森元志乃 shino morimoto

ヴァイオリン弾きの吐息

『愛の平均律』第2回  キタ―――(゜∀゜)―――!!!」? 

2009-05-30 20:31:37 | Weblog
「それでも ボクには 君が必要なんだ」

「でも…」

「もう、一人では生きていけないんだ! 君がいないとダメなんだ!」


はあ(笑)。


だって 無伴奏の曲って 限られているし

ピアノという楽器があったからこそ生まれた 素晴らしい曲が

それはそれは 他の楽器に羨まれるくらい いっぱい あるのだもの。

もう ヴァイオリンは ピアノなしには 生きていけませんっ!



昼ドラ だけど (昼ドラかっ! 突っ込まれる前に)

アメリカでは似たような番組を ソープオペラっていうんだって。(ホント?)

主婦層ターゲットで 石鹸製剤メーカーが スポンサーになることが多いから とか。

ふうん。 

そういえば 牛乳○鹸だったり ライ○ンだったり。

妙なことに 感心してしまう私でした。



今 外で 「火のぉ よぉ~うじん」カチッカチッ って 歩いてくれている。

いいな とっても。



ところで 臨場 という ドラマ

(そう! 好きなんだ。この手のドラマ! 内野さん

前回 ヴァイオリンの松脂が 事件のキーだった。

いけない。内野さんに失礼だ。そう思いつつも。

タイスが流れてきた瞬間に 「犯人はお前だ!」みたいな(笑)。

スウェーデン製の松脂とは これはまた。みたいな(笑)。

最低だね。我ながら。



おおっ! 昼ドラっ!

2009-05-29 09:18:08 | Weblog
今の私 があるのは 

アマチュア・オーケストラのトレーナー という仕事をしたからで

そこで出会った 指揮者やトレーナー その素敵な同僚の方々と

数え切れないほどの アマチュアの友人すべてが 私の命の糧なのである。

大袈裟でなく。


今 私がしていることは 恩返し。


それにしても

当時 一番 ギャラの安い仕事(笑)だったトレーナーが

私の人生を支えているのだから 本当に 何が大切なのか わかりゃしない。


原点は 「弾けないボクたちの気持ちになってください」という

一人の友人の 

厳しくも優しい 実に当たり前で でもとても大切な 

たった一つの言葉である。

原稿を書くとき いつも ちゃんと この言葉を リフレインしている。

でも なかなか 応えられない。


特殊な音楽教育を受けてきて 素晴らしい力をつけてもらった分

足りないことも多くて

大学で 身を切るようにして すべてを一から勉強し直した私だから

多分 ほかの多くのトレーナーよりは 

アマチュアの方の気持ちが 分かると思う。


でも 「弾けない自分」は すでに

四半世紀どころか 半世紀近く前に遡らねば 出会えない。

そして どんどん 遠くなる。



十しか知らない人間が 十語るのは無理で 

百知って ようやく十が見えて 千知って なんとか十が語れる


そんなことを 小さい頃から 母に教えられた。


だから 人に偉そうに語るな と。

勉強したばかりのことは すぐ出すな と。


胸が痛い(笑)。



高校のとき 詩作の真似事をしていたら

書いた詩を読んで 母が 「今 朔太郎 好きでしょう?」と。

言われそう って 分かっていたから

詩の全集 なんて 読み漁って 文体も いろいろなものに挑戦してたのに。。。


大学時代 レッスンを受けていたら

先生に 「パールマン聞いてる?」と。

忘れた頃に 「もしかすると グリュミオー好き?」


もう いやっ! そんなに私分かりやすいっ?

って 感じである(笑)。 



音律の問題は 結論が出るものではない。

音律そのものは 理論に他ならないから 実に明確で

勉強する側が 数字を拒否さえしなければ(笑) 説明は難しくない。

では 何が問題なのか?



