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雑談記 戦国初期の名前の付け方、資料の信憑、税制のことなど

2012-10-31 18:29:22 | 歴史


少し、話を変えてみる。

歴史を観るうえで、肝心なことは何なんだろうか。・・常に考える。
自分は、大学の日本史科を出ている。だが、恥ずかしながら、伊奈熊蔵忠次の出自を探ってみて、基礎学力の無さに自分であきれかえっている。その再確認もかねて。
歴史は、常に勝者の歴史であるようだ。勝者の記述した歴史資料は、自分の故実を誇張したり、対立の敗者を無視したり、悪者と言ったりする。
信長記、太閤記、甲陽軍艦、三河物語など。これらは勝者のお抱え、及び勝者側の記憶・思い出による物が多い。これを偽書という人もいるが、半分以上は真実で、誇張のところと敗者のところは心して読まなければならない。小平記や赤羽記などは、勝者側の思い出や先祖からの伝承が多く、これを家の伝承記録とした。このため、事実の誤認や誇張や相手の無視や悪意も、少し散見される。
一方、守矢文書のように、諏訪神社の祭事の記録を主としながらも、1年ごとに、その時の主な出来事を、ついでながら記録する文書は、かなり信憑性が高そうだ。
中世における武家社会での名前についても、かなり悩まされる。通称「大石内蔵助」と呼ばれた忠臣蔵の家老は、大石内蔵助藤原良雄が正式名である。この場合大石は家名(名字)、内蔵助は官名、藤原は氏名、良雄は実名となる。また、織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(たいらあそん)は氏名、信長は実名となる。商家では茶屋四郎次郎中島明延は茶屋四郎次郎が屋号(=名字)、中島は氏名、明延は実名となる。
さて、中世の武家社会での名前の構造を踏んでから、保科正俊の名前を分析すると、彼は保科弾正(忠)筑前守正俊が正式名称で、越前守は官名(高遠藩の家老職の別称?)、弾正(忠)は通称なので、高遠家が滅亡後、武田の臣になった後は、弾正は使われたが、越前は使われなくなったのではないか。
そう考えると高遠家家臣の保科正則も当然越前を名乗り、家老職にあったと思って不思議はない。
保科を名乗って、小笠原家臣団にいて、福与城にいた藤沢頼親を応援して武田と戦った保科因幡守を類推すれば、高遠家と違う領主の元にいたとみていい。つまり、福与城の藤沢親を応援して参戦したのは、保科正俊ではない。
ここでも史実の記載に混乱がある。小笠原家臣で、親とか弟とか、あるいは叔父とか。領地も小笠原信定の勢力下の範囲で。その経緯は不明。小笠原信定は時の信濃守護の弟である。
さらに悩ませるのが、保科正則の父とされる、保科易正だ。この易正を指すと思われる名前の多いこと。荒川易氏の子、易正は保科の里に養子にいった。たぶん養子先の保科家には嫡子が無かったのだろう。最初からいなかったのか、戦役で嫡子が戦死したのかは不明。この場合の改名は、家存続の継承性や正当性から、先代の名前を一つもらい改名するのが普通。それで、一族郎党の勢力維持や団結も計った。改名の儀式も重要な要素だ。そこへ、北信の雄、村上顕国に追われた、川田郷保科の正利一族が逃げ込んでくる。この時、保科正利は、嫡子ともども逃げる途中で戦死した可能性は高い。そこで、易正は、若穂保科の保科家の正利を継承し、さらに改名して、若穂保科家の一族郎党の離散を防ぎ、勢力を維持しながら、やがて、一族を合流していったのではないか。そこには、時々で名前が必要となる。同時に複数の名前を名乗ったのでなければ、時系列的に名前は改名されていったのだろう。
易正が養子にいった時期は、藤沢保科家も川田郷保科家も、見方によれば、一族存亡の危機であった。藤沢保科家は、主家高遠家と対立。川田郷保科家は、村上一族に領地を追われている時期である。おそらく、この期に何らかの活躍があり、これが神がかり的である事から、神助というあだ名を付けられたのだろう。
この推論は、家長制度の継承性や正統性を前提とし、正統性は先代の名前の一字を組み入れながら存続していく、この時代の名付けの方程式で、戦国の時代の当主と嫡子の戦死は常であり、家を生き延びさせる方策であった。

守矢文書に見られる祭事の負担費用は貫高で書かれている。
実際、信濃国では、山国で米の運搬が容易でなかったことと畑も多かったことで、貫高制が一般であった。だが貫高制は馴染みがないこともあって、理解しにくいので、一貫=5石という換算式を用いた。諸説では一貫=2~7石と巾が広い。又、畑の生産量は水田の30%~40%ぐらいとされる。税制のついでに、納税率の当時の一般を調べると、六公四民とか五公五民とかで、50%~60%が税金であったようだ。今から見るとかなり高い。伊奈熊蔵忠次を見てみると四公六民が普通で開拓農地はそれよりも更に少ない納税率で、ゆえに領民から愛され尊敬されていたようだ。逆に、同僚幕臣には恨まれるが。

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