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心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

白梅之塔 慰霊祭11 【少女達の想いは雨へと変わり】

2010年08月08日 | 慰霊
次にマイクの前に立たれたのが、白梅之塔慰霊祭協力会代表者。代表者からは「白梅協力会報告」が行われた。

この白梅之塔慰霊祭協力会は、2009年7月4日に”白梅協力会”と名づけられた有志の会であり、白梅同窓生とも連携して慰霊祭の事前準備、当日の設営、式典の進行、参加者の接待、事後片付けを行い、後日には出席者の名簿整理や挨拶状の発送などもボランティアとして白梅同窓生を支えている。この会は、会費などの徴収もなく、白梅同窓会の中に存在している会だ。

その会の代表者は、より多くの会員参加をお願いしていた。また、他府県から参加された面々に、向けては慰霊祭が終わった後、この場所に残って頂くようお願いもされていた。なにやら、慰霊祭参加者に向けての相談事項や連絡事項があるという。

テントの外は、雨がだんだん激しくなっていった。

わたしは、この協力会の存在をこの日初めて知り、慰霊祭後何を話すのか、気になっていた。祭順の用紙はホッチキスで止められており、2枚目についてこの協力会の説明が書かれていたのである。この用紙について、一通り目を通したが、ここでもまた違和感が込みあがってきた。


改めて、わたしは感じていた。少女達は全く望んでいない。組織化して何かを成し遂げるということなど全く望んでいないと。ただ、同級生が訪れてくれる事を愉しみにし、こころある人がそっと手を合わせてくれる事を望んでいるだけだと。

少女達は、ひめゆりの塔のような大勢の方が訪れる観光地になることを、一切望んでいない。少女達がこころを赦している、また赦せる人が、訪れてくれることを嬉しく想っている。つまり、真摯に供養をするというこころと姿勢がある人以外は、受け入れられないのだ。同時に、興味本位では来て欲しくないと思っており、生きた人間のこころの内を、少女達はしっかり見抜いている。壕に入り、体調が崩れたという人は、供養する気持ちよりも興味本位が優位になってしまった証でもある。時に、少女達は容赦なく想いを発露するが、本当に15歳のまんまであり、素朴で、純粋で、愛おしいほど、少女達は今を生きる人よりも、多くを望んではいない。

昨年末、わたしの枕元に少女達が現れ、布団の端を持って、ゆさゆさと揺らされたことがある。この事が引き金になって、わたしは年始早々に沖縄へ向かった。ここには、1対1の関係とでもいうべきか、少女達との向き合いを重視し、同窓生の方にまで想いはまだ巡ってはいなかった。

だが、文通を重ねていくうちに、生き残られた白梅学徒隊の方々も生き残ってしまったことへの自戒から開放されねば、真の供養にはならないという事をわたしは感じてきた。亡くなった少女達、そして生き残られた同窓生の方々、共にお慰めをすることが、わたしは急務だと感じていた。

その理由に、少女達は生き残った同窓生に対し、「ありがとう」と言っているのである。わたしは4月に訪れた時、このメッセージを感受した。自戒の念から平和活動をし、繰り返される痛ましい戦争体験の話によって、亡き同級生に対し、せめてもの生きた償いをしているようにわたしは感じてきた。少女達が発した『今までよくしてくれて感謝している。ありがとう。』ということを、わたしがきくさん達に伝える事が大切だと想い、壕の中でお参りさせて頂いた後、涙ながらに発露させて頂いた。きくさんは、ぐっと堪えた表情を浮かべ、後ろの武村さんは、そっと涙を流されていた。




振り返れば、年末に少女達に呼び寄せられた理由は、この事を同級生に伝えて欲しいという想いが霊となって出てきたと確信している。黒く焼け爛れた冷たい小さな手は、今でもしっかり脳裏に残っている。

供養というべき、慰めを基軸にわたしは白梅の少女達とも向き合い、そして生き残られた同級生の方々とも向き合ってきた。亡き少女達にとって、一番大切なことは、持続する日々の祈りであり供養であり真心なのだ。わたしは、この協力会の代表者の話にふれ、本当にきくさん達は主たる目的を果たすために、この会の存在をさらに拡大させていきたいのだろうか?という思いに至っていったのである。

少女達の想いを知っているだけに、もし、仮にそうだとするならば、わたしはとても悲しくなるだろうと己の気持ちを察していた。この雨の激しさは、少女達の抵抗でもあるように。


(つづく)

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