田原総一朗 ①
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田原総一朗(たはら そういちろう、1934年4月15日 - )は、日本のキャスター、ジャーナリスト、元テレビディレクター、元映画監督である。
滋賀県彦根市出身。滋賀県立彦根東高等学校を経て、早稲田大学第二文学部(夜間部)に入学するが、1955年に中退後、同大学第一文学部に再入学、卒業。大学時代は小説家志望であった。
日本交通公社、DP屋、業界新聞集配所、学習塾経営などをへて、1960年に岩波映画製作所入社。
1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、現在も語り継がれる名作『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。
1977年に退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、1987年「朝まで生テレビ!」の司会をつとめたことから、政治関係の番組のTVキャスターとして活躍するようになり、現在に至る。
また、早稲田大学大隈塾塾頭も務める。
目次 [非表示]
1 東京12チャンネル勤務からフリーへ
2 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
3 その他
4 著書
5 訳書
6 TVドキュメンタリー
7 関連項目
8 外部リンク
[編集] 東京12チャンネル勤務からフリーへ
東京12チャンネル勤務時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していた小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦らのTBSのドキュメンタリー番組、などが主流であった。当時、開局したばかりの「東京12チャンネル」は、インディーズ的存在であった。逆にそれを逆手にとって「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。(この手法は、原一男に引き継がれている。)
ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔の著作『風雲ジャズ帖』所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
また、田原の著書『私たちの愛』によると、上記の山下の件以外にも、以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していたという。
ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。
役者・高橋英二がガンで半年の余命しかないと発覚。さらに右腕を切断しないとならないとなり、その手術の場面を撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、やはり死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるシーンまで撮影した。
全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。その余興として花嫁が列席者全員とセックスをすることとなる。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女をセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映されたが、レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の愛人)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。
上記のエピソードをもとに、水道橋博士は著書『本業』において、田原を「日本で初めて[要出典]のAV男優である」(浅草キッドと田原の対談「濃厚民族」に詳しい)と、面白おかしく評した。ビートたけしはその事実を知り、「田原って、あの政治の田原?うそつけ」と驚いた。なお、同書『本業』には、田原の言葉として「原一男は俺の作品の助監督だったんだよ」と記載されている。だが、当時の原一男は確かに、田原の影響を受けてその周辺にはいたが、正式な「助監督」だったことはない。
以下は原一男との対談からのエピソード
「『わたしたちは……』~カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが実際は、彼女は母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山修司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。
役者「高橋英二」をとりあげた作品について。彼は、『七人の刑事』に何度か出演し、三島由紀夫の『黒蜥蜴』でもいい役をもらった、若手有望俳優だった。最初のシーンは国立がんセンターの病室だが、取材拒否されたため、内緒で撮影した。腕の切断手術シーンは撮りたかったが、取材拒否されて撮影できなかった。手術直後に、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んで強姦しようとしたが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも撮影した。彼は「余命半年」と言われたが、実際は1年半生きた。