理論は後付け という イメージもあって

理論を語る時間があるなら練習しろ という 意見も 

演奏家という立場なら 一理あるのだろうけれど

その演奏家が演奏している 曲はどうかというと

決して 音律無視 音律無関係 音律後付け なんていうことはない。

作曲家達の 数多くの模索が 形として残っていることは

この業界の人間なら 誰しも知ることである。


模索の結果生まれた平均律の代表であるピアノと

音律の歴史と共に生きてきたヴァイオリンが

パートナーとなって 切るに切れない関係になっている今

目を瞑っていていい問題なのか? と 聞かれれば

NOとしか 答えざるを得ない。 


じゃなきゃ 完全無視 でいくしかない(笑)。 


ある日 ヴァイオリンはふと漏らす。

「響きが濁る。どうしてだ? どうしてピュアな響きにならないんだ…」

それを聞いたピアノが 言うのだ。

「私のせいよ。私が平均だから。やっぱり平均はダメなのね」

ヴァイオリンは焦る。

「ダメとは言っていない。ただボクは、澄んだ美しい響きを」

ピアノは泣く。

「純正の響きを出せない私とはやっていけないっていうことでしょ? だったら私たち、もう終わり?」


…続く。(続くのかっ!笑)

 




それでもゆっくり歩いていこう。

2009-05-28 10:13:24 | Weblog
雨の音が 心地よい。

荒んでいたのが よく分かる。

いい加減 慣れなくちゃなぁ って 思うのだけれど

大切だと思っている人の言葉には 結構 無防備で

簡単に 傷付いてしまう。


我が家の紫陽花も ツボミが膨らんできた。

葉が思い切り 虫に喰われていて

いつもだったら 必死で 駆除するところなんだけど

どうも 今年は 虫くんの顔を見ると それができなくて

そのままにしていた。

こんなに 喰われちゃって 花 大丈夫かな って 心配していたけど

大丈夫そう。

よかった。

木の芽も 毎年 アゲハの幼虫が 綺麗に 葉を食べてしまうのだが

こんなに しておいて 育つのか という 私の不安をものともせず

随分 立派になった。



健康な人ほど 病気に弱い 

一病息災 とは よく言ったもので

心もそうなのだろう。


お友だちに ちょっと疲れちゃいました と 吐露したら

まだまだ お互い 試練が足りない がんばれってことだね と

言葉をもらった。


その通りです。


ピアノの友人に 来年の予定を聞くのに

鬼が笑うけど って 書いたら

そうはいっても もう 五月だし みたいな 返事をもらって

ううううううううう。

時間が 時間が 時間がっ



音楽が要らないくらい 雨の音が 心地よい。


出たな!余分三兄弟

2009-05-27 23:37:50 | Weblog
いろいろなことが 少し落ち着いてきて

ようやく 自分の時間が 作れた。

資料や楽譜に埋もれながら よい時間を過ごしている。

頭の中は インプットとアウトプットで 過熱状態だけれど(笑)。



演奏し続けたり レッスンし続けたり

勉強を怠った状態で 消費ばかりしていると

自分がどんどん スカスカになっていくのが 分かる。

何もせずに 消費していくだけでよいような 蓄えも器もない。

多忙を理由に 少し 怠り過ぎていた。



不器用なことを分かっていて 多くのことに 関わり過ぎている。

来年からは 本職に専念できる状態にしなければ。



古楽に関しては 関わると深いのが分かっているので

あまり触れずにいるのだが

最近知り合った方の薦めもあって

ポッジャーのラ・ストラヴァガンツァを聴いている。

これが 実に 面白い。

相当 面白い。



でも ふと あれ?これ何調だっけ? なんて 曲を確認したのが間違い。

しまった! と 思った。

見るんじゃなかったぁ。。。

書いてある調性より どうしても 半音低く聞こえる。

まいった。

気持ち悪くて どうしても 受け入れられない。

そういう自分が 面白い。

面白いけど 耐えられない。

多分 こういう感覚は ほかでは 絶対得られないだろうという位

頭の中が 混乱する。

パニック状態の自分なんて 久しく経験していなかったので

その気持ち悪さを しばらく楽しんでしまった。


でも その後 脳がじんじんして(笑)。

チョコレート 食べたくなるし。

危険なCDだった。




誰か拾って!

