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雑談記 三州街道と木曽山脈

2012-11-17 18:49:54 | 歴史
雑談記 三州街道と木曽山脈

11月初旬、山岳の広葉樹が紅葉し、山里の街路樹が色付き始める頃、山懐深くから、群れた野生の猿が食料を求めて果樹園に出没してくる。昨年同様、今年の秋の南信濃の風景だ。被害総額○○円とテレビが報じている。

木曽山脈は赤石山脈と平行するように山岳を連ねる。間には、天竜川が貫流し、川に寄り添うように、三州街道が走る。
木曽山脈は、木曽駒ヶ岳(西駒)宝剣岳を主峰とし南下するにしたがい、山容は丸みを帯び、山頂を低くしていく。
これには理由がある。木曽駒以北の山を構成する岩石は、頁岩、石灰岩、砂岩など比較的強度が強いのに対して、以南の山は、花崗岩を主として比較的弱くもろい。その結果、木曽山脈の幾つかの特徴を見いだすことが出来る。山頂が低くて山容が丸みを帯びているのは、花崗岩が風雪に耐えかねて崩れやすかったのだろう。同じ理由で、山から流れ出る谷川は、山を削りながら土石を運び、里に広大で層の厚い扇状地を造成したのだろう。時には、激しく山崩れを伴った土石流も当然あったのだろう。この層の厚い扇状地を削りながら流れる谷川は、深い谷も作ったのだろう。この扇状地を深く切り込んでいく川を「田切川」と呼んだ。昔は、田の意味は耕作地であり、畑も水田も含まれていたそうで、畑と水田が区分けして使われるようになったのは後年であるそうだ。

伊那谷の扇状地は、果樹園好適地であり、リンゴ、なしの他様々な果物が生産されている。先述の野生の猿の食料の果物はまさにこの地の生産物である。

三河高原は、通常は木曽山脈とは言わないが、木曽山脈に連綿と連なっている。矢作川、巴川、足助川は、この三河高原を水源とする川である。この三河高原は、南部木曽山脈と同様に花崗岩を主構成とする岩石で出来ている。矢作川の氾濫は、三河高原から削り散られた花崗岩土石が、川床を高く堆積してきた故の氾濫だと言われている。矢作川洪水への対策、治水技術が、伊奈忠次に伝わり、やがて利根川・荒川の東遷・荒川の西遷へとつながったのだろう、と感慨をもって木曽山脈を眺めています。

*門外漢なので、花崗岩の性質につては、かっての理学部地質学科の友人に確認しました。花崗岩は、特に酸性雨に弱いみたいです。
*山崩れの土石流災害を、この地方では昔「蛇ぬけ(ジャヌケ)」と呼んでいたそうです。「言い得て妙」と思っています。

大田切川、中田切川、与田切川など
寧比曽岳1120M・・三河高原最高峰。
恵那山2191M・・通常、木曽山脈最南端。
御嶽山・・独立山岳(活火山)、木曽山脈ではありません。

雑談記 木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実

2012-11-08 01:15:14 | 歴史
雑談記 木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実

三州街道は赤石山脈と木曽山脈の間を貫流する天竜川の西岸沿いの道筋です。飯田を少し下ると、天竜川と離れて、やがて木曽山中に入り、東山道古道と分かれて、足助の方に降りていきます。
木曽山脈は木曽駒ヶ岳(日本百名山)を主峰に、宝剣岳、三ノ沢岳、空木岳などの頂を連ねていきます。この稜線を繋ぐと、不思議なことに、知多半島に繋がります。まさか、知多半島までを木曽山脈とは言わないだろうが、この山脈の骨の構造がほぼ直線的に連なっているのだろう、と思われます。
三河湾から突き出た半島は二つ、渥美半島と知多半島。この、渥美半島の先端付近に、伊良湖岬があります。

椰子の実

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
・・・
・・

島崎藤村の詩です。
この詩が作られた逸話を、昔、国語の教師に聞いた覚えがあります。柳田国男が詩や小説など文学に情熱を燃やしていた若い頃、病気療養で約一ヶ月ぐらい伊良湖に滞在したとき、浜に流れ着いた椰子の実のことを、当時の文学仲間の島崎藤村に話して、島崎藤村が「椰子の実」の詩を作ったんだ、と教えられました。島崎藤村は、渥美半島も、まして伊良湖岬も行ったことが無いんだよ、と言ったのを、うろ覚えしています。だが確認はしていません。
柳田国男は後に文学を嫌って民俗学の大家になりましたが、職業としては、政府の農政官僚です。どちらが本職だ?なんて問いません。柳田国男は、明治政府の大審院の判事の柳田家に養子に入り姓を変えました。柳田家は旧飯田堀藩の藩士であり、その頃は東京にも飯田にも家があったみたいです。柳田国男は、従って、本籍地は以来、三州街道の飯田になっています。

