将門ブログ

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8「将門の乱の背景」

2008年01月08日 | 将門の乱
今回は「将門の乱の背景」を見てみましょう。

○「当時の国司(地方官)」
この地方には、武蔵・上総・下総・常陸・上野という大国が存在し、そのうち「上総」「常陸」「上野」は親王任国といい、この三国の長官は「親王が任命」されることになっていました。国府には「国庁」(国衙)という役所があり、ここには「国司」などの事務官がおり、郡司を指揮し、国の政務をとっていました。国司は原則として中央から任命されて赴任する地方官で、長官を「守(かみ)」、次官を「介(すけ)」、三等官を「掾(じょう)」、四等官を「目(さかん)」といいます。親王任国の長官を特別に「太守」といい、この太守は現地に赴任せず、また守も目代という代理人を派遣するのみで、事実上「介」が長官となっていました。基本的な国司には主に二種類あり、現場に目代を派遣し美味しい汁だけ吸うタイプ。嫌々地方へ赴き、その反動で、職権を乱用し民から収奪の限りを尽くすタイプ。どちらもろくな者では無いのですが、後者の方はそのまま味をしめ任期が終了してもそのまま土着の豪族となる者がいました。地方官は中央政府の官吏に比べ位は低かったのですが、一国の行政、軍事、警察、裁判、徴税の権利を一手に握り、その権力は地方において絶大なものでした。さらに、その収入は莫大なものでした。そして地方の人々は、善政をしく国司のときは生活にゆとりもあり、貪欲な国司を迎えたときは根こそぎ搾り取られました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B8

○「この頃の時代相」
大化改新以来行われてきた律令制による土地の均分化政策、班田収授法は、平安時代になると崩壊し始め、各所に中央政府の手の届かない寺社や一部の貴族たちの荘園、豪族の所領などがでてきました。その結果、中央政府の直轄領が侵食され、狭められていきました。直轄領から租税を取り立てて京へと送るのは、政府の役人である国司・郡司でした。彼らも、また、その私有地を増やすことに専念していました。そのため、直轄領は重税に苦しみ、農民の叛乱や逃散が相次ぎました。したがって治安も悪く、各地に蝦夷や俘囚の反乱が度々起き、盗賊行為も横行していました。「凶猾党をなし、群盗山に満つ」という理由で、武蔵国には郡ごとに検非違使が設置され、続いて上総・下総にもこれが置かれました。将門の祖父・高望王が上総介として関東に下向した際、最大の問題はこの治安の悪化でした。『平家勘文録』によると、高望王は寛平元年(889)に民部卿宗章の謀反を追罰した功により、翌年五月上総守(親王任国なので実際は「介」と思われます)に任じられ、朝敵を平らげたため「平」の姓を得たといいます。武装集団の乱逆に対し、国としても武装集団で対抗しなければなりませんでした。ところがこの頃はすでに律令の兵士制は崩壊しており、群党(群盗)を取り締まる力は無くなっていました。ここで、朝廷がとった方法は二つ。一つは、騎馬に巧みな陸奥・出羽の俘囚を利用する方法。もう一つは、群党の構成員である富豪層を軍事警察力として組織する方法。両者とも、征圧の対象である俘囚や群党を引き入れての対応でしたが、俘囚と群党が結びついてさらに征圧が困難になる例も発生していました。そんな中、「つわもの」として高く評価された高望王が治安維持のために上総に派遣されたと考えられます。高望の子・良兼は下総の介、国香は常陸の大掾といったように、平家一門は坂東全体の軍事警察としての役割を担っていました。そして将門の父である良持は、これらの乱の源ともいうべき蝦夷の本拠地である陸奥平定の武官「鎮守府将軍」でした。

○「馬と鉄」
先に述べましたが陸奥・出羽は騎馬に巧みであり、それに伴い、馬具の技術レベルはかなり高かったといいます。また、古代日本の直刀と異なり反りを持った蕨手刀(わらびてとう)など鉄刀の技術レベルも高く、日本刀が湾曲しているのは古代蝦夷との戦争時に蝦夷の蕨手刀を参考にしたものともいわれています。それまで「叩き斬る」だけだったものに、「引き裂く」能力を兼ね備えた刀が誕生したのです。つまり将門は乱逆平定のために派遣された「桓武天皇三世高望王」の孫であり、武門として名を馳せた「鎮守府将軍良持」の子なのです。さらに奥羽との関わりもあってか、騎馬技術の高さ、軍備の豊富さも伴い、将門が精神的にも物理的にも武人として完成していたことが窺い知れます。実際、将門は百騎を超える優れた騎馬隊を保有しており、彼自身も武芸に秀でた人物であることが伝わっています。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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