2009-05-27 00:20:42 | Weblog
しずるや はんにゃや ナイツも好きだけれど

バカリズムがいい。

でも 今 ちょっと はまっているのが

ハライチ である。



言葉遊び大好き人間だから

一緒に 訳の分からない言葉を作りたくなって

一緒に 拾っていきたくなる。


スープのヴァリエーション(っていうのかな…笑)を見て

「かろうじてスープ」にウケたけど 見終わった後

頭の中に “やるせないスープ” という フレーズが残った。

どう拾ってたかな?と 思って 動画を見ても

そんなことは言っていない。

作っちゃった?


でも なかなか よくない?


“やるせないスープ”


燃える闘志

2009-05-26 09:36:35 | Weblog
今 改めて 音律の勉強をしている。

勉強 といっても 

数字を見ただけで眩暈がする 4までしか数えられないヴァイオリン弾き(笑)なので 

再読なのに 本一冊読むだけでも かなりの苦行となってしまう(泣)。


でも これが 実に 面白い。


なにしろ 最初に出てくるのは ピュタゴラスである。

だって 教団 に 数秘術 とくれば!

ゾクゾクする。


人に いつも楽しそうだね と 言われることがある。

きっと 『経過』が 好きだからなんだと思う。


音楽は 特に 演奏を生業とする人種は

経過に費やす時間が 半端ではない。

これを楽しまないと まさに 苦行。

さすがに 苦しい一辺倒では 人間 そうは続かない。


楽しまなくちゃね。

経過は 大切だ。

これを考えないと 糸が絡まることがある。


音律は どの楽器よりも 弦楽器のそばにある そう感じている。

弦楽器を勉強する人間は 少なくとも 指導する人間は

知っておく方がよい そういうものだと思う。

誰にでも分かってもらえるように 話せるか?

う~ん。

糸を絡ませることなく 説明できるようになることが 

音律に関する 最大の目標である。


しかし くぅ これ 相当 むずかしい。





一人では生きていけない。

2009-05-25 21:15:50 | Weblog
刃を 人に向けることは 簡単だ。

でも それは なんの解決にもならない。

昔 自分が 攻撃的な人間だったからこそ それを痛感している。


人に背を向けることも 簡単だ。

でも それも 解決には向かわない。

いつもどこかで 逃げようとしてしまう自分だからこそ それも痛感している。


だから 今は 

刀は握っていても (でも 握ってるんだ 笑) 

