日本の歌謡業界の始まりは興行管理であり、その興行を取り仕切っていたのが、いわゆる昔で言うヤクザだった。大御所の美空ひばりや北島三郎もその恩恵を受けながら、日本全国シェアした。今や任侠的ヤクザも壊滅し、非合法組織としての暴力団へ変貌した。島田紳介氏が芸能界を引退した事に象徴されるように、今では、暴力団と言われる面々と接触しただけで、社会的制裁を受ける時代になった。
表向き浄化している様ではあるが、歌謡業界を作り育んできた興行という真髄の部分にある骨は、時代が経っても大きくは異なってはいないだろう。肩書きがヤクザから一般人に変わっただけで、行っているマネージメント業務の本質は、大きくは変わっていない。
ただ、時代を経て変わったことは、スターに仕上げる過程での売り出す媒体が変わったことだ。昔は演舞場やスナックやクラブやと、どさ回りしながら、レコードを手売りし口伝えで広めて行ったが、ラジオやテレビが出始めると、一気にシフトした。
マネージメントもヤクザ組織からプロダクションへと変わり、マネージメントそのものも、企業が管理するようになった。この過程において、いわゆるアイドルの少女達も『人物』から『人』という字が消え、まるで『物』の商品のように扱われるようになって来ただろう。
このように媒体が変わり、管理する組織が変わるとマネージメント思考もまた変わっていく。時代が移行するのと等しく、歌謡業界も表面上は変わって行ったと思う。
”商品=アイドル”の取扱も、一人から二人、二人から三人、三人から五人など、個性を結集させ色の幅を広げて行った。そして、80年代に入り、おニャン子クラブが秋元康氏の手によって、番組内で誕生させている。全くの素人を自身の目で選りすぐり、そして寄せ集め、色の幅をまるでクレパスを揃えるかの如く、過去の色合いとは異なる演出を仕掛けた。これらは、彼の計算の上で行ったものであり、また浮かれていたバブリーな時代もあって、見事にマッチし、ズブの素人の少女達にスター性を着色できたのである。
そして、そんなバブリーもはじけ、時代はデフレへと急降下していった。世の中の物が動かず消費されず、そんな中で、どのようにして新しいアイドルを生み出すのか、本当に寝ずに考えたものだろう。
仕掛け人は、この着眼点に向ける力が他を圧倒している上、アイデアやひらめきも兼ね備えている場合が多い。まさに彼はその両方を兼ね備えていたため、再び、ズブの素人を寄せ集めスターにする事に成功を収めた。それも、このデフレの時代にである。
わたしは、歌謡業界において、自身で作詞作曲をせずマイクを握る人々には興味がない上、売上や枚数などに価値も置いていないため、特別アイドルをぶったぎる必要性も全くない。ここではアイドルそのものに毒舌は吐かないが、秋元氏が独白した仕掛け人の苦悩には、いささか毒を吐きたくなったため、この日記を書いている。
AKB48の峯岸みなみという女性が、男性宅へ宿泊をしていた事が週刊誌に報じられ、自身の意図で丸刈りにし、反省を態で示した。この動画を撮影した場所にいたスタッフは、彼女が丸刈りにしていた事を知らなかったようである。
おそらく想像するには、撮影まで彼女の気持ちや状況や事情やさまざまな角度から彼女の胸の内を聞き出した事だろう。だが、結局そこにいた大人のスタッフらは、彼女のありのままのあの姿を撮影し、Youtubeで動画を流す事を選んだのだ。
そして、この一連のお泊り報道から、丸刈り報道、その後これについて是々非々が論じられ、結果、今はこの動画も削除され、丸刈りした彼女も降格したものの、カツラをかぶってステージに立っているという。
起点から結末そして現在を線で結べば、実に滑稽で奇妙な騒動である事に気づかないだろうか。無知な峯岸みなみという女性の取扱方に、取り巻きの大人たちの無節操さを通じ、わたしは、この大人達をとても卑怯な大人だと感じていた。その分別は、動画を録画しYoutubeに流した行いに尽きる。