「出発(その1)~少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。
ATG映画にて、1971年、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。同映画のADが、後に『ゆきゆきて、神軍』の監督となる原一男であったと、よく誤解されるが、実際は原は助監督を熱望したが、かなえられなかった。
上記の映画は、最初は、羽仁五郎の『都市の論理』を原作にして、ドキュメンタリー映画を撮ろうと企画していた。
加納典明が演じた役は、田原は当初は、日大全共闘の議長の秋田明大に演じさせる予定であったが断られた。そのため、スティール担当として企画に関わっていた加納を、苦肉の策で起用した。
桃井かおりが演じた役は、清水邦夫が「ニンフ的な少女がいい」ということで、当初は、結城アンナ(岩城滉一夫人)や、仁科亜季子が候補であった。だが、いずれにも断られ、チーフ助監督の尾中洋一が探してきた桃井かおりを候補にしたところ、彼女の祖母は「日本のモダンバレエの草分け」だとわかり、「企画」担当の葛井欣士郎が若い頃モダンバレエをやっていたことから、「あの桃井先生の孫だ!」ということで、彼女に決定した。
チーフ助監督の尾中洋一によると、劇映画初体験の田原は、「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたら、ある夜、遠くに田原が行き、「ばかにするな-」と叫んだ。だが、撮影資金も乏しく、短期間で製作する必要があったため、そのまま田原を無視して撮影は続いた。
また「羽昨の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーンがあるが、警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。これは「田原的ドキュメンタリー手法も少しは取り入れないと」と、尾中が気を遣ったという。なお、プロの役者である石橋蓮司や緑魔子は、「無能な監督・田原」に怒っていたという。
なお、「共同監督」のはずの清水邦夫は、ほとんど現場にこず、東京の舞台で行われた「リハーサル」を演出したたけだった。
つまり、この映画は、実質「尾中陽一監督作品」なのである。だが、当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、いくら現場で無能で役にたたない存在であっても、田原と清水はスポンサーであった。そのため、原一男が1993年に尾中にインタビューするまで、この「事実」は隠されていたのだという。
田原は文春でのインタビューの影響から田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の一つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
この時代のノンフィクションの代表作である、「原子力潜水艦むつ」問題を扱った、「原子力戦争」(1976) はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また田原は発表時脅迫されたという。
なお、この著書「原子力戦争」では、従来の田原ドキュメンタリー番組と同様に、関連する底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者などに取材した。だが、実際にものごとを決めているのは、「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となった作品になったと、後に原一男に語っている。
田原が東京12チャンネルを退職した直後に出した著書『翔べ田原総一朗』(創世社 1977年)の帯には、以下のような推薦文が書かれていた。(当時の田原が、いかに高く評価されていたかが、わかる。)
野坂昭如「田原総一朗氏の文章に触れるたび、わが眼力衰えたるかなと、妙な繰り言をつぶやきたくなる。そして田原の存在をささえとして、衰えたなりに目をつぶることを、やめようと自らに言いきかせるのだ。」
井上ひさし「誠実さと途方もない視野の広さを、田原総一朗はあわせ持っている。彼ほどまともな、堂々たる論客は、この国にはとても少ないのだ。これからも彼の「正論」にわれわれは、多くのことを教えられるだろう。」
当時の田原のノンフィクションの興味は、企業や政治以外に、最先端科学も対象であった。近年の著書では科学関係のものは少なくなっているが、2006年に、『RNAルネッサンス 遺伝子新革命」という本を出していることからもわかるように、いまだに科学に興味を持ち続けているようだ。
その後、執筆活動を経て、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』の討論コーナーの司会や、同局の『朝まで生テレビ!』の司会などを務める。
[編集] 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
『朝まで生テレビ!』では、「初めから司会をしようなんて思っていない。僕は討論をぶっ潰すつもりでやっている」と主張。またタブーに切り込むという方針で天皇制や原発、被差別問題をいち早く取り上げた。同番組内で「メディアは権力だ」との批判に対し、メディアは権力と言うより、むしろ大衆に迎合している側面が強いと言った主旨の発言をしている(大学時代の後輩である筑紫哲也も前出の岡留安則と雑誌で対談した際に同様の発言をして田原を擁護している)。そのほかにも四宮正貴に対して「聖徳太子知ってる?」などと発言、四宮正貴が激怒した。
