わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第25回 ―小林レント― 望月 遊馬

2019-07-11 18:26:50 | 日記
 私の愛憎詩――そう言ってしまうにはどこか躊躇させるものがありながらも、ともかくその詩を偏愛していることには変わりはない。偏愛しながらも、どこかでそのものへの思いを募らせるたびに諦めのようなものが浮かび上がって、それはくっきりと形を成す。小林レント氏の「秋空の散文詩」もそのひとつだ。

  「「「秋晴れの空をわたしは好きです。首が少々つかれるのを我慢すれ
  ば、それは一昼夜、最上の観賞物です。帰省してからは、不眠症だとい
  うこともあり、本を読むよりは空をみています。とくに夜は、子どもた
  ちのいない林に出掛けて、木々の額縁の中に星をみます。林道のわきの
  腐れた青いベンチから見ると、りっぱな椚のてっぺんに北極星がくるの
  です


 話は変わるがブラームスの作曲した交響曲などの大作群に対して、ニーチェは「不能者の誇大妄想に過ぎない」と評したというが、どうだろう。それが誇大妄想であるかに関わらず大仰な城壁を思わせるような交響曲の冒頭を聴いていると、たしかにそれが何かの「態度」として示しているようにも思えてならない。
 私はこのところ寝る前にブラームスのピアノコンチェルトを聴くのを日課としている。いつから始まった習慣かは覚えていないのだが、それらのコンチェルトの緩急楽章を聴いていると、月並みなことを言えば、これまでの自己遍歴を省察しているような気がしてくる。遠い彼方の感情がふいに現れて、そしてメランコリックな感情と共に浮かんでは消える。
 少し話が逸れてしまったが、私が愛憎詩として挙げる、小林レント氏の「秋空の散文詩」はその大陸的な想像力により構築された交響曲のようないでたちをしていながら、細部を見ていけば、細やかなレトリックにより日常や空想のなかのさまざまなものことを描写していることがわかる。
 この散文詩に出会ったときわたしはまだ十代で、大変な衝撃を受けながら読み進めたことを覚えている。読み終えてすぐに小林レント氏が出した処女詩集を購入したのだが、そこには「秋空の散文詩」は収録されていなかった。そして、現在となってはこの空前絶後の傑作を読める場所はもうないのである。私は失った記憶をたよりに、その水脈を辿っていくのだが、つかみそうでつかめない言葉の端末をぼんやりと眺めるうちに、その言葉の端末はさまざまな相貌をあらわして記憶のなかで数多の変化をしていく。
 
  「「「名前をよぶのはケ楽ですか?「ええ、ケ楽です。「ケ楽はいま、
  どこにいますか?「北の灰色病棟、521号室です。「そちらの様子はい
  かがでしょう?「白髪の12人がここにいて、陽のあたらぬ壁側の6人
  がもう、小さく小さくなっています。「無機分解?「ええ、それもたい
  へん非効率な電気流動です。「それでは空気がわるいでしょう。「阿片
  粒がぷかぷかします。「それでお躰の具合は?(あんなに遠くへいって
  しまった。(緯線上を?(いえ、経線上をです。「名前をよぶのはケ楽
  ですか?「ジ楽です。


 このような断片がいくつも組み合わされて、さまざまな物語を形作る。

  「「「私の屍体とこの手紙を発見されたかたへお詫び申し上げます。親
  族のない老人の不始末な最期をおみせしてしまって申し訳ありません。
  体の臭くなっていないことを祈るばかりでございます。加えて誠に勝手
  なお願いではありますが、安山寺さんの電話番号を書き添えておきます
  ので、食卓の上にあります電話で連絡をとってくだされば有り難うござ
  います。後はそちらのほうにお願いしてありますゆえ。すぐに来てくだ
  さるはずでございますから、よろしければお待ちの間、電話の隣におい
  てありますお茶菓子をお召し上がりください。粗品で申し訳ございませ
  んが、賞味期限は年末までとのことでございますので、当分は大丈夫か
  と思われます。そのほか、粗末な生活用品や衣類ばかりですが、そのあ
  たりのもの、仏具の他はなんでも差し上げますので、どうぞお持ち帰り
  ください。衣服につきましては丈がかさばり過ぎるかと思われ、重ねて
  申し訳ない。なお、往生した後に物に因縁をつけるつもりなどございま
  せんので、御安心くださいますよう


 散文詩はいくつかの物語で構成されていると言ったが、それらについては、(http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/42575460.html)にて考察されているので、そちらに譲るとして、この作品について言えることは、この大作が交響曲のような相貌を持ちつつ、しかしながら、不能者の誇大妄想ではなく、空疎なものからもっとも対極にあるようにすら思われることだ。それは現実と地続きのところからはじまる何気ない光景から、宮沢賢治を思わせるような豊かな詩情へと至るまでのつながりに違和感がなく、そこには、なにか野心めいた言葉と言葉の接続がされておらず、実に自然に行われているように思われるからかもしれない。
 ともかくも未読の方には読んでいただきたい作品であるが、残念ながら現在は読める場所がない。以前は、ネット上に掲載されていたのだが、そのページが消失しているのだ。この作品のすばらしさが随一であることが、何らかの形で証明される機会を切望している。