反省の意を態で示すとき、彼女は丸刈りが一番手早く人に伝わると判断した。この判断には、女の長い髪というものには価値があるという概念が彼女に宿っていたからこそ、丸刈りにしたものだろう。この浅はかな考えしかない上に及ぼしてしまった彼女の奇行を、なぜ、大人達が保全出来なかったのか?という点だ。
この場合の善行たる判断、つまり商品としての価値を保全するならば、動画撮影をせず、彼女を一時保護の上で、所属事務所と調整し、自宅謹慎をさせ、恋愛報道に関しては事務所から釈明させることで、彼女の立場や人間性を是々非々なく、一定の成果として保護はできたように思う。動画を流した事によって、彼女自身付き合っていた男とは一夜の恋であり遊びであったと明々白々にしている上、あの動画を見せられた一夜を共にした男も恥をかかされただろう。
彼女の奇行の起点は恋愛禁止というルールの中で、そのルールを守らなかったゆえに起きている。しかし、それは相手があっての事だ。その相手よりもAKBに残りたいと訴えた彼女のこころの発露を聞かされた男にわたしは同情を覚える。彼女はこの男に連絡せず、衝動的に丸刈りをし、この動画撮影現場へ向ったものだろう。この一連の行動だけでも、大人が見聞きすれば稚拙だと判断すべきだったのではないだろうか。
撮影前におそらく尋ね知った前段を踏まえ、彼女を取り巻く大人達は動画を撮影し、Youtubeに流した。この撮影への事前打診について、秋元氏はわたしが知っていれば止めていたと否定していたが、わたしは決してそうは思わなかった。プロデューサーの権限は現場の権限よりも重いからである。つまり、現場での判断ではなく、許可をもって世間に流したと見るべきではないだろうか。
彼女の行動に、秋元氏は苦渋をにじませた発言をしているが、総括として、わたしには自己都合な詭弁な発言にしか聞こえてはこない。恋愛を禁止とした故に、報じられた彼女の奇行と結末が全てを物語っている。
丸刈りの姿を動画で流し、反省している様を世間に見聞きさせ、恋愛報道の火消しをする。これらは、管理放棄の何者でもない。その上で、審議し降格させ、カツラをかぶらせて今ではステージで歌わせる寛容な対応ぶりだが、クビにする事をしなかった事も管理放棄への責任回避の一旦だろう。
ぎりぎりのラインで見せる寛容さとズルさ。巨大アイドル組織を作った本人が、今では管理放棄と見て取れる発言をしているのだから、無節操極まりない。人の噂も75日というが、このことわざどおりの選択を、彼自身行い自身の立場をただ単に保身しただけのように見えてくる。
このグループにのめり込んでいる人たちは、直接アイドルのライブやコンサートへと足を運び、CDやDVDを購入し、まるでタニマチ感覚で支援している気持ちに等しいと思う。わたしは、それでファンが幸せだと思えるなら、趣味趣向の一環としてそれでいいと思っている。
ただ、客観的にこの全体的構図を想像した時、見えてくるのが、このグループの背後にいる穢れた大人達だ。ファンのアイドル支援は、結果巡り巡り、秋元康氏らの取り巻きの大人達を巨漢に太らせているだけだ。
ファンを愉しませる事は、自身の実入りに直結しているわけだから、スキャンダルも利用する事など惜しんではいないだろう。だから動画を流すことを選んだと推察している。アイドルの保護よりも、波及効果による自身の実入りを優位にした結果の選択だと見ている。
歌謡業界において今も昔も変わらない本質が、このようなヤクザが作った路線だ。少女達を気持ちよくさせながら、結果稼いだ銭をくすねるのだ。それをビジネスと呼び行商している点である。そして、大きく変わった路線こそ、昔にはあった銭を稼ぐアイドルを、金の卵として大切に扱わなくなった事ではないだろうか。
秋元氏が発言した『万策尽き果てた』とは、なかなか知性溢れるかっこいい響きだが、彼の指す万策とは、彼女たちの保護ではなく、自身の保身を意味している事に直結していると、少し頭を使えば察知できるだろう。