主張の節々において、日本国民を信用し過ぎている側面が見受けられ、討論相手に対して「(貴方の発想は)国民を馬鹿にしている」と批判する事例が多い。2005年9月の総選挙において自民党を大勝させてしまった国民諸氏の問題点を、論客の数名が指摘しつつも、同年11月放送の『朝まで生テレビ!』では、「今度の選挙だって一人一人が考えてると思うよ、勿論。国民、馬鹿じゃないからね」と発言。2006年1月放送の同番組では、民主党所属の菅直人が、評論家・大宅壮一の唱えた「一億総白痴」を肯定した際、嫌悪感を露わに非難している。結果、特定の有力者や有力団体に対しては舌鋒鋭いものの、国民全体に対しては「問題がある」等の苦言を呈する程度に留まり、批判力が弱まっている感は否めない。
『サンデープロジェクト』では菅直人の年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付。また小泉純一郎当時首相の国会答弁により菅の冤罪が確定。ただし、当時の厚生労働省の最高責任者たる厚生大臣は菅自身であっため、社会保険庁の過失という事実が判明後もほとんど報道されなかった。)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。
しかし、田原自身に年金未納期間(1977年2月~9月)があったことが発覚。翌週、番組において謝罪。
日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(所謂官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり田原も番組内でこれを認めた(当時の官房長官は加藤紘一)。またこれ以前に写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。
筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また前出の岡留安則と雑誌で対談した際には「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。
番組の取り仕切り方に関しては賛否両論ある。『朝まで生テレビ』にパネラーとして出演したある海外メディアの特派員は週刊誌のインタビューで「司会者というよりも支配者として(番組を)仕切っている」と批判する一方で、政治家の加藤紘一は、「この番組は政治家にとって非常に出るのが怖い番組なんですよ」と番組内で発言。こうした批判に対し田原は、本音に迫ることの効用の高さを評価している。
田原は小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしはとらえている」と雑誌で発言した。
政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて総理の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、やります、やるんですとの言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。
田原は番組内で野党側に対し、「野党は反対ばかり」「対案を出せ」「だから政権がとれない」と批判しているが、日本大学の岩井奉信教授の研究によると、内閣提出法案に対する野党の賛成率は55年体制時の社会党が約7割、共産党が約4割と高い。また現在の民主党においては、社会党以上の賛成率を記録しており、田原の批判は事実と異なる(ただし、当の野党第一党である民主党議員は自覚している旨の発言をしている事が多々ある)。しかしながら国会においては客観的にみて当然のごとく賛成される法案も多く、それらを除いた民主党の賛成率はかならずしも高いとはいえない。(それらの法案に対して執拗に反対する民主党以外の野党の存在をうかがわせるという面もある。)
2000年に小渕恵三首相が番組にブッチホンして総理の単独会見は認められないと記者クラブから抗議された。(その一方で同じく小渕首相が電話出演した日本テレビはお咎めなしだった)
[編集] その他
近江商人の末裔を称している。
小学生時代は、海軍軍人になることを希望していた。
よく、田原総一朗の「朗」を「郎」と間違われている。
18歳の時、新制高校に入学した際、体制の変化に伴い、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければ、この世は生きていけない」という人生訓を得た。
かつては作家中山千夏らの左派政党革新自由連合に関っていたこともある。
中山千夏らとの関わりで永六輔とも親しかったが、石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と公言した事がきっかけで石原を嫌う永から絶縁され、以来現在にいたるまで不仲。
娘:田原敦子は、『世界の車窓から』、『徹子の部屋』のプロデューサーである。(その関係もあってか、『徹子の部屋』には何度か出演している)
妻は元日本テレビアナウンサーの田原節子。愛妻家として知られ、妻がガンと宣告された時・亡くした時と二度自殺を考えたという。現在でも遺骨を墓地に埋葬せず、自宅に保管している。
著書「私たちの愛」にて、「妻とはダブル不倫の末に(当時いた双方の配偶者と離婚した後)結婚。」とある。
メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。
前述のように田原は当初「噂の真相」に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だがそういった状況になっても両者の接触はたびたびあり、田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。
『2ちゃんねる』管理人西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。この為、2ちゃんねるの暴走を奨励していたとして、批判派から徹底批判されている。
株式会社ドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
東海中学校・高等学校で行われるサタデープログラムで、プロフィールを事細かに紹介した。
ムハハnoたかじんで入れ歯であることを告白し、放送中に入れ歯を外すという予想外の行動に出た。
青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持っている。
国会議員の立候補依頼もあったようで田原曰く「血の小便出すような辛いことはいやだ。」と断ったそうだ。
元衆・参議院議員(日本社会党所属)の上田哲は高校時代の英語の講師で、恩師に当たる。
よど号事件実行犯、田中義三の友人葬で「田中さんは華々しく闘い『戦死』したと私は思っている」と述べた。
中央公論2007年2月号に「私の仕事場」がグラビア見開き頁で紹介されている。部屋にはテレビだけでPCは無い。原稿は手書きである。
司会において結論ありきで進行する印象があるが、本人は議論を決め付けたことは無いらしい。ただし、そのことをパネリストから言われ「だったら帰れ!」などというふうに切って捨てることが番組で時々おこる。言行不一致という意識はないらしい。
2007年9月23日放送の『クイズ$ミリオネア』に出演。クイズ番組への登場はこれが初めて。同じく初めて出演したおすぎとともに、番組側からの5年に及ぶ交渉の末の出演だった。応援には古くからの友人である田中康夫が駆けつけた。
夜間学部の早大第二文学部在学中、昼間は日本交通公社(現JTB)で働いていた。
「田原総一朗のタブーに挑戦! [1]」というポッドキャストの番組をしている。
[編集] 外部リンク
田原監督と私 ドキュメンタリー作家時代の田原についての、原一男のインタビュー。
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 滋賀県出身の人物 | 日本のジャーナリスト | 日本の評論家 | 1934年生
最終更新 2008年4月3日 (木) 13:31。Wikipedia®
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田原総一朗(たはら そういちろう、1934年4月15日 - )は、日本のキャスター、ジャーナリスト、元テレビディレクター、元映画監督である。
滋賀県彦根市出身。滋賀県立彦根東高等学校を経て、早稲田大学第二文学部(夜間部)に入学するが、1955年に中退後、同大学第一文学部に再入学、卒業。大学時代は小説家志望であった。
日本交通公社、DP屋、業界新聞集配所、学習塾経営などをへて、1960年に岩波映画製作所入社。
1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、現在も語り継がれる名作『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。
1977年に退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、1987年「朝まで生テレビ!」の司会をつとめたことから、政治関係の番組のTVキャスターとして活躍するようになり、現在に至る。
また、早稲田大学大隈塾塾頭も務める。
目次 [非表示]
1 東京12チャンネル勤務からフリーへ
2 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
3 その他
4 著書
5 訳書
6 TVドキュメンタリー
7 関連項目
8 外部リンク
[編集] 東京12チャンネル勤務からフリーへ
東京12チャンネル勤務時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していた小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦らのTBSのドキュメンタリー番組、などが主流であった。当時、開局したばかりの「東京12チャンネル」は、インディーズ的存在であった。逆にそれを逆手にとって「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。(この手法は、原一男に引き継がれている。)
ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔の著作『風雲ジャズ帖』所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
また、田原の著書『私たちの愛』によると、上記の山下の件以外にも、以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していたという。
ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。
