「何、ヘラヘラ笑ってんだい?」
家に帰り着くなり、いきなり殴られる。倒れ込む俺。
泣きながら「ごめんなさい」と、どれだけ懇願しても、母親の手は拳を握る。怯えながら俺が両腕でガードしているのに、無差別に構わず殴ってきた。何故、こんなに殴られるのだろう?
今日は母親と一緒にデパートへ買い物に連れてこられて、そこで親戚のおばさんに偶然会い、向こうから声を掛けられたのだ。
「あら、隼人ちゃん、今日はどうしたの?」
母親に付き合わされただけの話だが、当時五歳の俺に偶然デパートで会えたことが、おばさんには嬉しかったのだろう。
俺はニコニコしながら手を振った。横でその様子を見ていた母親は、苛立ちを隠せないでいる。
母親は、家の祖父母、父親とも仲が悪く、輪を掛けて親戚ともうまくいっていなかった。
何が原因で不仲になったのかまでは覚えていない。ただ、母親は誰に対しても常に敵意を剥き出しにしていた。
仲の悪い親戚に声を掛けられ、俺が笑顔で応対したのが癪に障ったのだろうか。
「何おまえは、あんな奴に媚を売ってんだ」
怒声が聞こえ、頬に痛みが走る。
泣きながら、俺は母親に殴られ続けた。
何で俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……。
母親に対する憎しみだけが大きくなっていく。
赤崎隼人。
赤崎家の長男として生まれて、二年後に次男怜二が生まれた。さらに俺より五つ下の妹の愛が生まれ、三兄妹となる。
二階は俺たち家族が住み、一階は祖父母という二世帯住宅になっていた我が家。
父親は、愛が生まれてすぐに交通事故で亡くなってしまった。
家は父親の実家で、初孫がとても可愛かったのだろう。俺は祖父母や親戚に、とても可愛がられ、笑顔が常に絶えない子供だったらしい。
父親が亡くなる半年前ぐらいから、両親の仲が急激に悪くなったのを覚えている。理由は分からないが、夫婦としての折り合いが悪く、最後には母親がいつも口喧嘩で勝っていたように思う。言い争いの最中、「金がない」という言葉がよく出てきたのを覚えている。
母親と祖父母の仲は、物心ついた時から悪かったが、父親が亡くなってからその傾向はより酷くなっていった。家族全員で、食事をした記憶がまるでない。
夜になると始まる夫婦喧嘩。決まって家を飛び出すのは父親の方。あのまま母親と口論していたら、手を出してしまう。だから家を出て、ヤケ酒でも飲みに行っていたんじゃないだろうか。
妹が生まれる前、残された俺ら兄弟二人は、母親の八つ当たりの対象になる。弟はまだ俺よりも小さかった為、どうしたって俺の方にそれは集中した。
何故、殴られるのか、幼過ぎて分からない俺は、ただひたすら謝って、母親の怒りが収まるのを祈るしかなかった。
そして母親は俺を殴ったあと、家を飛び出し、最低一日は戻ってこなかった。
弟が泣いている。お腹が減っているのかな?
