岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿セレナーデ 12

2019年07月19日 12時42分00秒 | 新宿セレナーデ

 

 

新宿セレナーデ 11 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

小説を書き始めてから二週間が過ぎる。執筆途中で何度も面倒臭くなり、投げ出しそうになった自分がいた。自分で適当に三百枚ぐらい書けばいいと思っていたが、未だ百枚まで...

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 俺がピアノを始めたのは、デュークの夢を見てからだった。ひょっとしたら、彼がこうして俺を導いてくれたのかもしれない。
 あの占い師の言う事が本当なら、今すぐそばにデュークはいるのだろうか?
 それなら俺のピアノを聴かせてやる。君に比べると話にならないレベルだけど、それでも聴いてくれ。
 ゆっくり深呼吸をして心を落ち着かせる。キーボードの電源を入れ、ザナルカンド、月の光の途中までを弾く。
 何度も繰り返し弾き続けたザナルカンドは完璧だった。発表会で弾く月の光は、数回ミスをしてしまう。ピアノって本当に正直だ。誠心誠意向き合わないと、綺麗な音色を奏でてくれない。当日まで練習あるのみ。
 その時、携帯が鳴った。見るとメールが一件届いている。
「……!」
 自分の目を疑い、何度もゴシゴシとこする。秋奈からのメールだった。
《まだずっとピアノを頑張っていたんですね。ピアノ発表会、よろしければ私、見に行きたいと思っています。 秋奈》
 彼女が俺の演奏を観に来てくれる?
 嘘だろ……。
 何度も頬をつねってみた。痛い。夢でもない。
 短い文章の中に凝縮された彼女の気持ち。俺は意識が飛びそうなぐらい嬉しかった。
 冷静に考えてみる。今度の発表会、俺は月の光で出場する。秋奈へ捧げる曲ではない。できればザナルカンドを弾きたかった。
 しかしクラシックを一生懸命教えてくれる先生に対して、俺の私情で発表曲を変えるなんて今さらできやしない。
 大舞台でザナルカンドを秋奈へ捧げられたら、どんなに素敵な事だろう。彼女はどんな顔をするだろうか。
 こうなったら発表会までの僅かな期間を俺はピアノにすべて集中しよう……。
 そうじゃないと、月の光は完成しない。

 秋奈へメールを打った。今の自分の素直な正直な気持ちだった。
《ありがとう。本当にありがとう。心から嬉しい。君が見に来てくれるって聞いて、涙が出そうになった。でもその日、俺は月の光を弾く。君に捧げる曲ではない。君には本当に捧げたい曲があるんだ。発表会が終わったら、俺と一緒に時間を過ごしてほしい。そこで初めて君にピアノを捧げたい。ずっとせつなかった。ずっと寂しかった。だから俺と一緒に時間を共有してほしい。何度も言わせてもらう。秋奈、君が俺は大好きだ。発表会まで連絡はいらない。当日、会場で待っているよ……。 神威》
 余計な事まで書いたかな。でも本当の気持ちだった。秋奈にもその覚悟がほしかった。俺は格好をつけたかっただけなのか。よく分からない。あ、小説の事も付け足そうかな? いや、無駄に長くなる。やめておこう。俺は『新宿クレッシェンド』が完成した事はまだ黙っておく事にした。
 もうこれ以上、失うものは何もない。自分自身へのけじめだったのかもしれない。俺は『ノクターン』へ、ピアノを習いに行った。
 部屋でも月の光をとことん弾き続けた。それしか方法がなかった。起きている時間の間、飯、トイレ、風呂以外の時間は、出来る限りピアノを弾いた。自分でも聴き飽きるぐらい月の光に没頭した。
 長い曲だった。時間にして四分半ほどの曲。楽譜の読めない俺は、ひたすら暗記をするしか方法がなかった。指に染み込ませ、目で覚え、耳で音を確認する。
 三十歳を過ぎてからピアノを始め、すでにふられている女を追い駆け続ける裏稼業の男。世間的に見たら、阿呆なんじゃないかと思われるだろう。どう思われてもいいさ。俺は月の光が弾きたい。
 魂を削って……。
 よくこの表現が使われるが俺は今、魂を削っているのだろうか。分からない。
 魂って何だ?
 それを削るって何だ?
 すべてを捧げるという事なのか……。
 視界にはピアノの鍵盤しか映らない。
 月の光を弾く俺の行為。自分でも異常だと感じていた。でももう遅い。とまらない。俺はピアノにどっぷり浸かっている。
 生活をするのに必要な事以外、俺はピアノを弾いた。一つ一つの音を丁寧に、そして想いを込めて弾く。
 ピアノは俺の想いを音として表現してくれる。
 睡眠時間さえ削った。
 風呂も滅多に入らなくなった。湯船に浸かる時間があったらピアノを弾きたかった。
 飯も空腹感さえ満たしてくれればそれでいい。
 弾きながら意識を失うようしてその場に倒れる日々。
 すべてのベクトルを指先に……。
 最近、俺のピアノの音は狂気を帯びている。自分でそれが分かった。
 月の光が弾きたい。
 今の俺にはそれだけだった……。
 秋奈からの返事は、まだない。

