わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第17回 ―石原吉郎― フェルナンデス』をめぐり、石原吉郎をめぐるとき 法橋 太郎

2018-11-04 03:15:48 | 日記
 「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい
と石原吉郎は書いた。石原の第三詩集『斧の思想』所収『フェルナンデス』の冒頭である。『石原吉郎全集』(鮎川信夫 粕谷栄市 編集委員 花神社 1980年7月20日 初版第一刷)の『年譜』によるとこの作品は、1970年、「ペリカン14」に掲載された。
〈フェルナンデス〉」のリフレインが二度ある。この「フェルナンデス」とは誰か。もし私の推論が正しいとすれば『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』(岩根圀和著 中公新書 1997年12月20日発行)に載る偽者アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダのことだと思われる。
 石原はこの「贋作」についても知っていただろうと推測されるが、『石原吉郎全集』のなかにも、フェルナンデスについての言及はない。「男は口を 閉じて去った」のである。この「」というのは、石原が洗礼を受けた師のエゴン・ヘッセル氏であり、石原自身でもある。

石原はインタヴューにおいても対談においても、用心深いと言っていいほど正確に言葉を選んでいるのがよく判る。石原の「声となる均衡」への留意はこの詩集の表題作『斧の思想』に表れている。「およそこの森の/深みにあって/起こってはならぬ/なにものもないと」。
 このことは「人間不信」に陥った石原の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』、その巻頭の詩『位置』に「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ」と明確に「敵」と書かれている。「勇敢な男たちが目指す位置は/その右でも おそらく/そのひだりでもない」と。ところで石原は何を「」と見做したのか。それは石原の外界の「」であり、同時に石原自身という「」である。石原にとって外界と内面は常に同じものであったのだ。再認しておきたい。石原の外側(そと)と内側(うち)とは常に一(いつ)なるものであったのだ。言われればなるほどと思われるかも知れない。しかし石原はこのことをみずからによく承知していたのである。石原が戦後の日本においても、「声となる均衡」にどれだけ注意を払っていたことか。
 旧陸軍中野学校から諜報部員として旧ソ連シベリア抑留後、この国に帰還した石原の意識はみずからの境涯を『ドン・キホーテ』に擬(なぞら)えて二重に写したのと同様、この『フェルナンデス』でもまた、『贋作ドン・キホーテ』にみずからを擬えて二重に写しているのだ。

 『贋作ドン・キホーテ 下』(アベリャネーダ著 岩根圀和訳 ちくま文庫 1999年12月2日第一刷発行)についてはこの「あとがき」によく纏まっていて詳しい。岩根氏の「あとがき」から一部引用する。

 これはアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダの『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(スペイン語 中略)の全訳である。世界文学の遺産ともなっている『ドン・キホーテ』の作者はスペインのセルバンテスではなかったかと思われるかも知れない。たしかに『ドン・キホーテ』前篇は一六〇五年にミゲル・デ・セルバンテスの名で出版されている。これがたちまち大評判となり、その年度末にはすでに六版を重ねてとどまることを知らぬ売れ行きであった。
 騎士道小説のパロディとして書いた『ドン・キホーテ』が空前の当たりを飛ばすまでは一介のしがない作家に過ぎなかったセルバンテスは、大いに気を良くして後篇に筆を染めることにした。前篇の着想を踏襲し、さらに構想を練って『ドン・キホーテ』の後篇を書き始めたのがいつの頃であったのかはっきりしない。しかし一六一三年出版の『模範小説集』の序言で「近いうちにドン・キホーテの後篇をお目にかける」と述べているからこの時点ですでにかなりの量まで書き進んでいたと見ていいだろう。実際にセルバンテスの『ドン・キホーテ』後篇が出版されるのはそれから二年後の一六一五年である。ところがその目と鼻の先の一六一四年にアビリャネーダの『ドン・キホーテ』後篇が世に出てしまった。
 当時は剽窃の意識の薄い時代のことだから先に世に出たアベリャネーダの『ドン・キホーテ』は、作者の異なる別の『ドン・キホーテ』後篇であるに過ぎないのかも知れない。アベリャネーダ自身も「ある物語が複数の著者を有することは別段真新しいことではないのですから、この後篇が別の作者の筆から生まれることにどうか驚かないで戴きたい」と序文に述べているとおりである。それを承知であえてこの作品を贋作と呼ぶなら、真作の執筆途中に贋作の出版を目の当たりにしたセルバンテスの驚きと怒りは想像するに余りある。


