クラブボクシング@ゴールドジム湘南神奈川

普通、湘南辻堂といえばサーフィンなのにボクシングでひたすら汗を流すオッさん達のうだうだ話!

師匠と僕のアフターファイブ 4

2014年11月10日 | あの頃 朴は若かった
入社1年目の私に与えられた最初の大役は「花見の場所取り」でした。

朝7:15頃に支店のシャッターをガラガラと開け、店の前に散らかっている吸い殻や痰やゲロなどを舌打ちしながら綺麗にしたのち、複数種類ある株式市場に関する怪しげな新聞を整理してたりすると7:45くらいになり、佐藤師匠以外全員の顔ぶれが揃います。

で、8:15くらいに始まる朝会に間に合うか間に合わないかのタイミングで師匠が「いや~支店長、参りましたよぉ。電車来なくて~。」と毎度お馴染みの言い訳をしながら席に座ると。「おかしいな。同じ路線の朴は一仕事終えてるのになあ。」と支店長。

で、朝会が始まると佐藤師匠が「支店長、今日の四谷支店との合同の花見ですが、場所取りは今年はウチですよ。新人も来たことだし朴くんにこの大役を任命したらと思いますが如何でしょうか!」と余計なひとこと言わんでえーっちゅうに!「そうだな。じゃ、朴よ今日は一日仕事しなくていいから、四谷の上智大学の土手で場所確保してくれや。」何だか飛び込みより大変な予感。

「支店長!何時からですか?で、両支店で何名ですか?」「んと、開始は19時、ざっと50名かな?そうだよな佐藤!」「ま、そういうことだ。朴くん頑張ってくださいな。で、席取れなかった場合は分かってるね?」って師匠も支店長もそりゃ酷いっす。

そりゃ仕事と言われりゃしょうがありません。大量のブルーシートとロープを担いで丸ノ内線に飛び乗りました。当然スーツ姿です。

で、四谷に着くと早くも私と同じ任務を丸投げされた有象無象が場所取りを開始しているんですよ。私、負けじと放り投げるようにブルーシートを拡げ50人分のスペースを確保し、ロープで「私有地につき立ち入り禁止」縄張りを作り、とりあえずホッとすると後は何もすることがありません。

ちょっと場所を分けてくれと頼んでくる学生を「グルルルル~」と威嚇し、あら大変ねぇと昼間からお花見のその辺の老人を「グルルルル~」と威嚇し、「お、お前が池袋の新人の朴か?」と様子を見に来た四谷支店の支店長を「グルルルル~」と威嚇したり。だって顔知らないし、顔つきがあっち系だし、パンチパーマだし?

四谷支店長「寝袋もってきたからこれ使え!」とありがたや。ゲロと埃臭い寝袋に塗れて約12時間トイレも行かずに耐え抜いたのです。

で、ようやく花見開始!

四谷支店に配属された大嫌いな同期がやって来て「あ~朴くん。御苦労だったね~。僕さあ、今日も何十万も手数料あげちゃったよお。朴くんは気楽でいいよねー」

「殺したろかこいつ!」とメラメラしているといつの間にか佐藤師匠が後ろにいて「あ、お前が新人の中谷(仮称)だな。先輩とか支店長の客を引き継いで手数料あげてるのに勘違いしてる奴ってお前か? 朴はねえ。支店長に頼まれて一日こうやってんの。いつも飛び込みで自分で自分の客を作ってきてるから、今日は休ませてあげたんだよなあ。まあ、中谷、オマエも頑張れよ。」

師匠にこっぴどくやられた中谷君は顔を真っ赤にして酒宴に消えて行きました。

師匠かっこ良すぎ。でも嬉しかったです。

佐藤師匠が中谷君をこっぴどくやっつけた翌日から、池袋支店のある女性から嫌われるようになりました。その女性、中谷君と付き合ってたんですな。その後、直ぐできちゃった婚しちゃいましたが。

中谷君。その後は何処へ行っても風采が上がらず、いつの間にか消えてしまいました。

やはり、新人の時は鍛えられた方がよいし、間違いを叱責してくれる先輩がいた方が良いんだと今になり思う次第です。

実は

2014年11月10日 | 日記
年に一度、何もしない完全休養日を有休を使って作ります。
10月がピークなんで11月が多いです。
その日が今日。
なんと、私の誕生日。


午前中からグダグダと掃除機かけたり、ギターを弾いたり、舐めたり、引っ掻いたり。

その後、マッサージに出かけました。
デスクワークの影響で首と肩甲骨の調子が悪くて。
2年くらいお世話になっているので、やはり良い。3ヶ月ぶりくらいです。
猫背なんで背骨が良くないんすね。


急に思い出したんですが、「猫背にゃー」って誰でしたっけ?


