森元志乃 shino morimoto

ヴァイオリン弾きの吐息

よく嫌われちゃうんだけど

2010-04-29 22:55:54 | Weblog
お弟子さんに セレナードの説明をしながら

ふと 

いつも 仕事で 人のために 作曲していた人

神のために 作曲していた人

国のために 作曲していた人

恋人のために 恋人を想い 作曲していた人

自分のために 自分を追及するために 作曲していた人

そんな 人たちのことを 考えた。

もちろん 同じ人でも いろいろな曲を 書いているけどね。


頭にある相手が違えば 自ずと できあがるものは 違う。



演奏家も 何のために演奏するのか それによって 随分 演奏が変わる。



音楽は 共に演奏するとき 信頼関係がないと よい演奏はできない。

人間的な好き嫌いは 一切 関係ない。

嫌いな人より 好きな人がいいでしょう と言われれば

そりゃあね と 言いもするけれど

普段 人間的に好きだからって 一緒に弾くのには合わないかな って 思うこと ある。

かといって 技術だけで合わせたのでは よい演奏にはならない。

嫌いな人でも 信頼が置ければ 十分 演奏は一緒にできる。

性格的に合わなくても 音楽的に合うこともある。

そういう世界にいたから


信じてもらえることが どれだけ 嬉しいことか 肌で知っている。

(なにしろ 音楽は 風圧なので 笑)

嫌われていてもいい。

信じて 頼ってもらえるならば ちゃんと応えたいと思う。





虫・蟲・虫・蟲・虫

2010-04-27 10:49:46 | Weblog
触れる(ふれる) という言葉は 好きだが

これが 触る(さわる) という 音になると 好きではなくなる。

実に 勝手な イメージなのだが

触れる というのは 点

触る というのは 面

そういう 感じがあって 

触れる というのは そっと

触る というのは べたべた

で 触れる が 好きで 触る は 嫌い。


字にとっちゃ いい迷惑だろう(笑)。


大体 虫 は 面白いし興味深いけれど 好きではない。

子供の手前 平気で セミを手掴みにしたりもするけれど

生理的嫌悪は いかんともしがたい。


如かして 虫部の 字は 見ていると むずむずする。

だって 虻とか 蚋とか 蚊とか 蝿とか 蛇もだし 蛙もだし 蛆もだし

っていうか 蛸も 蛤もって 

海のものも山のものも 生き物なんでもありって 虫部凄し!

で なぜゆえ

虹 もなのよ!

はい 思わず 調べました。

「虫(へび)」+「工(つらぬく)」=天空を貫く大蛇


天界の霊獣や生物は 漢字の世界では 

蛇系の文字である「虫」を使うのだという説 発見。

で 古では 虹は 龍である と。 

ちなみに 風は 元は 天界の鳳 であったのだ と。


ふむ じゃ 蛸は 天界育ちで 烏賊は そうじゃないのかい みたいな(笑)