 詳細は前記の本にゆずるとして、以上のことを石原がどこまで知っていたかは不明であるが、何ヶ国語にも堪能だった石原は『贋作ドン・キホーテ』の事実を知っていたのは確かだと思ってよいだろう。

 石原の『フェルナンデス』にもどる。
 「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」。
 この詩の疑問に思われる点を検閲(けみ)してみたい。「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」この「寺院」とは『嘆きの壁』のことだろうか。石原がそこへ行った記録はないが、とうぜん『嘆きの壁』の「イメエジ」が石原の脳裏にあったはずである。その「しずかな/くぼみを」「フェルナンデス」と親しみをこめて「そう名づけた」のである。
 「ひとりの男が壁にもたれ/あたたかなくぼみを/のこして去った」。石原にとっては『贋作』である歴史の経験も親しいものになっていたのではあるまいか。繰り返しになるが、この「男」は石原が洗礼を受けたというカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏、また石原自身のことでもある。推量はしょせん推量にしかすぎない。しかし一体どの歴史が正しいのか、石原には石原の経験した歴史があるのである。それを個人史と言うならば、われわれ個々にとって生(き)の個人史のみが確かなものである。

 「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる
 「〈フェルナンデス〉」は「しかられたこども」でもある。「しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの」。「しかられたこども」が本当に反省を促されたとき、われわれは「目を伏せて立つ」のではないか。「目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」そうしてうな垂れて、「」に「もたれ」る。そこに「しずかなくぼみ」ができる。まず石原自身が自省して「壁にもたれ」、『ドン・キホーテ』、『贋作ドン・キホーテ』にならざるを得なかった、過去であり未来であり得る人びとに「そう呼」びかけているのだ。当然「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」「〈フェルナンデス〉」と。

 「ある日やさしく壁にもたれ/男は口を 閉ざして去った」。
ある日」(「男は」)「やさしく壁にもたれ」(その)「男は口を 閉ざして去った」のである。「ある日」とは石原が、この詩を書いた現在であり、過去であり、未来である。それは同時にこの詩を読むものの、つまりわれわれの現在であり、過去であり、未来なのだ。「」については詳述したとおりである。「やさしく壁にもたれ」「口を 閉ざして去った」。これは石原の旧懐の念である。ある年齢に達し過去を思えば、すべての過去に「やさしく」なってくるものである。そうして「壁にもたれ」すべての過去に「口を 閉ざして去」らなければならなかったのである。「」にできない過去、たとえそれを「」にしてもどうしようも理解してもらうことのできない過去があるものである。ゆえに「口を 閉ざして去った」のである。
 若い人には、まだわからないかも知れない。しかしわれわれ人間はそのようになってゆくものなのである。これは生理的な現象である。
 
 「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもよ/空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき/私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ
 「しかられたこどもよ」と石原はしずかに呼びかける。「空をめぐり/墓標を巡り終えたとき」。ここには石原のシベリア体験による「」ばかりの土地で、いつ死ぬかも知れない生(せい)の不確かさ、「空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき」が見えるようだ。「私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」。私を「フェルナンデス」と「呼べ」。「そこに」とは石原における「贋作」の境遇、あるいは「贋作」の時代のことだろうか。戦中に諜報部員になり、戦後のシベリア抑留、祖国にいながらの遠い祖国、それらの「贋作」の時代に「私はそこに立ったのだ」と石原は証言する。つまり、石原自身が「ひとりの男」であり、「くぼみ」であり、「しかられたこども」であり、「フェルナンデス」であったのだ。さらに言えば、表題のとおりこの詩そのものが「フェルナンデス」であったのだ。すなわちコノテーションになっている。かてて加えて、この詩の終りは始めに戻るのだ。つまり最終行「私はそこに立ったのだ」は「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい」に戻るという円環構造になっている。