役者・高橋英二がガンで半年の余命しかないと発覚。さらに右腕を切断しないとならないとなり、その手術の場面を撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、やはり死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるシーンまで撮影した。
全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。その余興として花嫁が列席者全員とセックスをすることとなる。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女をセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映されたが、レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の愛人)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。
上記のエピソードをもとに、水道橋博士は著書『本業』において、田原を「日本で初めて[要出典]のAV男優である」(浅草キッドと田原の対談「濃厚民族」に詳しい)と、面白おかしく評した。ビートたけしはその事実を知り、「田原って、あの政治の田原?うそつけ」と驚いた。なお、同書『本業』には、田原の言葉として「原一男は俺の作品の助監督だったんだよ」と記載されている。だが、当時の原一男は確かに、田原の影響を受けてその周辺にはいたが、正式な「助監督」だったことはない。
以下は原一男との対談からのエピソード
「『わたしたちは……』~カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが実際は、彼女は母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山修司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。
役者「高橋英二」をとりあげた作品について。彼は、『七人の刑事』に何度か出演し、三島由紀夫の『黒蜥蜴』でもいい役をもらった、若手有望俳優だった。最初のシーンは国立がんセンターの病室だが、取材拒否されたため、内緒で撮影した。腕の切断手術シーンは撮りたかったが、取材拒否されて撮影できなかった。手術直後に、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んで強姦しようとしたが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも撮影した。彼は「余命半年」と言われたが、実際は1年半生きた。
「出発(その1)~少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。
ATG映画にて、1971年、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。同映画のADが、後に『ゆきゆきて、神軍』の監督となる原一男であったと、よく誤解されるが、実際は原は助監督を熱望したが、かなえられなかった。
上記の映画は、最初は、羽仁五郎の『都市の論理』を原作にして、ドキュメンタリー映画を撮ろうと企画していた。
加納典明が演じた役は、田原は当初は、日大全共闘の議長の秋田明大に演じさせる予定であったが断られた。そのため、スティール担当として企画に関わっていた加納を、苦肉の策で起用した。
桃井かおりが演じた役は、清水邦夫が「ニンフ的な少女がいい」ということで、当初は、結城アンナ(岩城滉一夫人)や、仁科亜季子が候補であった。だが、いずれにも断られ、チーフ助監督の尾中洋一が探してきた桃井かおりを候補にしたところ、彼女の祖母は「日本のモダンバレエの草分け」だとわかり、「企画」担当の葛井欣士郎が若い頃モダンバレエをやっていたことから、「あの桃井先生の孫だ!」ということで、彼女に決定した。
チーフ助監督の尾中洋一によると、劇映画初体験の田原は、「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたら、ある夜、遠くに田原が行き、「ばかにするな-」と叫んだ。だが、撮影資金も乏しく、短期間で製作する必要があったため、そのまま田原を無視して撮影は続いた。
また「羽昨の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーンがあるが、警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。これは「田原的ドキュメンタリー手法も少しは取り入れないと」と、尾中が気を遣ったという。なお、プロの役者である石橋蓮司や緑魔子は、「無能な監督・田原」に怒っていたという。
なお、「共同監督」のはずの清水邦夫は、ほとんど現場にこず、東京の舞台で行われた「リハーサル」を演出したたけだった。
つまり、この映画は、実質「尾中陽一監督作品」なのである。だが、当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、いくら現場で無能で役にたたない存在であっても、田原と清水はスポンサーであった。そのため、原一男が1993年に尾中にインタビューするまで、この「事実」は隠されていたのだという。