漢字 面白過ぎる… はまる…


蟲師が 見たくなった。

熊蜂が飛ぶ

2010-04-26 23:15:10 | Weblog
お隣の 藤が ようやく 咲き始めた。

寒い日が 間に挟まるから 今年は 本当に 遅い。

我が家の つるバラも ようやくだ。


そう 今年も 蜂が やってくる。

偵察隊が 飛んできて

庭の上で ホバリングしたり 旋回したりしている。


あの ブーンという音を聴いていると ざわざわするし

あの 丸っこい姿を見ると 素直に リムスキー・コルサコフを 思い出す。


蜂は 共振を使って あれだけの回数の 羽ばたきをしているそうだが

人間の手は そんなに 器用じゃない。

1種類でいいから 飛翔筋が欲しい(笑)。


モーツァルトに泣く

2010-04-23 17:29:07 | Weblog
久しぶりに モーツァルト関係の本を 少し 開いたのだが

いつもと同じように 気分が落ち込んでしまった。

そう 例えば モーツァルトの生涯を追う そういう本を読むと

いつも ひどく 辛くなる。

すごく素直に どうして こんな生活をしなければならなかったのだろう? と。

モーツァルトだけは 

彼について 何も知らずに弾いていた頃の方が 

心地よい演奏ができていたのではないか なんて 思うことがある。


20歳頃の彼は 就職活動がうまくいかない と 悩む。

一方で スカトロジスト全開の手紙を 出していたりもする。

そんな記録を見ると 

壊れそうな心を抱えて迷う 今の若い人たちのことを 思い出さずにはいられない。


モーツァルトの 長調の曲が苦手なのは

その ときには天真爛漫に明るいフレーズに ひどい痛みを覚えるからかもしれない。

レクイエムを聴きつつ そんな彼にも 何か救いはあったのだろうか?と

答えの出ない疑問に 胸が焼かれる 今日だった。




危険用語

2010-04-20 12:08:08 | Weblog
フツー という言葉は 実は ここ十年くらいの 隠れた流行語なのだそうだ。

若い子達にとって 「フツーにかわいい」の「フツー」は 

普通より よい意味らしい。

社会情勢的に 

普通になりたくなかった時代から 

普通でいい時代へ

そして 普通になりたい時代へ 変わったから と。


面白いのは 例えば

「フツーにかわいい」というのは いい意味のはずなのに

若い子の中にも

「フツーにかわいい」と言われるのは 上から言われている感じがして嫌だ 

という人がいることだ。


「やばい」を いい意味でも使う その使い方が ついに定着しつつあるが

「フツー」も 世代や環境で 使い方 受け取り方が 全然違うのだから

使うのは 危険だ(笑)。


「やばい」も「フツー」も ニュアンス用語なのだろうが

「フツー」なんて 普通に使う言葉だから 困ってしまう。

とはいえ 「普通」って どういう意味よ? と聞かれれば

これほど 答えにくい言葉もないので 使わないのが一番か(笑)。


溶け込みたいけど 溶け込みたくない 人の心理が

よく出ている 言葉だな なんて 思う。




気を持たせ過ぎだよ、春。

2010-04-18 18:37:35 | Weblog
昨日 那須に行ってきた。

朝 5時起きだったが 外が妙に静かで 不穏な空気。

主人が 「雪が降っているよ」と のんきに声を掛けてくる。

雪? 雪だと~っ!

ちなみに 我が家の周りは 完全に 積もっていた。。。

そうして 厚手の上着を 引っ張り出し

泣きながら 東京へ向かう。

新宿で電車を待っている間 顔と手足が氷化し 内臓だけが何とか温度を保つ。

新幹線 乗ったら乗ったで 途中で一瞬止まり どうなるんだどうなるんだと。


新白河は 真冬だった。

ここまでくると 寒さより 雪の凄さに 感動する。

学校の入り口までは なんとか 行けたのだが

そこから 学校正面口までの坂道を タクシーが登れない。

嘘でしょう!

雪は 食堂の屋根に繋がっていた。


天気予報は当たり 帰る頃には 厚着が恥ずかしい 暖かな日に戻っていた。


いろいろな方と 知り合って

いろいろな方と お話をして

ちょっと 疲れたけれど 幸せな日だった。


今日はその勢いで 懸念の庭掃除をした。


お隣の藤(この辺りでは有名!) ようやく蕾が垂れてきた。

今年は順調 と。

もう少ししたら咲きます。

ご近所の方はぜひ! 圧巻ですよ!


我が家の モッコウバラも 蕾が色付いてきました。

ううっ 早く 本当の春になってくれ!







隠れた美しさを発見する

2010-04-15 19:12:17 | Weblog
駒は 魂柱と共に ヴァイオリンの 心臓部である。

先日 その 駒の横の断面(結構高倍率に拡大したもの)を

しみじみと 見比べる チャンスが あった。

前回も 書いたが

我が家には キリの楽器があって

その 通販激安楽器の駒と 市販の普通の駒 私の楽器に付いている駒を 見た訳だ。

いや これが 信じられないほど 別物だ。


私の楽器の駒は 

いつも行っている工房のI氏が 某所(企業秘密!笑)から手に入れ 

満を持して セッティングしてくれたものだ。 

もちろん 値段が違うのだから 材も違う。

でも 何が違うといって 手の係り具合が違う。

楽器は よく 「つくりがよい」というが

駒も そう言うのだろうか?



