始馭天下天皇・はつくにしらすすめらみこと」と称し
 崇神天皇は「御肇国天皇 ・はつくにしらすすめらみこと」と称あり
大和朝廷は三輪山の麓に誕生・発展したとみられるのでは・・・

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