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わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第34回 ―依田冬派― もうひとつの青 藤本 哲明

2020-05-17 16:52:47 | 日記
 一篇の詩、あるいは一冊の詩集として組織されたことばの塊に、愛や憎しみを抱くような感覚が私には欠落している。愛するにしろ憎むにしろ、対象との近接性という一点で私のイメージする詩の在り方と乖離しているからかもしれない。そう、いま、私は詩と距離の話をしている。詩の卑近さを現象として否定するなら、一生詩とは無縁で終わり得るだろう。しかし、いっぽうで、私たちが詩によって不意に搔っ攫われたことがあること、詩によって連れ去られ私たち自身の足場を危うくされたことがあること、同様に詩によってこの地面にふたたび帰還することが可能になったことがあること、詩が、詩こそが私たちに齎すそのような固有の経験について少しでも身に覚えがある者ならば誰でも、詩の遠さについて思考を巡らさざるを得ないだろう。詩は常に卑近にそこら中に転がっているように見えながら、時折、その圧倒的な遠さによって私たちを文字通り暴力的に救ってしまう瞬間がある。詩による救済の齎す結果が、その者を詩に再度近づけることもあれば、永久に遠ざけることもまたあるだろう。 
 誰かが詩を読む。詩を書き始める。そして、詩を書くことをやめる、あるいは詩を読まなくなる。その後もその誰かは暮らしを営み、生を全うする。そういうことは往々にしてあるだろう。しかし、その誰かは皆、生のある時期、それは限られた点のような時間かもしれないが、確かに彼や彼女に詩の遠さが到来していた、そのように証言しうるのではないか。誰が書き続けているとか、誰が書かなくなったとか、それは本来的には些末な事柄でありうるのかもしれない。しかし、その思いと同時に、二つ別の想念が浮かぶ。詩を愛する者とは別に詩に愛される者がいるとしたら、その者とはおそらく死ぬまで書き続けてしまう者なのであろう、と。書かれた詩篇群が発表されるかどうかとは全くもって無関係に。また、詩に愛される保証はなくとも詩を手放さずいまなお読んで書き続けている者にとって、誰かが詩を手放すときに離されるその手の感触に付随する圧倒的な寂しさ。詩の遠さは、決して詩にかかわる者ひとりひとりを安易に結びつけはしない。むしろ孤絶したものの方へと分断するだろう。手と手が結ばれる可能性は、詩の遠さをあたかも傍らの近しいものとして錯覚することなしには得られないのかもしれない。少なくとも、そのような錯覚を確信として保たせてくれ続けた詩篇として、依田冬派「もうひとつの青」(「kader0d vol.7」所収)を挙げておく。

  きみひとりが路上にたおれてから
  馬車はむだに蛇行している
  にごりみずをおろし
  動力部の草葉もとりのぞき
  それでもまだ泣きつづけるならば
  ふるえる肩にさらなるむちを
  打てと、おまえだったら云うのか

  境目がわからなければ
  なにも越えたことにはならない
  とんびのめがほしい
  低い尾根から身がほどかれるまで
  あとどれほどのうたを
  殺せばいい ころしたいよ

  土に埋めた空腹がいずれ
  実を育てるとしても
  いちど棄てたものから生える
  私などあてにすることはできない
  うみをひていする
  あくまで路上を踏みつづけ
  熱のなかの青い静けさ
  それだけを追いかけてひたすら
  隘路をすすむ

  ふゆの斜面のように痩せゆくまで
  ことばの底で 明滅をくりかえす

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