 最後に石原が詩を書く動機について確認しておきたい。
 一九五五年石原四十歳の八月 詩「葬式列車」(〔文章倶楽部〕)発表と共に読者代表として鼎談「作品と作者とのつながりをどうみるか」に参加。出席者 鮎川信夫、谷川俊太郎。この鼎談の発言には詩人の全詩業にかかわる興味深いものが含まれている。抜粋記載(全集未収録)。

一つの詩を終る時になると、何か最初の出発点に返って行かなければならない気がして来ます。そうでないと、何か円がまとまらないような感じがして、最初に出て来たイメエジをおしまいに又持出す形になるんですが、これでいいと思うんです。どういう駅を出発して来たか、ということが、終りになって大事になってくるんです。」
 「(略)僕、自分は少し特殊なところがあるんじゃないかと思うんです。一昨年の暮引揚げたばかりなんですし、……(略)どうも人の中にまぎれこめないような、何か押しだされたような気がしています、今だに。一寸人に説明してもわからないでしょうが、それから僕みたいな境遇にあったものは過去というものに対するノスタルジアがとても強いんです。過去をいろんな形でたてなおしてみたい気持で一杯ですね。来年をうたう事は出来ないんです。いつも過去をうたっていなければならないんです。」
 「過去にこだわっているんです。しかしその事が、いま生きて行く力になっているんじゃないかとも思っています。過去というものについて、変なことを考えています、実に(笑)。過去を全部歩きなおす事ができるんじゃないかなどと。これをこの間から書こうと思っています。……(略)過去というものの意味はきまっている、しかしその意味を変える事ができるんじゃないか、観念で変えるんじゃない、実際に過去のある地点までもどって、過去をもう一回歩きなおすというようなことですが……
」(『石原吉郎全集』『年譜』適宜改稿=筆者)。  

 よく自省すれば判ることだが、われわれもその時代じだいに翻弄され、われこそはと名乗り出て、みずからの狂気を狂気と知らぬままに演じなければならない『ドン・キホーテ』であり、『贋作ドン・キホーテ』ではないだろうか。「〈フェルナンデス〉」「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」。
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第16回 ―吉原幸子あるいは詩そのものー  橋本 シオン

2018-10-13 15:28:44 | 日記
 去年初詩集を発表してから暫くの間、詩が全く書けなくなった。本も開けないし、とにかく字を見たくなかった。体調も崩すし誰にも会いたくない、という時期が続いた。エネルギーを使い果たしてしまった、そんな感じだった。
 燃え尽き症候群では、と言われると、それとはなんだか違った。思い返すと、詩集を作るにあたってエネルギー全てを注ぎ込み、枯渇してもマイナスから捻出するような無茶をしていたし、並行して会社を辞める為の手続きも行っていた。更に出版記念個展も企画していたもんだから、全てが終わった時には水分を失った野菜のごとく干からびていた。
 本を開くことも、ましてや詩を書くことも出来なくなって、体調も崩した。詩集を出して良かったのだろうか、なんて悩んでしまうこともあった。こんなことなら詩なんて出会わなければよかった。詩と出会わなければ、詩を書いていなければ、そんな恨み節を繰り返すようになった。

 私が詩と出会ったのは、大学時代のゼミだ。そのゼミは詩を主に扱っていた。それまで私は国語の教科書に載っている詩を読むくらいで、特段興味もなかった。なぜ詩のゼミに行ったのか、理由は忘れてしまった。
 ゼミの恩師が女性詩人を熱心に扱っていた。特に熱を入れて教えて頂いたのが、吉原幸子さんだった。大学で初めて出会った詩、吉原幸子さんの「無題(ナンセンス)」をここにひく。

  風 吹いてゐる
  木 立ってゐる
  ああ こんなよる 立ってゐるのね 木


 当たり前の景色を描写しただけなのに、言葉がこんなにも美しいなんて。出会った時の衝撃を未だに忘れられない。それくらい彼女の詩は魅力的に映り、手当たり次第に読み漁って、詩の世界へすぐにのめりこんだ。
 当時母との関係について悩んでいた私は、吉原幸子さんの詩に自分と母を重ね合わせ、女性とは、母とは一体何なのか。そういったことを考えるようになった。これが私と詩の出会いになる。
 もし詩と出会っていなかったら。母について今より悩むこともなかっただろうし、女性恐怖症もここまで酷くならなかっただろう。
 詩と出会ってなければ、詩なんて書かなければ、と憎む自分もいれば、詩と出会えて良かった、詩を書けて良かった、と愛おしむ自分もいる。詩そのものに対して、相反する感情を持ち続けている。乱暴な結び付けだと承知の上で、詩というもの自体が愛憎の対象なのかもしれない。最近はそんな風に思う。相反する感情を持ち続けながらも、詩の世界でまだもがいている。