秋元康氏についての個人的見解は、知性溢れる保身に満ちた気色の悪いデフレ時代の象徴たる大人の一人だとわたしは感じている。
表向き浄化している様ではあるが、歌謡業界を作り育んできた興行という真髄の部分にある骨は、時代が経っても大きくは異なってはいないだろう。肩書きがヤクザから一般人に変わっただけで、行っているマネージメント業務の本質は、大きくは変わっていない。
ただ、時代を経て変わったことは、スターに仕上げる過程での売り出す媒体が変わったことだ。昔は演舞場やスナックやクラブやと、どさ回りしながら、レコードを手売りし口伝えで広めて行ったが、ラジオやテレビが出始めると、一気にシフトした。
マネージメントもヤクザ組織からプロダクションへと変わり、マネージメントそのものも、企業が管理するようになった。この過程において、いわゆるアイドルの少女達も『人物』から『人』という字が消え、まるで『物』の商品のように扱われるようになって来ただろう。
このように媒体が変わり、管理する組織が変わるとマネージメント思考もまた変わっていく。時代が移行するのと等しく、歌謡業界も表面上は変わって行ったと思う。
”商品=アイドル”の取扱も、一人から二人、二人から三人、三人から五人など、個性を結集させ色の幅を広げて行った。そして、80年代に入り、おニャン子クラブが秋元康氏の手によって、番組内で誕生させている。全くの素人を自身の目で選りすぐり、そして寄せ集め、色の幅をまるでクレパスを揃えるかの如く、過去の色合いとは異なる演出を仕掛けた。これらは、彼の計算の上で行ったものであり、また浮かれていたバブリーな時代もあって、見事にマッチし、ズブの素人の少女達にスター性を着色できたのである。
そして、そんなバブリーもはじけ、時代はデフレへと急降下していった。世の中の物が動かず消費されず、そんな中で、どのようにして新しいアイドルを生み出すのか、本当に寝ずに考えたものだろう。
仕掛け人は、この着眼点に向ける力が他を圧倒している上、アイデアやひらめきも兼ね備えている場合が多い。まさに彼はその両方を兼ね備えていたため、再び、ズブの素人を寄せ集めスターにする事に成功を収めた。それも、このデフレの時代にである。
わたしは、歌謡業界において、自身で作詞作曲をせずマイクを握る人々には興味がない上、売上や枚数などに価値も置いていないため、特別アイドルをぶったぎる必要性も全くない。ここではアイドルそのものに毒舌は吐かないが、秋元氏が独白した仕掛け人の苦悩には、いささか毒を吐きたくなったため、この日記を書いている。
AKB48の峯岸みなみという女性が、男性宅へ宿泊をしていた事が週刊誌に報じられ、自身の意図で丸刈りにし、反省を態で示した。この動画を撮影した場所にいたスタッフは、彼女が丸刈りにしていた事を知らなかったようである。
おそらく想像するには、撮影まで彼女の気持ちや状況や事情やさまざまな角度から彼女の胸の内を聞き出した事だろう。だが、結局そこにいた大人のスタッフらは、彼女のありのままのあの姿を撮影し、Youtubeで動画を流す事を選んだのだ。
そして、この一連のお泊り報道から、丸刈り報道、その後これについて是々非々が論じられ、結果、今はこの動画も削除され、丸刈りした彼女も降格したものの、カツラをかぶってステージに立っているという。
起点から結末そして現在を線で結べば、実に滑稽で奇妙な騒動である事に気づかないだろうか。無知な峯岸みなみという女性の取扱方に、取り巻きの大人たちの無節操さを通じ、わたしは、この大人達をとても卑怯な大人だと感じていた。その分別は、動画を録画しYoutubeに流した行いに尽きる。
反省の意を態で示すとき、彼女は丸刈りが一番手早く人に伝わると判断した。この判断には、女の長い髪というものには価値があるという概念が彼女に宿っていたからこそ、丸刈りにしたものだろう。この浅はかな考えしかない上に及ぼしてしまった彼女の奇行を、なぜ、大人達が保全出来なかったのか?という点だ。