 上にあるゲーム屋『グランド』の事実上のオーナーである渡辺。珍しく彼が『マロン』へ顔を出した。俺がいるのを確認すると、妙に笑顔で近づいてくる。
「神威さん、実はお願いが……」
「どうしたんです?」
 何故か渡辺はパソコンを持参していた。先日の醍醐の話が頭の中をよぎる。
「神威さんってDVDをパソコン使って、そのままコピーしたりする事できるじゃないですか」
「ええ、それが?」
「その技術を私に教えてほしいんです」
 彼はパソコンの事で、俺に教えを乞いに来た訳である。
「別に構いませんが」
 俺は醍醐の話を聞いていないふりをして接する事にした。
「ちょっと最近不景気でして、ネットオークションで私の持っているジッポのコレクションをちょっとずつ売っていたんです」
「ジッポ? ジッポってあのライターのですか?」
「ええ、そうです。千九百三十三年…。この年にジッポーは初めて販売されだしました。その数は約千五百個とも言われています。私、実はこの内の一つを持っています」
 妙に気取りながら話す渡辺。しかし彼は、醍醐の名義料を使い込んでいる……。
「さすがにそれを売りに出す訳にはいきませんが、そこそこ値打ちのあるジッポも以前コレクションしていましてね」
「はい」
「それがネットで、七万とか十二万とかで売れたりするんですよ」
「へえ、そういうもんなんですね」
 マニアからしてみれば、いくら出しても欲しい物があるだろう。
「でも、売りに出すジッポもそろそろ底を尽き始めましてね。そこで神威さんのパソコンの技術を少しでも習いたいなと思いまして……」
 要するに金がなくなったという訳か……。
「そうそう、神威さん。お腹減ってませんか? うなぎ食べましょうよ。私、おいしいところ知っているんです。ちょっと電話借りますね」
 渡辺は半ば強引にうなぎ屋へ出前を頼み、うなぎダブルを二人前と注文していた。
 ウナギが届くまでの間、俺はDVDを焼く仕組みを詳しく教える。それと同時にその為に必要なアプリケーションソフトも渡辺のパソコンへインストールしてあげた。
「これでやり方、分かりましたか?」
「ええ、分かりました。もし自分でやってみて駄目な時は、また連絡します。あ、うなぎ来ましたよ。食べて下さい。うまいんですよ、このダブルが」
 渡辺はそう言いながら、出前持ちに八千円を渡した。一人前四千円もするのを頼んだのか? フタを開けると特上のうなぎが縦に通常の二倍入っていた。確かに豪華なうな重である。
「いただきます……」
 確かに高額な値段だけあって非常にうまい。しかしいまいち喉の通りが悪かった。
 お礼は言っておいたが、そんな金あるなら醍醐に名義料払ってやればいいのにと思う。まあ他人事に、そこまで首をつっこむつもりはない。
 これは近い内ひと波乱ありそうだ。俺は帰り際の渡辺の後ろ姿を見ながらそう感じた。

