昨年、境内地となった広さ約520㎡の土地です。将来的に、田んぼ・畑にしたいという考えのもと、話が進んでいき結果境内地となりました。
という事で取りあえず草刈をしました。菖蒲の咲くころでしたので5月中旬か末頃だったと思います。
そうすると、タイミングよく知人からモチ米の早苗を戴けることになり、取り敢えず漬物樽とプラスチック容器でお米を作ることに。
せっかく沢山の苗を頂いたので、狭くてもいいからと取り敢えず田んぼを作ってみました。すると、一人の氏子総代さんが手伝ってくれるようになりました。
元々建物跡でしたので、石やゴミやガラが沢山出てきましたが、いったん土を掘りだし地面を叩いて水が抜けにくくなるよう床を作って、掘り出した土はふるいに掛けながら田んぼに戻しました。夏の暑い中、この作業が一番きつかったのを覚えています。
そうして、7月下旬になってしまいましたが何とか田植えする事ができました。
先に植えた容器の苗は順調に育ち花を咲かせてくれました。
収穫期には、タイミングよく地元中学生が職場体験に来てくれたので稲刈をしていただきました。お蔭さまで、獲れたお米は11/23の新嘗祭に御供えをすることができました。
神社にあった昔ながらの脱穀機で脱穀し、知り合いに籾取りをお願いして玄米にしてもらい、少ないですがモチ米は約4キロ収穫することができ、2/3節分祭の餅つきで御餅にして御供えする事ができました。また、とれた藁は12/23注連縄掛神事用の注連縄作りに使うことができました。
そして今春、二年目の田んぼ・畑づくりが始まっています。
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安心安全な食べ物
昨年、境内に隣接した土地が手に入りました。520㎡ですが、これを農地として活用しようと、試しに10㎡を田んぼにしました。総代が米作りをしてくれ、2升ばかりの収穫がありました。将来この土地の半分を田んぼに、残りを畑にしようと思っています。
毎日、神様にお供えする食事は、安心安全な食べ物でなくてはなりません。かつて田んぼには無数の生き物が共生循環していましたが、現状はどうでしょうか。農薬のためにカエルや蛇やトンボが少なくなり、スズメやミツバチにも異変が起きています。古事記の神武天皇や雄略天皇のところには、トンボが称えられています。太古日本の国はトンボが無数に飛び交っていたので、豊蜻蛉島(トヨアキツシマ)と呼ばれていました。アキツとはトンボのことで、想像するだけでも、嬉しく幸せになってきます。かれらは害虫を食べてくれたので、言うなれば今の農薬の代わりでもありました。だからトンボ様々であったのです。
土の中には無数の微生物がいて、その力によって元気な作物が生育します。先人はその土づくりに汗を流してきました。それが安易な農薬によって土中の微生物がダメになり、私たちの体が徐々に蝕まれているのです。そのような不自然な食べ物を、神様にささげるわけにはゆかないのです。それと機械で刈った稲穂は短くて、注連縄が作れません。そこで子供たちが米作りを体験して、食べ物の有難さと、安心安全な食物の重要性を知ってもらいたい。そして自ら刈った稲穂で、注連縄作りを学んでほしいと思っています。
『沈黙の春』を出したレイチェル・カーソンが、農薬の危険性を警告して50年がたっています。
宮司 中 東 弘
御本殿横の会所内で冬眠するカエル
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蘇った鳥居と斎館
神社にはさまざまな建造物があります。神霊を祀る本殿、拝礼するための拝殿や神饌所、授与所、社務所、手水舎、灯篭、狛犬、鳥居、摂社、末社等があり、神社の規模によっては、幣殿や参集殿、儀式殿や斎館等々の建物があります。枚岡神社では長い歳月を重ねて、諸建造物の老朽化が進み、過年(平成25年)、「平成の大造営」と銘打って奉賛会を結成しました。ご本殿をはじめ諸施設の修復、鎮守の杜の育成、境内の整備事業を目的としています。奉賛会結成後、氏子や崇敬者から真心こもるご浄財が寄せられ、そのお陰で昨年、収蔵庫が完成しました。
今年は枚岡の神様がお祀りされて2680年という目出度い年を迎えたので、これを記念して今春、二の鳥居の新築と、斎館の修復並びに増築工事に着手しました。近鉄線の枚岡駅を出ると、すぐ境内があり、その正面に二の鳥居が建っています。昭和9年と54年に建て替えられ、38年経過して根腐れが激しくなり、又々建て替えを余儀なくされ、この度完成いたしました。尾鷲の檜で、柱の直径は75㎝、総高は7,4mです。一方斎館は昭和12年に、貞明皇太后さまがご親拝の折に、御休息された建物で、80年が経過して損傷が著しく、大がかりな修復工事を行い、かつての立派な佇まいに蘇りました。
去る9月に両建造物の竣工清祓式を斎行し、氏子らが新築された木の香も芳しい鳥居の通り初めをしました。思えば長い年月その時代々々に遭遇した神職が、修復や造営を重ねて、その神社の歴史や伝統を支えてきました。今回これら一連の事業に従事出来たことは、感慨も一入で、幸せを感じているところです。来年は愈々ご本殿の修復工事が始まります。
宮司 中 東 弘
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柏槙が取り持つご縁
枚岡神社の神前には幹回り6,5mの柏槙(びゃくしん)があります。カンヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)が日本の平国(建国)を祈念して、枚岡山の山頂、神津嶽に天児屋根命をお祀りした際に、柏槙をお手植えされました。白雉元年(650)に麓に御殿を建てた際、この柏槙の枝を神前に挿し木した、と伝えられています。かつてこの柏槙は樹高が20余mあり、当社の歴史を物語るご神木として、氏子の人々から信仰され、親しまれてきました。昭和13年には大阪府の天然記念物に指定されましたが、昭和36年の第2室戸台風の被害にあって、今は地上3mの幹しか残っていない状態で、真に残念な限りです。