柳田国男の「海上の道」に愛知県の名前の由来が書かれています。
「あえ」の「よる」「ち」
珍しいものが + 寄ってくる + 地
・・・・・ あいち(愛知)
となるそうです。                             *「海上の道」柳田国男全集(4)
椰子の実の浜辺での発見で、柳田国男は日本民族の祖は「南洋諸島」であると確信したと言っています。



のぼうの城 外伝 雑談記 

2012-11-03 15:44:22 | 歴史
雑談記 のぼうの城 外伝

「のぼうの城」という映画が公開され始めた。

のぼうの城(忍城)城主成田長親の兵500(一説には2000?)、秀吉方の石田三成軍20000、歴然とした兵力の差から、忍城が落とされるのは瞬く間だと思われていた。が、なかなか。そこで石田三成は、備前高松城で成功した「水攻め」に切り替える。それでも、落ちない・・・。
結局、主家の小田原の北条家の敗北を知り、これまでと、忍城は開城する・・・。
でくのぼうの「のぼう」と言われた、成田長親を主人公にした、城内、城外の悲喜あふれる人間模様と城主の人気をコミカルに描いたドラマであります。
のぼうの城とは行田にある忍城のこと。
石田三成の取った「水攻め」が戦術上の誤りだった、と言われています。
そもそも、この地の行田付近は、江戸時代前、利根川と渡良瀬川が別流として江戸湾(東京湾)に流れ込んでいました。さらに、荒川は、利根川の支流として合流しておりました。この三つの大河が、雨期(梅雨)や台風の時に氾濫して合流すればどうなるか、この想像は容易です。関東平野は広大です。氾濫は、水深は浅いが、範囲は夥しく広がっていきます。この地に生きていく者は、それでも何とか工夫して生活していきます。浅いところも深いところも高台も熟知しています。度々なので小舟の用意もあります。知らない武将よりも、近在の殿様の方が親近感もあります。「のぼう」様は特に人気もありました。三成の作った堤防は、領民に壊されて、多大の被害が出ました。
秀吉軍の先鋒隊の家康軍にいた伊奈忠次は静かに冷ややかにこの様子を見ていたのでしょう。
小田原の役あと、家康は秀吉より、関東移封を命じられる。この時、家康家臣団は、伊奈忠次を除き、秀吉の関東移封命令に反対したと言われる。伊奈忠次が賛成した理由は、この時すでに、利根川の東遷、荒川の西遷の青写真(グランドデザイン)があったと言われている。
江戸幕府が出来てすぐ、1603年、利根川を合の川で締め切り東へ、さら渡良瀬川と繋ぎもっと東へ、・・荒川は利根川への合流を変え、吉野川、入間川へと繋ぎ、西へ、やがて隅田川で東京湾に流し込む。
川底を掘り、削岩して川を作り、堤防を作り、関東中央部を洪水の氾濫から守り、耕作地に替えていく。この工事は延々と約50年にわたり、関東郡代の代々の仕事になっていく。
合の川は加須だったと思います。元荒川や古利根はかっての名残です。

忍城へは行ったことがあります。その日の目的は行田の古代蓮を見に行くことでしたが、遅くなり、目的地を替えて、忍城へ行きました。暗くなって、ライトアップされた城は、こぢんまりとし、きれいでした。もちろん後年に改築された城でしたが・・。別名 忍の浮き城。