 ドビュッシー作曲月の光も、完成まであと僅かである。
 俺は再び歌舞伎町へ仕事に行く時もキーボードを持参し、裏ビデオ屋『マロン』で客のいない時は曲を弾いた。地下から奏でる月の光。外を通る人々は、奇妙に思っているだろう。
 数名の階段を駆け降りる音が聞こえた。客にしては変だ。
 入口をボーっと眺めていると、十数人のヤクザ者がいきなり店内に入ってきた。俺は演奏を止め、立ち上がる。一体何の騒ぎだ? 尋常ではない。客がいない状態でよかった。こんな状況を目の当たりにしたら、ビビッてこの店には一生来なくなるだろう。
 ヤクザ者は店内をキョロキョロ見回してから、俺しかいないのを分かると口を開いた。
「おい、ここのケツモチどこだ?」
 パンチ頭の目つきの悪い若僧が、粋がりながら凄んでくる。
「はあ?」
 俺が惚けた様子でワザと答えると。いきなりテーブルを蹴飛ばすヤクザ者。大人数でいるからって何を思い違いしているのか?
 ゲーム屋時代、組を破門になり行き場のなくなったヤクザがよくこのような手口で店に入り、従業員を脅かして金をせびるやり方は色々見てきた。しかし今回目の前にいる人数はどう見ても十五名はいる。訳が分からなかった。
「ここのケツモチどこだって聞いてんだよ、コラ」
 顔面神経痛に掛かったような面で俺を睨むヤクザ。迫力も何もない。こいつ一人なら、半殺しにしていただろう。
 それにしてもここのケツモチか。弱った。北方がいつも話をはぐらかすから、俺は本当に何組がケツモチなのかを正確に知らない。
「う~ん、どこなんでしょうね。その前にこういう事されると、思いきり店の営業妨害なんですけどね」
「舐めてんじゃねえぞ、コラ!」
 再度テーブルを蹴っ飛ばす若僧。もし俺のキーボードに少しでも触れたら、覚悟しておけよ。俺は堂々と相手の目を見ながら静かに言った。
「昨日入ったばかりなんで、分かりませんね」
「ふざけてんじゃねえぞ、おい? 俺はどこがケツモチなんだって聞いてんだよ?」
 一生懸命粋がっているが、こいつ、喧嘩弱そうだな。
「だから本当に知りませんって」
「おい、兄ちゃん。筋者舐めてんじゃねえの?」
「別に舐めちゃいませんよ。あとで社長に聞いておくんで、連絡先の名刺もらえますか? 責任持って、俺が電話しますから」
「この野郎……」
 どんなに凄まれてもしょうがない。だって本当に知らないんだから。
 パンチ頭の若僧が先頭で俺を睨み、その後ろで十名以上のヤクザが一斉に俺を見ている。嫌だなあ、こういうのは……。
 ヤクザ者に喧嘩など売るつもりはない。だからといって変に媚など売りたくもなかった。このような傍若無人な振る舞い。あまりしつこいようなら俺も、ある程度の覚悟を決めねばなるまい。
「名刺…。とりあえず名刺をもらえまますか? 別に喧嘩を売ってる訳じゃありません。本当に昨日入ったばかりで何も知らないんですわ」
「オメーよ?」
「もういい。駄目だ、これ以上言ったって」
 後ろから四十台ぐらいの貫禄ある男が前に出る。
「おう、兄ちゃん。名刺置いてくわ。ちゃんと連絡せいよ」
「分かりました」
 俺が名刺を受け取ると、ヤクザ者たちはズラズラと店を出て階段を登っていった。組の名前を見ると、『富士見興業』と大きな字で書いてあり、電話番号まで乗っていた。ヤクザの名刺って金を掛けてんだなあと、妙なところで感心する。
 あのパンチ頭の若僧。道端で会ったら後ろから急襲してとっちめといてやろう。

