朝起きると、顔がかなり腫れていた。
色男が台無しである。
まあ一日も経てば腫れは引くだろう。
会社に連絡して今日は有休をとる事にした。
さすがに喧嘩ではと言えないので、急な体調不良と伝えるだけにしておく。
キッチンで朝食を作る美和の後姿を眺める。
こいつと付き合いだして一週間。
たかが一週間。
されど一週間……。
こいつを守る事ができて本当に良かった。
あの時何かあったら、俺は人間として失格である。
美和は幸せそうに微笑みながら、次々と料理を運んできた。
野菜たっぷりのミネストローネスープ。
綺麗に彩りも考えたサラダ。
ハムとチーズを挟んだクロワッサン。
ベーコンがたくさん入ったジャーマンポテト。
トマトとモッツェラレラチーズのサラダ。ほうれん草のおひたし。
目玉焼きと、朝から非常に豪華な食事になったものである。
「そんなに食えないよ」
俺が笑いながら言うと、美和は嬉しそうに笑った。
しかしこうやってゆっくりと朝食をとるのは、本当に久しぶりだった。
たまにはこういうのも悪くない。
「美和、おまえ仕事は?」
「うん、雷蔵が休むと思ったから、私、有休とっちゃったの」
「もし、俺がとらなかったら、どうするんだよ?」
「そんな顔じゃ、会社に行けないでしょ?」
「確かに……」
心の底から久しぶりに笑えたような気がした。
美和は化粧品屋に働いている。
少し吊り上がり気味の目だが、美和を見れば大抵の人間は綺麗だと思うだろう。
俺も食事の件に対しての口うるささと、怖いのが苦手という以外には何の問題もない。
少し甘ったれたような喋り口調。
厚ぼったい唇。
スタイルだっていいほうだ。
今までたくさんの女を抱いてきたが、これで中身もいいという女は稀である。
まだ、結婚を考える年ではないけど、もしするならこいつみたいな女が一番いいのかもしれない。
「おいしい?」
「ああ、うまいな」
「良かった」
テーブルに両肘をついて顔を支え、俺の食べる様子を見ながら微笑む美和。
そういや喫茶店での最初の出会いも、こいつはこうしていたっけ……。
あの時喫茶店は満席だった。
俺が一人でリラックスしながらコーヒーを飲んでいると、突然横に女性が立っていた。
「すみません、相席いいですか?」
俺は店内を見回す。
確かに満席だ。
パッと見、いい女だというのが第一印象だった。
「ん、ああ、どうぞ……」
「良かった……」
「え、何が?」
「満席で……」
「はぁ?」
一体何を言いたいのだろうか?
俺には意味が分からない。
満席で相席になったぐらいまでは分かるが、何故それがいいのだろう?
「あ、あの~…、おっしゃる意味が分からないのですが……」
俺がそう言うと、女性は恥ずかしそうに微笑んだ。
「あのですね……」
「はい?」
「私、美和って言います」
いきなりこんな状況で、自分の名前を名乗るのはどうかと思った。
お見合いなら分かる。
しかしこの状況は、喫茶店でたまたま相席になっただけなのだ。
「外を歩いていて窓越しに、あなたの姿が見えたんです。つい、中に引き寄せられるように入ってしまいました。そしたら満席で…。私、これでも今、緊張してるんですよ」
「……」
何て答えていいか、分からない。
確かに美和と名乗る女は、誰が見ても綺麗だ。
こんな女から告白めいた事を言われ、正直嬉しくも感じる。
だが、性格的にはどうなんだ。
この状況で考えるとデンジャラスな香りがしてくる。
「あ、一人ですみません…。ペラペラと……」
「いや……」
「実はですね……」
「ええ」
「以前からあなたの事が、気になってたんです……」
「はぁ?」
「よくここにいらしゃいますよね?」
「まあ……」
「私、窓越しにですけど、よく見かけていたんです。それでいいなあと思っても、なかなかきっかけがつかめなくて……」
「はぁ……」
俺はこの喫茶店の常連でもあった。
クラシカルな雰囲気が漂う店。
昔から建っているせいか、よく見かける常連客も多い。
近年漫画喫茶というものが主流になりつつある中、このような本来の喫茶店はどんどん無くなっている。
そんなに儲かる商売でもないのだろう。
