小学生ぐらいの頃をふいに思い出す。
まだ母親が家を出ていって間もない頃だが、笑うという感情を奪われ、根暗になっていたのだろう。当時、俺は、クラスで虐めに遭うようになった。
机の上の筆箱なんか、隣に座る女の子に一日三回はワザと落とされたっけな。あの時のブスは、今頃どうしているだろう。どうせ、ろくな女になっていないだろうな……。
中学に行くと、学校で粋がっているグループに目をつけられ、年中遣いっパシリをやらされた。
初めて反抗した時に、校舎の裏に呼び出され、俺はビクビクしながら行った。怖い顔で睨まれ萎縮していると殴られた。
今、思えば、その殴られた時に、俺は変われたんだよな……。
その不良に殴られたパンチが、痛くなかったのだ。
散々ガキの頃、母親にやられた理不尽な行為に比べたら、全然、屁でもなかった。
こんなパンチしか出来ないで、こいつら人虐めて喜んでんのかと思ったら、何も怖くなくなった。
あまりにしょぼいので、こっちが手を出したら、案の定、みんなヘナチョコだった。喧嘩って、こんな簡単なもんなのかと、その時悟った。
いけないいけない……。
そんなことより、早くコマ劇場を探さないと……。
それから三十分ほど捜し回っても、いまだにコマ劇場は見つからず。
一体、歌舞伎町の街中を何周しただろうか?
人に聞けば済むのだが、恥ずかしいという感情が邪魔してなかなかそれができない。とりあえずダークネスに電話してみることにする。
「はい、ダークネスです、…んっ、おまえ何やってんだ?」
「すいません、新宿来るの初めてなもので迷ってます」
さすがに向こうも駅に着いてから、三十分も待たせているから口調が荒い。
「人に聞けば、すぐ済むだろ。何してんだ」
「すいません。すぐ向かいます」
最初の俺の印象は最悪だな……。
人に聞いてみよう。ちょっと恥ずかしいけど……。
「あのー……」
通行人に声を掛けても、みんな無視して行ってしまう。どれだけ人に声を掛けただろうか。誰も俺の言葉に耳を傾けてくれる者などいない。
よく地方の人が、東京は冷たいというが、まったくその通りだ。
いや、愚痴っていてもしょうがない。俺の聞き方に問題があるだけなんだ。仕事の面接の時間はすでに過ぎている。何とかしなくちゃならない。
恥ずかしさを捨てろ。
軽く深呼吸して通行人に話し掛ける。
「すいません、コマ劇場ってどこにありますか?」
声を掛け、一気に話し終わると、その通行人に大笑いされてしまった。
恥ずかしさと苛立ちが、俺の体の中で大きくなっていく。目つきが鋭くなっていくのが分かる。人が必死な思いで聞いているのに、馬鹿にしやがってこの野郎……。
拳を固く握り締めた。
「どこってすぐそこじゃないですか、ほら」
指を指された方向に顔を上げると、目の前にコマ劇場と書かれた大きな看板があった。
「あ、ほんとだ……」
俺の目玉は、今までどこを見ていたのだ。
苛立ちはどこかに行き、恥ずかしさだけが残る。素直にお礼を言い、通り沿いにコマの裏側に回った。何でこんなデカデカと看板があるのに、俺は気がつかないのだろう。今頃、さっきの人に大笑いされてんだろうな……。
苛立ちはどこかに行き、恥ずかしさだけが残る。素直にお礼を言い、通り沿いにコマの裏側に回った。何でこんなデカデカと看板があるのに、俺は気がつかないのだろう。今頃、さっきの人に大笑いされてんだろうな……。
裏側に回ってみたが、人を待っていそうな奴は腐るほどいた。こう改めて見ると、様々な種類の人がいるもんだ。
見るからにヤクザっぽい格好の三人組。プロ相手に見知らぬ土地で喧嘩はしたくない。俺は、視線を合わせないように心掛けた。
ちょっとケバイけど、スタイルも良く滅茶苦茶綺麗な女…。デートで相手を待っているのだろうか。
どこの国か分からないけど、とても喧嘩の強そうな黒人。
歩いている通行人に無差別に声を掛けている中国か韓国か分からないけど、アジア系の女と客引き。
他にも色々いるけど、この人混みの中で、俺を待ってくれている人がいる。とにかく人を一人一人見ていった。
んっ…、口髭のある背の小さい男が、俺の方を見ながら近付いてくる。ひょっとしたら、この人が……。
「赤崎さんかな?」
胡散臭そうな五十代後半の口髭の男。髪形はパンチパーマがだらしなく伸び、手入れをしてないように見える。体系も小柄でパッとしない印象だ。何故か、声のトーンが非常に耳障りである。ヨレヨレのグレーのスーツを着ているが、リストラを言われたばかりのくたびれたサラリーマンといった感じだ。生理的に受け入れられないタイプの人間である。
