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古文入試出典  4位 【宇治拾遺物語:①~⑩】

2008-08-15 12:40:51 | 18 ◎調べもの古典文庫
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

【宇治拾遺物語:①~⑩】

宇治拾遺物語 の検索結果 約 3万8300 件中 1 - 10 件目

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宇治 物語
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宇治拾遺物語 - Wikipedia宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)は、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集である。編著者は未詳。 ... 『宇治拾遺物語』は、1213年(建保元年)から1221年(承久三年)頃にかけて成立したらしい。序文では、この説話集の成立の経過 ...
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宇治拾遺物語このページは,宇治拾遺物語を楽しんで勉強してもらうために作ったものです。主に,学校での授業を中心に考えています。 授業の為の予習・復習に使っていただけるといいでしょう。 ・作者AND作品に関する文学史へ · ・「児のそら寝(児とかいもちひ」 ...
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宇治拾遺物語宇治拾遺物語. 高校時代、宇治拾遺物語の序と巻第一を現代語訳したものです。 序. ↑宇治拾遺物語が、どのようにして出来たのか. 巻第一. 一、道命阿闍利、和泉式部のもとで経を読み、それを五条の道祖神が聴聞した事 ...
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Amazon.co.jp: 宇治拾遺ものがたり (岩波少年文庫): 川端 善明: 本日本の児童文学・名作 · 全書・叢書 · 説話物語:古事談,発心集,宇治拾遺物語,今物語,十訓抄,古今著聞集,撰集抄,沙石集,雑談集 この本は、それぞれの上記のテーマに含まれています。 フィードバック. カタログ情報を更新するまたはイメージに対するお ...
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Amazon.co.jp: 宇治拾遺物語 (角川ソフィア文庫): 中島 悦次: 本いわるゆ説話集はたくさんあるが, 文章の良さは宇治拾遺物語が一番。今昔物語と重複している物と比較しても明らか。筆者は宇治拾遺物語に「憑り付 ... ここから出発して, 今昔, 霊異記, 古本説話集等に進んだが, 旅行にもって行くのは, 宇治拾遺物語。 ...
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宇治拾遺物語宇治拾遺物語. 目 次 PDF A4 8枚 まず、こちら(目次)でお探しのお話の掲載巻をご確認ください。 御覧になられない方は、下段よりアドビリーダーを入手してください。 巻一 A4 10枚, 巻二 A4 10枚, 巻三 A4 10枚. 巻四 A4 7枚, 巻五 A4 6枚, 巻六 A4 7枚 ...
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宇治拾遺物語 - Wikisource世に宇治拾遺物語といふ物あり。 此大納言は隆国といふ人なり。 西宮殿の孫俊賢大納言の第二の男なり。 年たかうなりては。 あつさをわびていとまを申て。 五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山ぎはに南泉房といふ所に籠りゐられけり。 さて。 ...
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勉誠出版 --陽明文庫蔵 重要美術品 宇治拾遺物語絵巻本書の特色◆歴代の近衞家当主により守られてきた陽明文庫秘蔵の文化財の中から、美術的・文学的価値を有する『宇治拾遺物語絵巻』を取り上げ、原本の全部分をフルカラーで影印。探幽をはじめとする狩野三兄弟による美しい絵画表現、特別に誂えられた多種 ...
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宇治拾遺物語とは - はてなダイアリー宇治拾遺物語 - 鎌倉時代の説話集。編者未詳。 新編日本古典文学全集 (50) 宇治拾遺物語 作者: 小林保治, 増古和子 出版社/メーカー: 小学館 発売日: 1996/06 メディア: 単行本.
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宇治拾遺物語(国史大系) 1/15_Taiju's Notebook大よそ【よそ、原作かう、今從一本】(*「一本」は『宇治拾遺物語私註』の本文を指すと原本「凡例」にいう。あるいは「大かた」かと云う。この段に「大かた」の用例は多い。)山へ行ぬ。雨風はしたなくて(*激しくて)歸におよばで(*原文「をよば ...
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尾上菊五郎 (6代目)

2008-08-15 12:40:21 | 18 ◎調べもの古典文庫
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  ブログ版


尾上菊五郎 (6代目)

六代目尾上菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう、明治18年(1885年)8月26日 - 昭和24年(1949年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。俳名 三朝 屋号 音羽屋 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる菊吉時代を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言えば、ほとんどの場合この菊五郎を指す。

目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 六代目菊五郎と桃屋の花らっきょう
3 寺島ベースボールクラブ(T.B.C)
4 菊五郎の掛け声
5 関連項目



[編集] 来歴・人物
五代目尾上菊五郎の子で、本名は寺島幸三。1886(明治19)年5月東京千歳座で尾上幸三の名で初舞台。まだ乳飲み子で中村伝五郎に抱かれてのお目見得であった。尾上丑之助を経、父の死後、九代目市川團十郎の後援で1901(明治36)年3月東京歌舞伎座で六代目尾上菊五郎を襲名。大正時代、吉右衛門とともに市村座(下谷区二長町)で活躍し、菊吉時代・二長町時代を築いた。世話物と舞踏に優れ、家の芸として五代目の新古演劇十種を引き継いだ。吉右衛門の脱退後、市村座を支えたがまもなく歌舞伎座に移った。

昭和24年(1949年)4月東横劇場『盲長屋梅加賀鳶』の道玄に出演中眼底出血で倒れ、自宅療養の甲斐なく7月没。同年11月、歌舞伎界で初めて文化勲章を受章した。

立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』、『道成寺』などの娘役の舞踊を得意としていた。身体は比較的大柄だったが、通常より大きな大道具を使用することにより、可憐さを表現する手法を確立した。ただし菊五郎家伝来の怪談物は得意とせず、父の当たり役の『四谷怪談』のお岩は一度しか演じていない。体質的に近代風の芸であった。だから尊敬する俳優は九代目団十郎や初代中村鴈治郎など新しい芸を開拓する先輩たちであった。

近代的な解釈を取り込むことに意欲的で、『野崎村』のお光では幕切れに久作にとりついて泣き崩れる型を考案した。『堀川』の与次郎ではそのリアルな演技に、共演した二代目実川延若は「ほんまにうまい。けど、西洋の活動役者と共演したような気分だす。」と評している。(戸板康二『歌舞伎 ちょっといい話』より)

当たり役は非常に多く、時代物では『忠臣蔵』の勘平、師宣、お軽・『義経千本桜』の権太、忠信、知盛・『寺子屋』の松王、源蔵・『源平布引滝』の実盛・『妹背山婦女庭訓』のお三輪・『鏡山』の岩藤・『源太勘当』の平次・『反魂香』の八重垣姫・『鬼一法眼三略巻・菊畑』の虎蔵・皆鶴姫・『勧進帳』の義経・『義経腰越状』の五斗兵衛・『先代萩』の政岡、仁木弾正・『摂州合邦辻』の玉手など。


世話物は前述の『野崎村』のお光・『傾城反魂香』の又平・『三人吉三』のお嬢吉三・『加賀鳶』の道玄、梅吉・『助六』の花川戸助六・『水天宮利生深川』の幸兵衛・『河内山と直侍』の直次郎・『曽我模様侠御所染』の御所の五郎蔵、『梅雨小袖昔八丈』の新三、『青砥稿花紅彩画』の弁天小僧。

舞踊では前述の『藤娘』・『道成寺』・『羽根の禿』・『年増』・『船弁慶』・『関の扉』の墨染・『吉田屋』の伊左衛門・『吉野山』の忠信・『春興鏡獅子』・『棒しばり』の太郎冠者・『身代座禅』の山陰右京。

新作では『巷談宵宮雨』(宇野信夫 作)の龍達・『一本刀土俵入』(長谷川信 作)の駒形茂兵衛・『息子』(小山内薫 作)の金次郎など、枚挙に限りがない。

特に『春興鏡獅子』は、小津安次郎の監督によって記録映画に残され、その至芸を今日に伝えている。またジャン・コクトーは来日時に菊五郎の『鏡獅子』を見て感動し、のち『美女と野獣』を作るきっかけとなった。

長男は二代目尾上九朗右衛門、長女・久枝は十七代目中村勘三郎の妻となり、十八代目中村勘三郎を、次女・多喜子は六代目清元延寿太夫の妻となり、当代の七代目清元延寿太夫を産んだ。当代延寿太夫の次男は歌舞伎役者の二代目尾上右近である。七代目尾上梅幸は養子である。


[編集] 六代目菊五郎と桃屋の花らっきょう
六代目菊五郎は桃屋の花らっきょうが好物だった。それを物語るのが臨終間際のエピソード。六代目は「桃屋の花らっきょうが食べたい…」と消え入るような声で呟いた。これを聞いた東京劇場の支配人は東京中を探したが見つからなかった(当時は戦後の混乱で砂糖が統制下であり、当時の桃屋の社長が「肝心の砂糖がないなら作らない方がいい!!」と一時生産休止を決定していたため)。仕方なく他社のらっきょう漬を買って届けたが、彼は口にするなり「こりゃ、桃屋の花らっきょうじゃない! 普通のらっきょうだ! 下げろ!」といい後は見向きしないまま逝った。


[編集] 寺島ベースボールクラブ(T.B.C)
宝塚に公演に来た際に、すぐ側のグラウンドで練習をしていた宝塚運動協会を見て大の野球好きとなり、自身の本名を冠した「寺島ベースボールクラブ(T.B.C)」を結成。音羽屋は常に主役でなくてはならない、と主将・エースで四番。しかし打ち込まれた場合に挽回してくれる救援投手と、失点を挽回してくれる強打者の助っ人を導入した。六代目は福沢諭吉に可愛がられ慶應びいきだったため、慶應OBを中心に三宅大輔、小野三千麿、新田恭一、小西得郎ら、そうそうたるメンバーがバックを守った。





[編集] 菊五郎の掛け声
歌舞伎役者が出ると大向こうから掛け声が起こる。たとえば菊五郎は「音羽屋」の屋号であるが、別の掛け声もあり二代目市川左團次は「大統領」とかけられた。菊五郎は1930(昭和5)年に後継者養成機関として日本俳優学校を創設したため「校長先生」と声がかかった。あとで「高島屋は大統領なのに、俺は校長先生かい。」と苦笑した。