今は親が二人ともいない。弟を抱っこして、一階の居間にいる祖父と祖母のところへ連れて行く。
「怜二はきっと、お腹減ってんだよ。今、おばあちゃんがおいしいもの作ってあげるから泣くのはおよし。隼人、おまえもお腹減ってんだろ。ちょっと待っててね。今、仕度するからね」
祖母はそう言うと、台所に向かい料理を作り始める。
待っている間、祖父がどこからか絵本を持ってきて俺ら兄弟に読んでくれる。とても心地良かった。
しばらくすると、祖母は色々なおかずを食卓の上に並べてくれる。俺と弟はビクビクしながら回りを見まわし、安心すると、がっついて口に頬張る。とても美味しかった。
でも、いつもこの料理を食べられる訳ではない。母親が家に居る間は、俺ら兄弟が他の人間に接触するのを極端に嫌った。
だから、祖母がみんなのご飯を毎日作ってくれていたのにもかかわらず、母親は一切、俺たちを祖父母の元へは行かせなかった。
たまたま俺ら兄弟が祖父母のところへいる時に、母親が帰って来たことがある。その時は、俺にとって言い表すことの出来ないような地獄絵図が待っていた。
小さいながらも殺気というものは分かる。ドアの隙間から鋭い視線を俺に送ってくる母親。まさに憎悪の籠もった殺気である。
俺はその視線に気付くと、自然に黙って立ち上がってしまった。
隙間から見える母親の恐ろしい目。俺が気付いたことが分かると、こっちに来いと言うように無言で手招きしている。近づけば何をされるかぐらい分かっているはずなのに、俺の体は夢遊病者のように進んでいく。
「隼人、急にどうしたの?」
祖父が不思議そうに話し掛けてくる。
「う、うん。もうお腹いっぱいだから……」
自分でも訳の分からない言い訳をしながら、席から離れる。
祖父や祖母、おいしそうにご飯を食べている怜二に、母親の存在を何故か気付かれたくなかった。今思えば、自分が生け贄になればいいという思いがあったのかもしれない。
ドアを開けて出ると、仁王立ちという表現がピッタリ当てはまる感じで、母親は待っていた。部屋に着くなり投げ飛ばされ、何回も殴られる。
攻撃が収まったと思い、顔を上げると、母親は口元を吊り上げながら目の前に立っていた。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていく母親。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。分かっていながら、離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像の方が怖かった……。
恐ろしかったのだ。抵抗して、これ以上、殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、本体は母親の手元から離れていた。
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。思わずその場にうずくまってしまう。目の上が焼けるような痛みを発している。
右側のこめかみにある傷の一つはこの時に出来たものだ。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
未だ、あの時の母親の笑い声が、耳にこびりついている。
今にして思えば完全な幼児虐待。おそらくヒステリーも入っていたと思う。
どう考えても正気の沙汰ではない。
多分、一生あの笑い声は、俺の中で消えないのだろう。そんな感じがする。
母親は絶対に自分で食事を用意、又は調達してきた。
独りぼっちで家の中でつっぱる母親。意地だけじゃ、自分と俺ら兄弟の食費をまかなうのは容易ではない。
幼稚園に持って行く弁当はとてもじゃないが、友達に中身を見せられる代物じゃなかった。
蓋を開けると中身は、スパゲッティの麺をケチャップで和えただけのナポリタンのようなものだけだったり、酷い時は焼いた餅が二つ入っているだけだったりして、弁当の時間になると、友達のそばから自然と離れ、いつも一人で食べていた。
あんな固くなったガチガチの餅を食べたのは、後にも先にもこの時しかない。
幼稚園では、いつも恥ずかしい思いをしたという嫌な思い出しかなかった。
一度、担任の先生が弁当の時間にいつも独りなので、俺に注意をしてきたことがある。
「赤崎君、駄目よ。自分から仲良くしないと……」
いくら言われても直す気はなかった。ましてや弁当の中身を絶対に見られる訳にはいかなかった。中身を見て、先生が母親に何かを言ったらどうしよう。それが怖かった。