自分から振り上げることは絶対にしない。


一度始めたことは 中途半端には終わらせない。


そう 心に決めている。



娘の病気が分かったとき いろいろな言葉を掛けられた。

それは 本当に 「いろいろ」で 

嬉しい言葉も 山ほど 頂いたのだが

好意で掛けられた言葉に 娘が傷付くこともあった。

娘が嫌がった 唯一の言葉。

「かわいそう」

そう言われた日 娘はベッドの中で

「私は可哀想じゃない!」 そう言って泣いた。

言ってくれた人たちは 多分 いや きっと 

娘のことを 想って そう言ってくれたのだと思う。

でも 娘は 間違いなく 傷付いた。


それ以来 私は 「かわいそう」という言葉が 頭に浮かんだとき

必ず一回 停止することにしている。


“上から目線”とは よく言ったものだが

「可哀想」は 使い方を間違えると かなり“上から目線”の言葉になる。

日常耳にする言葉にも こういったものは 案外 多い。

「してあげる」 この言葉も そうかな。

「~してあげようか」「~してあげてもいいよ」「~してあげたのに」

ああ 怖い。 注意しなくちゃ。



「知らない」相手に こちらが知っていることを伝えるときでも

「これは知らないだろう」「こんなことも知らないの」「常識だろう」

そんな気持ちでいう言葉は 棘がある。 

優しくない。

「知らなくて当然」「知らないことは恥ずかしくない」「私だって知らなかった」

そういうスタンスでいたい そう思う。

これが 意外に むずかしい。

すぐ 驕ってしまうから。



人は 気持ちを 言葉で 表現する。

でも それでは 足りないから 身体中を使って 気持ちを伝えようとする。

今 メールなどというものが 会話と成り代わっている。

「会って」「話す」ことを しなくなっている。

そこで 一番大切なのは 言葉の選び方・使い方なんだよね。



なんだか すっかり ボロボロの私なのだが

ここ 数日 何人もの 懐かしい人たちから メールを頂いて 

傷を癒してもらっている。

ありがとう。

本当に 嬉しい。

連絡しなければいけないのに 何ヶ月も 何年も 連絡していない友人知人の顔が頭に浮かぶ。

ごめんなさい。



お弟子さんが 手作りコロッケを差し入れてくれた。

ジャガイモの味が やさしくて 泣きそうになった。


右でインプット 左でアウトプット

2009-05-22 19:28:44 | Weblog
ヴァイオリンという楽器は 過去を引き摺っている。

それは ある時点から 姿形を変えていないからかもしれない。

初期の段階から 素晴らしい奏者が存在し 

初期の段階から 多くの名曲に恵まれ

初期の段階から ほとんどの奏法の原型が生み出され

そこに 戻ることを そこから 始まることを

余儀なくされるからなのかもしれない。


ヴァイオリンに関わる〈何か〉を勉強しようとすると

結果 いつも 歴史を紐解くこととなり

学生時代の不勉強を 嘆くこととなる。


ヴァイオリンという楽器は クラシック音楽と共に生きてきた。

管楽器とも 鍵盤楽器とも 違う意味で。

そのことを どれだけの人が 知っているのだろうか?


最近 ヴァイオリンが好きだと 声高に叫べるようになったのは

ヴァイオリンという楽器が 

自分にとって モノでなくなったからなのかもしれない。

その向こうにある世界は あまりに広く あまりに深い。

知れば知るほど 弾くことが怖くなる。

でも だからこそ やめられない。




路地で 壊れた椅子に座った老人が

遊び疲れた子どもに ヴァイオリンを弾いてやっている。

子どもはそれを聴いているうちに 母の作る食事を思い出す。

礼も言わず 駆け出す子ども。

誰もいなくなっても ヴァイオリンを弾き続ける老人。


私の中のヴァイオリンは 案外 そんな風景にあるのかもしれない。

 











ウィルスとハチとディッキンソニア

2009-05-21 21:30:58 | Weblog
新型インフルエンザのニュースが トップなのは 

百歩譲って 致し方ないとして

メインの中継地が 〈多摩センター〉 これはやめてくれないだろうか。

おかげで 迷惑を被っている。


罹患した人が 通っただけだ。

中継地になって 何度も何度も 映像に移り 駅名が連呼されることが

どういう結果を招いているか 気付いてる? マスコミの方々。

ったく いい迷惑だ。

多摩センターの経済効果が落ちたら 責任取ってね。(笑…っていうか笑えない!)


都内に蔓延するのは 時間の問題かもしれない。

手を尽くしても なるときはなる。

誰も悪い訳じゃない。

責めるな。 そう言いたい。



もちろん 用心するに越したことはない。

父も母も娘も インフルエンザに掛かると 死が目の前に来る病気を持っているから

できることなら 治まってくれと 願っている。

出掛けるときは 大嫌いなマスクをすることにした。

手洗いうがいだって がんばってしている。

無防備に 休校だといって カラオケにいっちゃう 学生さんには

そりゃあ 勘弁してよ とは 思うけれど

でも だからといって どうも責める気にはならない。



不遜だ。 なんて 思うのは おかしいか。
 


病気は病気として 対処する必要はある。

でも 今

私の中では ハチの方が ずっと心配だ(笑)。



ハチの本が相当 ツボにはまっていて 読み終わったのに 

頭の中が 時々 ぶんぶんぶん♪に なったりする。

それが ラブコールになったのか

なんと 2Fのベランダに ハチが巣を作り始めていた。

しかも ベランダに出て すぐ目の前で 目の高さ。

一段目(というのかな)の半分くらいが できていて

いやあ 実に見事な形状 その美しさ! いい仕事してます。

って 思って 眺めていれば 

やってきたハチが でかいっ! 4cmはある。

やっぱり 巣ができるまで観察 とか まずいよなあ と

仕方なく 撤去。

惜しかったなあ。


よく見ると ハチ 不気味なんだけどね。

というより 不思議か。

ハチから見れば 人間も十分 訳分からん形態だろうけど

あの姿形。

ふむ。

たまたま 今日見た エディアカラの生物たちも 相当「いけてる」けど

昆虫は すごいね。


昆虫 って 入力したら 魂柱 が 出てきた。

仕事しろってことか…。