「白洲正子能面学」と「面打ち」

白洲正子著「能面」を定本として、現在各能楽宗家、美術館、博物館、神社等に所蔵されている能面を面打ちも含めて研究してみる

「白洲正子能面学」と「面打ち」-019

2014-11-01 09:59:37 | 日記
  
  
 
 
白洲正子能面学」と「面打ち
                                        
 -019
 
 
 
 
 
 
 
 
 
能舞台
 
 
 
出立と能衣装 
 
 
            袷法被肩上                  裳着胴                 狩衣肩上衣紋付
        (あわせはっぴかたあげ            (もぎどう)              (かりぎぬかたあげえもんつけ) 
 
                         
 
 
 一つの役であっても出立にはバリエーションがある。 「出立」には流儀によって、あるいは<小書き>という特殊演出の場合も、通常とは出立が異なる場合がある。それ以外のバリエーションとして、「船弁慶」の後シテ・平知盛の場合、上記のような3種類の形がある。
 
 
 
 
 
について
 
 
尉面
 
 
 
 
 
朝倉尉
 
 
朝倉尉 ・ 江戸時代中期 ・ 金春宗家伝来 ・ 東京博物館
 
 
 
朝倉尉>は先回も紹介しましたが、一般的には福来石王兵衛が仕えていた越前・朝倉候に、この面を献上したところから、それを記念して名付けられた尉の面とされている。唯、中村保雄氏・「能面」の記述には、この信憑性は揺るぎかねません。福来の活躍していたのは、南北朝の騒乱時代であり、その頃は朝倉候は未だ越前を一国を領する状態ではなかったようである。
 
朝倉候の近くには越前織田庄(おたのしょう)があり、その子孫である織田信長が幸若舞を好んでいたこともあり、越前には能を育む文化が存在したことは間違いないであろう。朝倉義景は室町末期の人であるので、時代的にずれがある。唯、越前猿楽福来座の太夫が面を朝倉敏景に寄進し、朝倉義景の代になって観世家へ贈ったとなれば矛盾はないとされます。
 
 
 
朝倉尉 ・ 井伊家所蔵 ・ 作者不詳
 
 
 
朝倉尉>の名の由来には別なものもある。 それは「八島」の本文に「朝くらや木の丸どのにあらばこそ、名乗りをしても行かまし」の本歌である<新古今集>の歌、「朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」によって名付けられた面である。現在でも観世・宝生流は「八島」の前シテにこの面を使っている。この歌に見える朝倉は筑前の地名であるとしている。 
 
以上、 中村保雄氏・「能面」からの説を紹介した。
 
 
 
 
朝倉尉 ・ 内藤家所蔵 
 
  
 
 
 
 
 喫茶店でちょっと一服
 
 
  
 
 
 
 面袋デザイン
-その1
 
 
 
 
面袋 
 
 
 
 
能面には能面を保管する「面袋」「面当て」「面箱」「面箪笥」などの付属物がある。その中で一般的なものが<面袋>である。見た目にも素晴らしい作品が多い。通常能装束や西陣織のような高級な着物の破布を使う。 中には高級な布団生地の掛け布団の一部を使って、面袋にする場合もある。また、無地の布を使用する場合など多種類ある。
 
筆者が実際見たものでは、北近江のある能装束を製作している業者が、面袋専用の生地を織り、それを使用して面袋を受注販売している場合もある。通常市販の業者の面袋は5.000~10.000円程度であるが、特注は25.000円と値段が一挙に跳ね上がる。使用する絹糸の質が格段に違うのである。丈夫なことこの上もない。なにせ三味線の弦に用いる高級品である。
 
 
いろいろな面袋の意匠図案 
 
                                      
 
亀甲紋 
 
 
 
 
 