しかし、非情にも担任の先生は、俺の事を母親に報告した。協調性がなさ過ぎると……。
幼稚園から帰ると、一週間はその件で当然のように殴られた。
ずっと家の状態は、父と母が個々の主張を譲らず、争いが絶えなかった。
それでも、やることだけはしっかりとやっていたのだろう。ある日、鬼のような母親が出産の為、入院した。その間、とても平和な時間を過ごせた。そして妹の愛が生まれた。
喜んだ父親は仕事帰り、バイクで急いで帰ってくる途中、事故に遭い亡くなった。一度も愛の顔を見ずにこの世を去ったのだ。
思えば俺は、父親に対し、どれだけの思い出があるのだろうか。あまり父親のことは、正直覚えていない。母親の理不尽な暴力から、父親は守ってくれなかったという記憶はある。父親にしてみれば、虐待があったことすら知らなかったのかもしれない。
愛の誕生と共に亡くなった父親。その事実に対し、悲しいとかそういう思いは特別ない。気付けばいなくなっていたという感じだった。
祖父母は優しく接してくれたが、学校ではそうでもなかった。片親というだけで、からかう同級生たち。別に俺たちのせいでそうなった訳じゃないのにな……。
父親がいなくなり、母親にはもう家の中に居場所が無かったのだろう。年中、家では祖父母との喧嘩が絶えなかった。父親のいた頃よりもさらに回数は増したように見えた。幼い俺から見ても、母親の方が理不尽だと感じることが多い。とにかく自分の思ったとおりに物事が進まないと怒り出すのだ。
祖母が、みんなのご飯を用意しても、母親は俺ら兄妹へ絶対に食べさせない。では、自分が食事を作るのかと思えば、祖母の炊いたご飯をボウルに移し、二階へ持ってくることが多かった。おかずはスーパーで買ったコロッケ二つを四人で分けて食べたり、卵一つだけだったり、貧しいものばかり。当然、祖母は「何で一緒に食べないんだい」と怒り出す。みんなの分をちゃんと作っているのに、自分のエゴでそれを一切食べさせない母親。祖母が怒るのも当然である。こうして喧嘩になった日は必ずといっていいほど、母親は家を飛び出して朝まで帰ってこなかった。
朝になると、怜二や愛が泣き出す毎日。自分ではどうしようもなく、祖父母のところへ連れて行くと、戻ってきた母親に見つかり暴力を振るわれる。
ヒステリックさはさらに増し、俺の右側のこめかみには、二本の傷が新たに追加された。
一つは、テストが百点じゃなかったという理由で、ガラスのテーブルへ顔面を叩きつけられた。漢字の読み方の問題で、つまらないケアレスミスをしたのが原因だった。
もう一つの傷も、未だハッキリと覚えている。
祖父母と言い争いをしたばかりの母親は、物凄く機嫌が悪かった。ブロックのおもちゃでたまたま遊んでいた俺。部屋に戻ってきた母親は、目の前のブロックを踏み潰しながら怒鳴った。
「おまえはこの間、百点とれなかったのに、何で遊んでんだ?」
「ご、ごめんなさい……」
「立て。“気をつけ”しろ」
「は、はい……」
小刻みに震える体。母親は、床に散らばっているブロックを拾うと、俺の顔めがけて投げつけた。
「何、勝手によけてんだ!」
誰だってそんなことをいきなりされれば、瞬間的によけてしまう。
飛んでくるブロックをよけると殴られる。俺は震えながら、その場に立っているしかなかったのだ。
くると分かっていながら、逃げられない恐怖。目を閉じたまま、いつ顔に当たるのか分からないブロック。これほど恐ろしいと思ったことはない。
「おい、動くんじゃないよ。ハハハ……」
冷たい笑い声だけが聞こえ、顔に当たるブロックの衝撃。気が狂いそうになりながら、俺はバランスを崩し、うつ伏せに倒れ込む。
その時、こめかみに鋭く熱い痛みが走り、俺は手で押さえながらのた打ち回った。母親が踏んで割れたブロックの破片が、こめかみに突き刺さったのだ。
こうして俺に、三本の傷が出来たのである。体の痣も、日に日に多くなっていく……。
生きているのが嫌でたまらなかった日々。
すべて母親の言いなりだった。他の人間に笑いかけることさえ禁じられ、操り人形のような生活に、ほとほと嫌気がさしていた。
小学四年の冬。この日、いつもと家の空気が違うのを感じた。朝、起きたら母親の姿が無かった。
弟の怜二は状況を把握できず、キョトンとしていたのを今でも覚えている。愛は、腹が減ったのか泣いてばかりいた。
何となく、母親はもうこの家には戻ってこないだろうと思った。だからビクビクしながらも、祖父母のところへ兄妹を連れて行き、ご飯を食べさせた。その時、俺は自然と顔がにやけだした。心の中で「自由」という文字が浮かび上がっていたのである。
しかし、そう都合よくいくだろうか?
