わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第37回 ―露古― 「眠らないヤギ」 川鍋 さく

2020-11-09 20:54:55 | 日記
 詩というものにしっかりと触れるようになってから4年弱。読んだ詩作品や知った詩人の数はまだまだ少ないが、目にする詩作品はどれも新鮮で、印象深ものも多い。その中でも、圧倒的に強く印象に残っている、一篇の詩がある。


     眠らないヤギ

  眠らないヤギが木戸を掻いている
  「なぜ殺したのですか」と私は問う
   
  まるで夢のようだ

(「眠らないヤギ」全文)


 この作品は私が参加している同人誌『Lyric Jungle』の26号に掲載されていた作品で、作者は露古さんという詩人だ。同じ同人誌のメンバーであるのだが、同誌は参加メンバーが多く、またメンバーの在住地もばらばらなため、面識のない方も多い。露古さんにも、私はお会いしたことがないし、どのような方なのか、年齢や性別すらわからない。ただ、同誌ともうひとつ、『新次元』という詩サイトに毎号掲載される作品だけが、私にとってのこの詩人との接点である。
 露古というお名前は以前から同誌で認識していたのだが、この「眠らないヤギ」という作品が、圧倒的なインパクトをもって私の中にこの詩人の存在を刻み付けた。なんと言えばいいのだろう。鋭さ、不穏さ、“暗さ”と言い切るには違和感のある掴みどころのない暗さ、浮遊感、静かさ、潔さ……。決定的な“何か”を描いているような気もするし、そのような“何か”などここには描かれていないのかもしれない。
 とにかく、何とも言えぬ凄みのある存在感。その存在感は、時として私の日常の中の平穏な一場面を侵すことさえある。食後に一息つくタイミングで、夕方買い物に出かける道すがらで、布団に入りうとうとし始めたタイミングで……。不意に、どこからか「眠らないヤギ」が私の中に現れ、その度に、木戸を掻くヤギの蹄と、ガタガタと揺れる木戸が目に浮かぶのだ。おかげで私の思考や睡眠は一時中断してしまう。それほどまでにこの「眠らないヤギ」は、驚くほど容易に、そして鋭く、私の感性の領域に入り込んできた。それはつまり、この詩が私にとって魅力的だということなのだが、その魅力があまりにも強いものなので、今後私が詩を書くときに、無意識にも必要以上にこの詩の影響を受けてしまうのではないかと不安にもなる(こういうことを言うと、私が純粋な自分の感性で書いたものでも、この詩に影響されたのではないかと言われそうで正直少し悔しいのだが)。
 このような詩を書く露古さんとは、どのような方なのだろう。お会いしてみたい気もするが、このままこれ以上の接点を持たずにいた方がいいような気もする。そうでなければ、この詩や、露古さんが書く他の詩作品が纏う神秘性が濁ってしまうような気がするのだ。それはもちろん、読者としての私の一方的な都合なのだが。

 詩、あるいはその他の作品を読んだり観たりするときに、多くの人にはどうしても、その作品を読み解こうとする癖がある。自分でも詩を書いたり何か創作に携わるような人は、特にそうではないだろうか。もちろん、作品を読み解いていくのは鑑賞者としての楽しみの一つであり、鑑賞の醍醐味の一つでもある。作品に込められた作者の意図、テーマ、施されている技巧、喩の裏にあるもの、その作品が作られた背景……と、追究し始めると興味深くてきりがない。追究することによって、作品に対する新たな観方を発見し、より深くその作品を楽しむこともできるだろう。
 しかし中には、読み解こう、理解しようとすることが、かえってナンセンスとなる作品もあると思う。私にとって、「眠らないヤギ」はまさにそれだ。「眠らないヤギ」とはどんな生き物か?「私」は誰に「なぜ殺したのですか」と問うているのか? いったい誰が誰を殺したというのか?この詩の根本にあるものは何なのか?そんな事を一つ一つ読み解こうとしても、この詩の輪郭がどんどん霞んでいくばかりである。追究しているうちに、頭の中で詩が崩れてばらばらになって、やがて見失ってしまうだろう。そんなことをするよりも、この詩そのものの存在感を、そこに在るまま直感のまま、素直に受け取ればいいのだと思う。
 私の好きな詩集の一つに、谷川俊太郎さんの『定義』がある。その中に、「なんでもないものの尊厳」という詩篇がある。

――筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。その寸法を計り、その用不用を弁じ、その存在を主張し、その質感を表現することは、なんでもないものについての迷妄を増すに過ぎない。
(「なんでもないものの尊厳」抜粋)


 詩を書く立場、表現する立場だけでなく、詩を読む立場、鑑賞する立場としても、なんでもないものをなんでもなく受け取るのは案外難しい。しかし「なんでもないものの尊厳」にも記される通り、なんでもないものは、奥まで掘り下げて掴んでやろうとすると姿をくらまし、私たちはどうしようもない、それこそ「迷妄」の中に取り残されるのである。あるいは、安易に手を伸ばせば噛み付かれてしまうこともある。これはきっと、読み解きたい・核心を捉えたいという、表現者・鑑賞者のエゴに対する、詩(を含めたあらゆる作品)自身からの正当な仕打ちであろう。
 「眠らないヤギ」に限らず、本来すべての詩や作品は、初対面の段階であれこれ解読しようなどとすべきではないのかもしれない。礼儀をもって、まずはその存在そのものとシンプルに対峙することが必要なのだと感じる。はなから解読してやるつもりでぎらぎらと目を光らせていては、その詩はこちらに対して心を許してはくれないだろう。
きっと詩というものは皆、神秘的でありごく自然な“なんでもない存在”なのだと思う。その事を、「眠らないヤギ」はその強い存在感で私に示してきた。野生の獣が威嚇するときの眼差しのような圧をもって。このような詩に、詩人生の中で早いうちに出会えたことは幸運であると思う。と同時に、これから先ずっと、この詩のオーラが私の視界の端にちらつくのだと思うと、少々尻込みし嫉妬してしまいそうである。

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