わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第1回 野村 喜和夫

2017-05-11 02:44:28 | 日記
 詩への愛は詩への憎しみである。詩を愛すれば愛するほど、憎しみも増してくる。私は詩人であると同時にカフェのオーナーでもあるが、もうこれ以上詩といふ愛しい対象をこの腕に引きずつてゐるべきではないとさへ思ふのである。私が無条件に愛誦してやまない詩は、たとへば、

  (覆された宝石)のやうな朝
  何人か戸口にて誰かとさゝやく
  それは神の生誕の日。

西脇順三郎「天気」


  J’ ai embrasse l’aube d’ete.
  (ぼくは夏のあけぼのを抱いた)

アルチュール・ランボー「あけぼの」冒頭


  海くれて鴨のこゑほのかに白し
松尾芭蕉



 このやうな詩を、詩句を、しかし憎しみなしに読むことができようか。世界の始まりとしての朝をたつた三行で要約してしまふなんて、同じく朝といふ無垢な宇宙とのエロス的合一をたつた8音節(フランス語原文)の響きとリズムで言ひ切つてしまふなんて(もつともこのあと、ランボーはこの合一の経緯とそれが最終的には夢にすぎなかつたことを、独特の散文詩形で語つてゆくのであるが)、あるいは夜へと暮れてゆく薄明のなかの名状しがたい共感覚の生起をたつた五七五の枠のうちに掬ひ取つてしまふなんて、ありえないことだ。すくなくとも、たうてい私には書くことができない。おのれの無力さに打ちのめされるとともに、むらむらと嫉妬の感情が涌き起こつてきて、ゆえに私はこれらの詩を、詩句を憎む。
 と同時に、ひとたびこれらの詩や詩句を口づさむや、もう絶対に鴨の声は白いだらうし、もう絶対に夏のあけぼのはみずみずしい巨大な女体に違ひないし、もう絶対に神の生誕は人に先立たれてゐるはずだと思へてくる。詩への愛が募るのだ。周知のやうにプラトンは、詩(当時は叙事詩や悲劇も詩のうちであつたが)と真実とを慎重に分離し、詩人を自分たちの共和国から追放したのだつたが、詩への愛を募らせてゐると、もしかしたら、プラトンから二千数百年後のルネ・シャールが皮肉たつぷりに述べたやうに、詩と真実とは同義かもしれないという疑ひをどうしても打ち消すことができなくなるのである。ゆえに、つまるところ、私はこれらの詩を、詩句を憎む。
 たはごとだ、詩はたはごとだ。そんな代物にうつつを抜かすより、むしろ私はこの夜更け、老骨ゆえ疲労の度合ひは激しいが、なほしつかりと足元をみつめ、厨房や調理器具の掃除をしよう。素材の在庫を確認し、レジを締め、売り上げを計算しよう。看板をしまひ、あすの買ひ出しの確認をし、ゴミ出しをしよう。いや、しなければならぬ。私は救はれるだらう。