[編集] 関連項目
歌舞伎
俳優
菊吉爺

カテゴリ: 1885年生 | 1949年没 | 歌舞伎役者 | 文化勲章受章者

最終更新 2008年3月7日 (金) 09:06。 Wikipedia®

南方熊楠 神社合祀に関する意見

2008-08-15 12:17:36 | 18 ◎調べもの古典文庫
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  東京大学

神社合祀に関する意見   【3万5000字】
南方熊楠



 最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。
 (1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)、(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)、(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。
 神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減ずるを得。また神社には基本財産積立法を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積せしむ、とあり。つまり神職もなく、財産、社地も定まらざる廃社同前のもの、また一時流行、運命不定の淫祠、小祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしめんと力(つと)めたるもののごとし。
 しかるにこの合祀令の末項に、村社は一年百二十円以上、無格社は六十円以上の常収ある方法を立てしめ、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり。祭典は従来氏子人民好んでこれを全うし、崇敬も実意のあらん限り尽しおれり。ただ規定の常収ある方法を新たに立てて神社を保存せんとするも、幾年幾十年間にこの方法を確立すべしという明示なく、かつ合祀の処分は、一にこれを府県知事の任意に任せ、知事またこれを、ただただ功績の書上(かきあげ)のみを美にして御褒美に預らんとする郡長に一任せしより、他方の官公吏は、なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧めたるも、金銭は思うままに自由ならず。よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事となし、社格の如何(いかん)を問わず、また大小と由緒、履歴を問わず、五百円積まば千円、千円積まば二千円、それより三千円、和歌山県ごときは五千円、大阪府は六千円まで基本財産を値上げして、即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印せしむ。
 むかし孔子は、兵も食も止むを得ずんば捨つべし。信は捨つべからず、民(たみ)信なくんば立たず、と言い、恵心僧都は、大和の神巫(みこ)に、慈悲と正直と、止むを得ずんばいずれを棄つべきと問いしに、万止むを得ずんば慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲ならずとも、他に慈悲を行なう力ある人よくこれをなさん、正直を捨つる時は何ごとも成らず、と託宣ありしという。俗にも正直の頭(こうべ)に神宿ると言い伝う。しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状(かんじょう)なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。かく上下を一挙に欺騙(ぎへん)する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表(せいひょう)するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり。
 拙見をもってすれば、従来神恩を戴き神社の蔭で衣食し来たりし無数の神職のうち、合祀の不法を諤議(がくぎ)せるは、全国にただ一人あるのみ。伊勢四日市の諏訪神社の社司生川(なるかわ)鉄忠氏これなり。この人、四十一年二月以降の『神社協会雑誌』にしばしば寄書して、「神社整理の弊害」を論ぜる、その言諄として道理あり。今その要を撮し、当時三重県における合祀の弊害を列挙せん。いわく、従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり、得るところは十社を一社に減じたるのみ。いわく、従来大字ごとになし来たれる祭典、合祀後は張り合いなし、するもせぬも同じとて全く祭典を廃せる所多し。いわく、合祀されし社の氏子、遠路を憚り、ことごとく合祀先の社へ参り得ざるをもって、祭日には数名の総代人を遣わすに、多勢に無勢で俘虜降人同然の位置に立つをもって、何のありがたきことなく早々逃げ帰る。言わば合祀先の一大字のみの祭典を、他の合祀されたる諸大字が費用を負担する訳になり、不平絶えず。いわく、合併社趾の鬱蒼たりし古木は、伐り払われ、売られ、代金は疾(と)くに神事以外の方面に流通し去られて、切株のみ残りて何の功なし。古木などむやみに伐り散らすは人気を荒くし、児童に、従来あり来たりし旧物一切破壊して悔ゆることなかるべき危険思想を注入す。いわく、最も不埒なるは、神殿、拝殿等、訓令の制限に合わぬ点を杉丸太で継ぎ足し、亜鉛葺き等一時弥縫(びほう)をなし、いずれ改造する見込みなり、当分御看過を乞う等で、そのまま放置する。いわく、多年等閑に付し来たれる神社を、一朝厳命の下に、それ神職を置け、基本金を積めと、短兵急に迫られし結果、氏子周章(しゅうしょう)、百方工夫して基本金を積み存立を得たるも、また値上げ、また値上げとなり底止(ていし)するところを知らず。造営までなかなか手が届かぬを定規(ていき)に背くとて無理に合祀するは苛刻(かこく)もはなはだし矣。いわく、神官の俸給を増し与えたりとて、即刻何の効験、化育の功績も目に見えるほど挙がらず。従前と変わりしこともなければ、氏子また策を運らし、俸給を定規より少なく神職に与え、ないよりは増しだろう、ぐずぐず言わば合祀するぞ、と今度は氏子より神職を脅し、実際は割引で与えながら規定の俸給を受けおるような受取証を書かすこと。熊楠いわく、むかしより伊勢人は偽り多しと言うので、仮作の小説たるを明示するため『伊勢物語』と言う書題を設けたと申す。まことに本家だけあって、三重県の御方々(おんかたがた)には格別の智恵がある、和歌山県に行なわるる合祀の弊害はことごとく生川氏の指摘せるところに異ならぬが、神職の俸給を割引して受取書を偽造させるようなものは、いまだ和歌山県に聞き及ばず。しかし、追い追いは出で来るならん。生川氏、結論にいわく、右のごときはただ埒明的(らちあきてき)合祀にて、神社の整理か縮少か将(はた)破壊か、かかる神社と神職とに地方自治の中枢たらんことを望むは間違いもはなはだし、これを神道全体の衰頽と言うべしと断ぜられたるは、まことに末(すえ)を見透せし明ありと嘆息の外なし。
 かくて三重県に続いて和歌山県に合祀の励行始まり、何とも看過しがたきもの多きより、熊楠諸有志と合祀反対の陣を張り、地方および京阪の新聞紙をもってその説を主張すること年あり。明治四十三年三月二十三日、同志代議士中村啓次郎氏衆議院において一場の質問演説をなし、次に四十四年三月三十日大臣官房において、中村氏、平田〔東助〕内相と面会し、熊楠撮(と)り置ける紀州諸名社濫滅名蹟亡滅の写真を示してこのことを論じたるのち、内相よりその年の貴族院にても中村氏同様の質問盛んに起これる由を承知し、また内相も中村氏と同一意見を持し、一時に基本金を積ましめ一村一社の制を励行するを有害と認むれば、四月の地方官会議に再び誤解なからしむるよう深く注意を加うべし、と約束さる。(この四月の地方官会議に多少の訓示ありしは、白井氏、前日井上神社局長より得たる秘密書類の写しで明らかなり。ただし少しも実行されず。)そののち聞くところによれば、四十三年六月ごろ、基本財産完備せずとも維持の見込み確実なる諸神社は合祀に及ばずと令ありしとのことながら、地方郡役所へは達しおらず。さて合祀は年を逐うて強行さる。その結果、去年十二月十九日と今年一月二十日の『読売新聞』によれば、在来の十九万四百社の内より、すでに府県社五、郷社十五、村社五千六百五十二、無格社五万千五百六十六、計五万七千二百三十八社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社一、郷社十二、村社三千五百、無格社一万八千九百、計二万二千四百十三社あり。残れる十一万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多ければ、本年度より地方官を督励して一層これを整理し、また一方には神社境内にある社地を整理せしむべし、とその筋の意嚮を載せたり。また当局は、合祀によって郷党の信仰心を高め、おびただしく基本金を集め得たる等、その効果著し、と言明する由を記せり。
 そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩(そうとう)滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併(らんぺい)、もっとも酷(ひど)く行なわれたるぞ珍事なる。すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、果たして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹(み)るなり。
 よってその九牛の一毛を例示せんに、西牟婁郡川添村は、十大字(おおあざ)、九村社、五無格社、計十四社を滅却伐木して市鹿野(いちがの)大字の村社に合祀し、基本金一万円あるはずと称せしに、実際神林を伐り尽し、神殿を潰し、神田を売却して、得たるところは皆無に近かりし証拠は、この神殿が雨風のために破損を生じ、雨洩りて神体を汚すまでも久しく放置し、神職を詰(なじ)るに、全く修繕費金なしとのことなり。
 また日高郡上山路(かみさんじ)村は、大小七十二社を東(ひがし)大字の社に合併し、小さき祠(ほこら)はことごとく川へ流さしむ。さて神体等を社殿へ並べて衆庶に縦覧せしめけるに、合祀を好まぬ狂人あり、あらかじめ合祀行なわるれば必ず合祀社を焼くべしと公言せしが、果たしてその夜、火を社殿に放ち、無数の古神像、古文書、黄金製の幣帛(へいはく)、諸珍宝、什器、社殿と共にことごとく咸陽(かんよう)の一炬(いっきょ)に帰す。惜しむべきのはなはだしきなり。むかし水戸義公は日本諸寺社の古文書を写させ、水災を虞(おそ)れて一所に置かず、諸所に分かち置かれしという。金沢文庫、足利文庫など、いずれも火災少なき辺土に立てられたり。件(くだん)の上山路村の仕方は、火災の防ぎ十分ならぬ田舎地方の処置としては、古人の所為に比してまことに拙き遣方(やりかた)とやいわん。さて焼けたる諸社の氏子へ一向通知せず、言わば神社が七十二も焼けたるは厄介払いというような村吏や神職の仕方ゆえ、氏子ら大いに憤り、事に触れて、一カ月前にも二大字合従(がっしょう)して村役場へ推しかけ荒々しき振舞いありし。件の社の焼跡へ、合祀されたるある社の社殿を持ち来たり据えたるに、去年秋の大風に吹き飛ばされ、今に修覆成らず。人心合祀を好まず、都会には想い及ばざる難路を往復五、六里歩まずば参り得ぬ所ゆえ、大いに敬神の念を減じ、参らぬ神に社費を納めぬは自然の成行きなり。
 熊野は本宮、新宮、那智を三山と申す。歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を踰(こ)えて、一歩三礼して御参拝ありし。後白河帝が、脱位ののち本宮へ御幸三十二度の時御前にて、
  『玉葉』   忘るなよ雲は都を隔つともなれて久しき三熊野の月
 巫祝(みこ)に託して、神詠の御答えに、
暫くもいかが忘れん君を守(も)る心くもらぬ三熊野の月
 また後鳥羽上皇は、本宮焼けてのちの歳の内に遷宮(せんぐう)侍りしに参りあいたまいて、
  『熊野略記』 契りあらば嬉しくかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空
 万乗の至尊をもって、その正遷宮の折にあいたまいしを、かくばかり御喜悦ありしなり。しかるに、在来の社殿、音無(おとなし)川の小島に在(おわ)せしが、去る二十二年の大水に諸神体、神宝、古文書とともにことごとく流失し、只今は従来の地と全く異なる地に立ちあり。万事万物新しき物のみで、露軍より分捕の大砲など社前に並べあるも、これは器械で製造し得べく、また、ことにより外国人の悪感を買うの具とも成りぬべし。
 これに反し、流失せし旧社殿跡地の周囲に群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝、名相、忠臣、勇士、貴嬪(きひん)、歌仙が、心を澄ましてその下に敬神の実を挙げられたる旧蹟、これぞ伊勢、八幡の諸廟と並んでわが国の誇りともすべき物なるを、一昨夏神主の社宅を造るとて目星(めぼし)き老樹ことごとく伐り倒さる。吾輩故障を容れしに、氏子総代、神主と一つ穴で※言(ようげん)揚々として、むかしよりかかる英断の神官を見ず、老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とする利益おびただしとて、その時伐採り見て哭(な)きし村民を嘲ること限りなし。その神主は他国の馬骨で、土地に何の関係なければ惜し気もなくかかる濫伐を遂げ、神威を損じ、たちまち何方へか転任し、今日誰が何と小言吐くも相手なければ全く狐に魅(つま)まれしごとし。その前にも本宮の神官にして、賽銭か何かを盗み、所刑(しょけい)されし者あり。あるいは言わん、衣食足りて礼を知り、小人究すれば濫するは至当なり。賽銭を盗み、神林を伐りて悪くば、神官に増俸すべし、と。これ取りも直さず、世道の標準たるべき神聖の職にある人が、みずからその志操を忘却して乞盗に儔(たぐ)うるものなり。平田篤胤が世上の俗神職の多くを謗(そし)りて、源順朝臣が『倭名抄』に巫覡(ふげき)を乞盗部に入れたるを至当とせるを参考すべし。
 次に新宮には、ちょうど一昨年中村氏が議会へこのことを持ち出さぬ前にと、万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖高倉下命(たかくらじのみこと)を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く。さてこの合祀に引き続き、この新宮の地より最多数すなわち六名の大逆徒を出し、その輩いずれも合祀の最も強く行なわれたる三重と和歌山県の産なるは、官公吏率先して破壊主義と悖逆(はいぎゃく)の例を実示せるによる、と悪評しきりなり。大逆管野某女が獄中より出せる状に、房州の某処にて石地蔵の頭を火炙(ひあぶ)りにせしが面白かりし由を記せるなど考え合わすべし。
 ことに苦々しきは、只今裁判進行中の那智山事件にて、那智の神官尾崎とて、元は新宮で郡書記たりし者が、新宮の有力家と申し合わせて事実なき十六万円借用の証文を偽造し、一昨年末民有に帰せる那智山の元国有林を伐採し尽して三万円の私酬を獲んと謀り、強制伐木執行に掛かる一刹那検挙されたるにて、このこともし実行されなば那智滝は水源全く涸れ尽すはずなりしなり。この他に熊野参詣の街道にただ一つむかしの熊野の景色の一斑を留めたる大瀬の官林も、前年村民本宮に由緒ありと称する者に下げ戻されたり。二千余町歩の大樹林にて、その内に拾(ひら)い子(こ)谷(だに)とて、熊野植物の模範品多く生ぜる八十町長しという幽谷あり。これも全くの偽造文書を証拠として山林を下げ戻されたるにて、只今大阪から和歌山県に渉り未曽有の大獄検挙中なり。これらはいずれも神社合祀の励行より人民また神威を畏れず、一郡吏一村役人の了見次第で、古神社神領はどうでもなる、神を畏るるは野暮の骨頂なり、われも人なり、郡村吏も人なり、いっそ銘々に悪事のありたけを尽そうではないかという根性大いに起これるに出づ。
 むかし京都より本宮に詣るに、九十九王子とて歴代の諸帝が行幸御幸の時、奉幣祈願されし分社あり。いずれも史蹟として重要なる上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物たり。しかるにその多くは合祀で失われおわる。一、二を挙げんに、出立(でたち)王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この上皇関東討滅を熊野に親しく祈らんため、御譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷(ごしょたに)と申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻(ゆまき)、襁褓(むつき)などを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字(かしらじ)を集めて八立稲(やたていね)神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、他大字と絶交し一同社費を納めず、監獄へ入れると脅すも、入れるなら本望なり、大字民七十余戸ことごとく入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙りし神社を潰すような神職は畜生にも劣れりとて、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からず。よって懲らしめのため神社跡地の樹林を伐り尽さしめんと命ぜしも、この神林を伐ればたちまち小山崩れて人家を潰す上、その下の官道を破るゆえ、事行なわれず。ついに降参して郡衙(ぐんが)より復社を黙許せり。
 





