誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 07

 アサダさん、いや、ミキと別れて帰路に着いた私は、いつも通りの地下鉄に乗って、いつもの駅で降りて、いつもの商店街を抜けて、いつもの自宅のマンションに帰ってきた。
 エレベーターで3階に上がり、自宅である315の部屋番号の前に辿り着くと、まず表札の名前を確認した。
 そこには間違いなく自分の名字が書かれている。

 「・・・間違いなく、ここは、自分の家だ。」

 私は自分に言い聞かせるように言いながら、静脈認証のセキュリティーキーを解くために、自分の人差し指をドアノブのセンサー部分にタッチする。「ピッ」という音と共に、小さなディスプレイに認証OKの文字が現れ、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。

 ほっと胸をなで下ろしながら、ドアノブを回して扉を開ける。最新のセキュリティーシステムに自分自身の存在というものを確かめてもらい、きちんと証明されたという安堵感を覚える。
 玄関に入ると、見慣れた自分のサンダルが一足。それと、海外出張の前にゴミに出しそびれた、折りたたんだ段ボールが無造作に置いてあるのが目に入る。間違いない。ここは、自分の家だ。

 玄関を入ってすぐの部屋が、狭いけど一応のダイニング・キッチン。その奥が居間であり、寝室となっている洋室。1LDKの住まいは、男の一人暮らしにしては片付いている方だと、自分では思う。

 手に持った仕事のカバンをシェルフラックのいつもの場所に突っ込むと、私は脱力しながらソファに腰を降ろし、背もたれに身を預けた。思わず大きなため息が漏れる。天井を見上げながら、今日の出来事を頭の中で反芻し始める。

 まず、量子テレポーテーション。そう、全てはそこから何かがおかしくなった。確かに、一瞬のうちにヨーロッパから東京まで、瞬間的に移動していたのだろう。少なくとも私の肉体は。
 でも、その間に見た、夢のような世界の中を歩いていた自分の様子は、リアルな感覚で思い出すことが出来る。その場所で聞いた謎の女の人の声。もし、あの道をそのまま歩いていたら、一体どうなっていたのだろう。とにかく、あの道を逸れたら、突然街の中に意識が飛んだ。そこにはアサダさんが居て、一緒に会社に向かっている途中だった。
 
 そして、会社の会議室にいた橋爪部長ときたら、一体どうしたのだろうか!あの鬼部長が、非の打ち所のない完璧な理想の上司になっていた。
 優しい眼差しの中に時折見せる強い意志と信念。身体全体から漂う、包容力。これまで数々の場面で浴びせられてきたシビアでヒリヒリする、尖ったナイフのような言葉の数々は一切その口から出てくることは無く、代わりに、いつまでも聞いていたくなるような、深みのある声で語られる夢のような新規事業の話が語られていた。聞いている私は、ある種の感動を禁じ得ず、脳天から身体の芯まで響きっぱなしだった。これまでの負の感情の一切を忘れ、リスペクトの情念が湧いて出てきた。

 そして、そして、何と言ってもアサダさん!あのアサダさんが、なんと、私のことをトモくんと呼び、腕を絡め、身を預けてきた!肘に当たったアサダさんの胸の感触が今でもやけに生々しく思い出される・・・。
 ああ!何てことだ。そう、別れ際に私はアサダさんから頬にキスをされたのだ!何で私はその時、ぼーっとしたまんまだったんだ!自分は何て間抜けなんだ!あのままアサダさんが、いや、ミキが、今、この家に来てくれていたら、今、隣に座っていたら・・・。

 興奮に心を駆られる中、ふと、我に返り、自分が心配になる。

 私は、何か気でも違えたんじゃないだろうか・・・。

 例えば、幻覚や幻聴でありもしない事実を、自分が望む妄想世界の様子を見てしまっているとか・・・?
 明日、すぐにでも心療内科に掛からないと、ダメなのかもしれない。
 だって、どう考えてもありえ無いじゃないか。
 出張から戻ってくるまで、1回たりともアサダさんをミキと呼んだことはないし、当然、付き合っても、手をつないだりもしてない。
 確かに好意を抱いてはいたが、ずっと言えずに心にしまっていた。それが、どうしてこんなことに・・・。
 
 その時、何気なく周りを見渡した私の目が、シェルフラックの一角に釘付けになった。
 そこには写真立てがいくつかある。自分が撮った写真で特に気に入ったものを、電子ペーパーに出力して飾っていた。その中に、機能までの私にとっては“あり得ない”写真が一枚紛れていた。

 「・・・うそお・・・。」

 アサダさんとの、ミキとの2ショット写真だ。しかも、全く身に覚えの無い写真で、緑の芝生の上でお弁当を囲んで二人仲よさそうに映っている。いかにも、ピクニックでデート、そんな写真だった。会社のレクリエーションとかでそんなピクニックなんかに行くような事は今まで一度も無かった。

 ・・・わかった。もう、観念しよう。私は・・・・、私はミキと付き合っているのだ。

 そうなると、もう、自分が一時的な記憶喪失か、あるいは、何かしら記憶の混線が起こり、出来事と人物の記憶の紐付けがメチャクチャになってしまっているのだと理解した方が、自然なのかもしれない。

 ここで、ふと思いつき、部屋の隅にある机の引き出しを開けて、会社から支給された名刺が入った箱を取り出し、中身を確かめた。
 やっぱり。そこには、会社名と部署名、自分の名前、そして、会社の住所が書かれており、オフィスビルの名前であるセンターポートビルの記述の横には、確かに“18階”と記載されている。私はなぜか、自分の会社のフロアを17階だと思い込んでいた。恐らく、一時的な記憶の混乱によって。

 もし、今日ここで寝て、朝起きたら、全てを思い出しているのだろうか。・・・いや、そんな自信はカケラも無い。今だって、こんなに意識がはっきりしているのに。それでも、アサダさんとのことは、何一つ思い出せない。
 自分の脳はかなり重症なのだろうか。量子レポーテーションのショックによって、それほどまでに傷ついてしまったのだろうか・・・。

 私はもう一度深いため息をついて、ポケットに手をつっこみ、天井を仰いだ。・・・その時、ポケットの中に何か紙が入っていることに気がづいた。
 それは、海外出張中に出会った照明演出会社の人と挨拶をする際、名刺を一枚取り出したものの相手に渡しそびれ、そのままポケットに突っ込んであったものだった。

 ずっとポケットに入れっぱなしだったために、少々汗に濡れ、クシャッとなっている。
 その名刺に何気なく目をやった時、私は、いま一度、自分の目を疑うことになる。

 自分の会社の住所の部分にそれは、確かにはっきりと書かれてあった。

 『・・・センターポートビル 17階』

 「え・・・17階!?」

・・・つづく
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