略歴
1989年神奈川県生まれ、東京都在住。初詩集「これがわたしのふつうです」(あきは書館)より。ツイッターで色々発信ちゅう。
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第15回 ―イヴ・ボヌフォワ「想い出」清水茂訳ー  岡田 ユアン

2018-09-01 14:29:37 | 日記
 どのようにこの詩集を知ったのか覚えていない。ただ、どことなく急いた気持ちで手にした気がするし、一瞬、目の前が明るんだ記憶が残っている。
 -イヴ・ボヌフォワ詩集『光なしに在ったもの』清水茂訳 -
 この詩集は、私にとって特別な詩集である。至極個人的で、感覚的で、ミスティックな体験(読者と著書の関係は凡その人にとって、そのようなものかもしれないが)。この詩集を理知的に語ることは私には難しく、言葉が発語の場に留まらず、何処か深い底の方へ沈んでいってしまう。しかし、何が起こったのか、自身で思い起こす為にもここで言葉にしてみようと思う。
 巻頭にある「想い出」を読んだ。この詩は短い詩ではない。言葉の指し示す情景を思い浮かべながら、読み進めていった。 
 読み進めていくうちに、私はいつしか未生の魂となっていた。肉体に宿らなければならない運命や、私たちと呼ばれるものから離れることに抵抗し、思い出せない記憶に多少の苛立ちや猜疑心を向けながら。そうして本から顔をあげた瞬間、目眩がした。私は確かに変わっていた。正確に言えば、読後の私と私を取り巻く世界との関係は変わっていた。何かを渡ってきたのだ。空間の移動の速度と私の速度が噛み合っていずに、ズレが生じている。空間にピタリと嵌っていない浮遊感があった。私は詩の言葉のふるえによって、浮かんでいた。そして、ふと思った。これはフランス語で書かれた原文ではない。日本語に訳されたものである。どうしてこの言葉のふるえを訳すことができたのだろう。私は訳者の叡智にも感銘を受けた。
 この詩集が私にとって特別なものであることのもう一つの理由に「解説」がある。ここに訳者の解説を引用してみる。
 
 言葉のなかに生ずるあの沈黙の問題である。だが、〈詩〉が〈全一〉の回想であるとしても、私たちはそれを「回想にすぎない」と言うべきだろうか。むしろかりにそれが光そのもののまことに弱々しい反映にすぎないとしても、この回想をとどめ得ることこそが、芸術家の、詩人の仕事における謂わば奇蹟とも呼び得るできごとなのだと考えることはできないのだろうか。

 これはボヌフォワの大著『アルベルト・ジャコメッティ ある仕事の伝記』に記されている「(省略)ポエジーは〈全一〉の回想であるが、なお言語のなかにとどまっているからだ」という言葉を受けて書かれている。彼らの云う「ポエジーとは全一の回想である」という言葉そのままの体験をしたのだ!と諒解した。
 彼らの言葉は泰然とし、湿度を保つ。そして絶望しない。どんな暗闇でも何処かに光の気配が感じられる。私にとってこの詩(詩集)は愛憎を超えた、仄あかりのような、目指すべき魂の場である。
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第14回 ―清水あすかー わたしを食い破れよ 和田 まさ子

2018-08-04 11:29:43 | 日記
 現代詩のなかでも異彩を放つ詩人は幾人もおられるだろうが、清水あすかもそのなかに入るにちがいない。
 
  島中の牛が坂を踏む。
  女衆はまず赤ん坊を抱き、としょうりは竹籠をしょい、
  めならべはマグサをひとつかみ握り締め、
  男衆は黒い長靴をはいて、牛を追いかけて背をそらす。
  竹籠からこぼれて落ちたアマリリスの花が、
  まだなんとか夜のままでいる道に落ちて、