ま、そんなことで、この2年間で1番状態が悪かったらしいっす。
その辺を矯正したんで、明日からバリバリ働きます。
ま、明日も休むんですけどね。


明日は妻にバッグを買ってあげるんですけど、何か違う気がするんですよね。

ぴーさん、夫婦ってこんなもんかもしれないっすよ。

バカバカしいお噺 2

2014年11月10日 | あの頃 朴は若かった
和美ちゃんと一緒に支店に配属された「大林くん(仮称)」のお噺を一席。

結論から言うと入社2年目のブラックマンデーの1987年に退職したのですが、「大林くん」は①話にオチがない ②話がつまらない ③ピントが天然と言う人物。支店長や佐藤師匠曰く「今年は新人の凶作の年」とのことで、それは先に辞めた和美ちゃんを含めての話。

1987年と言えば、日本電電公社、国鉄、日本専売公社の三公社の「分割民営化」の構造改革が中曽根自民党によって推進される序段の年でありました。当然、証券会社もこれらの新規上場に向けて活気があった年です。

さて、この大林くん。どう言う訳かこの「分割民営化」を「民活分営化」と覚えてしまい、見込み客や飛び込み先で自身の「民活分営化論」をブチあげるのです。曰く「民間に活力を与えるため」でそう遠くはないと思いますが、さすがに「馬鹿丸出し」の間違った四字熟語に佐藤師匠も「大林!オマエは馬鹿!」の烙印を、支店長も「朴は手がかからない新人だったのに!」とあきらめていました。

大林くん。自宅が私の飛び込み先地区の東池袋にあり、さぼって自宅でよく寝ていました。

ある日、大林くんの自宅が東池袋にあると知らない私は夕方近くに一軒の住宅に飛び込んだところ、出てきたのはパジャマ姿で寝起き頭の大林くん!彼もビックリしたでしょうが、もっとビックリしたのは私の方。しどろもどろの大林くん。

先輩が汗水流して頑張ってるって言うのに、何たる後輩。まあ、でも、この出来事なかなか笑えます。彼が遺した唯一のオチがあるわらいでしたので、支店の皆んなには黙ってあげることにしたのでした。


バカバカしいお噺

2014年11月10日 | あの頃 朴は若かった
入社2年目の5月。支店に男女1名ずつの新入社員が配属されました。いよいよ私も先輩です。

今回はふたりのうちの女性社員のお話しをします。名前は和美ちゃん(仮称)、4大卒の22歳、ちょっと地味であまり明るい感じはしない印象の新人です。私のストライクゾーンから外れていましたし、よく出来る切れ者の先輩を演じていましたので、相談に乗ることすらあれ、何かをする気すら湧かない対象でした。

配属から半年過ぎた頃でしょうか。和美ちゃんに良くない噂が立ち始めました。それは他の支店や本社からのもの。それは曰く、「和美ちゃんはサセコである」との類いのもの。

発信源は他店に配属された同期の男性社員。それもひとりではなく、何人かの男性同期からでした。まあ、それが本当だとしても仕事とは関係ありませんし、私とも関係のないことですので、全く気になりませんでした。

何故そのような話が出てきたかと言うと、同期同士で飲んでいるうちに「誰と付き合っている」と告白していたら「ありゃ。俺も付き合っている!」と何人かが揉めたらしいんですね。今で言えば、その結果の「リベンジポルノ」的な腹いせの報復なんですね。

全く和美ちゃんの何処かいいのかよく分かりませんが、そう言われると、制服の下のバストは大きかったのかもしれません。魔性のオンナは得てして地味で、ちょっと不幸の影を纏ってるのかもしれません。

しかしながら、無視出来なくなって来たのは、佐藤師匠始め既婚者でも30手前の営業マンが和美ちゃんがいない場で「朴!オマエもやらせて貰え!」だの「俺も誘われた」だの、支店の女性社員からは「節操のないオンナ」だの色々陰で言われるようになり、その雰囲気は自ずと和美ちゃんに伝わることになります。

ある日、和美ちゃんから「朴さん。ちょっと相談があるんですけど。」と針のむしろの状況を説明されました。相談されてもしょうがないんですが、とりあえず話だけは聞きました。そして彼女に纏わる噂やそれを言いふらした男性同期の名前は以前に聞いていたものと一緒でした。