 先ほどの騒ぎを聞きつけたのか、ちょっとして笹倉連合の組長である岡村がやってきた。
「何かあったんかいな? 妙に騒々しいなあ思うて窓から道路見たら、富士見興業の奴らがドヤドヤとビルから出てきたからどないしたんやと思うてな」
「何だかここのケツモチはとか、妙に興奮してましたね」
 俺はそう言いながら富士見興業の名刺を岡村へ見せる。
「確か北方はんのところは橘川一家やろ。あの人、そんな事も言うてへんのか?」
「ええ、困りますよね」
 ひと言北方が俺にちゃんと言っておけば、あんな目に遭わずに済んだはず。俺は北方の顔を想像し、思いきり殴りつけてやりたかった。
「それにしても神威はん。あんた見事なもんや。全然ブルってないのう」
「まあ、そこそこ修羅場は潜ってますからね」
 もっと辛い世界に俺はいた。大和プロレスの合宿。あそこは本当に地獄だった。
「うちの業界に本当来てほしいわ」
「勘弁して下さいよ。そんな甲斐性なんてありませんから。買いかぶり過ぎですって」
「いや、あの人数にビビららん奴なんて、なかなかいまへんや」
「いえいえ、本当怖かったですよ。でも、ここって橘川一家だったんですか」
「何ならワイが話をつけたろか?」
 親分の気持ちだけで充分嬉しかった。
「いえ、自分で電話しますって言っちゃったんで、自分で言いますよ」
「ほれ、ええ根性しとるやんけ。ま、何かあったら気軽に声を掛けてや」
「すみません。気に掛けていただいて」
「な~に、神威はんにはパソコンの事とか色々世話になってますからのう」
「大した事じゃありませんよ。逆にこっちがいつもお世話になってますから」
「あ、そうや。神威はん、腹減ってへんか? 昨日ゲームでえろう勝ってな。神威はんに昼飯奢ったるわ」
「そんな、申し訳ないですよ」
 懐の深い親分だなとつくづく感心する。北方は今まで一度だって奢ってくれた事もない。逆に俺が何か差し入れをしているぐらいだ。
「ええからええから、食っとき。そや、『まる平』のそば食おうや」
「分かりました。いただきます」
 岡村は出前を二人前頼み、俺の分までご馳走してくれると言う。
 そういえば『まる平』といえば、あの小柄な出前のオヤジが来るのだろうか? 以前山田が面白がって楽しんでいたが、ここしばらく頼んでいない。
 他愛ない世間話をしながら、俺と岡村はそばの出前を待つ。何でこんないい人がヤクザになったんだろうな。不思議でしょうがなかった。
 足音が聞こえ、『まる平』の小柄なオヤジがやってくる。オヤジは俺の横にいるのがヤクザの組長だと知らずにそばを置くと、「これから歌舞伎町は荒れるぜ~。何たってヤクザ者同士の抗争が始まりそうだからなあ」と訳の分からない事を言っていた。
 出前の仕事が終わったんだから、さっさと帰ればいいものを……。
「へえ、どこの組か分かるの、オヤジさん」
 岡村も悪乗りして笑いながら質問をしていた。オヤジは神妙な顔つきになり、「そうだなあ、笹倉と沖田。あそこは一発触発だな」と腕を組みながら偉そうに話し出した。
 目の前にいる男が笹倉連合の組長だと知ったら、おそらく腰を抜かすだろうな。それにこのビル内のある組二つがどうして一発触発なのだろうか。俺は吹き出しそうになるのを必死に堪える。
 ひと通り喋り終えると、オヤジは『マロン』にある缶コーヒーの入った透明の冷蔵庫をジッと眺めだした。
「おっ! ここのコーヒーって本当うまそうだな~」
「え?」
「いや、ここのコーヒーはうまそうだ」
 素直に欲しいって言えばいいのに……。
「おじさん、いいよ。持っていきなよ。まだ外も暑いし喉も渇くでしょ?」
「おお、悪いね~」
 そういうとオヤジは両手に缶コーヒーを一つずつ持ち、急いでポケットへしまう。油断も隙もないオヤジである。
『まる平』のオヤジが店を出て行くと、俺と岡村は腹を抱えて大笑いした。

 ずっと嫌々仕事をしていたように思えるが、気がつけば俺はこのビルの住人たちと妙に馴染んでいた。居心地の良ささえ感じる俺。本当にこのままでいいのだろうか?
 時間だけは過ぎていき、ピアノ発表会の時期が刻々と近づく。
 あれからまだ秋奈からの連絡はない、果たして本当に来てくれるのか? 発表会はある意味、俺の秋奈へ対する想いの集大成の場でもある。
 裏稼業でしか自分を活かせない俺。当初はそんな自分に恥ずかしさをずっと感じていた。だから自分の仕事を偽り、絵を描き、ピアノを弾いてきた。挙句の果てには小説まで書いてしまった。
 秋奈への想い。これだけは本当である。すべて彼女へ格好つけたいが為にやり始めた事なのだ。
 発表会へ来てくれよな……。
 祈る気持ちでいっぱいだった。毎朝少し早起きして、『ノクターン』で月の光を一時間だけ習い、新宿へ向かう日々。休みの日はずっとキーボードを弾いた。
 何度も秋奈へメールしようと思った。その度、野暮な真似はよそうと歯止めを掛ける。やるだけやった。その点だけは自信を持って言えたからだ。
 今は月の光を完成させる事だけに、意識を集中させればいい。
 今日もレッスンを終え、急いで歌舞伎町へと出勤する。
 西武新宿駅へ到着すると、走って『マロン』まで向かった。
「ん、何だ?」
 いつもなら薄暗い階段に明かりがついている。こんな時間から北方が、店に来ているのか? いや、それはありえないだろう。俺はゆっくり足音を立てないように階段を降りていく。
『マロン』のドアは開いており、明かりが見える。誰かがいる気配も感じた。
 覗き見るように中を伺う。すると奥の椅子に座る北方の姿が見えた。随分と早い出勤だな……。
「おはようございます」
 店内へ入ると、北方以外に『グランド』の店長の醍醐と、そこのオーナーである渡辺の姿が見えた。嫌な予感がした。とうとう来るべき時がきたのだ。
 考えられるのは一つ。醍醐の名義料を渡辺が使い込んでしまった件だろう。
 俺に構わず北方は口を開く。
「で、渡辺さんよ。どうするつもりだよ?」
「……」
「醍醐は先日俺とフィリピン行って、向こうで女を作っただよ。それまで溜めていた貯金も使い果たし、あの名義料しかないんだ」
「え、ええ……」
 渡辺の様子で、使い込みしたという事実が完全に分かる。頼むから、こんな重い話を朝から『マロン』でやらないでくれ。そう祈りたいが、もう遅い。
 そばで醍醐はずっと下をうつむいたまま、終始無言である。
「渡辺さん、もうこうなったら方法は一つしかないだよ。醍醐にそのまま店を譲る。まあ俺も下にいるから今まで通り面倒は見るから心配だよ」
 本当にこの北方はとんでもない事を平気で抜かす。醍醐に対してならまだ分かる。自分の金を使われてしまったのだから。しかし北方は何なのだ? 何一つ被害に遭っちゃいない。それどころか散々『マロン』を食い物にしてきたくせに……。
 本来の持ち主である渡辺を押し出し、一緒にフィリピンへ連れて行き、手なずけた醍醐を店のオーナーにしてしまう。これまで以上に好き勝手ができるはずだ。
 この分でいくと『マロン』を乗っ取られた野中同様、渡辺も『グランド』を乗っ取られる。しかも店のオーナーという事は、家賃やその他諸々の経費などは醍醐持ち。捕まった時の責任も醍醐。北方はうまい汁を啜るだけ……。
 しばらく渡辺は目を閉じ、何かを考えているようだったが、確かに答えは一つしかない。
「分かりました。良平に『グランド』を譲ります……」
 渡辺は深々と頭を下げ、『マロン』を出て行った。北方からすべてを毟られた男の後ろ姿。哀れにしか見えなかった。