。今では前後雑糅、県庁も処分に持て余しおるなり。かかれば到底合祀の好結果は短日月に見るを得ざる、そのうちに人心離散、神道衰頽、罪悪増長、鬱憤発昂、何とも名状すべからざるに至らんことを杞憂す。
 結局神社合祀は、内、人民を堕落せしめ、外、他国人の指嘲を招く所以(ゆえん)なれば、このこといまだ全国に普及せざる今日、断然その中止を命じ、合祀励行で止むを得ず合祀せし諸社の跡地完全に残存するものは、事情審査の上人民の懇望あらばこれが復旧を許可し、今後新たに神社を建てんとするものあらば、容易に許可せず、十二分の注意を加うることとし、さてまことに神道興隆を謀られなんには、今日自身の給料のために多年奉祀し、衣食し来たれる神社の撲滅を謳歌欣喜するごとき弱志反覆の俗神職らに一任せず、漸をもってその人を撰み、任じ、永久の年月を寛仮し規定して、急がず、しかも怠たらしめず、五千円なり一万円なり、十万、二十万円なり、その地その民に、応分に塵より積んで山ほどの基本財産を積ましめ、徐々に神職の俸給を増し、一社たりとも古社を多く存立せしめ、口先で愛国心を唱うるを止めて、アウギュスト・コムトが望みしごとく、神職が世間一切の相談役という大任に当たり、国福を増進し、聖化を賛翼し奉ることに尽力※瘁(きょくすい)するよう御示導あらんことを為政当局に望むなり。
 右は請願書のようなれど、小生はかかる永たらしき請願書など出すつもりなし。何とぞ愛国篤志の人士が一人たりともこれを読んでその要を摘み、効目(ききめ)のあるよう演説されんことを望む。約は博より来たるというゆえ、心中存するところ一切余さず書き綴るものなり。


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底本:「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」河出文庫、河出書房新社
   1992(平成4)年3月10日初版発行
   1992(平成4)年5月15日再販発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第七巻」平凡社
入力:r.sawai
校正:鈴木伸吾
ファイル作成:野口英司
1999年8月18日公開
2001年7月16日修正
青空文庫作成ファイル:












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日野強  新疆所感

2008-08-06 23:28:18 | 18 ◎調べもの古典文庫
新疆所感                本文4500字
日野強



 予が嘉峪関をこえて新疆を横断し、カラコルム山脈を超越しおわりしまでに費したる日数、約三百日、その間親しく天山山脈に沿う高原を視察し、タリム河に瀕する平野を踏査して、耳聞目睹したる結果は、五十八万方マイルの大宝庫、古来蛮雲のとざす所となりて、空しく草莱(そうらい)に委し、二百万の生霊、なお瘴烟(しょうえん)の裡に包まれて、いたずらに混沌として睡眠するの憐むべき情態にあると同時に、新疆の運命すこぶる悲観すべきものあるに想到し、うたた感慨に堪えざるなり。請う少しくその理由を説かん。
 おもうに新疆の命脈は、一にイリによりて繋がれ、イリは実に新疆の胴腹にさしたる一楔木にしてその死活を左右す、この楔木一たび他国の握る所となり、もって深く新疆の臓腑をえぐらば、新疆あに全きをえんや。清廷が特に将軍をイリに駐紮せしめて、辺防に任ぜしむるゆえんのものは、もとより偶然にあらず。しかるに露国は野心を中央アジアに逞うせんと欲するここに年あり、いやしくも機会の乗ずべき、口実の藉(か)るべきあらば、ただちにこれを捉うるに躊躇することなく、これがためにはあらゆる手段と方法とを講じて、着々その目的に向いて邁進し、また寸壌尺地の微といえどもこれを等閑に付することなし。新疆の如きまた彼が多年垂涎する所にして、これがためには新疆の死命を制しある伊犂を併呑するのもっとも捷路たるべきは、彼がすでに看破したる所ならざらんや。往年露国が回教徒の騒乱に乗じて、イリ一帯の地方を占領し、後里瓦斉亜(リワヂヤ)条約を訂結するに際し、種々の条件を提出して、占領地の還付を快諾せざりしは、たまたま、もって露国の伊犂に対する野心の存する所をみるに足るべし。当時リワヂヤ条約の批准に反対したる左宗棠が奏議中、左の一節あり。いわく、『さきに中国、露国と相接せず、蒙古、カザク、ブルト、コーカンドをもって遮蔽間隔をなせしに、露国は種々の口実を設けて、彼等を誘惑し、ついにこれを領有し、ますます辺境を開拓して、中国と相接し、また隔絶する所なきにいたれり。道光の中葉以降、泰西各国の船舶、中国の近海に横行し、後、長江に闖入(ちんにゅう)せりといえども、その求めんと欲する所は、通商口岸の一事に過ぎず、何ぞあえて土地を利せんとするにあらんや。ひとり露国はわずかに天山の北幹を隔てて、前にジェンガルおよび回部と雑居せるカザク、ブルト、コーカンド等のを見て、もってすでにその有とす』云々。露国の隠謀を道破してあまりありというべし。李鴻章の如きは、露国の仮装的強硬の態度に辟易し、むしろ新疆を放棄して後難を除くの得策たるにしかざるの意見を有せしも左宗棠の烱眼(けいがん)なる、夙に露国の野心を測り知るべからざるを看破し、断然李鴻章等の意見に反対し、『新疆一たび露国の手に帰せんか、甘粛、陝西、山西等の辺防ますます緊要を告げ、直隷また枕を高うするを得べからず。一を守るの勇なきもの、いずくんぞ両三を守るを得んや』と極論して、廟議ついに条約を破棄し、開戦に決せしめたり。露国をしてリワヂヤ条約を修正し、ついにイリ一帯の占領地を清国に還付せしめたるは、当時トルコとの紛擾ありて、多少露国の鋒鋩(ほうぼう)を鈍らしめたるによるといえども、そもそもまた左宗棠の言大に力ありしにあらざらんや。          調べもの文庫(PR)
 しかれども露国の執拗なる、一頓挫のために宿志を放棄するものにあらず、鋭意イリに対する施設経営の歩武を進め、露国の勢力がイリ一帯の地に瀰漫(びまん)しつつあるは、ひとたびイリの地を踏む者の一驚を喫する所なり。たまたま日露戦役において、敗衂(はいじく)の辱をこうむりし結果、多大の障碍を受けて、陽にその鋒鋩を収め、一時慎重の態度を装うといえども陰にその爪牙を磨き、孜々として勢力扶植の道を講じ今や漸次再びその萠芽を発せんとするもの少からざるを覚ゆ。
 なかんずく吾人のもっとも視聴を驚かせしはタシケント地方よりトムスク市に達する鉄道(アルタイ線)布設の計画、いよいよ実行せられんとするの一事なりとす。その鉄道の敷設がイリに如何の関係をおよぼすべきやは、吾人の呶々(どど)するを待たず、露国の有名なる政治家ミハイル、セリホフ氏がその鉄道に関する説明にてこれをつくせり。氏はまずその鉄道の敷設をもって、露領中央アジアにおける殖産興業を啓発し、民衆の移殖を増進するのみならず、また軍事上極めて重要なりとするゆえんを説き、さらに一歩を進めていわく。