 
能衣装の図案の意匠も様々な形態がある。花、紋、自然界のあらゆる形を図感化している。その中に紋章というものがる。伝統ある家柄には古来から伝承された紋章が連綿とその家固有のものとして伝えられている。紋章を見てすぐにその家系が特定できる。当然、面袋の中にもその紋章を織り込んでいるものがある。これによりその中に収められている面の作者が特定できない場合には、有力な手がかりとなる。
 
 
 面袋デザイン
-その2
 
亀甲紋
 
 
この亀甲紋は神紋といわれ出雲大社、巌島神社、香取神宮などで使われている特別な扱いをされている紋である。その1・・で紹介した亀甲紋の意匠は狩衣に使用されていた。
 
 
三つ盛亀甲に花菱 
 
 
 
筆者は偶然ある能面が収められていた面袋に眼を留めた。その面の作者が分らなかったからである。江戸時代中期の作であることは分っていた。面袋の意匠はこの「三つ盛亀甲に花菱」であり、数種類の色で亀甲が織り込まれていた。いろいろと調べていく内に意外な事実がわかった。今回はその謎解きをして見よう。 
 
 
 亀甲紋は神社などで多用されるほか、有力な武士階級の用いる紋章でもある。その中に戦国時代の近江武将・浅井一族が有った。そしてこの「三つ盛亀甲紋」は浅井長政一代の家門であることが分った。ということであれば、その面袋の持ち主は浅井長政縁の方であろうか・・・・・・・亀甲は古代中国の北方を守る神・玄武を表している。浅井長政は北の守り神・玄武に武運を願ったのであろう。 
 
 
 
 
京極竜子三つ盛亀甲紋
 
 
京都市新京極にある浄土宗西山深草派の総本山・誓願寺は天智天皇6年(667)に創建され、鎌倉初期に京都に移転し、慶長2年(1597)に、秀吉の側室・松の丸(京極竜子)の援助で再興された。 この寺の寺紋が<三つ盛亀甲紋>である。
 
誓願寺
 
 
 
 筆者がたまたま眼にした面袋の意匠はこの誓願寺とおなじ<三つ盛亀甲紋>であった。 この紋章を黄土色、白、青でデザインされていた。
 
京極竜子の母は浅井長政とは叔父と姪の間柄になる。浅井氏が織田信長との戦いで滅亡した後、信長の妹・お市の方と浅井長政との間に生まれたの三姉妹・茶々、初、江らを養育した女性として知られている。誓願寺の<三つ盛亀甲紋>は、戦乱に消えて無くなった母の生家浅井氏を慕った、京極竜子がもたらしたものかもしれないとされている。
 
面白いことに京極家の本家の紋は<余つ目結び>である。
 
 
 
また、京極家の分家は<丸に四つ目結び>となっている。
 
 
ここにも京極竜子の浅井氏に対する深い配慮と思い入れが有るのかもしれない。
 
 
余談であるが、浅井氏が起こったのは、近江(東浅井郡丁野)である。筆者は2年ほどの間、浅井長政の産湯の井戸が在ったところが現在神社になっているが、その傍に住んでいた。 其処には素晴らしい十一面観音坐像がお宮に祀られている。偶然にこの紋章に興味を持ったが、何か因縁を感じてならない。
 
 
  
 
 
 
古典能装束の紹介 
 
 
 
唐織 
 
 
 
 
井伊家所蔵・ 唐織
 
 
 
変わり桧垣に唐扇散らし文様紅入厚板唐織 
 
 
 
 
 
段に菊花流し文様紅入唐織 
 
 
 
 
 
段に桧垣薄牡丹文様紅入唐織
 
 

 

   

 

狂言面

 

恵比寿
 
山本 東次郎 家所蔵
 
恵比寿 ・ 伝 河内家重作 ・桃山時代 
 
 
 
先回ご紹介した作者不詳の「恵比寿」よりも、力強い迫力を感じる。 桃山時代の作にも拘らず、鼻の頭の面ズレ以外には、損傷は観られず保存状態が非常に良い。河内の真作かは分らないが、癖のない良い作品である。 
 
 
 
 

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