佐賀市諸富町の新北神社に、徐福がお手植えされたといわれる、樹齢2200年の立派なご神木の柏槙があります。徐福は中国の『史記』によると、「秦の始皇帝から不老不死の仙薬を持ち帰るよう命じられ、童男童女三千 五穀の種 百工(技術者)を連れ、蓬莱の国を目指した」とあります。蓬莱の国とは日本のこと。佐賀県の有明海にやって来て、水稲をはじめ弥生の新しい文化を広められました。今から2200年前の話です。40余年前に吉野ケ里遺跡が発掘され、膨大な弥生遺跡が見つかりました。これが徐福の年代と合致し、彼が残した文化だろう、と話題になりました。
徐福伝説は全国20余箇所にあり、徐福が日本の文化に大きく貢献されたことが伺われます。この徐福お手植えの柏槙を、実生から大事に育てた苗を、枚岡神社に献木、という話が持ち上がっています。神武東征と建国。水稲をはじめ弥生の文化を広めた徐福。柏槙の奉納を通じて古代のロマンが大きく膨らんでいます。
宮司 中 東 弘
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本日、御鎮座2680年記念神津嶽本宮例祭を滞りなくご奉仕申し上げました。
明日、9月17日(日)午前10時より二の鳥居・斎館竣工祭を執り行います。
拝殿にて祭典を行い、引き続き二の鳥居前で新しくなった鳥居の清祓いを行った後、通り初め式を行います。
まず、夫婦三代でご参列の皆様より順に、氏子総代、崇敬会、敬神婦人会、氏子青年会、工事関係者、一般参列者の皆様に通り初めをしていただきます。その後、参道広場まで進みましたら次に斎館の清祓いを行う予定です。
しかしながら、台風18号の接近による天候悪化の場合は、通り初め式中止の可能性がありますのでご了承ください。
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鹿と自然の営み
鹿は大人しい動物ですが、時として野生を発揮します。毎年春になると雄鹿は柔らかい袋角が伸びて、秋には立派な角に成長します。この時期は雄の発情期で、雌の獲得に向けて縄張り争いが起こります。体重が120キロもある雄同士の激しい戦いに巻き込まれたら、人間はひとたまりもありません。強い雄鹿は雌鹿を100頭以上も抱えています。これによって、より強い子孫が生れる自然界の仕組みなのです。
雄鹿による事故多発を見かねて、寛文年間に鹿の角切りが行われるようになりました。秋になると伸びきった角は固まって、神経も血管も止まり、切っても痛くない10月に角切りが行われます。毎年300頭近くが切られて、鹿園から外へ出されます。一年でもう一つ危険な季節は、雌鹿の出産期である5月、6月です。毎年200頭余のバンビーが生れます。この時に子鹿に何気なく近づくと、雌鹿は母性本能が強いために襲ってきます。前足の一撃は強烈で、とても危険です。これらの注意さえしておれば、奈良公園は鹿と人間が共存している、真に長閑な「世界の楽園」でもあるのです。
この豊かな自然が維持されて行くには、それなりの自然の仕組みがあるのです。鹿が常食としている芝生は「生産者」でもあります。それを食む鹿は「消費者」と言えます。消費者の出した糞はフンコロガシというコガネムシが食べて、より小さな糞となり、それを微生物<バクテリア>が分解して土の肥料となり、それによって芝生が元気に生育するのです。この生産と消費と分解があって自然界はうまく循環しており、その目に見えない微生物のお陰によって、私たちは生かされているのです。
宮司 中 東 弘
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春日の神鹿
春日大社の境内は御蓋山(みかさやま)を含めて30万坪。その一角に「飛火野(とびひの)」という芝生の丘陵があります。万葉の昔、乙女たちが若菜を摘み、官人たちが打毬を楽しんだ所で、烽火(のろし)を上げて合図をしていたところから、この名がついています。この辺りで芝生を食んでいる群れ鹿の光景は実に長閑で、万葉の昔を偲ばせてくれます。
奈良の鹿は神鹿と呼ばれて、大切にされてきました。奈良に都が出来た時に、都の守護神として、春日大社が創建され、藤原氏が深く信仰していた常陸の国の鹿島神宮から、武瓶槌神(たけみかづちのかみ)をお迎えしました。この神様が鹿に乗って来られたところから、春日の神の使いとして、長い間崇められてきたのです。因みに春日大社の神様はこの外に、香取神宮の経津主神と枚岡神社の天児屋根命、比売神の四柱です。
戦中戦後の食料難には、密猟が頻繁に行われ、79頭にまで激減しました。この危機を乗り越えるために国に申請して、天然記念物の指定を受けました。これを機に年々増加の一途をたどり、1400頭を超えて久しい年月が過ぎています。鹿が過剰となると、餌を求めて春日山原生林にまで進入するようになりました。冬になれば鹿の餌である芝生が枯れるので、鹿たちは立ち上がって木の葉を食べます。それで奈良公園の森の木立は、地上から180㎝は枝葉がなく、見通しの良い特殊な林相になっているのです。
明治以前まで狼がいて、過度な増殖が抑えられていたのですが、それもいなくなり、加えて観光客から貰う鹿せんべいのお陰で栄養が行きわたり、数が増えて自然のバランスが崩れつつあるのです。
宮司 中 東 弘
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