将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

伝説のゆくえ

2005年04月27日 | 歴史考察
驚いたことがあるんですよ。平将門死後、その連座で罪科に問われた人が、なんと3万7千人もいたということなのです。これは京都の極楽院というお寺の由緒書きに書いてある話しらしいのですが、本当なのでしょうか・・。これが本当だったら大変なことだという思いがするのです・・。

 皆様は、3万7千という数字がどういう数字なのか想像できるでしょうか。ネットで調べたところでは、平安時代の人口が約600万人だったということで、現代の20分の1以下なのであります。ですから3万7千という数字を現代的に解釈し直しますと、単純計算で74万人以上ということになります。74万人もの人たちが、法律的に裁かれるっていうのは、一体どういう事態なのでしょうか・・。
 たとえばカリスマポップス歌手の人がいるとして、その人が今度出そうとしている新曲が法律的にいけないものなので、政府にリリースのストップをかけられているとします。それでもその歌手の人は止むにやまれぬ使命感から、自費でCDを作成し、強引にネット販売しちゃったりして、それを買った人たちが皆、禁固3年・執行猶予2年の刑に処せられる・・、こういう事態を想像すれば、74万人という数字は理解できるのでしょうか・・。
 あるいはどこかの国で、「やってはいけない太極拳」なるものが存在していて、それをやっているからといって大量の人たちが検挙されたりすることが実際にあったりいたしますが、そのような事態のことを言っているのでしょうか、『将門の死』というのは・・。
 こういうことを考えるにつれ、将門という存在は、本当にカリスマだったのだなという思いを深く感じます。昨年神田明神に参拝した感想を『ヒーロー鎮魂歌』に書きましたが、あのときに感じた信仰にも似ている情熱ですね、あれが実際にあったことなのだということを、歴史を調べれば調べるほど、感じてくるのであります。

 この3万7千人の人たちがどういう人たちかと考えますと、まず『』ですかね。吉川英治さんの小説『平の将門』を読んで衝撃を受けたのですが、当時の人口の3分の2が奴隷階級の人たちだったと書いているのです。神武東征や桓武天皇の時代の東夷征伐ですね、そういうときに負けて捕虜になった人たちが、今度は開墾のために名前も与えられず、大量に東国に送り込まれたという話しも聞きましたが、そういう人たちでしょうか。いわゆる『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれていた存在です。
 それから同小説には、承平2年(931)の大飢饉のときに、苛烈な税の取り立てから逃れるために、元々はそうじゃない人たちが、敢えての身分に身を落とし、有力な地方豪族を頼っていったということも記述されています。その際、『将門』という存在のカリスマ性が豪族選択の理由だったのではないかということで、そのような人たちもたくさんいたのでありましょう。
 そして『在日外国人』の人たちも入っているでしょうか。神功皇后の時代かそこらで、日本が朝鮮半島の内乱に関係したことがあって、日本が支持していた百済が敗北して、そのときに大量の人たちが亡命してきた歴史というのがあります。その人たちが房総半島にたくさんいて高度な文化を築いていた形跡があるのですが、朝廷の命でみんな集められて高麗(埼玉県高麗川付近)の方に移住させられたそうです(芝山古墳の歴史より)。そういう人たちも入っているのではないでしょうか。将門が持っていたと思われる馬の品種改良や農耕、そして鉱山や製鉄の技術水準の高さを考えますと、その朝鮮系の人たちとの繋がりを強く感じないわけにはゆきません。
 とにかく平将門って言う人は、「虐げられた人々」と味方だったのではないかと、以前から感じている直感の裏付けを、歴史から読み取っている今日この頃なのであります。このことは私の中では、どうしても『イエス・キリスト』に結び付いてくるんですね。イエスさまも虐げられた人たちと共に生きました。しかしわざわざそういう人たちを選んでいたわけではなかったと思います。イエスが伝えたかった『愛』の本質を受け止められるだけの人たちは、いわゆる「心貧しき」人々ですね、見栄とか保身とかがもはや役に立たなくなっているような人たちにしか見えない『愛』です。そういう人たちだからこそ受け止められる愛があるのですが、将門公がその愛の体現者だったということを、やぱりつくづくと感じてしまうのであります。

 重荷を背負って労苦する者 私のところへ来て休みなさい 私のくびきは負いやすく 私の荷は軽い 

 イエスさまはこうおっしゃったのですが、この言葉を私は神田明神参拝のときに感じていたのです。将門公として感じる波動がこういうものだったのですが、やはり歴史的にもそうだったらしい・・。

 それでこの3万7千人もの人たちは、この後どうなっていったのでしょうか。もし将門に対する感情が信仰心に近いものだったのであるならば、止めろと言われて止められるものではないでしょう。素性を隠して全国に散らばって、その信仰の痕跡を『隠れキリシタン』のように残すのではないでしょうか。それが全国各地に残っている『将門伝説』の製造工程のような気がするのであります。

 そして将門公のカルマを背負って現代に生きている人がいるとしたら・・。みんなを救えなかったという深い罪悪感・・。その思いを償うための、現実的な苦境・・。それらを解消してゆくのが、人生の大きなテーマとなっているのでしょうか・・。

 私は今後も将門伝説を追っていくのでありましょう。3万7千人もの人たち魂を弔うために・・。そして敵方として闘わなければならなかった人たちとも和解するために・・。

 愛は永遠なれ・・

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/文:シュバン/平将門関連書籍将門奉賛会


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