食事中、またドアの隙間から、母親の鬼のような目が覗くのではないかと不安で溜まらなかった。一口食べては、ドアの隙間を見ながら食べた。
母親が出て行ってから、一日、二日と時間が過ぎ去っていく。やはり二度と家に戻ってくることはなかった。
あの朝、何故か自然と笑顔になれた事は、今になっても覚えている。
学校のテストでは常に百点だった。先生にもよく褒められた。でも、そんなものは家に帰ると何の意味も無いのだ。
何も俺を守ってくれやしない。「いい子だ、優等生だ」そんなことに何の意味があるのだろうか?
ずっと自分の無力さを痛感していた。鏡で三本の傷を見つめる度、いつもそう思う。
だが、母親が出て行ったことで、これからは自由になったんだと、開放感を本能的に理解していた。そして自然に心の底から笑みがこぼれた。
「……」
嫌なことを長々と思い出してしまった。もう寝ないと明日に響く。俺にとって新しい転機の時なんだ。
こめかみの傷の疼きは治まっていた。
仕事の初日、朝、目を覚ますと雨が降っていた。憂鬱な気分になる。外がどんな天気であろうと仕事に行くことは変わらない。昨日のウキウキしていた気分はとっくに無くなっていた。
「風呂でも入るか……」
目覚めたあとのシャワーはとても気持ちがいい。憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれる。
コーヒーを飲んだら仕事に行くか。
風呂を出ると、キッチンに向かい、俺の好きなキリマンジャロとモカを三対一の割合でブレンドさせる。いい匂いがキッチンに漂う。
「あれ、兄貴。もう起きてたの?おはよう」
振り向くと、弟の怜二が眠そうな顔をして目をショボショボさせながら、入り口に立っていた。
「コーヒー作ったけど、おまえも飲むか?」
「ああ、頂くよ。兄貴の作るコーヒーは旨いからな」
俺はそのまま返事をせずに、カップへコーヒーを二人分注ぐ。
「腹、減ってるか?簡単なもの作るよ。コーヒー飲んで待ってなよ」
冷蔵庫を開けるとウインナー、卵、野菜が少しあったので、食パンを軽く焼いたあと、簡単なサンドイッチを二人分作り、一つを怜二に渡す。
「兄貴は料理人になりゃー良かったんだよ。作るもの全部うまいもんな。このサンドイッチだって、金取れるレベルだぜ。兄貴の作ったもので唯一、不味かったのがラムの唐揚げ。あれは酷かった。殺人的な不味さだよ」
怜二は勝手なことを言いながら、サンドイッチにかぶりついている。あっという間に、さっき渡したばかりのサンドイッチは、怜二の胃袋に消えた。
「もう一つ作るから、俺の食べてもいいよ。料理人に関しては、生涯なることはないだろうな。人に言われて料理作るのは嫌だし、自分の気分で勝手に作るから美味しいものが出来るんだよ。まあ俺の勝手な言い分だけどな。ラムの唐揚げのことはもう言うなよ。あれは初めての試みで、どうなるのかなって感じで、作っただけなんだから」
「だってあれは酷いぜ。兄貴、実際、俺に味見させたじゃないかよ」
「俺もちゃんと食ったんだよ。ただ、自分で食っても不味いなと思って、ちょうどその時、おまえが腹減ったって来たから、これ食うかって言ってみただけだ。あれは俺の中で一番の失敗作だったよ。確かにおまえ、あれ食ったあと、こんな不味いもん食わせやがってよって、ブーブー言ってたもんな」
その時の怜二の顔を思い出すと、自然に笑いが出る。
ラム肉の臭みを消そうと自家製のたれを作り、ラム肉を一晩つけて寝かせておいた。もう大丈夫だろうと思い、唐揚げを作ったが、味見をすると、何ともいいようがないくらい酷かった。
