能舞台
阿漕
後シテ ・阿漕の亡霊
水衣 着流 痩男 出立
面 ・ 河津
三光尉
三光尉 ・ 三光坊作 梅若猶義家所蔵
三光坊作の面で、時代的には室町時代末期頃の創作面であったものが、出目家の祖である三光坊が打った面であるから「三光尉」となったようである。また、別の説には・・・この老人の面の相が三光・(日神/月神/星神)に相応しい光を受けて作られた尉面であるから、三光尉となった・・・がある。
朝倉尉
相貌は三光尉は朝倉尉に似ているが、頬や額に描かれた皺が数多くしかも分厚く、朝倉尉よりも一層粗野で庶民的です。親しみ易い感じで品格にやや欠けるので朝倉尉と同じ使い方をする。上懸かり(かみがかり)の観世流、宝生流では朝倉尉を用い、下懸かりの金春、金剛、喜多流では三光尉を用いる。
三光尉
尉面の庶民性は<小牛尉>、<朝倉尉>、<三光尉>、<笑尉>の順位で強くなる。
三光尉 ・ 近江井伊家所蔵
三光尉 ・ 池田家伝来
江戸時代に入る辺りから、能は大名家の式楽になったが、それに伴い面打師も世襲面打家が出来始め、その代表的なものが「出目家」である。その中で筆頭に当たるのが、三光坊を擁する<越前出目家>である。近江、越前は現在もそうであるが、能面師のメッカである。近江は仏像は全国でも有名な地であるが、能面師が多いのは仏師との関係があるのかもしれない。
<三光坊>は本名を千秋 満広といい、十作中の夜叉の系統を引く能面師である。越前平泉寺に出家後、比叡山に移り、更に醍醐寺長勝院(最勝院)に住し、天文元年(1532年)に逝去した。 <三光尉>は三光坊の名を取ったものである。三光坊の甥に次郎左衛門満照は「越前出目家」の開祖。弟子には近江井関家の親信、大光坊幸賢・・・(大野出目家の祖)がおり、江戸時代の職業能面師の家系はすべて三光坊から出ている。
* 「大野出目家」の出自には、越前出目家と近江出目家の二通りの説がある。大光坊光賢の説は鈴木慶運である。
袴
上着の下に付ける装束の最後は「大口」。素材は生絹で、色は緋色・白色などが一般的である。袴は裾が大きく広がった硬い布で作った。無地が基本で身分の高い女性を表す。
大口
上着
「摺箔」、「縫箔」の上に着る
上着には<唐織> <長絹> <水衣>の種類がある。
<唐織>はここ数回ご紹介してきた能衣装である。下記「古典能装束」でも紹介。唐織は女性役の能装束の代表的な豪華な装束である。地織に金糸で文様を織り込んで、横糸の色糸で花鳥の文様を浮織した錦の小袖である。
唐織着流紅入出立
シテ ・ 熊野
このような金糸が入った唐織は17世紀以降に織られるようになった。 唐織は役の年齢や、シテ(主役)、ツレ(脇役)の役によって分けられる。紅入(いろいり)は若い女のやく。紅無(いろなし)は中年・老女である。
シテの場合は唐織の地色が金色や大きな市松模様、地色が一色で通し柄(段とよぶ)はツレである。
唐織の代表的な着方で<着流し>があり、摺箔の上に袴を付けずに唐織を着る。
紅白段替 枝垂桜御所車 唐織 白地 小葵菱 摺箔
面 ・ 若女
古典能装束の紹介
唐織
秋草に扇子散らし文様紅入唐織
井伊家所蔵能装束
「狂言面」
恵比寿 ・ (白色)
「恵比寿」の登場する狂言は「夷大黒」、「夷毘沙門」の二曲ある。いずれも「天照大神より三番目の弟、夷三郎」と名乗っている。「夷」とは本来異人を指す。元は荒ぶる神であったようだ。
恵比寿 ・ 作者不詳 ・ 山本東次郎家所蔵
造作は目元が三日月眼に見えるが、実際は瞳をきいてある。白目の部分を黒く彩色してある。 口の左右と下顎に三個の「えくぼ」がある。また、目尻の先に切れ上がった深い溝を彫ってある。その勢いが笑顔を豊かにしている。
夷毘沙門天
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