「そうです、本当に遅くなりすみませんでした」
「まったくもうー…、駄目だよ。子供じゃないんだから、頼むよ、本当」
「すみません……」
自分が情けなかった。相手の言う言葉が突き刺さるが、正論だ、仕方がない。これじゃ面接は、まず駄目だろうな……。
「じゃあ、付いて来て」
「はっ、はいっ!」
口髭の男の後を黙って付いていくことにする。それにしても、本当この男は後ろ姿まで胡散臭さが漂っているなあ……。
男は人で溢れかえっている場所から、だんだんとひと気がない方向へ無言のまま向かっている。さすがにちょっと不安になってきた。
少し軽はずみだったんじゃないか……。
逃げようか?
今なら逃げられる。自問自答した。頭の中で不安というものの比重が上がってくる。
でもこの人は、時間に遅れた俺を三十分以上も待っていてくれたのだ。
今さらここまで来て、逃げてどうするんだ。金のない惨めな生活が待っているだけだ。
「はい、こっち来て」
口髭の男が小さなビルのところで止まり、俺を促す。
似たような建物がそこら中に建っている通りだ。人もあまり歩いていない。
コマのところからまだ二分ほどしか歩いていないのに、同じ歌舞伎町の中でも様子が大分違うのが分かる。ひと気もほとんどない通り。しかし、俺はここまで来たんだ。なるようにしかならない。口髭の男に言われるまま、あとを付いて行くしかない。
それにしても、小さい建物だ。普通のアパートやマンションと変わらない造りである。その建物の入り口には、大層な名前で「第一杉沢ビル」と書かれてはいるが……。
コンコンッ……。
口髭の男が三階に着き、ドアをノックする。しばらくしてドアが開く。
「さっ、入って赤崎君」
「はい、失礼します」
入るとその部屋の壁は一面真っ白で、清潔感と小綺麗さを感じる。
正面の壁には、「BINGO」と書かれた板が貼ってあり、それに大きなトランプが掛かっている。七を除いたAからKまでの絵柄がSライン、Bラインと、上下に書いてある列に順序よく並んでいる。
入って右手にキッチン。部屋は十畳ほどの広さで、昔はやったインベーダーゲームのようなテーブルが十台ほどバランスよく並べてある。見ていると、過去のことを思い出す。
昔はよくゲームセンターに行って遊んだものである。薄暗い室内で不良の溜まり場。小遣いのほとんどをゲームで使ってしまったものだ。
気の弱そうな奴が、トイレでカツアゲに遭っているのをよく見た。友達がカツアゲにあっているのを助けに行って喧嘩になったっけな。
俺自身、カツアゲをしたことも、されたことも無かった。今、考えると、変なとこで正義感はあったのだろう。
学校ではゲームセンターに行くのが禁止になっていたから、先生や補導員が見回りに来ると、トイレの窓から逃げたり、見つかって次の日職員室に呼び出されて殴られたりで、非常に懐かしい思い出がある場所だった……。
いや、待てよ。今は何故、ここにいるのかを考えろ。俺は喫茶店の求人で初めて新宿に来たのに、気付けば、ここへ連れられてきて……。
ヤバイなという感情が渦巻く。頭が非常に混乱していた。
「はじめまして、赤崎さんですね、店長の岩崎と言います」
中にいた店員の一人が俺に声を掛けてきた。年は俺とそう変わらない感じだ。二十五前後といったところか……。
多分、この人だろう、昨日の電話で俺に対し、親切な対応で話してくれた人は……。
「はじめまして、赤崎です。すみません、約束してた時間よりも遅くなってしまいまして…。本当にすみませんでした」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ところでゲーム屋で働くのは、初めてですか?それとも働くことは初めてでも、遊んだことぐらいはありますか?」
ゲーム屋……。
初めて聞く言葉だ。店の中を見ても、普通のゲームセンターでないことだけは分かる。並んでいるゲーム台は、トランプのポーカーみたいな感じのデモ画面がつきっ放しになっている。
「いや、初めてなもので何も分からないんです」
「ゲーム屋、又はゲーム喫茶っていうんですけど、よく喫茶店とかに一、二台、こういうゲームが置いてあるじゃないですか?分かりやすく言えば、うちはそのよくゲームオンリーで、営業している店なんですよ」
ゲームオンリー?