ここのコーヒーがというよりも店の雰囲気が好きで、通っているようなものであった。
「それで今日こそはって、勇気を振り絞ったら……」
「満席だったと」
「はい……」
素直に嬉しく感じた。
俺にとっては初めてでも、彼女にとっては自分の中でとっくに出会っていたのだ。
確かに最初のおかしな言動も、ここまで聞けば理解できる。
「良かったら、何か酒でも頼むかい?」
「え?」
「ここは俺がもとう。偶然的な事が色々重なって起きた現実に、乾杯って感じかな」
「ありがとう……」
美和は、満面の笑みで喜んでいた。
何度かこの喫茶店で回数を重ねて、会うようになり、気付けば付き合うようになっていた。
腹も満腹になったので、レンタルビデオ屋へ行く事にした。
もちろん美和も一緒である。
昨日の公園を越えて、近所のレンタルビデオ屋に向かう。
公園を通る途中、昨日の変な臭いは全然しなかった。
店に到着すると、俺は真っ先にホラーものの置いてある棚へ進んだ。
怖がりの美和は新作コーナーに行くと言い、別行動を選択する。
ホラーもののDVDのジャケットを見るのも、嫌なのであろう。
まあいい、人はそれぞれ感覚が違うのだから……。
昨日の絡まれた件で、俺は美和との付き合いを前向きに考えているのかもしれないな。
一緒にホラー系を見られれば、本当に文句がないのだが……。
ホラーもののコーナーを見ていて、一つのDVDに目がとまる。
何十種類もあるのに、何故そのDVDだけ、自然と目がとまったのだろう?
不思議な感じがするジャケットのデザイン。
普通の背景が写っているだけの質素なジャケットだった。
その普通さが、気味悪く感じる。
『一般人投稿の不可解な映像』 …と、いうタイトルだった。
これだ。
これしかない……。
吸い寄せられるように、俺はそのDVDを手に取った。
ジャケットをしばらく眺め、説明書きの文章を読む。
普通の一般視聴者から当社に送られてきた不可解なビデオやDVD。
今回は多数の応募があった中から、三点の映像を選んでみた。
どの作品も奇妙というしか言いようがない。
さて、あなたはこの恐怖に堪えられるだろうか?
ゾクゾクするものがあった。
作り物なんかじゃない。
このような日常を映していたら、何故か不可解なものが映っていた。
そんな映像を俺は、ずっと待ち望んでいたのである。
実際に霊体験をした事のない俺。
こういう間接的な関わり方でもいいから、自分の欲望を少しでも満たしたかった。
「雷蔵、選び終わったの?」
棚の向こうで美和の声が聞こえる。
「ああ、いいのがあった」
俺は、『一般人投稿の不可解な映像』を借りて、レンタルビデオ屋をあとにした。
美和は新作のラブロマンスを借りていた。
「おい、おまえ、そんなもん借りたって、俺は見ないぞ」
「いいですよーだ。一人でこれは見るから」
「…と、言う事はだ。おまえ、こっちのホラーは一緒に見るって事だな」
「えー……」
「俺とこれからも、一緒にやっていきたいんだろ?」
「うん、それはそうだけど……」
「じゃあ、今回ぐらいは見るの、付き合えよ」
「……」
困った美和を見ながら、いじわるそうに笑った。
DVDプレイヤーにセットして、テレビ画面を見つめる。
ワクワクするものがあった。
俺の横で、美和は顔を強張らせながら緊張している。
『視聴者のみなさま方、こんにちは』
低音で静かな声のナレーションが流れ出す。
俺は耳を澄ませた。
『今回の一般人投稿の不可解な映像。それは普通に生活している一般の方が、日常の様子をビデオやDVDに納めておこうとした映像の集まりです』
ひょっとしたら、ただのクソビデオかもしれない……。
そんな予感が頭をよぎった。
『ただし、本作品に収められたその映像。それは通常の何気ない日常に、不可解なものが映りこんでしまった映像ばかりを厳選しました』
前置きが長過ぎるんだよ……。
少しばかりイライラしてくる。
ナレーションの声はハッキリとして聞きやすいのだが、話速度がゆっくりなので苛立ちを覚えてしまう。
『なお、このDVDは、お払いなど、特別に済ませておりません』
え……?
普通はしてなくても、お払いはしたとか伝えるものじゃないのか?