 名義上は醍醐の店となった一階にあるゲーム屋『グランド』。実質、北方がより自分のやりやすいようになっただけに過ぎない。再び醍醐は北方へ連れられて、今度はフィリピンでなくタイへと旅行へ行った。女で骨抜きにするつもりなのだろう。しかも北方が金を出す訳ではない。もちろん自分の分は、自分で金を出す。
 裏稼業の世界にいた割には真面目に生きてきた醍醐。女に溺れ、借金にまで手を出す始末になる。
 北方は俺に店を任せ、頻繁に女を買いに海外へ行くようになっていた。ピアノ発表会の近い俺にとって、休みがなくなる事は非常に辛い。でも、そんな事お構いなしに北方は、傍若無人さを発揮してしる。
『グランド』の早番の山田がワザワザ下へ降りてきて、愚痴をこぼしに来た。
「神威さん…。北方さん、以前より酷くなりましたよ」
「今度はどうしたんです?」
「喫茶店のルノアールあるじゃないですか?」
「ええ」
「あそこでコーヒー飲んで領収書をもらい、たかだか数百円なのに自分でゼロを一つ余分に書き加えているんですよ」
「そんな事をして、何になるんですか?」
「その数千円にした領収書を持って、『これ、経費だ。早く金よこすだよ』って店から金を持っていく始末です」
「醍醐さんは何て?」
「あの人、完全に女に骨抜きされていますからね。定期的に連れて行ってくれる北方さんには頭が上がらないし、何も言えないんですよ。あの人、サラ金で百万ぐらい手を出しているみたいですよ」
 ちょうどその時階段を降りてくる足音が聞こえた。北方だった。
「山田、おまえ仕事中なのに何をしてるだよ?」
「いえ、あの…、失礼します……」
 逃げるように去っていく山田。北方は機嫌悪そうに椅子へ腰掛けた。
「あいつ、おまえに何を話していただよ?」
「いえ、友人の愚痴を言いに……」
「嘘をつくな! 何となく俺には分かるだよ」
 普段いい加減なくせに、こういう時だけ鋭いんだよな……。
「いや、実は…。山田さん、今月金がピンチなようでして、金を貸してもらえないかって相談に……」
 山田には申し訳なかったが、適当に信憑性あるような理由をでっち上げておく。金と女の事にしか興味のない男だ。こう言えば納得すると思ったのだ。
「馬鹿な奴だ。金なら俺が貸してやるのになあ」
 おまえから借りたら例え従業員だったとしても、月に一割の利息を取るだろうが。この店『マロン』を野中から乗っ取ったように、『グランド』も乗っ取るつもりの北方。当初山田が言っていた台詞、「北方さん、金に関しては悪魔ですから」。その事がこの数ヶ月で嫌というほど理解できた。
 仕事終わりの時間になり、北方は『デズラ』を渡す前に、俺に質問をしてきた。
「おい、神威。お金ってのはどうやったら溜まるか分かるか?」
「使わない事じゃないでしょうかね」
「馬鹿野郎。だからおまえは駄目なんだ」
 ふざけやがって、誰がこの店の売り上げを数倍にも増やしてやったと思ってんだ。この男には感謝という心がまったくない。
「どうやったら金が溜まるか、教えてやるだよ」
「いや、結構です」
「いいから聞くだよ」
 これだけ自分本位に生きられたら幸せだろうな。いや、それは違う。こんな小悪党を野放しにしておくのはいけない。
「いいか? 金ってのはなあ、奇麗な札は使っちゃいけねえんだ」
 バックから、新品の三百万の札束をあえてテーブルの上に置く。何度も嫌ってほど見てきているよと言いたかった。
「で、汚い金な。それは使ってもいい金だよ」
 そう言いながら、北方は売り上げの中から金を吟味し始める。二十万円の中から破れたり薄汚れたりした札を五枚ほど抜き出し、さらに何度も隅まで見返す。
「そうすればな、金ってのは必然的に溜まっていくもんだ」
 北方は一番薄汚れ、しかも真ん中に切れ目がありセロテープで貼りつけてある一万円札を手渡してくる。
「……」
 この野郎……。
 そんなくだらない事を言いながら、俺には一番汚い札をよこすなんて、本当に舐めていやがる。ここまで屈辱を実感させてくれる奴など、そうはいない。
「もう帰っていいぞ」
「お疲れさまです……」
 こんな男に雇われているという事実が、非常に悔しかった。

