その人は白い長袖のシャツに、明るいブルーのネクタイを少し緩めて首元に締めていた。
シャツもパンツも、身体のサイズによく合っているし、トラディショナルな着こなしで上々な感じ。
髪型は黒い髪をさっぱりと短くしていて、全体として清潔感がある。
太い眉毛とはっきりした二重が印象的な、イケメン顔だとは思う。
・・・ただ、目尻に影があるような、何というか、疲れてきっていて物憂げな表情で、まったく覇気がない。
でも、不思議なのは、どこかで会ったことがあるような、他人とは思えないような、そんな気にさせる雰囲気があった。
もちろん、私があったのは、この屋上で一方的に見かけた、その3回だけなのだが・・・。
私は、言葉を返してくれた男に、問いかけた。
「・・・お仕事帰り、ですか?」
「ん?ああ・・・そう、だね。いや、まあ、なんというか・・・」
男は少し歯切れが悪そうだ。ってことは、やはり。
「サボってるんすか?」
「・・・そう」
男は図星だ、とばかりに左右の手のひらを上向きに、小さく広げて答えた。
私は、男の少しおどけた様子に可笑しくなって笑いながら聞いた。
「ばれないんですか?会社に」
男は、それはもっともなことだと言わんばかりに、頷ながら言う。
「今時の会社員って、どこにいてもGPSで居場所がわかっちゃうからね」
「ですよね」
「でも、実はこのビルに、よく仕事で出入りしてるスタジオがあってね」
そこまで聞いて、私は男が何を言わんとしているかが判った。
地球上、どこにいても居場所がわかってしまう代わりに、地上からの高低の位置までを正確に把握仕切れないGPSなら、彼は今仕事でスタジオにいるのと変わらない。
「あ、なるほど」
「でも、バレたっていいんだよ、もう」
投げやりな言葉遣いで男は言う。
「正直言うとね、つい最近、会社には辞表を出したんだ。・・・で、今は社長から慰留されている最中の身」
「えっ、そうなんですか」
その時、屋上に強く吹いた風が男のネクタイを横に大きく揺らした。
夕陽がつくり出す私と男の影が少しの間をおいて足元から夕陽と反対側に長く延び、会話にあわせて微かに揺れていた。
何だか、黄昏時を演出する寂れた舞台の照明演出のように感じられた。
「見ず知らずの君に話すようなことじゃないよね」
男は、ははは、と乾いた笑い声を出しながら言う。
確かに、何て返していいか判らなかった私は、小さく首を横に振ることくらいしか、できなかった。
それに、あまり深く突っ込んで、詮索しても悪いかなとも思う。
「君は、なんでここに?」
男は反対に聞き返してきた。
「・・・僕は、気分が晴れない時、よくここに来ます。遠くの街並や空をぼうっと観てると、少しは気分がマシになるんです」
男は、はじめて私の目をしっかりと合わせるようにして、小さくゆっくりと頷いた。私は男の瞳の中に、同情なのか、共感なのか、判らないけれど、少しだけ感情の揺らぎを観た気がした。
その瞳に誘われるように、私はつづける。
「・・・就職活動が、ぜんぜん上手く行かなくて、ちょっと腐ってたんです」
「・・・そうなんだ。・・・ま、いろいろあるよな」
男も、あまり深く詮索しないように気をつかってくれているんだろう。
缶コーヒーを一口、ちびりと飲んでから、手に持つ缶の底を意味も無く指でこすっている。
しばしの沈黙。
不意に頬を撫でる風が、私たちの間を取り持つようにやさしく流れていく。
その風に誘われるように、男は口を開いた。
「なんで、就職したいって思うの?」
「え、それは・・・」
突拍子もない質問に、不意を突かれ、直ぐには答えられずにいる私に、続けて男は言った。
「仕事って、大変だよ」
「それは、まあ、そうだと思いますけど・・・。でも、ちゃんとした会社に入って、お給料もらって、それなりの生活しないと、親も心配するだろうし、いずれ、その・・・結婚とかして、子供養ったり・・・とか。まだ、そんな相手もいないですけど・・・」
明確に、強く、働くことへの明るい希望を述べられる自分ではない事は、わかっていた。そんな自分から出てきた、まったくもってありきたりで、つまらない言い訳のような言葉の一つひとつに、男の瞳がさっきよりも強く揺らすのが判った。
そして、返ってきた言葉は、とても意外な一言だった。
「・・・なんだか、うらやましいよ」
「・・・え?そ、そうですか?・・・でも、どの会社も、欲しがってくれないんですよ。僕のこと。それより、あなたは自分で辞めたがっても、会社から必要とされて慰留されてるんですよね。うらやましく思うのは、僕の方じゃないですか?」
私はここ最近、強く感じていた自虐的な思いをそのままに、思わず言い返した。
その言葉を聞いて、男は、下を向いて黙り込んでしまった。
さっきよりも長い沈黙が訪れた。
さっきよりも長くなった二つの影が、動きもせずに固まっていた。
ようやく口を開いた男は、ぼつりと言った。
「今年に入ってすぐ、妻を交通事故で亡くしてね」
今にも消え入りそうなその声は、屋上に吹く風の音に紛れながらも、かろうじて私の耳まで届いた。
・・・つづく
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