雑談記 戦国初期の名前の付け方、資料の信憑、税制のことなど

2012-10-31 18:29:22 | 歴史


少し、話を変えてみる。

歴史を観るうえで、肝心なことは何なんだろうか。・・常に考える。
自分は、大学の日本史科を出ている。だが、恥ずかしながら、伊奈熊蔵忠次の出自を探ってみて、基礎学力の無さに自分であきれかえっている。その再確認もかねて。
歴史は、常に勝者の歴史であるようだ。勝者の記述した歴史資料は、自分の故実を誇張したり、対立の敗者を無視したり、悪者と言ったりする。
信長記、太閤記、甲陽軍艦、三河物語など。これらは勝者のお抱え、及び勝者側の記憶・思い出による物が多い。これを偽書という人もいるが、半分以上は真実で、誇張のところと敗者のところは心して読まなければならない。小平記や赤羽記などは、勝者側の思い出や先祖からの伝承が多く、これを家の伝承記録とした。このため、事実の誤認や誇張や相手の無視や悪意も、少し散見される。
一方、守矢文書のように、諏訪神社の祭事の記録を主としながらも、1年ごとに、その時の主な出来事を、ついでながら記録する文書は、かなり信憑性が高そうだ。
中世における武家社会での名前についても、かなり悩まされる。通称「大石内蔵助」と呼ばれた忠臣蔵の家老は、大石内蔵助藤原良雄が正式名である。この場合大石は家名(名字)、内蔵助は官名、藤原は氏名、良雄は実名となる。また、織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(たいらあそん)は氏名、信長は実名となる。商家では茶屋四郎次郎中島明延は茶屋四郎次郎が屋号(=名字)、中島は氏名、明延は実名となる。
さて、中世の武家社会での名前の構造を踏んでから、保科正俊の名前を分析すると、彼は保科弾正(忠)筑前守正俊が正式名称で、越前守は官名(高遠藩の家老職の別称?)、弾正(忠)は通称なので、高遠家が滅亡後、武田の臣になった後は、弾正は使われたが、越前は使われなくなったのではないか。
そう考えると高遠家家臣の保科正則も当然越前を名乗り、家老職にあったと思って不思議はない。
保科を名乗って、小笠原家臣団にいて、福与城にいた藤沢頼親を応援して武田と戦った保科因幡守を類推すれば、高遠家と違う領主の元にいたとみていい。つまり、福与城の藤沢親を応援して参戦したのは、保科正俊ではない。
ここでも史実の記載に混乱がある。小笠原家臣で、親とか弟とか、あるいは叔父とか。領地も小笠原信定の勢力下の範囲で。その経緯は不明。小笠原信定は時の信濃守護の弟である。
さらに悩ませるのが、保科正則の父とされる、保科易正だ。この易正を指すと思われる名前の多いこと。荒川易氏の子、易正は保科の里に養子にいった。たぶん養子先の保科家には嫡子が無かったのだろう。最初からいなかったのか、戦役で嫡子が戦死したのかは不明。この場合の改名は、家存続の継承性や正当性から、先代の名前を一つもらい改名するのが普通。それで、一族郎党の勢力維持や団結も計った。改名の儀式も重要な要素だ。そこへ、北信の雄、村上顕国に追われた、川田郷保科の正利一族が逃げ込んでくる。この時、保科正利は、嫡子ともども逃げる途中で戦死した可能性は高い。そこで、易正は、若穂保科の保科家の正利を継承し、さらに改名して、若穂保科家の一族郎党の離散を防ぎ、勢力を維持しながら、やがて、一族を合流していったのではないか。そこには、時々で名前が必要となる。同時に複数の名前を名乗ったのでなければ、時系列的に名前は改名されていったのだろう。
易正が養子にいった時期は、藤沢保科家も川田郷保科家も、見方によれば、一族存亡の危機であった。藤沢保科家は、主家高遠家と対立。川田郷保科家は、村上一族に領地を追われている時期である。おそらく、この期に何らかの活躍があり、これが神がかり的である事から、神助というあだ名を付けられたのだろう。
この推論は、家長制度の継承性や正統性を前提とし、正統性は先代の名前の一字を組み入れながら存続していく、この時代の名付けの方程式で、戦国の時代の当主と嫡子の戦死は常であり、家を生き延びさせる方策であった。

守矢文書に見られる祭事の負担費用は貫高で書かれている。
実際、信濃国では、山国で米の運搬が容易でなかったことと畑も多かったことで、貫高制が一般であった。だが貫高制は馴染みがないこともあって、理解しにくいので、一貫=5石という換算式を用いた。諸説では一貫=2~7石と巾が広い。又、畑の生産量は水田の30%~40%ぐらいとされる。税制のついでに、納税率の当時の一般を調べると、六公四民とか五公五民とかで、50%~60%が税金であったようだ。今から見るとかなり高い。伊奈熊蔵忠次を見てみると四公六民が普通で開拓農地はそれよりも更に少ない納税率で、ゆえに領民から愛され尊敬されていたようだ。逆に、同僚幕臣には恨まれるが。