 吾人は東方における有事の日、その鉄道は、わが辺境を掩護するため、軍事上決してこれを軽忽に付すべからざるを警告せんと欲す。露骨に表白すれば、その鉄道は露国の国境をして、漸次南方に拡張するがために、極めて須要なるものといわざるべからず。たまたま露清両国の境界をみるに、ただ櫛状の如き山岳もしくは河流をもってするいわゆる机上の理論的境界たるに過ぎずして、確乎たる境界線の設定せられたるものなく、この地方一帯の民族が一定の住所なく、肥沃の地を見れば山嶺をこえて移耕し、土地すでに尽くれば、更に河流を渉りて他に転穡(てんしょく)する、いわゆる[#「いわゆる」は底本では「いわる」]水草をおうて転移しつつあるの現状に徴するも、他日必らず露清の境界に関して、一場の紛擾をかもすべきは予測するに難からず。果してしからば露国が今において、その勢力をこの地方に扶植し、牢として抜くべからざる根柢を培養し、天然的国境を清国領土中の荒漠たる地方に求むるは、ひとり露国のために最大の利益たるのみならず、かくの如き境界にして確定せらるるにいたらば、境界の警備は将来何らの費用と労力とを要せざるを得べし。けだしわが辺境のこと、その基礎すでに確立せば境界線をゴビ地方に推進すること、容易なるべく、かくの如くして始めて枕を高うして安眠するを得べければなり云々。

 これ明らかに露国の野心を暴露して、遺憾なきものにあらずや。もしそれタシケント、トムスク鉄道にして、完成せらるるの暁にいたらば、これすなわちイリの側面を近く脅威せられたるに等しくイリは漸次に露国の侵蝕をこうむるべきは、ほとんど疑いをいれず。いわんやイリ地方は、露領セミレチエンスカヤ州と、イリ河の河盂(かう)によりて連接し露国よりの侵入容易なること、なお黒龍江河盂に沿える満洲に異ならざるにおいてをや。イリの運命あにひとり第二の満洲たらざるを得んや。さらに翻って兵略上より観察せんに、露国もしその首力をイリに進めて新疆を中断し、一支隊をタルバガタイに送りて、西湖を占領し、更に一支隊をザイサン湖方面より出して故城に進め、別働隊をカシガル方向より送り、南北相呼応して新疆を蹂躙(じゅうりん)する有らば、その結果はたして何ぞや。ことに新疆全土の戍兵わずかに六千を越えず、しかも脆弱(ぜいじゃく)恃むにたらず。想うてこれにいたれば、吾人は新疆の運命に関して、喟然長大息せざるを得ず。
 かつて聞く英国陸軍大佐マークベル氏、北京を発して西北漠外に出で、親しくカシガル付近山河の形勝を視察し、嘆じていわく、『天山南北路が支那に属するは迷いなり。順当ならざるなり。支那の戍兵一変ことごとく欧洲式の訓練に熟し、かつ鉄道を陝西以西に連絡せしめたる暁にあらざれば、露国に対抗してその侵入を防止するは絶望なりと』試みに地形上より観察すれば、新疆は清国に属するよりは、むしろ露国領、トルキスタン地方に付随するの至当なるは、何人といえども異議をはさむの余地なかるべきのみならず、その人種より論ずるも、言語、宗教よりみるも、また風俗、習慣より察するも、トルキスタン地方に酷似するを認む。加うるに交通の関係上、およびトルキスタン地方との商業的経済上の関係は、近時ますます、接近の度を増進しきたり、地方の住民は、次第に露人と親しみ、かえって清国に対して反抗せんとするの傾向あるより推論しきたれば、新疆が遠からずして露国の膝下に拝跪するにいたるの日あるべきは、燎々(りょうりょう)火を観るよりも明なり、いわんや露国が鋭意その心血を傾注して、その勢力扶植の策を講じつつあるにおいてをや。おしいかな清国いまだ悟らず、晏然(あんぜん)長夜の昏睡中にあること。
 さらに転じて西南の境土を望めば、崑崙山脈を隔てて英領印度あり。英国がインドを根拠として、つねに露国の中央アジア経綸に対抗し来れるは、一朝一夕の事にあらず。由来パミール高原は、禍機の伏在するの地、しかも新疆と相接壌するが故に、露国が指を新疆に染めんと欲すれば、英国あに黙してやむべけんや。形勢の変化は、もと意外のあたりより急転し来ることあり。現今いまだ危機の切迫せるものあるを見ずといえども、パミール問題忽然としておこらば、新疆もまたその渦中に投入せらるるなきを保すべからず。清国人たる者よろしくいまだ雨ふらざるに戸(ゆうこ)を綢繆(ちゅうびゅう)するを要するとともに、わが国経世の士、また多大の注意を払わずして可ならんや。
 由来南北支那に対して、講究研鑚(けんさん)するの士すくなからざるも、新疆について言及するの人ははなはだまれなるに似たり。これ吾人の切に遺憾とする所にして、識者の一考を煩わさざるを得ず。それ新疆の地たる、わが国と相へだたること数千里の遠きに僻在し、わが国の利害と直接相関するものなきに似たりといえども、等しく清国の領土に属し、その喪失は、老大帝国瓦解の前提たらざるを保すべからず。千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の一穴よりついえ、至堅の框木も一楔木の挿入より裂くるを思わば、いずくんぞ寒心せざるをえんや。事すでにここにいたらば、清国領土の保全を大方針とし、東亜振興の牛耳を握るの帝国は果してこれを対岸の火災視しうべきや否や、識者を待たずして知るべきなり。由来新疆は勿論、西部支那一帯地方の事情を調査するは、極めて緊要の事に属す、しかれども、単にこれを特志者に一任するが如きは、断じて不可なり。よろしく国家の事業として、国庫の資財をもって、大探検隊を組織するか、もしくは政府の保護をもって、公共団体より調査隊を派遣せしめ、広くかつ詳に調査せざるべからず。泰西諸強国は、つねに国家の事業として、あるいは国庫の保護をもって、未開地の探検に従事せしめ、勢力扶植に汲々たるに、帝国ひとり拱手傍観の状あるは、真に千古の遺憾にあらずや。識者もって如何となす。





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底本:「伊犂紀行 第二部 地誌の部」芙蓉書房
   1973(昭和48)年2月28日発行
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:

西郷隆盛遺教 2600字  「南洲翁謫所逸話」  川上孝吉(明治42)年発行

2008-07-23 12:25:42 | 18 ◎調べもの古典文庫
遺教
西郷隆盛



     死生の説

孟子曰ク。殀(エウ)壽不レ貳(ウタガハ)。修メテレ身ヲ以俟ツレ之ヲ。所二以立ツル一レ命ヲ也。(盡心上)

殀壽は命の短きと、命の長きと云ふことなり。是が學者工夫(くふう)上の肝(かん)要なる處。生死の間落着(おちつき)出來ずしては、天性と云ふこと相分らず。生きてあるもの、一度は是非死なでは叶(かな)はず、とりわけ合點(がてん)の出來さうなものなれども、凡そ人、生を惜み死を惡む、是皆思慮分別を離れぬからのことなり。故に慾心と云ふもの仰山(ぎようさん)起り來て、天理と云ふことを覺(さと)ることなし。天理と云ふことが慥(たしか)に譯(わか)つたらば、壽殀何ぞ念(ねん)とすることあらんや。只今生れたりと云ふことを知て來たものでないから、いつ死ぬと云ふことを知らう樣がない、それぢやに因つて生と死と云ふ譯(わけ)がないぞ。さすれば生きてあるものでないから、思慮分別に渉ることがない。そこで生死の二つあるものでないと合點(がてん)の心が疑はぬと云ふものなり。この合點が出來れば、これが天理の在り處にて、爲すことも言ふことも一つとして天理にはづることはなし。一身が直ぐに天理になりきるなれば、是が身修ると云ふものなり。そこで死ぬと云ふことがない故、天命の儘(まゝ)にして、天より授かりしまゝで復(かへ)すのぢや、少しもかはることがない。ちやうど、天と人と一體と云ふものにて、天命を全(まつた)うし終(を)へたと云ふ譯なればなり。

(按)右は文久二年冬、沖永良部島牢居中、孟子の一節を講じて島人操坦勁に與へたるものにて、今尚ほ同家に藏す。

     一家親睦の箴(いましめ)