田原は文春でのインタビューの影響から田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の一つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
この時代のノンフィクションの代表作である、「原子力潜水艦むつ」問題を扱った、「原子力戦争」(1976) はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また田原は発表時脅迫されたという。
なお、この著書「原子力戦争」では、従来の田原ドキュメンタリー番組と同様に、関連する底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者などに取材した。だが、実際にものごとを決めているのは、「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となった作品になったと、後に原一男に語っている。
田原が東京12チャンネルを退職した直後に出した著書『翔べ田原総一朗』(創世社 1977年)の帯には、以下のような推薦文が書かれていた。(当時の田原が、いかに高く評価されていたかが、わかる。)
野坂昭如「田原総一朗氏の文章に触れるたび、わが眼力衰えたるかなと、妙な繰り言をつぶやきたくなる。そして田原の存在をささえとして、衰えたなりに目をつぶることを、やめようと自らに言いきかせるのだ。」
井上ひさし「誠実さと途方もない視野の広さを、田原総一朗はあわせ持っている。彼ほどまともな、堂々たる論客は、この国にはとても少ないのだ。これからも彼の「正論」にわれわれは、多くのことを教えられるだろう。」
当時の田原のノンフィクションの興味は、企業や政治以外に、最先端科学も対象であった。近年の著書では科学関係のものは少なくなっているが、2006年に、『RNAルネッサンス 遺伝子新革命」という本を出していることからもわかるように、いまだに科学に興味を持ち続けているようだ。
その後、執筆活動を経て、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』の討論コーナーの司会や、同局の『朝まで生テレビ!』の司会などを務める。
[編集] 朝まで生テレビ!/サンデープロジェクト
『朝まで生テレビ!』では、「初めから司会をしようなんて思っていない。僕は討論をぶっ潰すつもりでやっている」と主張。またタブーに切り込むという方針で天皇制や原発、被差別問題をいち早く取り上げた。同番組内で「メディアは権力だ」との批判に対し、メディアは権力と言うより、むしろ大衆に迎合している側面が強いと言った主旨の発言をしている(大学時代の後輩である筑紫哲也も前出の岡留安則と雑誌で対談した際に同様の発言をして田原を擁護している)。そのほかにも四宮正貴に対して「聖徳太子知ってる?」などと発言、四宮正貴が激怒した。
主張の節々において、日本国民を信用し過ぎている側面が見受けられ、討論相手に対して「(貴方の発想は)国民を馬鹿にしている」と批判する事例が多い。2005年9月の総選挙において自民党を大勝させてしまった国民諸氏の問題点を、論客の数名が指摘しつつも、同年11月放送の『朝まで生テレビ!』では、「今度の選挙だって一人一人が考えてると思うよ、勿論。国民、馬鹿じゃないからね」と発言。2006年1月放送の同番組では、民主党所属の菅直人が、評論家・大宅壮一の唱えた「一億総白痴」を肯定した際、嫌悪感を露わに非難している。結果、特定の有力者や有力団体に対しては舌鋒鋭いものの、国民全体に対しては「問題がある」等の苦言を呈する程度に留まり、批判力が弱まっている感は否めない。
『サンデープロジェクト』では菅直人の年金未納問題に絡む代表辞任騒動の討論で、自身の過失ではなく、行政の過失(後に武蔵野市が菅に謝罪の書面を送付。また小泉純一郎当時首相の国会答弁により菅の冤罪が確定。ただし、当時の厚生労働省の最高責任者たる厚生大臣は菅自身であっため、社会保険庁の過失という事実が判明後もほとんど報道されなかった。)から年金未納期間が生じた菅を激しく非難。民主党代表辞任を決定的とした。
しかし、田原自身に年金未納期間(1977年2月~9月)があったことが発覚。翌週、番組において謝罪。
日本共産党が公表した宮澤内閣時代の内閣官房報償費(所謂官房機密費)の会計記録で田原が香典代として5万円を受け取っていたことが明らかになり田原も番組内でこれを認めた(当時の官房長官は加藤紘一)。またこれ以前に写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)で100万円単位で内閣官房報償費を受け取っていた疑惑を報道された。田原はこれを否定しているが、真相は未だ不明。
筑紫哲也の著書『ニュースキャスター』によると田原は「(番組を)引退をしようにも後を継げる人がいないから(番組を)続けるしかない」と発言をしている。また前出の岡留安則と雑誌で対談した際には「倒れるまで番組を続ける」趣旨の発言をしている。
番組の取り仕切り方に関しては賛否両論ある。『朝まで生テレビ』にパネラーとして出演したある海外メディアの特派員は週刊誌のインタビューで「司会者というよりも支配者として(番組を)仕切っている」と批判する一方で、政治家の加藤紘一は、「この番組は政治家にとって非常に出るのが怖い番組なんですよ」と番組内で発言。こうした批判に対し田原は、本音に迫ることの効用の高さを評価している。
田原は小泉首相と拉致被害者家族会とのやり取りをテレビで見ながら『2ちゃんねる』の反応を見て「これで世論が変わる」「マスコミのミスリードにいら立っていた人々が、『2ちゃんねる』と同様の反応をしたのだと、わたしはとらえている」と雑誌で発言した。