この場合の善行たる判断、つまり商品としての価値を保全するならば、動画撮影をせず、彼女を一時保護の上で、所属事務所と調整し、自宅謹慎をさせ、恋愛報道に関しては事務所から釈明させることで、彼女の立場や人間性を是々非々なく、一定の成果として保護はできたように思う。動画を流した事によって、彼女自身付き合っていた男とは一夜の恋であり遊びであったと明々白々にしている上、あの動画を見せられた一夜を共にした男も恥をかかされただろう。
彼女の奇行の起点は恋愛禁止というルールの中で、そのルールを守らなかったゆえに起きている。しかし、それは相手があっての事だ。その相手よりもAKBに残りたいと訴えた彼女のこころの発露を聞かされた男にわたしは同情を覚える。彼女はこの男に連絡せず、衝動的に丸刈りをし、この動画撮影現場へ向ったものだろう。この一連の行動だけでも、大人が見聞きすれば稚拙だと判断すべきだったのではないだろうか。
撮影前におそらく尋ね知った前段を踏まえ、彼女を取り巻く大人達は動画を撮影し、Youtubeに流した。この撮影への事前打診について、秋元氏はわたしが知っていれば止めていたと否定していたが、わたしは決してそうは思わなかった。プロデューサーの権限は現場の権限よりも重いからである。つまり、現場での判断ではなく、許可をもって世間に流したと見るべきではないだろうか。
彼女の行動に、秋元氏は苦渋をにじませた発言をしているが、総括として、わたしには自己都合な詭弁な発言にしか聞こえてはこない。恋愛を禁止とした故に、報じられた彼女の奇行と結末が全てを物語っている。
丸刈りの姿を動画で流し、反省している様を世間に見聞きさせ、恋愛報道の火消しをする。これらは、管理放棄の何者でもない。その上で、審議し降格させ、カツラをかぶらせて今ではステージで歌わせる寛容な対応ぶりだが、クビにする事をしなかった事も管理放棄への責任回避の一旦だろう。
ぎりぎりのラインで見せる寛容さとズルさ。巨大アイドル組織を作った本人が、今では管理放棄と見て取れる発言をしているのだから、無節操極まりない。人の噂も75日というが、このことわざどおりの選択を、彼自身行い自身の立場をただ単に保身しただけのように見えてくる。
このグループにのめり込んでいる人たちは、直接アイドルのライブやコンサートへと足を運び、CDやDVDを購入し、まるでタニマチ感覚で支援している気持ちに等しいと思う。わたしは、それでファンが幸せだと思えるなら、趣味趣向の一環としてそれでいいと思っている。
ただ、客観的にこの全体的構図を想像した時、見えてくるのが、このグループの背後にいる穢れた大人達だ。ファンのアイドル支援は、結果巡り巡り、秋元康氏らの取り巻きの大人達を巨漢に太らせているだけだ。
ファンを愉しませる事は、自身の実入りに直結しているわけだから、スキャンダルも利用する事など惜しんではいないだろう。だから動画を流すことを選んだと推察している。アイドルの保護よりも、波及効果による自身の実入りを優位にした結果の選択だと見ている。
歌謡業界において今も昔も変わらない本質が、このようなヤクザが作った路線だ。少女達を気持ちよくさせながら、結果稼いだ銭をくすねるのだ。それをビジネスと呼び行商している点である。そして、大きく変わった路線こそ、昔にはあった銭を稼ぐアイドルを、金の卵として大切に扱わなくなった事ではないだろうか。
秋元氏が発言した『万策尽き果てた』とは、なかなか知性溢れるかっこいい響きだが、彼の指す万策とは、彼女たちの保護ではなく、自身の保身を意味している事に直結していると、少し頭を使えば察知できるだろう。
秋元康氏についての個人的見解は、知性溢れる保身に満ちた気色の悪いデフレ時代の象徴たる大人の一人だとわたしは感じている。