翁、遠島中、常に村童を集め、讀書を教へ、或は問を設けて訓育する所あり。一日問をかけて曰ふ、「汝等一家睦(むつ)まじく暮らす方法は如何にせば宜しと思ふか」と。群童對(こた)へに苦しむ。其中尤も年長(た)けたる者に操(みさを)坦勁と云ふものあり。年十六なりき。進んで答ふらく、「其の方法は五倫五常の道を守るに在ります」と。翁は頭を振(ふ)つて曰ふ、否々(いな/\)、そは金看板(きんかんばん)なり、表面(うはべ)の飾(かざ)りに過ぎずと。因つて、左の訓言を綴(つゞ)りて與へられたりと。

此の説き樣は、只當(あた)り前の看板のみにて、今日の用に益なく、怠惰(たいだ)に落ち易し。早速(さつそく)手を下すには、慾(よく)を離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、一家擧げて共にし、衣服を製(つく)るにも、必ず善きものは年長者に讓(ゆづ)り、自分勝手(じぶんがつて)を構(かま)へず、互に誠を盡すべし。只慾(よく)の一字より、親戚の親(したしみ)も離るゝものなれば、根據(こんきよ)する處を絶(た)つが專(せん)要なり。さすれば慈愛自然に離れぬなり。

     書物の蠧(むし)と活學問(くわつがくもん)


明治二年、翁は青年五人を選び、京都の陽明學者春日潜庵(かすがせんあん)の門に遊學せしむ。五人とは伊瀬知(いせぢ)好成(後の陸軍中將)、吉田清一(同上)、西郷小兵衞(翁の弟)、和田正苗、安藤直五郎なり。其時翁は吉田に告げて曰ふ。

貴樣(きさま)等は書物の蠧(むし)に成つてはならぬぞ。春日(かすが)は至つて直(ちよく)な人で、從つて平生も嚴(げん)な人である。貴樣等修業に丁度(ちやうど)宜しい。

と、又伊瀬知に告げて曰ふ。

此からは、武術許(ばか)りでは行けぬ、學問が必要だ。學問は活(い)きた學問でなくてはならぬ。其れには京都に春日と云ふ陽明學者がある、其處に行つて活きた實用の學問をせよと。

     私學校綱領(かうりやう)


一 道を同(おなじう)し義相協(かな)ふを以て暗(あん)に集合せり、故に此理を益研究(けんきう)して、道義に於ては一身を不レ顧ミ、必ず踏(ふみ)行ふべき事。
一 王を尊び民を憐(あはれ)むは學問の本旨。然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向(ひたすら)難(なん)に當り、一同の義を可キレ立ツ事。
(按)翁の鹿兒島に歸るや、自分の賞典祿を費用に當てゝ學校を城山の麓(ふもと)なる舊廐(うまや)跡に建て、分校を各所に設け專ら士氣振興を謀れり、右綱領は此時學校に與へたるものなり。





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底本:「西郷南洲遺訓」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月2日第1刷発行
   1985(昭和60)年2月20日第26刷発行
底本の親本:「絶島の南洲」内外出版協會
   1909(明治42)年10月20日発行
   「南洲翁謫所逸話」川上孝吉
   1909(明治42)年2月27日発行
※底本の末尾に添えられた「書後の辭」で、編者の山田済斎は、「遺教」を「孤島の南洲」と「南洲翁謫所逸話」をもとにしてまとめたとしています。この内、「孤島の南洲」は正しくは、「絶島の南洲」です。
※「絶島の南洲」は、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で参照できます。
入力:田中哲郎
校正:川山隆
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:

①『■■■』(ほうじょうき)は、②■■■(かものちょうめい)によって書かれた中世文学

2008-07-23 07:50:35 | 18 ◎調べもの古典文庫
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①『■■■』(ほうじょうき)は、②■■■(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた中世文学の代表的な③■■。

鴨長明が晩年、日野山に④■■(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。鎌倉時代、1212年(建暦2年)に記されたとされるが、原本は残っていないと見られる。現存する最古の写本は⑤■■■■本であり、しばしば研究の底本とされる。漢字と片仮名、もしくは漢字と平仮名の混ざった⑥■■■■文で書かれたものとしては、最初の優れた文芸作品である。また、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論でもある。 吉田兼好の⑦『■■■』が書かれたのは、この後およそ100年後である。清少納言の⑧『■■■』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。また、隠棲文学の祖ともされる。(慶滋保胤の『池亭記』を祖とする説もあり)

鴨長明無常観の文学と言われる。冒頭で移り行くもののはかなさを語った後、同時代・または過去の災厄についての記述が続き、後半には自らの草庵での生活が語られる。さらに末尾では草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定する。

目次 [非表示]
1 冒頭と結び
2 文体
3 天災・飢饉に関する記述
3.1 安元の火災
3.2 治承の竜巻
3.3 養和の飢饉
3.4 元暦の地震
4 関連項目
5 外部リンク



[編集] 冒頭と結び
⑨「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」

「干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の⑩■にて、これをしるす。」


[編集] 文体
明快で、流麗。詠嘆表現や対句表現を多用する。和漢混交文。


[編集] 天災・飢饉に関する記述
安元三年(1177)の都の火災、治承四年(1180)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の遷都、養和年間(1181~1182)の飢饉、さらに元暦二年(1185)に都を襲った大地震など、その前半部分はもっぱら天変地異に関する記述を書き連ねている。

後半部分に見られる、およそ貴族とは言えないような不遇をなぜ自分がかこたなければならなかったのか、その説明、あるいは言い訳であるとも想像されるが、今日的な防災という観点から見れば、きわめて貴重で興味深い資料となっている。


[編集] 安元の火災
安元三年(1177)四月二十八日午後八時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。公卿の邸宅だけでも十六軒、一般家屋に至っては都の三分の一が焼失した。死者は数十人(『平家物語』の記述では数百人)であった。

[編集] 治承の竜巻
治承四年(1180)四月、中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市上京区松蔭町、京都市歴史資料館の辺りか)で大きな竜巻(長明は『辻風』と記述)が発生した。風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞った。風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残された。竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺の手前辺りで消滅したものと思われる。

[編集] 養和の飢饉
養和年間(1181~1182)の頃、二年間にわたって飢饉があり、諸国の農民で逃散する者が多かった。朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印という人が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、四万二千三百余に達したという。なお、この飢饉は自然発生的なものではなく、源頼朝・木曽義仲の挙兵や平氏の福原遷都によって都への貢米が押しとどめられ、食糧難に襲われたものであると想像される。

[編集] 元暦の地震
元暦二年(1185)七月九日、大きな地震が都を襲った。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたという。

[編集] 関連項目
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この「方丈記」は、文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています(関連:Portal:文学)。

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『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた中世文学の代表的な随筆。

鴨長明が晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。鎌倉時代、1212年(建暦2年)に記されたとされるが、原本は残っていないと見られる。現存する最古の写本は大福光寺本であり、しばしば研究の底本とされる。漢字と片仮名、もしくは漢字と平仮名の混ざった和漢混淆文で書かれたものとしては、最初の優れた文芸作品である。また、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論でもある。 吉田兼好の『徒然草』が書かれたのは、この後およそ100年後である。清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。また、隠棲文学の祖ともされる。(慶滋保胤の『池亭記』を祖とする説もあり)

鴨長明無常観の文学と言われる。冒頭で移り行くもののはかなさを語った後、同時代・または過去の災厄についての記述が続き、後半には自らの草庵での生活が語られる。さらに末尾では草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定する。

目次 [非表示]
1 冒頭と結び
2 文体
3 天災・飢饉に関する記述
3.1 安元の火災
3.2 治承の竜巻
3.3 養和の飢饉
3.4 元暦の地震
4 関連項目
5 外部リンク



[編集] 冒頭と結び
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」

「干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす。」


[編集] 文体
明快で、流麗。詠嘆表現や対句表現を多用する。和漢混交文。


[編集] 天災・飢饉に関する記述
安元三年(1177)の都の火災、治承四年(1180)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の遷都、養和年間(1181~1182)の飢饉、さらに元暦二年(1185)に都を襲った大地震など、その前半部分はもっぱら天変地異に関する記述を書き連ねている。

後半部分に見られる、およそ貴族とは言えないような不遇をなぜ自分がかこたなければならなかったのか、その説明、あるいは言い訳であるとも想像されるが、今日的な防災という観点から見れば、きわめて貴重で興味深い資料となっている。


[編集] 安元の火災
安元三年(1177)四月二十八日午後八時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。公卿の邸宅だけでも十六軒、一般家屋に至っては都の三分の一が焼失した。死者は数十人(『平家物語』の記述では数百人)であった。

[編集] 治承の竜巻
治承四年(1180)四月、中御門大路と東京極大路の交差点付近(現在の京都市上京区松蔭町、京都市歴史資料館の辺りか)で大きな竜巻(長明は『辻風』と記述)が発生した。風は周囲にあるものをあっという間に飲み込み、家財道具や檜皮、葺板などが、あたかも冬の木の葉のように宙を舞った。風の通ったあとには、ぺしゃんこに潰れたり、桁や柱だけになった家が残された。竜巻は市街地を南南西に向かって走り抜け、現在の東本願寺の手前辺りで消滅したものと思われる。

[編集] 養和の飢饉
養和年間(1181~1182)の頃、二年間にわたって飢饉があり、諸国の農民で逃散する者が多かった。朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印という人が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、四万二千三百余に達したという。なお、この飢饉は自然発生的なものではなく、源頼朝・木曽義仲の挙兵や平氏の福原遷都によって都への貢米が押しとどめられ、食糧難に襲われたものであると想像される。

[編集] 元暦の地震
元暦二年(1185)七月九日、大きな地震が都を襲った。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたという。

[編集] 関連項目
日本の中世文学史
日本文学

[編集] 外部リンク
ウィキブックスに方丈記関連の教科書や解説書があります。『方丈記』:旧字旧仮名(青空文庫)
鴨長明方丈記を味わう
この「方丈記」は、文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています(関連:Portal:文学)。

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小学生版 鴨長明( かもの ちょうめい) 方丈記(ほうじょうき) (全壱万字:ぜんいちまんじ)  

2008-07-23 07:38:12 | 18 ◎調べもの古典文庫



(ほうじょうき)
(かものちょうめい)