政治改革関連法案の可否をめぐり自民党が紛糾していた1993年「総理と語る」にて総理の宮澤喜一に対し執拗な挑発を行い、やります、やるんですとの言質を取ったが、政治家改革関連法案が廃案にされると、そのインタビューの模様が何度も放映され、宮澤が退陣に追い込まれるきっかけを作った。
田原は番組内で野党側に対し、「野党は反対ばかり」「対案を出せ」「だから政権がとれない」と批判しているが、日本大学の岩井奉信教授の研究によると、内閣提出法案に対する野党の賛成率は55年体制時の社会党が約7割、共産党が約4割と高い。また現在の民主党においては、社会党以上の賛成率を記録しており、田原の批判は事実と異なる(ただし、当の野党第一党である民主党議員は自覚している旨の発言をしている事が多々ある)。しかしながら国会においては客観的にみて当然のごとく賛成される法案も多く、それらを除いた民主党の賛成率はかならずしも高いとはいえない。(それらの法案に対して執拗に反対する民主党以外の野党の存在をうかがわせるという面もある。)
2000年に小渕恵三首相が番組にブッチホンして総理の単独会見は認められないと記者クラブから抗議された。(その一方で同じく小渕首相が電話出演した日本テレビはお咎めなしだった)
[編集] その他
近江商人の末裔を称している。
小学生時代は、海軍軍人になることを希望していた。
よく、田原総一朗の「朗」を「郎」と間違われている。
18歳の時、新制高校に入学した際、体制の変化に伴い、戦時下とは180度異なった「正義」を語る教師たちに不信感を抱く。「何事も自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければ、この世は生きていけない」という人生訓を得た。
かつては作家中山千夏らの左派政党革新自由連合に関っていたこともある。
中山千夏らとの関わりで永六輔とも親しかったが、石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と公言した事がきっかけで石原を嫌う永から絶縁され、以来現在にいたるまで不仲。
娘:田原敦子は、『世界の車窓から』、『徹子の部屋』のプロデューサーである。(その関係もあってか、『徹子の部屋』には何度か出演している)
妻は元日本テレビアナウンサーの田原節子。愛妻家として知られ、妻がガンと宣告された時・亡くした時と二度自殺を考えたという。現在でも遺骨を墓地に埋葬せず、自宅に保管している。
著書「私たちの愛」にて、「妻とはダブル不倫の末に(当時いた双方の配偶者と離婚した後)結婚。」とある。
メディアの公共性のあり方が問われている中で、田原は「いかに視聴率を上げるかが自分の役割だ。『いい番組なら視聴率が悪くてもいい』というのは、絶対に通用しない」とあえて視聴率至上主義を公言している。
前述のように田原は当初「噂の真相」に連載を持っていたが、後に両者の意見の相違が生じ、同誌の批判の俎上に田原が上がることも珍しくなくなった。田原への批判としてよく使われる「電波芸者」と言う言葉も、同誌が最初につけたと言われている。だがそういった状況になっても両者の接触はたびたびあり、田原と岡留の対談は同誌発行中も休刊後も行われている。
『2ちゃんねる』管理人西村博之と雑誌「サイゾー」で対談をしたことがある。その対談の中で田原は『2ちゃんねる』に対し礼賛に近い発言をしている。この為、2ちゃんねるの暴走を奨励していたとして、批判派から徹底批判されている。
株式会社ドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
東海中学校・高等学校で行われるサタデープログラムで、プロフィールを事細かに紹介した。
ムハハnoたかじんで入れ歯であることを告白し、放送中に入れ歯を外すという予想外の行動に出た。
青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持っている。
国会議員の立候補依頼もあったようで田原曰く「血の小便出すような辛いことはいやだ。」と断ったそうだ。
元衆・参議院議員(日本社会党所属)の上田哲は高校時代の英語の講師で、恩師に当たる。
よど号事件実行犯、田中義三の友人葬で「田中さんは華々しく闘い『戦死』したと私は思っている」と述べた。
中央公論2007年2月号に「私の仕事場」がグラビア見開き頁で紹介されている。部屋にはテレビだけでPCは無い。原稿は手書きである。
司会において結論ありきで進行する印象があるが、本人は議論を決め付けたことは無いらしい。ただし、そのことをパネリストから言われ「だったら帰れ!」などというふうに切って捨てることが番組で時々おこる。言行不一致という意識はないらしい。
2007年9月23日放送の『クイズ$ミリオネア』に出演。クイズ番組への登場はこれが初めて。同じく初めて出演したおすぎとともに、番組側からの5年に及ぶ交渉の末の出演だった。応援には古くからの友人である田中康夫が駆けつけた。
夜間学部の早大第二文学部在学中、昼間は日本交通公社(現JTB)で働いていた。
「田原総一朗のタブーに挑戦! [1]」というポッドキャストの番組をしている。
[編集] 外部リンク
田原監督と私 ドキュメンタリー作家時代の田原についての、原一男のインタビュー。
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最終更新 2008年4月3日 (木) 13:31。Wikipedia®