(「ぞっくめ、ぞっくめ、こわくない。」部分)


  生まれるまでに見たものを申し申し申し。
  死ぬのであろう日までに見るものを申し申し申し。
  口々見てすぐに我らは申し申し申し。

(「土に落ちた声と汗が言うに。」部分)


 私はこの言語、リズムに慣れていない、読み難いというのが最初に読んだときの正直な感想だった。紛れもなく現代詩だと思うが、読んでいると中世的世界に身を置く感じもした。閉鎖された島(それはあくまで清水あすかの書く「島」のイメージ)のなかの、自然や夜、年寄、海などが出てくるからだろうか。しかし、背景、書かれているものはそうであるが、いちばんの印象をつくっているその言語が、私に中世の雰囲気を感じさせたのかもしれない。
 清水あすかの詩をはじめて読んだとき、その言葉、リズム、文体に私のなかのものとの大きな距離を感じてしまった。それゆえ愛憎の憎を持ったというわけでは決してない。詩人のこの言語、リズムに恐れおののいた。私は清水あすかを読んで動揺し、揺れた。彼女の詩の言葉は私たちの現実世界に力強く斧のようなもので裂け目を生じさせるのだ。
 彼女の生い立ちや現在を私は詳しくは知らないが、八丈島に住んで書いているようだ。とすると、清水あすかの詩にあらわれる言葉は島に住んでいる中から生まれたのか。しかし、だからといって、彼女が使う独自の言語が島言葉に由来するわけではないだろう。言語は自己そのものだから。では、清水の言語世界はどのように生成されたのか。そこが知りたいと思う。
 一つのヒントが詩のなかにあった。

  わたしの体の経路を辿って書き写したら
  それははっきり島の形をとって、読み上げるとき詩として書く。

(「夕方を作る何百音に合わせて。」部分)


  まず今までひろったことのないことばを見つけ
  真新しい詩を書いてみる。なんてつめたい夕方だろう。「ああ」

(「夕方を作る何百音に合わせて。」部分)


 じつは私は、詩の世界にいままでなかった言語、リズムをもたらした清水あすかの詩を偏愛している。
 彼女は第四詩集『腕を前に輪にして中を見てごらん』を2016年に出した。この詩集では、以前見られた、つんのめるように言葉が言葉をぐいぐいと押し出す切迫した文体から、いくぶん速度を落とした息の継ぎ方で書かれているように感じられた。
 清水あすかの詩はここからどこに行くのだろう。興味津津で見ている。
 最後に第四詩集から、好きな一篇をあげておく。

  あらわれる緑。

  次にはまちがえず椎の木になる。
  目に入りきれずこぼれる色の数になる。
  言わない声は石になり、やればよかったことを土にする。
  なに一つを拾い残さず、見ているこの景色にする。

  頭ごと持っていかれるところから始まる、
  うつくしいとは風景にどうしても湧いてしまう虫で
  見とれた身体が折れてしまい、折れ線から食べられることもある、
  人の手には負えない生き延び方をする生きものだ。

  そして見る、この奥も奥にもいくつもの木の盛り上がり奥行きになる緑は
  洗われてあたらしく、におう花の粒が空気を色にして渡る、息をすればするほど
  混ざっていく緑、木の皮はぜる、風の吸うたび生まれる、
  風景全体、微々電流帯びて山は
  育つための息をする、合わせて入っていく甘い葉、味する雨も、来る水気も
  この身体を糧にして、いつか見とれる風景、あるひとしずく
  たとえば椎の木の一本になる。
  こぼれる色のひかりになる。
  なに一つ拾い残さずわたしを食い破れよ。
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第13回 ―エリザベス・ビショップー 喪失の技法 水島 英己