ゆく(かわ)の(なが)れが(た)えずして、しかも(もと)の(みず)にあらず。よどみに(うか)ぶうたかたは、かつ(き)えかつ(むす)びて(ひさ)しくとゞまることなし。(よ)の(なか)にある(ひと)とすみかと、またかくの(ごと)し。












(ほうじょうき)
(かものちょうめい)


ゆくかわのながれがたえずして、しかももとのみずにあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつきえかつむすびてひさしくとゞまることなし。よのなかにあるひととすみかと、またかくのごとし。











方丈記(ほうじょうき)
鴨長明(かものちょうめい)


ゆく河(かわ)の流(なが)れが絶(た)えずして、しかも本(もと)の水(みず)にあらず。よどみに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消(き)えかつ結(むす)びて久(ひさ)しくとゞまることなし。世(よ)の中にある人(ひと)とすみかと、またかくの如(ごと)し。





(ほうじょうき)
(かものちょうめい)


ゆく(かわ)の(なが)れが(た)えずして、しかも(もと)の(みず)にあらず。よどみに(うか)ぶうたかたは、かつ(き)えかつ(むす)びて(ひさ)しくとゞまることなし。(よ)の(なか)にある(ひと)とすみかと、またかくの(ごと)し。




(ほうじょうき)
(かものちょうめい)


ゆく(かわ)の(なが)れが(た)えずして、しかも(もと)の(みず)にあらず。よどみに(うか)ぶうたかたは、かつ(き)えかつ(むす)びて(ひさ)しくとゞまることなし。(よ)の(なか)にある(ひと)とすみかと、またかくの(ごと)し。





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方丈記(ほうじょうき)
鴨長明(かものちょうめい)


ゆく河(かわ)の流(なが)れが絶(た)えずして、しかも本(もと)の水(みず)にあらず。よどみに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消(き)えかつ結(むす)びて久(ひさ)しくとゞまることなし。世(よ)の中にある人(ひと)とすみかと、またかくの如(ごと)し。玉(たま)しきの都(みやこ)の中(なか)にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人(ひと)のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、


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鴨長明  方丈記 (全壱万字)  底本:「國文大觀 日記草子部」10177文字

2008-07-23 07:11:29 | 18 ◎調べもの古典文庫
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方丈記
鴨長明


のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けたはしらばかり殘れるもあり。又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、544-14]ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目みたつる人もなし。たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。』又あはれなること侍りき。さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。いはむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。いかにいはむや、諸國七道をや。近くは崇徳院の御位のとき、長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさまかくのごとし。いはむや所により、身のほどにしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を耻ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、僮僕のうらやめるさまを見るにも、富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。寶あればおそれ多く、貧しければなげき切なり。人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。』こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。これを中ごろのすみかになずらふれば、また百分が一にだもおよばず。とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。その家のありさまよのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居をくみ、うちおほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二輌なり。車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、黒き皮籠三四合を置く。すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。すなはちもろもろの藥草をうゑたり。かりの庵のありさまかくのごとし。その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。名を外山といふ。まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。もしねんぶつものうく、どきやうまめならざる時は、みづから休み、みづからをこたるにさまたぐる人もなく、また耻づべき友もなし。殊更に無言をせざれども、ひとり居ればくごふををさめつべし。必ず禁戒をまもるとしもなけれども、境界なければ何につけてか破らむ。もしあとの白波に身をよするあしたには、岡のやに行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならすゆふべには、潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝はこれつたなけれども、人の耳を悦ばしめむとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今ま(すイ)でに五とせを經たり。假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。ましてその數ならぬたぐひ、つくしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうなはちひさき貝をこのむ、これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。我またかくのごとし。身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。我今、身のためにむすべり、人のために作らず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべきやつこもなし。たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。』それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身をとするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。』衣食のたぐひまたおなじ。藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。野邊のつばな、嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。命は天運にまかせて、をしまずいとはず、身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。』そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。

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底本:「國文大觀 日記草子部」明文社
   1906(明治39)年1月30日初版発行
   1909(明治42)年10月12日再版発行
※校正には、「國文大觀 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
編集者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年6月22日作成
青空文庫作成ファイル:

兔を待って株を守る 出典  著書『韓非子』(日本語読み:かんぴし)

2008-07-18 09:32:16 | 18 ◎調べもの古典文庫
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

韓非子(日本語読み:かんぴし)


「宋人有耕田者 田中有株 兎走觸株 折頸而死 因釋其耒而守株 冀復得兎 兎不可復得 而身爲宋國笑 今欲以先王之政 治當世之民 皆守株之類也」

①■■■■(しゅしゅたいと)
②■■■■(きたはら はくしゅう)の「まちぼうけ」はこの③■■(こじ)にちなむ

韓非子
出典(しゅってん): フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』


[編集(へんしゅう)] 韓非
古代中国(こだいちゅうごく)の思想家(しそうか)。法(ほう)を国家経営(こっかけいえい)の根幹(こんかん)に据(す)え、人治(ぶんじ)に反対(はんたい)する法家思想(ほうかしそう)の代表者(だいひょうしゃ)と知(し)られる。著書『韓非子』(日本語読み(にほんごよみ):かんぴし)

愛多き者は即ち法立たず。
侵官の害は、寒きより甚し。
侵官之害、甚於寒。
兔を待って株を守る
守株待兔(しゅしゅたいと)

「宋人有耕田者 田中有株 兎走觸株 折頸而死 因釋其耒而守株 冀復得兎 兎不可復得 而身爲宋國笑 今欲以先王之政 治當世之民 皆守株之類也」

北原白秋の「まちぼうけ」はこの故事にちなむ。
"http://ja.wikiquote.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90" より作成
カテゴリ: 思想家 | 中国人









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韓非子(日本語読み:かんぴし)

守株待兔(しゅしゅたいと)
北原白秋の「まちぼうけ」はこの故事にちなむ

韓非子
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[編集] 韓非
古代中国の思想家。法を国家経営の根幹に据え、人治に反対する法家思想の代表者と知られる。著書『韓非子』(日本語読み:かんぴし)

愛多き者は即ち法立たず。
侵官の害は、寒きより甚し。
侵官之害、甚於寒。
兔を待って株を守る
守株待兔(しゅしゅたいと)

「宋人有耕田者 田中有株 兎走觸株 折頸而死 因釋其耒而守株 冀復得兎 兎不可復得 而身爲宋國笑 今欲以先王之政 治當世之民 皆守株之類也」

北原白秋の「まちぼうけ」はこの故事にちなむ。
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【賀茂真淵  国学  大学 】 

2008-07-13 12:18:40 | 18 ◎調べもの古典文庫
【賀茂真淵  国学  大学 】 ①~⑩の検索結果 約 923 件

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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

入試問題解説大阪大学「日本史」3豊中キャンパスグランド 阪大は語学と体育の授業が厳しく 「大阪外国語体育大学」という陰口があった。 ... 18世紀半、賀茂真淵らは日本古代の思想を追求し、儒教・仏教も外来思想として排し国学を興した。本居宣長はこれを思想的に高めて古事記伝を著し ...
www.geocities.jp/michio_nozawa/entrance_examination/handai_exam3.htm - 6k - キャッシュ - 関連ページ

日本 1.国学 2.鎌倉仏教 3.西田幾多郎 国学 632 名前:大学への名無し ...国学の祖、古典の実証的研究、『万葉代匠記』 荷田春満…特に無し(「国学は古学からも影響を受けている」ことは覚えておこう) 賀茂真淵…万葉集の研究 高く直き心 ますらをぶり 『国意考』 633 名前:大学への名無しさん[] 投稿日:02/10/18(金) 16:24 ...
www.geocities.jp/nanda_kanda_itte_ethics/japan.html - 11k - キャッシュ - 関連ページ

CiNii - 賀茂真淵と本居宣長の学問大学紀要. NDL雑誌記事ID. 0611823100. NDLキーワード. 国学 古事記伝 栗田土麿 栗田土滿. NDL雑誌分類. ZV1(一般学術誌--一般学術誌・大学紀要) // ZM2(科学技術--科学技術一般--大学・研究所・学会紀要). NDL請求記号. Z71-M996. 収録DB. NDL NII-ELS ...
ci.nii.ac.jp/naid/110004630641/ - 21k - キャッシュ - 関連ページ

【國學院大学】國學院雑誌第107巻特集号小島 瓔禮 琉球大学名誉教授 本学兼任講師. 古典以前の歳時習俗への遡源 ―新国学としての民俗学の探求―. 伊藤 高雄 本学兼任講師 ... 荷田春満と賀茂真淵の『日本書紀』研究 ―訓読研究を中心に―. 早乙女牧人 東海大学大学院博士課程後期 ...
www.kokugakuin.ac.jp/about/kouhou/press/zasshi10711.php - 45k - キャッシュ - 関連ページ

motohri後に国学の大学者となった彼も商人には向かなかった。そして医者を志し京都に遊学し、医術のほかに古典や和歌も学んでいる。 ... 一方、宣長が松阪の一夜で教えを受けた賀茂真淵(かもの・まぶち 1697~1769)は浜松の人で、歌人として、また国学者として ...
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東京理科大学 | ニュース&イベント2005年7月6日 ... ぺりかん社の発行で、大学生協書籍部のほか全国の書店やインターネット書店でお求めいただけます。 目次 1 戸田茂睡・儀礼とその根拠―「夫婦婚礼」と「恋」 2 契沖・差異をめぐる方法―「差別」と「平等」 3 賀茂真淵・共同体とその ...
www.tus.ac.jp/news/2005/0706_2.html - 10k - キャッシュ - 関連ページ

ReaD 研究者(詳細情報)賀茂真淵 国学の系譜(加藤宇万伎・上田秋成、本居宣長)、冷泉為村研究、 上田秋成の文学 ... 大阪府立芥川高等学校大阪府立北野高等学校梅花短期大学 非常勤講師梅花女子大学 非常勤講師京都大学 研修員金蘭短期大学 非常勤講師、専任講師、助教授、教授 ...
read.jst.go.jp/public/cs_ksh_008EventAction.do?action4=event&lang_act4=J&judge_act4=2&knkysh_... - 関連ページ