 発表会まであと三日……。
 休みの日、俺は月の光を何度も繰り返し弾いた。すべて暗記なので、途中で何度か音を失敗する。悔しかった。これだけ時間もかけ、頑張っているのに何故完璧に弾けないのだ。自分自身に腹が立つ。
 実際のドビュッシーの演奏の寂びの部分は、どの演奏者も軽く淡々と弾いていた。俺はこの部分に対して、少し違うんじゃないかと思っている。寂びの部分だからこそ、もっと力強く気持ちを込めて弾いてもいいのではないか。
 自分の発表会だ。自由に思うまま弾いてこよう。
 もう、ここまでやれるだけの事はした。あとは明日に備えて、ゆっくり睡眠をとっておく事にしよう。
 
 また、デュークの夢を見た。
 いつも彼は屋根裏部屋でピアノを弾いている。
 ピアノで世に出たい。もっと多くの人に自分のピアノを聴いてもらいたい。そんな想いが痛いほど伝わってくる演奏。彼は身を、魂を削りながら、ピアノを弾いていた。
 必要最低限の生活。もっとおいしいものを食べればいいのに……。
 彼はフランスパンをちぎり、口に放り込んで簡単な食事を済ませる。
 花売りの女性が言っていたように結核なのか、いつもデュークは咳をしていた。
 今日の彼は、咳がいつもより激しい。
 構わずにデュークはピアノを奏でる。信念を持ちながら威風堂々と弾く。
 演奏途中、彼は激しい咳で屈みこんだ。
 彼は苦しいのか顔を苦痛に歪め、それでも演奏を続ける。
 やめろと、俺は止めたかった。
 咳がどんどん酷くなる。それでも彼の演奏は止まらない。
「デューク……」
 俺は、彼を見ながら呟いていた。
 彼は大量の吐血をし、真っ白な鍵盤を赤色に染めていた。もう体が限界だったのだ。ずっと病弱な体に鞭を打ちながら頑張ってきた。そのツケが一気に、ここできてしまったようだ。
 彼の大事にしていたピアノは、彼の吐血で真っ赤に染まっている。鍵盤からしたたり落ちる血は、まるでピアノが泣いているように見えた。
 デュークは自分が吐血した事に目を丸くしながら、真っ赤になった鍵盤を見つめている。
「……」
 それでも彼は中断した曲をまた弾き始めた。血で滑るのか、彼らしくない音が聴こえた。
 彼の顔に生気がなくなっていく。ピアノを弾く綺麗な手も、徐々にスローモーションのようになり、やがて止まった。それでも手を動かそうと小刻みに震えている。
 カッと見開いた彼の目。その姿には、無念さと哀愁がいっぱい詰っていた。
「よ、世に…、世に出たぃ……」
 デュークはピアノの鍵盤の上に突っ伏すように倒れ、そのまま動かなくなった。
 壮絶な最後だった。
 そんなに世に出たかったのかい。
 さぞかし無念だったろう……。
 彼は、自分のピアノをもっと色々な人に聴いてもらいたかったのだ。
 ピアノに突っ伏したまま、まったく動かないデューク。辺りは彼の吐血した血で、真っ赤になっていた。
 無名のピアニストの壮絶な最後。
 でも大好きだったピアノのそばで亡くなったのは、彼にとって幸せな事だったのかもしれない。