それを分かっていて、怜二に処分させようと勧めたのだから、いまだに根に持たれてもしょうがないかもしれない。
俺も一緒に朝食を済ませると、そろそろ新宿に行く頃合いになる。ワイシャツを着て、ネクタイを締める。
「あれ、兄貴仕事?今度はどこ行くの?」
「新宿歌舞伎町だ。金の唸る場所へ飛び込んでみるつもりだ。行かなきゃ分からないこともあるだろうしな。昨日行ってみた感じ、店員の対応は悪くなかったよ」
「やばくねーか。歌舞伎町って…。兄貴は短気だし、怒りっぽいし…。だいたい何の仕事だよ。本当に大丈夫かよ」
「心配するな、何とかなるさ。今度ゆっくり話すよ。俺はそろそろ仕事行く時間だ。ここちゃんと片付けとけよ。じゃーな」
「そりゃねーよ、兄貴……。だいたい兄貴は……」
怜二が俺に話しかけるのをほっといて家を出る。俺が作り手で、弟が洗い手。自分で勝手に心の中で決めたルールだった。
外へ出ると雨は幾分、小雨になっていた。
新宿歌舞伎町第一杉沢ビル二階、ダークネスへ初出勤だ。
階段を上がり、入り口のチャイムを押す。
「おはようございます」
しばらくするとドアは開き、鈴木が入り口に立っていた。心なしか表情が冴えていないように見える。俺はお辞儀をして店の中に入った。
今日も見た感じ、客がいない。
店長の岩崎が俺の方を振り向く。相変わらず愛想のいい笑顔でこっちを見ている。社長の水野と、山下の姿は見あたらない。
「どーも、赤崎さん。そういえばこの仕事初めてでしたっけ。ポーカーゲーム自体、分からないんですよね。まー、見ての通り客も今はいないし暇な店なんで、ゆっくりじっくりと仕事を徐々に覚えてって下さい。分からないことがあったら、何でも気軽に聞いてきて下さいね」
「お手数掛けてすいません」
「最初はみんなそうですって……」
十畳ほどの狭い店の片隅で、昨日は見なかった顔ぶれが二人いる。
「あ、紹介しときますね。こちらが遅番の責任者の新堂とスタッフの田中です。こちらが今日から入る、赤崎さんです」
「初めまして、今日からお世話になる赤崎です。よろしくお願いします」
「ふーん……、赤崎君ね…。まっ、頑張ってよ。じゃー、店長。俺たちは仕事上がるよ。お疲れ」
「はーい、お疲れ様です」
新堂が店を出て行く。遅番の責任者だと紹介された新堂。年は三十代半ばぐらい。正直あまりいい印象は受けなかった。ふーんと言いながら俺を値踏みするような嫌な目つき。まあこの程度で、頭に来てもしょうがないことだが……。
続いて田中もこちらを向き、一礼すると慌てて新堂のあとを追いかけて行った。親分にくっついていく、子分といったとこか。
「相変わらずだなー、あの人は…、もうちょっとぐらいサービス業なんだから、愛想良くすればいいのに…。すいませんね、赤崎さん」
岩崎が俺を気遣ってくれる。この人は、いい人なのかもしれない。
「いえいえ、とんでもないですよ。俺みたいな新入りに、気を使わせてしまいすみません。そういえば、社長と山下さんの姿が見えないみたいですけど……」
「ああ、山下は昨日付けで、うち、辞めたんですよ。田舎に帰らないといけなくなったみたいで。彼が辞めるから、従業員の募集を新聞に載せたんですよ。それで昨日、赤崎さんが選ばれた訳です」
「そうだったんですか」
何と答えていいか分からなかったが、新宿歌舞伎町という街は、場所柄、きっと人の入れ替わりが激しいのであろう。