カルチャー その他 びーが行く 浜松市立賀茂真淵記念館 | NET de ...東伊場生まれの学者 国学を樹立. bee071122A.jpg 賀茂真淵記念館(TEL053-456-8050)は浜松市中区東伊場1丁目、賀茂真淵をまつっている県居神社の ... 静岡大学 高柳記念未来技術創造館 (2008年2月7日号掲載). 検索♪. 「カルチャー」内を検索します。 ...
www.vivere.jp/culture/other/post_16.php - 15k - キャッシュ - 関連ページ

特別展 賀茂真淵-その生涯から探る学問への眼差し [東京2008/1/22-2008 ...「国学の四大人(しうし)」の一人とされる江戸時代の国学者・賀茂真淵(かもの まぶち)の生涯と、彼と交友があり、渋谷にも住んで ... 休館日:会期中に限り、日曜日渋谷駅からバス「日赤医療センター行き(学03)」(東口54番)「国学院大学前」下車2分 ...
e-museum.jp/modules/news/article.php?storyid=863 - 25k - キャッシュ - 関連ページ

国学国学 †. 江戸中期に興った、文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問。儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたもの。漢学に対していう。契沖(けいちゆう)を先駆とし、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居 ...
study.masm.jp/%B9%F1%B3%D8/ - 11k - キャッシュ - 関連ページ



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うつほ物語

2008-07-13 12:08:38 | 18 ◎調べもの古典文庫
うつほ物語

ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫



文学

ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家

①■■■物語は、日本の平安時代中期に成立した長編物語。全二十巻、著者は不明だが②■■説などがある。③『■■物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、日本文学史上最古の長編物語である。写実的な描写などは④『■■物語』の成立へ影響を与えたと言われている。当時の貴族にとって、その⑤■■が教養でもあった楽器のひとつ「琴」の音楽をめぐって物語が展開していく。当時の⑥■■行事を記した日記的な記述が多くみられる点も特徴のひとつである。


[編集] あらすじ
⑦■■使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ⑧■■と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 - うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った。そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えなかった。⑨■■者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基らがいたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになった。

仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれた。俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となる。仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になった。

仲忠は母にいぬ宮へ⑩■■を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につける。いぬ宮は2人の上皇、嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わる。


[編集] 関連項目
物語 / 作り物語 / 王朝物語

[編集] 外部リンク
『うつほ物語』への招待
この「うつほ物語」は、文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています(関連:Portal:文学)。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E" より作成
カテゴリ: 物語 | 日本の文学作品 | 平安時代の文化 | 文学関連のスタブ


うつほ物語

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詩人・小説家
その他作家
うつほ物語は、日本の平安時代中期に成立した長編物語。全二十巻、著者は不明だが源順説などがある。『竹取物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、日本文学史上最古の長編物語である。写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われている。当時の貴族にとって、その演奏が教養でもあった楽器のひとつ「琴」の音楽をめぐって物語が展開していく。当時の年中行事を記した日記的な記述が多くみられる点も特徴のひとつである。


[編集] あらすじ
遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 - うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った。そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えなかった。求婚者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基らがいたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになった。

仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれた。俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となる。仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になった。

仲忠は母にいぬ宮へ秘琴を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につける。いぬ宮は2人の上皇、嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わる。


[編集] 関連項目
物語 / 作り物語 / 王朝物語

[編集] 外部リンク
『うつほ物語』への招待
この「うつほ物語」は、文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています(関連:Portal:文学)。

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【万葉集  結社  大学:①~⑩】

2008-07-13 11:31:25 | 18 ◎調べもの古典文庫
【万葉集  結社  大学:①~⑩】 の検索結果 約 4230 件

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選考委員紹介 : 平成万葉集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)短歌結社「塔」主宰。朝日歌壇選者「〈いま〉という時間は誰にとっても1回きり。それぞれの〈いま〉という時間がいきいきと表現されているような歌を期待したい」. リービ 英雄 りーび・ひでお. 1950年米国生まれ。小説家・法政大学教授。万葉集の ...
www.yomiuri.co.jp/man-yo/senkouiin/ - 24k - キャッシュ - 関連ページ

万葉集関係ホームページリンク集万葉集以外にも広く短歌全体について学習できる。 歌人アルバムがある。短歌の結社などのリンク集が充実している。 山口大学教育学部国語科研究室 万葉集関連コーナー 大学生の作ったHTMLの作品が見られる。 その中に、小学6年生の作品も含まれて ...
www1.odn.ne.jp/~cbg28720/manyou/rinku.htm - 14k - キャッシュ - 関連ページ

羽咋の偉人-折口信夫・春洋国文学史及び万葉集講読を担当 年末、「アララギ」から遠ざかる。 大正12, 1922, 5月、慶應義塾大学講師を兼任. 大正13, 1924, 4月、古泉千樫の勧めで『日光』同人に加わる. 大正14, 1925, 1月、國學院大學予科生の間に短歌結社「鳥船社」起こる ...
www.city.hakui.lg.jp/rekimin/o_rekimintop/rekishitanhou/ijin/orikuchifushi.htm - 17k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] - 1 - 勝呂氏は、評伝を書くに当たっては、ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
ったり俳句を作ったりして結社に属しているようだとの事が出てくるのです。幾つか情報. があり錯綜している」と石丸像に踏み込んでいくのです。 「例えば、戦前に改造社から『新万葉集』という万葉集の昭和版が出ました。かなり大. きな企画です。 ...
www.serizawabungakuaikoukai.jp/hpsyorui/suguro/061203suguro.pdf - 関連ページ

夢見る大人のWEB MAGAZINE 茶柱横町... 甲斐相模下総常陸畿内摂津山城大和河内和泉 万葉集についてもう少し詳しく学ぼうとする方には万葉集(京都大学電子図書館)をお奨めしますアドレスは ... 永田和宏 歌人 短歌結社「塔」主宰 朝日歌壇選者 リ-ビ英男 小説家 万葉集の翻訳で全米図書賞 ...
chabashira.sowzow.com/juumin/35akira/akira_009.html - 33k - キャッシュ - 関連ページ

短歌リンク集万葉集の宅頁 ... 陸前青葉(東北大学短歌会で『心の花』会員の西村一人さんのHP。東北大学鉄道研究会サイトの入り口でもあります。) ... 短歌作房(結社『未来』所属の短歌研究新人賞受賞歌人・岡田智行さんのWEBサイト) ...
homepage2.nifty.com/kamitaku/LINK06.HTM - 34k - キャッシュ - 関連ページ

月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」: 長く続けなければ駄目なんだ大学時代、ぼくは短歌を作歌することに情熱を燃やしていた。駒澤大学の国文科には、著名な教授が何人もいて、その中にアララギの歌人で万葉集の研究では権威だった森本治吉先生がいた。ご自分でも「白路」という短歌の結社を主宰しておられた。 ...
bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2006/01/post_e44d.html - 27k - キャッシュ - 関連ページ

群馬県立土屋文明記念文学館 -文学館通信-翌年21歳、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学後、坪内逍遙の巡回講演での態度とその雄弁さに感動し、小泉 ... 歌人としても、自らの歌の系譜は、万葉集-良寛-正岡子規-会津八一であると、結社をつくらず、結社に属さず、歌壇と交わることのなかっ ...
www.bungaku.pref.gunma.jp/communication/com0061.html - 13k - キャッシュ - 関連ページ

中経出版 - 書籍検索・一覧 - 書籍詳細万葉集、古今和歌集、新古今和歌集から今日まで、詠まれてきた幾万の短歌の中から、日本人が常識として覚えておきたい有名な名短歌100首を、早稲田大学教授であり、朝日歌壇の選者である佐佐木幸綱先生が選び抜き、それぞれ、誰もが覚えやすいように ...
www.chukei.co.jp/cgi-bin/books/detail.rb?o_id=2608 - 25k - キャッシュ - 関連ページ

やまとうたリンク二十一代勅撰集、万葉集・夫木和歌抄などの私撰集、主要な私家集の和歌についてデータベース化したもの。 .... 短歌結社『水甕』で活躍されているカタバミさんの個人ホームページ内にあります。新古今時代を代表する歌人良経の家集「秋篠月清集」の電子 ...
www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/link_y.html - 13k - キャッシュ - 関連ページ



入試出典:50位 【新井白石 古文読解  大学院:①~⑩】

2008-07-13 11:26:48 | 18 ◎調べもの古典文庫
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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫


【新井白石 古文読解  大学院:①~⑩】 の検索結果 約 47 件



[PDF] 小学生から大人までの学校です。ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
山の学校では、講師の大学生・大学院生を中心に、リレー式の授業を開設しております。中学生・高校 ..... 古文の読解と実践小論文 または 現代文の読解と実践小論文>. 生徒と講師との間で、ふさわしいテーマを以下のうちから決めていく予定です。 ...
www.kitashirakawa.jp/ryoma/files/yamagakkou_panf.pdf - 関連ページ

木原 太郎[代々木ゼミナール大好き!!代ゼミファン!]授業スタイル講義は「Dominant Motion」「Scrapping」などの欧米人の理論を駆使した英文読解で知られる。 ... 卒業論文は新井白石の文明論について。ゼミの先輩に代ゼミ論文科講師の平尾始氏がいる。 早稲田大学院修士課程のとき、カリフォルニア大学 ...
yoyogizeminaru.blog88.fc2.com/blog-entry-20.html - 27k - キャッシュ - 関連ページ

yoyogizeminaru.blog88.fc2.com/blog-date-200703-1.html - 222k - キャッシュ - 関連ページ
yoyogizeminaru.blog88.fc2.com からの検索結果 »

近著卒読中国・チベット・韓国(朝鮮)・日本の禅宗についての研究文献、原典読解のための参考文献についてコンパクトに解説した ..... 研究の出発点となった木下順庵門下の祇園南海・室鳩巣・新井白石らの文学(特に詩集の成立や推敲に関して)、後期漢文学の ...
hw001.gate01.com/guisi/kincho-sotsudoku.html - 48k - キャッシュ - 関連ページ

市役所C日程解答スレ20、 文章読解 21、文学者とは 22、<わたし>がなんたら 23、 24、古文 矢が当たったと勘違いした話 25、英文 他人の意見をきくことについて ...... 新井白石は昔落とした貨幣の質を戻した。(そしてその戻したせいで一層経済が混乱した) ...
natto.2ch.net/koumu/kako/1000/10006/1000624846.html - 209k - キャッシュ - 関連ページ

