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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 91

 そこまでの事が伝わった時、目の前に浮かぶアサダさんの姿が一瞬揺らいだ。
 とても鋭敏な意識の世界で、アサダさんの自死というイメージが私に迫り、恐れとなって目の前のアサダさんの像に影響したのかもしれない。

『でも、イナダくん、あなたが見ていた。だから、わたしはその場所から逃げた・・・いつもそうするように』

 でも、これ以上どこに逃げたらいいか、もう判らなかった。 
 自分が向かうべき場所なんてわからない。
 この世界には、自分の居場所なんかない。
 とにかく今いる場所から離れようとする他なかった。
 結局、いつもそうだった。
 自分は、いつも何かから恐れ、逃げ続けていた。
 いつまでこうしなければならないのだろう。
 そんな虚しさが突然暴走したように膨れ上がり、自分の中に棲みついていた”恐れ”をも通り越していくように、心身の力を全て奪っていくのが判った。
   
『・・・その時、わたしは呼ばれたの』 

 何に呼ばれたのかと私が問う間もなく、アサダさんの意識体は上に向かって人さし指を立てた。
 その指の先を追うように見上げると、さきほどよりも更に大きくなった巨大な月が、頭上を覆うように夜空を支配する姿が私の目に飛び込んできた。

『・・・!』
 息を呑む私の意識に、アサダさんの意識が静かに語りかけてくる。
『このまま月に引き寄せられれば、すべてを終わりにできるって・・・』

 その時、視界の外から細かなチリのようなものが巨大な月に向かって集まって吸い寄せられていく様子が見えた。
 徐々に増えていくそのチリをよく見ると、空中に高く舞い上がっているのは、木や草や土、この世界の大地であることが判った。
 巨大な月が、今まさにこの世界そのものを吸い込もうとしているのだ。
 慌てて周りを見渡すと、自分達の居る湖を中心に、遠縁の端の大地から徐々に削られて月に向かって吸い上げられていく様子が、遠目でも確かに見える。そして、その異様な光景は、とても静謐に淡々と進行していた。
 ここまで来て、いよいよこの宇宙の終わりがリアルに感じられるような光景だった。
 しかし、その宇宙の一大事よりも、目の前にいるアサダさんを失おうとしている刹那の悲しみに、何よりも耐え難い恐れを抱く自分がいた。

『誰にも気づかれずに終わりにしたかった。なのに、なぜあなたは、ここにいるの?』

 私にそう問いかけるアサダさんの虚ろな瞳と、いつもに増してか細く、白く見える身体を見て反射的に生まれた私の返答は、問いに対する説明というものを何ら持ち合わせない、自分でも驚くほど幼稚で非論理的なものだった。
『そんなのいやだ!俺は、アサダさんとずっと一緒にいたい!』

 その思いが自分の中で弾けたと同時に、アサダさんが胸を微かに震わせたのが判った。
 私の胸にも不意にじわりとした重みを感じる。
 この瞬間を逃さずに私はアサダさんの意識体に向けて手をのばした。
 アサダさんの肩に触れられたことを確かめると、次にアサダさんの手をたぐり寄せ、両手でしっかりと握りしめた。
 すると、私の胸はさらに強く重たい”重力”を感じ、たまらずアサダさんを身体ごと抱きしめる。

『・・・なんで?』
 その言葉と同時に、アサダさんはうなだれるように力を失った。

『一緒にいたいんです・・・あなたのことが好きなんです!』
 私の胸とアサダさんの胸が、はじめて磁石のように引き寄せ合っているのを確かに感じることができた。
 正しくは自分の心が生んだ重力が、アサダさんの心に微かに芽生えた重力を捉えて離すまいとしていた。

『言葉にできる理由なんて、ないです』  
 私は目をつむり、全てを自分の胸に生まれた重力に委ねるようにしながら、ただただ、アサダさんの身体を抱きしめていた。
 すると、じんじんとした胸の中の重さが、少しずつアサダさんの胸の中を巡って、さらに重みを増して自分の胸に還って来るのがはっきりと感じられた。

『なんでなの・・・?』アサダさんは再び力なく問う。
『嫌・・・ですか?』私は聞きながらアサダさんを抱く手の力を少し緩めた。
 アサダさんは首を横に振り、私の背中に回した手にぎゅっと力を入れるのが判った。
『理由なんて、後で考えます』私はそう言って、再び強く抱きしめた。
 私とアサダさんは、お互いに身を委ねながらしばらく無言で抱き合った。

 気がつくと、アサダさんはしくしくと泣いていた。
『ごめんなさい・・・、もう遅いみたい・・・』
そう言うアサダさんの背後から、さらに大きくなった月が、この世界の大地を端から徐々に吸い込みながら、いよいよ私達を飲み込もうとしているかのように迫ってきているのが見えた。


・・・つづく


 
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