2018-07-11 16:20:05 | 日記
  エリザベス・ビショップの“One Art”という詩が昔から好きだった。ビショップは最近では、2016年に、ブラジルのカルメン・L・オリヴェイラの『めずらしい花 ありふれた花 ―ロタと詩人ビショップとブラジルの人々の物語 』(水声社)という題で訳された本で取り上げられていた。この本の訳者、小口未散はあとがきで次のように書いている。「本書はリオデジャネイロのフラメンゴ公園造成を発案した女性ロタ・ヂ・マセード・ソアレス(1910-67)と、アメリカの詩人エリザベス・ビショップ(1911-79)との、十六年にわたる愛と別れを追った評伝だ。」と。   
 原著は1995年に発表され、ブラジルでベストセラーになったという。一読してリオやペトロポリスやオウロプレトなど、彼女たちが暮らしたブラジルの土地の匂いが立ちのぼる。そのなかで二人の成熟した女性の様々な感情が光と影を織りなす。ビショップは、ロタを最後にはニューヨークで失うことになる。ニューヨーク到着時より心身ともに疲弊しきっていたロタはビショップのアパートで、深夜、ヴァリウムの瓶を持ったまま倒れ、病院に搬送されたが回復しなかった。自死同然の57歳の死。しかし、二人の伝記的な事実をもとにOne Artを読めと言いたいのではない。この詩を小口未散の翻訳で読んでみよう。
          
  一芸

  失うということは、むつかしいわざじゃない。
  多くのものには失われる意図が備わっているから
  失うことは わざわいじゃない。

  毎日なにかをなくすこと。ドアの鍵がない
  という狼狽や 無にした時間を受けいれること。
  失うということは むつかしい技術わざじゃない。

  つぎには 速く 深く なくす練習をつむこと。
  場所や 名前や 旅するつもりだった
  土地など。どれを失っても わざわいは来ない。

  私は母の時計をなくした。それに見て! みっつのわが家の
  最後の、いえ 最後から二つ目の家も なくなった。
  失うということは むつかしいわざじゃない。

  私は美しい街を二つなくした。いいえ もっとなくした、
  広やかに私の王国だった 二つの河 一つの大陸。
  なつかしいわ、だけれども わざわいは来なかった。

  ―あなたをなくしてもなお(朗らかな声、いとしい
  仕草)私は嘘をついたことにならない。明らかだもの、
  失うということは さして、むつかしいわざじゃない
  そのわざが(書いてみて!)わざわいに似てみえても。


  ビショップの原文も載せた方がいいが、字数の都合上省略する。この訳はいろいろ工夫しているのだが、少しやりすぎのような感じも受ける。例えば、直訳的には、失う技をマスターするのは難しくはない、という原文が、三行連が5つと最後の4行連の計19行の詩形(ヴィラネルという)の中で四回繰り返されるが(正確には最後の連では少し変化がある)、それぞれが訳し分けられているところなど。わざ、技術、芸当、業などとするのが必要だったかどうか。
 表面的には、軽快なヒューモアを漂わせながら、最終連へ向かって悲哀感を増幅させていく。最後の一行の、「(書いてみて)、原文では(Write it!)」が叫びのように聞こえることで喪失の悲しみが極まる。それはやっぱり、「わざわい、原文では(disaster)」なのだ。わざわいに似て見えても、わざわいではない、失う技をマスターするのはそんなに難しくない、という表面の言葉がすべて反転する。あなたをなくしたからこそ、失う技をマスターすることはこんなに困難だ、あなたの「(朗らかな声、いとしい仕草)」を忘れることは不可能だと言っているのだ。
 これは1976年に出版された“GEOGRAPHY Ⅲ” という詩集に収録されたもので、ビショップの作品の中で、最も有名なものである。こういう詩が古びることはない。第二の故郷と言うべきブラジルを舞台にした詩も書いた。旅の詩も。詩集のタイトルからも分かるように地理的な見方、自然や気象への興味などが特徴的だが、身辺の瑣事への感受性も鋭かった。彼女の墓は生地マサチューセッツ州ウースター(Worcester)にある。その墓碑銘は“All the untidy activity continues, awful but cheerful.”というので、これは「湾」という詩の、ひたすら、湾内部に見られる浚渫機や飛んでいる鳥たち、漁師のボートなどの描写を積み上げた最後に出現する二行で、深く心に残るものだ。小口は「なべて なりわいの雑事いろはは続く/いとわしくも こころたのしくも」と訳している(墓碑銘らしく訳したのだろう)。即物的な描写の果てに、こういう深い詩行が置かれる。これもビショップの詩を読む楽しみの一つだ。
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