この人は、何を言っているのだろう。言っている内容がよく分からない。第一、この状態でどう商売になるのだろうか?
パッと見た感じ客もいない様子だ。不思議そうな顔をしている俺に構わず、店長の岩崎と名乗った男が話し出した。
「紹介しときますね、こちらがうちの社長の水野さんです。…で、こちらがスタッフの鈴木と山下です」
先程、俺を案内してくれた口髭の男が社長だったのだ。これにはビックリした。
スタッフの二人はやたら愛想がいい。みえみえだとしても、愛想良くされるのは悪い感じはしない。鈴木は俺よりどうみても年下の二十二、三歳。山下は若く見ても三十は越えている。
怪しい店ではあるが、このダークネス……。スタッフの対応に、なかなか好感が持てた。
「初めまして、赤崎です」
挨拶を済ませると、昨日書いた履歴書を渡す。まずは社長の水野がサーッと見て、岩崎店長に手渡す。岩崎は俺をジッと見つめる。
「実は今日面接に来たの、赤崎さんで四人目なんですよね。…水野さん、彼でいいんじゃないですか?話し方もハッキリしてますし……」
店長の岩崎が話し出す。ひょっとしたら、俺は採用になるかもしれない……。
「そうだなー、今日来た前の三人は、どうしょうもなさそーだしなー。君、この業界は本当に初めてなんだよね?やったこともないんでしょ?」
「ええ、恥ずかしながら、新宿に来るのすら初めてです」
「よし、彼にしようか。決まりだな。じゃあ、早速明日から大丈夫かい、赤崎君?」
いきなり 水野が俺に話を振る。少し戸惑ったが、俺はここに金を稼ぎに来たのだ。腹を決めて頑張らないと、現状は何も変わりはしない。
「はい、よろしくお願いします。明日からで構わないです。お店の都合いいように使って下さい」
俺の言葉に目を細める社長の水野。なかなかいい感触だろうと心の中で確信した。迷わず頭を下げた。これで俺は新宿歌舞伎町の住人に明日から仲間入りするのだ。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。なー、岩崎」と、水野が岩崎に相槌を打つ。案外、気さくな性格の人かもしれない。胡散臭さは変わらないが……。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
元気良く、挨拶した。簡単なものだ。これで明日から歌舞伎町での生活が始まる。ちょっと自分でも安易でおろそかかもしれないと思う。けど、もう走り出してしまったのだ。こうなった以上、頑張って金を掴むしかない。
それで周りには、文句など絶対に言わせやしないぞ……。
危険な香りが漂う歌舞伎町。
これからそこで働くことで、家族や親戚に色々言われることは、いっぱいあるだろう。あきらかに普通の喫茶店ではないし、人にちゃんと言えるような、まともな商売でもなさそうだ。しかし、それが何だというんだ。
俺の人生だし、俺の生き方だ。俺はここで生きるんだ。今は確かに何の説得力も無いかもしれない。でも俺は、ここから心機一転、気持ちを切り替えて頑張るんだ。
ここで頑張って金を稼げば、誰も文句など言わないさ……。
「腐るほど、金を稼いでやる」
俺は心の中で誓った。
「特に用意するものは…、赤崎さんいつもスーツなんですか?仕事中はうちの鈴木と山下の格好見て分かる通り、白のワイシャツにスーツのズボン、それにネクタイ締めて終わりですから問題ないですね」
俺はジーンズなどはいたことがまったく無く、持っている服は全部スーツだけだった。別に気取ってという訳ではなく、着替えるのも楽だし、ファッションも季節によって考える必要性がないから、スーツが好きなだけである。寒くなったらコートを羽織り、もうちょっと寒かったらマフラーを巻くだけでいい。夏になったら上着を脱げばすむ話だ。非常に気楽である。言い方を代えれば、ただの面倒臭がり屋ともいう。
「では明日朝の十時までに来て下さい。今日はもう大丈夫ですよ」