再び、伊奈忠次の出自を追う。易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。

2012-10-27 17:29:41 | 歴史
熊城(蔵)の里

伊奈忠次の祖父伊奈忠基は、三河に流れて、それまでの荒川(金太郎=幼名)易次から伊奈熊蔵忠基と改名したと言われる。そのいわれは、伊那の熊城の城主だったことを、誇りに思い、懐かしんで付けた名前だとされる。城を蔵に替えて。確かに、城を名前に使うのはおかしい。徳川家康の家臣になった折りにも、問われれば、答える内容だったと聞く。以後、五代にわたり、関東郡代頭(小室丸山)時代まで、伊奈熊蔵家は続く。

では、熊城は何処にあったのだろうか?
熊城の場所の特定は、極めて困難な作業であった。今でも、確信まで行っていない。

伊那の古城で熊城と名前が付いている城は幾つかある。
一つは、長谷にある、市野瀬氏築城と言われる「熊野城」、あと二つは、諏訪大社近くの文明の内訌で戦争の拠点になった諏訪の「新熊城」、さらに向城(別称小熊城)。諏訪を伊那とは呼びませんが、中世は藤沢・高遠地区と諏訪は同一文化圏・生活圏なので、少し無理して範囲を広げています。この三つの城とも、荒川・保科家の流れから可能性を感じるが、否定する要素も多い。

神稲

以前から気になっていた地名がある。豊丘村神稲だ。神稲は「クマシロ」と読む。この読み方は、クイズで出されても、正解率が極端に低そうな難しい読み方だ。、稲を「シロ」と読める人はほぼ無いように思える。熊稲の成立は、明治8年に、近在の田村・林・伴野・福島・壬生沢の5村の合併により生まれた。当時は、熊稲村と呼ばれた。
この熊稲の壬生沢と言うところに、芦川館と浅間城の古城が二つある。地元では、足利一族が隠棲したと伝承されているようだ。隠棲とは、字のごとく、隠れ住むことを意味する。

以下、推論である。
壬生沢の芦川館(中心)に住んでいた荒川易氏・太郎正易次・金太郎易次の一族の居城では、1510年前後は、すでに易氏・太郎正は死んでいたと思われるが、叔父の易正は、保科一族ともども壬生沢の荒川家に合流してくる。高遠家は満継の時代になって衰退し、代官職の保科家も藤沢郷を離れざるを得なかったようで、幼少金太郎易次の後見役としてこの地に居座った。金太郎が成人しても出て行かない叔父易正に悲観して、金太郎易次は伊那を離れ、三河に流れたようだ。一方保科易正(正秀/正利/正尚)は小笠原家に合力し、やがて駄目な満継が引退し、頼継が継承すると、息子の正則を高遠頼継の旗本として送り込み、弾正正則は重臣の家老職になる。壬生沢は保科家が継承し、小笠原家の先付衆としても、又諏訪神党としても、この地に存在したため、壬生沢の城は神城(カミ、クマとも読む)とも呼ばれた。
・・・証拠となる資料はない。神城=熊城=熊稲の語源の推理である。稲は城の当て字。あくまで推測である。

状況証拠として
1545年、武田と対峙した福与城の戦いの中に、藤沢方を応援した小笠原信定(鈴岡)の家臣団、下伊那・中伊那の旗本衆のなかに、保科弾正があります。・・・小平物語
1548年、藤沢頼継が保科因幡に、保科旧領の藤沢御堂垣外200貫を安堵したとあります。保科因幡が誰であるか、不明ですが、保科一族と見ています。換算式(1貫=5石)に従えば、で、1000石。・・・御判物古書の写し(守谷文書)
1552年、戦功により、保科筑前(正俊)は武田信玄より旧領に加えて、宮田700石、諏訪沢底500石を与えられています。
武田の軍役で、保科弾正(正俊)は120騎の兵力を持っていたと書かれています。換算式(1万石=250人の兵力)に従えば、、120騎は4500石ぐらい。上記以外に領地が2300石ありそうで、そこが何処かは不明ですが、本拠地藤沢以外で宮田が飛び地であることから、宮田近辺もが想像されます。前述の流れから豊丘や長谷が可能性高い、と思われます。

上記を書くに当たって、こんなに資料の少ない、推理推論の多いストーリーを晒していいものか、悩み、論理整合性に欠けてはいないか、読み返し、個人的な多忙もあり、筆がほとんで進みませんでした。