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わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第26回 ―支倉隆子― 『酸素31』 山村 由紀

2019-08-09 07:09:54 | 日記
 初めて支倉隆子の詩に触れたのはいつだっただろう。あれはもうずいぶんと昔、たしか1990年のおわりだったように思う。そのころ、ワープロからパソコンへと時代は移りつつあり、〈通信ができる〉〈世界とつながる〉という謳い文句とともにパソコンが家電量販店に登場し始めていた。未知のものへの好奇心から、わたしは周囲では一番早くパソコンを購入した(OSはウインドウズ95だった)。解説書などほとんどなく苦心してようやくネットにつなげ、これまた苦心して手作り感満載の詩のサイトを立ち上げた。あの頃、何をあんなに夢中になっていたのかとふりかえると、現代詩の世界に入り始めたばかりでいろいろな詩を読みたくて仕方がなかったのだと今、改めて思う。
 その手作りサイトを拠点にあちこちの詩のサイトを訪れた。そしてある日、支倉の詩と出合ったのだ。残念ながら掲載されていたサイト名は失念してしまったが、詩は覚えている。詩集『酸素31』に収められている「昼の月のように移動するだろう」という作品だ。

  その日そのひとは半袖を着て
  白い歯を見せ
  うっすらと
  そのひとである
  昼の月のように移動するだろう
  病歴がふとつふたつ
  草地があれば
  見えかくれして
  (半袖のまま)
  そのひと以前にもどっている
  以前の雨上がりよ
  片側町よ
  こちらにだけ嘘のように家がならんで
  屋根も濡れた
  手話するひともこちらがわにいて
  あちらがわは草地でしたよ
  羊歯類もよみがえり
  雨上がりは遊ばずにはいられないからと言って
  (半袖のまま)
  (昼の月のように)
  草のあいだから浮かび出たのが
  そのひとでしたか
  そのひと以前でしたか
  こちらがわを物色し
  金物屋があれば
  移植鏝をひとつ買って
  あらぬ方角に消えていったと
  片側町ではうわさした
  (手話するひとも静かにうわさした)

(「昼の月のように移動するだろう」抜粋)


 この詩を読んで、驚いた。あるようなないような、全体に紗がかかった世界。まさに「昼の月」のようだ。それをストーリーではなく言葉の持つイメージをつなげて構築している。「片側町」「以前の雨上がり」「病歴」「移植鏝」「手話」。使われる言葉は無関係のようでつながっている。意味や音を加味しながら言葉を選ぶ、そのセンスの良さに圧倒された。幾度か繰り返される呼びかけは独り言なのか、読み手への語りかけか、作中の誰かに向かってか、対象があいまいであるにもかかわらず強い印象を与え、作品のリズムを作っている。それまで自分が思い込んでいた詩の枠組みが一回り大きくなった興奮と、この表現にはかなわない……という恐れとが入り混じった複雑な心境になった。わたしはこの作品を紙に書き写し(パソコンから書き写すというのも変な話だが)しばらく壁に貼っていた。
 一篇の詩に魅せられると、もっと読みたくなるものだ。その思いは年々強くなっていった。しかし、詩集は書店にも古書店にもなかった。2002年に第6詩集『身空X』を購入したが『酸素31』への想いはつのり、趣味の古本市めぐりでは期待することなく捜すのが常になっていた。次第に(どうせ、ないんだろうな、通販ぐらいしてくれたらいいのに……)と相手には非がなくても、欲求が満たされないがゆえの恨めしさ、憎々しささえ感じていた。
 ところがちょうど一年前、古書検索でこの詩集が出てきたのだ。わたしは息を詰めて購入ボタンを押した。晴れて詩集は手元へとやってきたのである。その時点で「愛憎」の「憎」の部分は消えてしまった。詩集は全編を通して薄明るく、「黄泉」と「現世」の狭間を描いていた。詩を読み慣れた今、以前のような興奮をもって頁をめくることはないが、これからも何度も読み返す大切な一冊である。

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