「朴さん。私どうしたらいいでしょうか?」
「和美ちゃん、今の仕事好き?」
「あまり好きじゃないです。自分には合わないと思います。」
「じゃ、辞めたらいいじゃん。色々辛いでしょ?」
「うん。でも」
「引き止めて欲しい?でもやめた方がいいよ。」
「うん。」
「それから、付き合うなら男を選べよな。そいつらが悪いに決まってるけど、元はと言えば貴方も良くない!う~ん。悪いってことはないけど、少しは相手の気持ちを考えたらよかったのに。」
「うん。」

で、結局、翌日に辞表を提出したのでした。

う~ん。色々な面で自由奔放であり、何だか羨ましく思ったものでした。

あ、そうそう
自分が付き合った女性の噂を撒き散らした何人かの男性同期はその後全員退職しました。

そりゃそうですよ。口が固くなければ証券マンは務まりませんからね。

冬の晴れた朝のこと

2014年11月10日 | あの頃 朴は若かった
ひとつ上の入社年次の先輩「水沢(仮称)」さんのお話をさせてください。水沢さんとは確か1995年~1997年の金融法人部時代。水沢さんが「株式トレーダー」、私が「債券トレーダー」で机を並べて仕事をしていました。

水沢さんは東都六大学リーグで某大学のセカンドベースマンとして神宮球場で活躍されていたほどのスポーツマン。ハンサムで優しく穏やかな好人物、よく2人で茅場町や日本橋界隈を飲み歩いたものです。

奥様も美人の「美男美女夫婦」ですから、3人の娘さんもいずれも美人でした。当時、確か「長女8歳」、「次女6歳」、「三女4歳」だったと思いますが記憶が定かでありません。

とある年の冬の晴れた日に水沢さん家族と私の家族で「富士急ハイランド」にスケートをしに行きました。そこで初めて美人三姉妹にお会いしたのですが、二番目の娘さんに何らかの障害があることに気が付きました。

水沢先輩はどの娘さんも等しく愛していましたが、殊更、二番目の娘さんのことを愛していたように思えます。家族も仲良しで、滑ることが出来ないその娘さんを椅子のようなソリに載せて押しながら滑っていました。本当に素晴らしいご家族です。その娘さんの眩しい笑顔を今でもよく覚えています。

さて、それから一年経った頃です。我々の仕事も忙しくなり、連日残業の日々を過ごしている頃、先輩のご自宅から電話があり二番目の娘さんが高熱だと伝えられました。横でそのやり取りを聞いていた私は、早く帰るように促しましたが、先輩はもう少し片づけてからといい、結局かなり遅い時間まで会社に残っていました。

そして翌朝、いつも早い出社の先輩の姿が見えません。何となく嫌な予感がします。そして朝会が始まるなり部長から「水沢君の二番目のお子様が今朝お亡くなりになった。」と告げられました。

まだほんの幼いのに神様は何と無慈悲なことをされるのでしょう。

お通夜、告別式とお手伝いをさせて頂きましたが、遺影の写真をまともに見ることが出来ませんでした。そして悄然とする先輩にかける言葉もありません。お通夜や告別式は娘さんの通う幼稚園の友達が大勢お別れに来てくださいました。皆に愛されていたのですね。それでも、元気な子供たちを連れた母親達の姿を見るにつれ、先輩や奥様はどうしてうちの子だけ?と心が引き裂かれる思いだったのだと思います。小さな友人たちも神妙な悲しい面持でした。

通夜の弔問客がはけた後、先輩は「おい朴!娘の顔を見てやってくれ。そしてさよならを言ってやってくれ!お前のこと好きだったからさ。」と泣き笑い。

人は本当に悲しい時は「泣き笑い」になるんだと思います。私は恐々と小さな棺の中に眠るもっとちいさな娘さんに対面し、その場で立てなくなってしまいました。

「ば~か!なんでお前が泣くんだよ!」「だって先輩、まだ6歳ですよ。なんでこんなことに。悔しいし可哀想じゃないですか!」
「朴さ!これで良かったんだよ。」
「どうしていいんですか、良くないじゃないですか!」
「この娘は障害があってこれから少し生きたとしても長くは生きられなかったかもしれない。また大きくなったとしても、俺たち夫婦が死んだら誰も面倒診て上げられないかもしれないし。」「・・・・・・」
「これで良かったんだよ。」
と泣き笑いの先輩でした。

あれから20年経ち長女が結婚し先輩もおじいちゃんになってしまいました。三女も最近結婚したとかで先輩は幸せそうでした。

2人目の娘さんだけ思い出の中で歳をとらないんだよと話してくださった先輩。やはり今でも辛そうでした。