駒も 消耗品だ。

「いい駒ありますよ」「じゃ、それで」と 簡単に決めるには

楽器に合うかどうかの不安もあるし 値段も馬鹿にならない。

でも 今頃になって改めて あの値段でよかったんだろうか と 思う位

この駒は 美しい。

(あ Iさん 後日請求はなしで  笑)


楽器は 「綺麗でしょう」なんて 自慢できるけれど

「見て見て! この駒の断面 綺麗でしょ?」と 見せては歩けない。

実に 残念だ。

心の値段

2010-04-12 23:55:12 | Weblog
「ヴァイオリンって 高いんでしょ?」と よく聞かれるが

聞いた人の頭の中には どれくらいの金額が浮かんでいるのか 分からぬまま

「ピンキリで…」なんて 途轍もなく いい加減な答えを 返してしまう。

「最近は ヴァイオリンも 安いのが出ていますが…」と 問われると

これまた いくらを「安い」と 思っているのか 探りつつ

「安いといっても いろいろ ありますから」 と これまた お茶を濁してしまう。


「ピン」の楽器を 弾かせてもらったこともあるし

「キリ」の楽器に至っては 我が家に 見本用に置いてある。


「ピン」の楽器は さすが だし

「キリ」の楽器は なるほど である。


しかし どちらも それ相応の値段か?と 聞かれれば???だ。


ものの値段 について 考える。

価値 ということについて 考える。


心を込めて 作られた 楽器。

心を込めて 調整された 楽器。

そんな楽器を 慈しみ 心を込めて 演奏する。


適当に 作られた 楽器。

適当に 調整された 楽器。

適当に 扱い 適当に 演奏する。


ブランドに踊らされがちな 買い手の心情を 慮る。

何を 信じてよいのか。

何なら 信じてよいのか。


ヴァイオリンを買うときは せめて 手にとって 弾いてからにして頂きたい。






連想

2010-04-10 23:43:20 | Weblog
はじめて 自分のお小遣いで買った 絵葉書は

小学校のとき 倉敷美術館で買った モネの睡蓮だった。


印象派 という 言葉の響きが たまらなく 好きで

どちらが後先かは 自分でも分からないけれど

音楽でも 印象派と カテゴライズされているものが しっくりくる。

画家たちも 音楽家たちも それをよしとしていたかどうかは 別として。


疲れた頭に 睡蓮の絵葉書が 浮かんだ。

これは なんだろう?


光と影。

心にあるのは どちらかというと 色彩ではなく 光と影 濃淡

それを 言葉のように 音楽で表現できたら と 

違う

音楽という言葉で表現できたら と いつの頃からか 思っていた。

それが 演奏家として 正しい在り方なのかどうか それは 分からない。

呟きであったり 叫びであったり 語り掛けであったり 会話であったり。

具体的ではないのだけれど 「言葉」 に置き換えられないものは 弾けなくなってしまった。

それは 限界を作っているようでもある。

でも それでいいのかな と 最近ようやく 開き直れるようになった。


今日は 5月&6月に行う ワークショップの打ち合わせだった。

こんなに する前と した後が 面白い仕事は ないかもしれない。

成果を ちゃんと出したい と 思う。

少しずつだが ワークショップに関してだけは 自信を持って

進化し続けている と 断言できる。

スタッフに感謝。


ああ 分かった。

連作 だ。

同じテーマで 描き続ける。

同じテーマで。



玄関に かわいいお弟子さんが持ってきてくれた 

桜の花びらが 

ヴァイオリンを弾くネコの小皿の中で 水に浮かんでいる。

浮かぶ 花。


一日が 繋がった。 

信じる力

2010-04-06 11:06:08 | Weblog
昨夜 娘から 体調を崩したと 泣きの電話が入る。

9度を超える高熱 「インフルエンザかも」と その声が震える。

一瞬 心臓が止まりそうになる。

持病を持つ娘にとって インフルエンザは

「死」という言葉が即座に頭に浮かぶ 大敵だ。

こういうときに限って 病院の診療時間の狭間で、

なかなか 救急病院と連絡が付かない。

お友だちが傍にいてくれるらしく それだけが救い。

なんとか 病院も見つかり 診察を受け インフルエンザではないことが分かる。

一夜明け 少し熱が下がった と いつもの娘の声になる。

考えてみれば 持病がなくたって 病気は 先が分からない 怖いものだ。

それでも 近くにいれば 食事の準備くらいはしてやれるのに。

子を離す ということを 実感する。

離す覚悟。


息子も 先生方に預けている。

預ける覚悟。

そして 預かる覚悟。


子どもを信じ 子の友人を信じ 先生を信じる。


今 流行の なんとか力 で言うならば きっと これなのだろう。