極東ブログ: 西尾幹二というオタク西尾先生は、伊藤仁斎、新井白石、荻生徂徠らの儒学が蘭学の成立に大きな影響を与えていることと江戸時代の臨済宗には ...... 諸語の一括概説書については、渡部先生でも、西尾先生でも、ほかの方でも、自分で執筆口述するのが大変なら、大学院生や技官に ...
finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2003/11/post_46.html - 98k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] SOSHOTSUJINファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
からは、研究資料の拡充と資料読解力の向上を目的と. して、有志による輪読会を開始した。三島中洲の未発 ...... 新井白石『国書復号記事』1冊、写. 竹添井井『左氏会箋』30巻、刊. 'Doku Y¯omeish¯o' by Yamada H¯okoku"; Hino Toshihiko and ...
www.nishogakusha-coe.net/tujin-08.pdf - 関連ページ

教養教育285, 西洋紀聞 新訂 (東洋文庫:113), 新井白石著/宮崎道生校注, 平凡社, 1968.4, 290, 110604834. 286, 世界地理パズル (図解雑学 : 絵と文章 .... 359, 最新法令の読解法 : やさしい法令の読み方 3訂版, 田島信威著, ぎょうせい, 2006.5, 320, 110604488 ...
www.lib.yamagata-u.ac.jp/mainlib/zousho/genbok18.html - 481k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] Contents PERIKANSHA BOOK CATALOGUEファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
徠に大きな影響を与え、文は新井白石の、詩は上田秋. 成の注目するところとなる。本論集は、独庵の多彩な. 側面を余すところなく紹介する。 ...... テキストの徹底的な読解により、保田の思想が同時. 代の思想家の影響下に形成されたことを明らかにす ...
www.perikansha.co.jp/etcetera/2004mokuroku.pdf - 関連ページ

Book List(Japanese Books)宮崎 道生, 新井 白石, 1968, 西洋紀聞, 平凡社, 古典文学, 481, 4582801137, 2. 高木 元 (trans.) 1988, 中本型読本集, 叢書江戸文庫 ...... 古賀 友也, 1994, 結束性理解を支援するための日本語読解CAI:前方照応指示を中心にして, 修士論文, 86, 2 ...
w3.ydu.edu.tw/jap/nihongo/booklist.html - 関連ページ



【読解ポイント 太平記:①~⑩】 2008年6月 - 大学受験 古文読解 入試出典ベスト70

2008-07-13 11:23:01 | 18 ◎調べもの古典文庫
【読解ポイント 太平記:①~⑩】 の検索結果 約 560 件

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〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫 武智正彦


JBOOK:書籍・雑誌・DVD・CD&more...歌集 芥子と孔雀/富小路 禎子 著 くまのがっこう/あいはら ひろゆき 英語長文読解ポイント15 標準コース/安藤 富雄 ... ソフトウェア試験合格マイレッスン/オーム社 編 吉野朝太平記 第四巻 北朝三上皇の南/鷲尾 雨工 核としての周辺/松井 健 編 ...
https://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/020140/zz - 関連ページ

セブンアンドワイ ヤフー店 高校国語 - Yahoo!ショッピングYahoo!ポイント 9ポイント獲得. 読解古文問題集 難関大編 [本]. 販売価格:1155円(税込). Yahoo!ポイント 11ポイント獲得 ... Yahoo!ポイント 4ポイント獲得. 超訳日本の古典 9 太平記 [本]. 販売価格:1365円(税込). Yahoo!ポイント 13ポイント獲得 ...
store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/b9e2b9bbb9.html?b=181&n=30 - 34k - キャッシュ - 関連ページ

受験太平記: 国語学習についてのアドバイス受験太平記. 初めての中間テストは惨敗に終わった次男、ゲームは再び禁止になり、部活動の将棋とウルトラマンのDVDを見るのが ... 漢字・熟語等の知識問題はよくできているので、課題は読解力、そして記述問題にある。読解の方はポイントになる部分に線を ...
cannonball.cocolog-nifty.com/041217juken/2006/07/post_06de.html - 31k - キャッシュ - 関連ページ

2008年6月 - 大学受験 古文読解 入試出典ベスト7010位うれしたのし文学史(平家物語・太平記・義経記など)『保元物語』『平治物語』は、そんな、中世の始まりを記念する軍記物語 ...... ポイント: 97pt (1%) ... 句集・句稿・句会稿 (蕪村全集) 与謝 蕪村、尾形 仂、 丸山 一彦 (単行本 - 1992/12) . ...
blog.goo.ne.jp/shirabemono2007/m/200806 - 115k - キャッシュ - 関連ページ

学校法人 樟蔭学園|検索結果一覧研究に関しては、 『太平記』を中心とする中世文学を緻密に読解・分析する事を通じて、 日本人の心と言葉を深く考察していきたいと考えている ... 近代文学の教育では、作品の精確な読解とその歴史・文化的背景や思想などの解明にポイントを置いている。 ...
www.osaka-shoin.ac.jp/cgi-bin/site_search/search.pl?search_coll=%93%C7%89%F0 - 13k - キャッシュ - 関連ページ

厳選商品リンク復刻版レトロ調の尾神嶽と金粉入りのめでたい酒「純米吟醸 尾神嶽」「金箔入り 太平記の里」720. .... 英語の文法問題、長文問題でいちばんの基礎となる 750単語を覚えれば、自然と文法力、読解力も身につけることができます。 センター対策 英語 [ 標準 ...
page.freett.com/ta_saketen/sake/r315niigata23.html - 57k - キャッシュ - 関連ページ

【歴史的名作】真田太平記 その八オマエ読解力ねーなぁ リメイクじゃねーって言ってるだろうがよ あれ俺が書いたんだけどよ ..... BGMはチェックポイントか; 419 :名乗る程の者ではござらん:2008/01/13(日) 21:36:35 ID:O/C2yMO2: 真田太平記のDVD今いくらで買える? ...
tv11.2ch.net/test/read.cgi/kin/1186120267/143n- - 149k - キャッシュ - 関連ページ

[PDF] 平成19年度 指導と評価の年間計画ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
ノートやプリントの工夫で、総合的に読解力を高める。 学期. 単元・教材. 指導内容. ・評価方法. ・評価のポイント ... 軍記(太平記・義経記など) ①文法知識・単語力等を応用し、より深. 評論 風姿花伝・玉勝間など. い読解を目指す ...
www.osaka-c.ed.jp/hirakata/siravas/2007/3rdK/koten.pdf - 関連ページ

風狂派陣中記『太平記』巻三十一の「新田起義兵事」の段に「故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治 ..... むろんその要素が明示的であるとは限らないが、そういうものを見つける楽しみ、といった個人的観点を忍ばせて諸賢の読解を ...
aquirax01.blogtribe.org/category-9d921c27bc4000bb5fceca71f349bde7.html - 58k - キャッシュ - 関連ページ

編集手帳を英語で楽しもう [まぐまぐ!]英字新聞読解のワン・ツー・スリー (1) 意味のまとまりに区切る(区切りはフレクシブルに!) (2) 単語の意味の確認 ... そして、14世紀に欠かれた軍記物である「太平記」の全巻に目を 通した ◆ "Taiheiki," の後に、補足説明されています。 ...
archive.mag2.com/0000217143/20080602151000001.html?start=39 - 34k - キャッシュ - 関連ページ

【大学受験  古文読解 向井去来:①~⑦】どんな本にも読者はいる大学受験頻出555 世界史B

2008-07-13 11:18:19 | 18 ◎調べもの古典文庫
【大学受験  古文読解 向井去来:①~⑦】の検索結果 7 件
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調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫

[PDF] 昭和女子大学中高部 平成18年度授業計画ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
古文の読解、文法、お. よび日本文学史につい. て一年間のまとめを行. う。漢文では、訓読の復. 習を行う。 ・それぞれの詩について、押韻し ...... 向井 去来. 俳論を読み解く. *音読する. *俳諧文学の流れを理解する. *内容を把握し、俳句を鑑賞する ...
www.jhs.swu.ac.jp/syllabus/18_koku_ko.pdf - 関連ページ

読書についての覚書山本康裕『山本古文読解講義の実況中継(下)』(語学春秋社) なかなか読み終えることができずにいた本。受験参考書だから、 ... さて(下)は中世と近世の古文についての講義である。「去来抄」の講義が印象的であった。松尾芭蕉の弟子である向井去来が ...
diary9.cgiboy.com/0/sayonara/index.cgi?y=2006&m=2 - 71k - キャッシュ - 関連ページ

~~スレを立てるまでもない質問~~大学受験用の古文の参考書をこなせば 古文全般は読めるようになるのですか? 鴎外の舞姫すら殆ど理解不能でした… ...... それを読解するためには、これは日本語を書こうとして いるのだが、歴史的事情でこういう漢字ばかり使った書き方が慣例に ...
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紙魚日誌 ― どんな本にも読者はいる大学受験頻出555 世界史B 入試で点がとれる 山本洋幸 2000 比較地方自治 諸外国の地方自治制度 増補改訂版 山下茂ほか 平4 ...... 俳諧の奉行 向井去来 大内初夫・若木太一 昭61 ふっとびロープレ 幻世喜譚 Disk SagaⅢ 1995 空室あり 富永滋詩集 昭56 ...
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【集え】文学板―情報―スレッド【文殊】 2ch過去ログ保管予約ISBN 4003010310 • 向井去来 & 服部土芳『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、1939年。 ...... 神秘」のいくつかを明らかにするとともに、それを手がかりに、 文学作品一般の読解方法についても解説する、「文学批評理論」の格好の入門書」(版元)。 ...
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Book List(Japanese Books)1994, 入試頻出 パスワ-ド古文単語, 浜島書店, 古典研究, 4834311007, 1. 中西 進, 2004, 日本文学と漢詩―外国文学の受容について ...... 向井 去来, 服部 土芳, 1939, 去来抄,三冊子,旅寝論, 岩波文庫, 岩波書店, 文庫, 265, 4003020812, 1 ...
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特爱日语论坛- 在花月二级内发帖他大学からの受験者も多く、競争率は4倍から5倍くらいで、なかなか難関だ。そして、首尾よく修士課程を修了し、博士課程に ...... 年おくのほそ道松尾芭蕉俳諧紀行1703年曾根崎心中近松門左衛門浄瑠璃1704年去来抄向井去来俳諧1706年本朝文選 ...
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