 飛び起きて時計を確認する。まだ、朝の四時四十四分だった。
 デュークの壮絶な最後の夢。俺は何故こんな夢を見たのだろうか。デュークが自分の亡くなる瞬間を知ってもらいたかったのか。
 彼の無念さが痛いほどよく理解できた。俺はいつの間にか泣いていた。
 あの占い師が言っていた事は、すべてに繋がってくるような感じがする。
 ピアノ発表会まであと二日。もうちょっとで秋奈に逢えるんだ……。
 もう一度、目を閉じて眠る事にした。

 あと二回『マロン』に出勤して、発表会へ臨む俺。集中力を継続させる為、強引に休んでおけばよかった。新宿へ行きながらそんな後悔を覚える。
 デューク……。
 あんな人生で君は満足していたのかい?
 今朝見た三度目の夢。彼の壮絶な最後は、未だ脳裏にハッキリと焼きついていた。
 以前道端で会ったあの不思議な占い師。彼女の言った事は本当なのだろうか?
 デュークが俺の前世だなんて……。
 悲しいまでの執念。世に出たいと切実に想い、結核を患いながら毎日を必死に生きてきた。ピアノの腕があれほど素晴らしいというのに、彼の望み通りスポットライトを浴びる事はできなかった。
 それに比べ、秋奈に捧げる事が目標の俺は何て小さな人間なのだろうか。それはしょうがないか。この俺の現状がそれで精一杯なのだから……。
 チンケな演奏かもしれない。それでもデューク、どこかで俺を見てくれているというなら、魂を注ぎ込み、誠心誠意ピアノを弾かせてもらうよ。
 多分君が世に出たいって想いと同じぐらい、俺だって秋奈の事が好きなんだ。比重はまったく違うかもしれない。でもさ、想いを込めるという点では同じだよな?
 君ぐらいのピアノの腕が心の底から欲しいよ。そうなるまでにどのぐらいの年月を掛けてきたんだい?
 夢の中でしか君の演奏は聴いた事がない。それでも俺は本当に感動し、体が素直に震えたんだ。
 だから発表会は、俺の演奏を逆に聴いてくれよな。
 腕は雲泥の差かもしれないけど、俺も君のように魂を削りながら弾くよ。
「……」
 何で俺は、いつも間にかデュークへ語りかけているような感じになっているのだ?
 まあ何でもいいや。どちらにせよ、発表会まであと二日しかないんだ……。

 裏ビデオ屋『マロン』へ到着する。テーブルの上には吸い終わったタバコが山のように積み重ねられていた。北方の野郎。本当にあいつは掃除をするという概念がまるでない。全部他の人間が勝手にやってくれると思っているのだ。一体、何様のつもりなのだろう。
 今まで出会ってきた人間の中で一番嫌いなタイプの人間だった。
 金に対する貪欲過ぎる執着心。
 人間を雇うでなく、飼うといった表現がこれほど似合う男も珍しい。
 善意で何かをしても当たり前と思うだけで、何一つ感謝というものがない。
 それでいてヤクザ者などが文句を言えないよう媚を売るのだけはうまい。
 自分の利益になる事なら、どんな人間も利用する。
 他人がどんな不幸になろうが、自分さえよければいい男。
 この店を乗っ取られ、仕方なく毎日を生きる倉庫の野中。「悔しくないんですか?」と俺が言っただけで彼は静かに泣いていた。あんな生活を自ら望んでしている人間なんて、誰もいやしない。北方と出会ったばかりに、あのような目に遭ってしまっているだけなのだ。
 許せないが、今の俺ではどうする事もできなかった。毎日こんな歯痒さと戦っている。
 俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、電源を入れる。
 ザナルカンドをゆっくり弾きだした。
 このやるせない現状を抜け出したい。音を奏でる事で忘れたかった。
 昼の三時ぐらいになって北方がやってくる。
「またおまえはキーボードを持ってきてるのか?」
「もうじきピアノの発表会がありますからね」
 俺がそう言うと、北方は鼻で笑いながら呆れた表情を見せる。
「まあ、別におまえの趣味だから、どうこう言うつもりはないが」
 あきらかに小馬鹿にされている。そう感じると腹が立ってきた。
「俺はこれから麻雀に行くから、あとは頼むだよ」
「分かりました。野中さんの休憩は?」
「たまにはいいだよ。毎回毎回じゃつけ上がる」
 何て言い草だろうか。だがこいつに何を言ったところで、何の意味もないか……。
 北方が店を出ると、俺は再びキーボードを弾き始めた。
 ピアノはやればやっただけ、音色が証明してくれる。あんな男に理解してもらおうと始めた訳じゃない。秋奈にさえ伝われば、俺はそれで満足だ。
 しばらくして客が二人入ってきた。妙に体格のいい客だった。
「ん?」
 どうも変だ。店にある裏ビデオのファイルを見る訳でもなく、色々な場所をチェックするかのように見回っている。
「あの…、何か用でしょうか?」
 客はいきなり警察手帳を取り出した。目の前が一瞬真っ暗になった。
 ふざけんじゃねえ……。
 あと二日で俺はピアノ発表会なんだぞ……。
 こんなところで捕まりたくない。
「おっと動くなよ」
 刑事二人組はそう言ってニヤリと笑った。