こうして俺の歌舞伎町初日は終わった。特に金が有るわけではないし、真っ直ぐ家に帰って明日に備える事にしよう。
「明日からよろしくお願いします」
誠心誠意、頭を深々と下げた。
帰り道、何故か心はウキウキしていた。外を歩いているとさすがに肌寒いが、夜の歌舞伎町は、相変わらず大勢の人であふれかえっている。擦り寄ってくる客引きを無視しながら真っ直ぐ駅に向かう。
今日の出来事を振り返る。
社長の水野、店長の岩崎、スタッフの鈴木と山下。
まだ四人しか会っていないけれど、みんな第一印象は良かった。今日、俺を含めて四人の面接者が来たらしい。俺はその中でもいきなり大チョンボをして、時間に遅れてしまったのに、気持ち良く向かえてくれた。そしてその中から俺を選んでくれた……。
少なくともあの瞬間だけは、俺を必要としてくれたのだ。それがとても嬉しかった。きっとこの感覚は、俺にしか理解できない些細なものであろう。今はそれでいい。今の俺は、そんな些細な価値しかないのだから……
電車に乗り、景色を眺める。窓ガラスに自分の顔が写っていた。右側の三つの傷も一緒に……。
こめかみの傷にズキンと痛みが走り、途端に蘇る記憶。
俺は幼稚園から小学校五年の頃までの記憶を鮮明に覚えている。そのことに関してだけは、我ながら感心するぐらいだ。
何故、俺はハンバーグがこの年になっても大好きなんだろうか?
子供の頃、レストランに行った時の憧れ、お子様ランチ。
俺はこれを食べた事がいまだに無い。
今じゃ食べたくても、もう食べられない歳になっている。
お子様ランチの主役、定番のハンバーグ。デパートのレストランにあるガラスのショーウィンドーを見る度に羨ましかった。しかし、食べたくても食べられなかった。
このことになると、いつも吹き出す憎悪……。
やめておこう。あんなことを思い出しても、嫌な気分になるだけだ。
小学校に行く手前のまだ幼い妹、愛をよくデパートに連れて行ったっけな……。
レストランの入り口にあるガラスのショーウィンドー。その中にあるお子様ランチの模型を年中一緒に見に行ったものだ。
「お兄ちゃん、あれ食べたいよう」
愛がお子様ランチを指差す。
「……お兄ちゃんも今さー、お金無いんだよ。今日は見るだけにしようよ。なっ、愛」
「いやだー、食べたいよー」
「じゃー、今度な。今度…。愛、おりこうさんだろ?」
「えー、愛、おりこーさんじゃなくていい」
幼い妹は、兄である俺にせがんでくる。当時小学五年生の俺には当然そんな金も無く、妹にお子様ランチを食べさせることが出来ない。
愛に食わせてやりたいなー……。
そんな思いが高まり、ふと気がつけば、貯金箱に入っている小銭は、日々増えていった。
妹の笑顔が見たい。それだけの為に食べたかったお菓子も我慢した。友達と遊びに行くのも我慢した。でも、その機会は永遠に訪れることが無かった……。
「えー、次は狭山市―、次は狭山市でございます」
車掌のアナウンスが聞こえ、現実の世界に呼び戻される。
もう地元に着いたのか……。
いくら振り返っても何も戻らないあの頃。やるせない気持ちで電車を降り、家へと向かう。
何を考えても、どうすることも出来ない。あの頃も無力だが、今現在も無力なのは変わらない。
それを打破する為に、今日行ったんじゃないのか。あの歌舞伎町へ……。
何度も似たような試行錯誤を繰り返しているが、とりあえず明日へ向かって歩き出したことだけは確かだ。
どうやって帰ったか分からない内に、自分の部屋に戻っていた。考え事をしていると、時間が過ぎるのはとても早い。
風呂に入り、早めに寝よう。今しなきゃいけないことは、そうして明日に備えることだ。
風呂を出て布団に潜り込む。傷が疼く、憎悪が吹き出す。
途端にまた、過去がプレイバックされる。
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