さっきの新堂にしても何人も色々な従業員を見てきて、面倒を見て親切にした挙句、散々裏切られてきたのかもしれない。入って初日の俺を簡単に信用する方が間違っている。この歌舞伎町では……。
最初に教えられたのは、客に出すドリンクや備品の買い出しだった。
二十四時間常に開いているスーパーやディスカウントショップ。改めてすごい場所に来たものだと思う。
俺のいるダークネスの横のビルでは、ピンサロがあり、眼鏡を掛けた従業員が手を叩きながら、客の呼び込みをしていた。俺がペコリとお辞儀すると、向こうもニコリと笑ってお辞儀してくれる。
すごい量の荷物を持ちながら、歌舞伎町の人込みの中を歩くのは、とても大変なことだった。買い物袋を持ちながら歩いていると、不思議とあれほどうるさかった客引き連中は、誰一人として、俺に声を掛けてこない。
店に戻ると社長の水野が来ていた。俺を見るなり嬉しそうに近付いて来る。
「おー、赤崎君、大変だったろう。今、客いないからその辺に座って一服でもしなよ」
強引に椅子に座らせられると、鈴木が俺にアイスコーヒーを持ってきてくれた。水野は険しい表情で岩崎に何かを話している。岩崎は必死な表情でそれに答えている。鈴木はキッチンの方に行ったまま、こちらに出て来る様子もない。
「山下の野郎、見つけたらちゃんと報告しろよ」
水野の声がでかくなり、俺の耳にもちゃんと聞こえた。
待てよ、山下は昨日で辞めたんじゃなかったのか?
さっき岩崎が俺に説明したばかりなのに、何故、水野は山下の件でこんなに荒れているのだろうか?
とりあえず俺は聞こえないふりをして、煙草を吸いながら全神経を耳に集中させた。
「どうすんだ、あの二十万。鳴戸が来たら大変だぞ。これ以上、俺の立場を悪くするなよな。おいっ、岩崎」
「すいません。鳴戸さんが来たら、俺が謝っておきます。まさかあんな奴だとは思わなかったんで…。本当にすいませんでした」
一体、何の会話なのだろう?
二十万、鳴戸、山下をあんな奴……。
チンプンカンプンだ。
今、話しに出てきた人物、鳴戸……。
ちょっと話を聞いただけでも、鳴戸という人物が、社長の水野よりも格上といった印象を受ける。
二十万と山下に、何か結びつきがあったのだろうか?
プルルル…、店の電話が鳴る。慌てて岩崎が電話に飛びつく。
「お電話ありがとうございます。ダークネ…、はっ、はい。そうです、岩崎です。はい…、はい…、すいません」
「鳴戸か?」
水野の問いに、無言でうなずく岩崎。顔面が真っ青になっている。人間の表情がこうも極端に変化するものなのか。もし岩崎が、演技でやっているとしたらアカデミー賞ものだ。
「はい、水野さんは今、店にいます。はい…、かしこまりました」
岩崎が受話器を置くと、店の中には何ともいえない緊張感が漂っていた。鈴木はまだキッチンから出てこない。水野と岩崎の表情はとても暗い。
仕事初日の俺が、何をしていいかわからずキョトンとしているのに、まったく目に入ってない様子だ。とりあえず立ち上がり、雑巾をよく絞ってから、ゲーム台の上を雑巾がけしてみることにする。店の中の空気は、その場にいて何もしないでいられるほど、落ち着いたものじゃなかった。
「おお、赤崎君、気が利くなー」
「いえ、まだ何も分からないので、これぐらいして当然です」
手を動かしながら水野に答える。内心はこれから何が起こるのか、ちょっと怖かった。この店の雰囲気をたった一本の電話で変えた鳴戸という人物。怖そうなイメージしか湧かない。
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