 こんなところで働く自分を悔やんだ。
 何故俺はあんな男の下で、いつまでもこうして働いていたのだろうか?
 いくら悔やんでも悔やみきれない。
 暴れて逃げるか?
 いや、さすがに無理だ。テーブルの上には俺のパソコンとキーボードがある。これを置いていけと言うのか? それにパソコンの中身を調べられたら、一発で俺の身元など割れてしまう。
「店に物は置いてないのか?」
「……」
「とっとと話せ! すぐに署へ持ってくぞ?」
 威嚇するように刑事は怒鳴りつけてくる。
「置いてありません……」
「倉庫から運びタイプの店か。倉庫はどこだ? 言え」
「き、昨日入ったばかりなので俺は何とも分かりません」
 俺はいきなり胸倉をつかまれた。
「昨日入ったばかりだ? おまえ、警察をおちょくってんのか?」
 ヤクザと警察の対応は本当に似ている。
「おちょくってなんかいませんよ。昨日入ったばかりで、俺は何も分かりません」
「チッ、このガキが!」
 俺を尋問していた刑事が手を離す。もう一人の刑事はコードレス電話の子機を調べていた。まずい…。中に『ソウコ』と書かれた番号がある……。
 俺は以前からこの事を北方に散々忠告してきた。
「北方さん、この『ソウコ』って入れるのやめときましょうよ?」
「何でだよ」
「まんまじゃないですか? 警察来た時どう弁解するんですか?」
「別の名前じゃ、俺が分からないだよ」
 そう言ってまったく取り合ってくれなかった北方。だからこういう時を想定して言ってきたのに……。
「おい、この『ソウコ』って何だ?」
「知りません」
「ふざけんじゃねえ! おまえ、ここに電話をしろ」
「するのは構いませんが、俺、場所とかまったく知りませんよ?」
「いいからしろ!」
「はいはい…、分かりましたよ」
 仕方なく野中のいる倉庫へ電話を掛けた。遠回しでいい。名義人を呼んでもらわないと。このままじゃ、俺は捕まっちまう……。
「はい」
 野中が出る。
「あ、すみません。『マロン』の神威です」
「そんなの分かってるよ。注文? DVD? ビデオ?」
 馬鹿! そばで刑事が聞き耳を立てているっていうのに……。
「あのですね! 今、お店に警察の方々がいらしてましてね……」
 俺は大きな声で分からせるように言った。
「……」
 野中は無言になる。
「それでですね、社長の浦安さん、呼んでもらえませんか?」
「何を言ってんだよ? 浦安はとっくに飛んだじゃねえか」
 やっぱり…。北方のクソ野郎。何が名義人だ。こんな事だろうと思ってはいたが……。
「だ・か・ら~! 社長に連絡をつけて下さいよ!」
 遠回しに北方へ連絡をして、何とかしろと伝えているつもりだった。
「知らないよ。あいつはとっくに辞めたじゃねえか」
「だ・か・ら~! 社長にって何度も言ってんでしょうがっ! 連絡して下さいよ!」
 早く北方へ連絡しろって……。無性にイライラしていた。俺はこんな状況なのに、北方をかばっているのだ。
「知らないよ! 俺、携帯の番号なんて知らないって!」
 ガチャン……、ツー…、ツー……。
 信じられない。野中の奴、電話を切りやがった……。
 俺は子機を地面に叩きつけ、観念する事にした。本当についていない。
 発表会が目前だというのに……。
 悲しそうな秋奈の横顔を思い浮かべた。

 

 

新宿セレナーデ 13 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿セレナーデ12-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)俺がピアノを始めたのは、デュークの夢を見てからだった。ひょっとしたら、彼がこうして俺を導いてくれたの...

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