『これから映す三つの作品。これは我々の想像を超えた映像でした。もし、この作品を見て、視聴者の方に、何かしらの災いが訪れても、当社は一切、苦情等を受け付けません。それでもよろしい方のみ、これからの映像をご覧下さい』
うまい具合に脅し文句を使ってやがる。
少しは楽しめそうだ。
『それでは、心してどうぞ。最初の投稿作品は、Aさんからの投稿です』
薄暗かった画面は、急に切り替わる。
次に映ったのは、普通の部屋だった。
目線にモザイクのかかった三十台ぐらいの女性が出てくる。
下のテロップにAさん(仮名)と表示してあった。
「うちの娘が小学に上がったので、電子ピアノを購入しました。まあ、娘がピアノをやりたいと、自分から言ってきたので、ちゃんとしたピアノを買ってあげたかったのですけどね。娘は喜んで毎日のように弾いています」
辛気臭そうなA。
自分の娘の話をしているのに、少しも嬉しそうな表情は見せていない。
「はい、それからどうしたのですか?」
画面には映らないがAさんと対面するような位置に、インタビューの役割も兼ねてスタッフがいるのだろう。
こういった作品に、似合わない明るい声だった。
「ええ、娘が楽しそうに弾いているものでして、ビデオカメラで撮っておこうかなって、思ったのです。娘は鼻を膨らませながら、興奮して張り切っていました」
「そうですか」
「…で、そのあとの話なのですけど……」
「ええ」
「いまいち機械の使い方を私、分からなかったのです」
「ビデオカメラですか?」
「はい、そうです。もちろん、ちゃんと娘がピアノを弾いている姿は撮れました。そのあと、電源を切ったつもりで、テーブルの上に置いておいたのです」
「はい、それで?」
「カメラの方向は、電子ピアノを向いていていました」
「はあ……」
「誰もいない部屋で、ビデオカメラは無人のピアノを録画していました」
「ええ、それで?」
「あとで、録画した映像を家族で見ている時に気づきました」
「何をですか?」
「部屋の明かりの消えた状態で、映像に映っていました。薄暗いピアノが、誰もいないのに、勝手に音を鳴らしだしたんです」
Aさんの表情は、その時の光景を思い出したのか恐怖で歪んでいた。
「誰もいないのに、ピアノが音を…。そうですか。それではみなさん。これから、その不可解な映像を流したいと思います」
横で見ている美和は、ブルブルと震えていた。
無理もない。
どうしょうもないようなホラー作品でも、まともに見られないぐらいの怖がりである。
いくらインタビューが下手クソとはいえ、これから映し出される映像を正視していられるのだろうか。
強引に自分の趣味を付き合わせた美和に対し、少し哀れに感じた。
「おい、美和」
俺は一時停止ボタンを押した。
「な、何……」
「強引に押し付けたけど、無理して見なくてもいいぞ」
「でも……」
美和は不安そうな表情でつぶやいた。
「大丈夫だよ。あとで文句言ったりしないからよ」
「ほんと?」
「ああ、向こうで昼食の用意でもしてればいいよ」
「ありがとう」
嬉しそうな顔で美和は、その場から消えた。
よほど怖かったのだろう。
自分以外は誰もいない部屋。
これで美和を気にせず見られる。
俺は再生ボタンを押し、続きを見る事にした。
Aさんの映っている映像から、画面が切り替わる。
真っ暗な画面。
真ん中のほうから、奇妙な音と共に白い渦巻きみたいなものが、ゆっくりと出てきた。
―― 誰もいない部屋で勝手に音がなるピアノ ――
赤い文字で、テロップが浮き出される。
始めに映ったのは、Aさんの娘がピアノを楽しそうに弾いている映像だった。
たまに、撮影している母親のほうを振り返りながら弾く娘。
見ていて、幸せそうな雰囲気が漂っていた。
「はい、上手ねー。●●ちゃん」
一曲の演奏が終ると、Aさんの声が聞こえる。
振り向く娘の顔の目線には、モザイクがかかっている。
誰が見ても、母親に褒められて照れ笑いをしているのが分かるだろう。
何曲か演奏を弾いて、母親はビデオカメラをテーブルの上へ置いた。
「偉いわね、●●ちゃん。お腹、減ったでしょ?」
「うん」
「じゃあ、ママが腕によりをかけて、おいしいもの作るわよ」
「うん」
親子の会話はそこで終わり、部屋の明かりが消えた。
画面には薄暗い状態で、ピアノだけが映されている。
編集で手直しはしているので、実際にそこまでの時間はかかっていないが、そのままの状態で一時間は経っていた。
ホラーに興味のない人間が見たら、何てつまらないビデオだろうと思うはずだ。
それくらい何の変化もない映像だった。
ピアノの上に置いてあるくまのプーさんのぬいぐるみが、寂しそうに見えた。
突然、急にピアノを奏でる音が聴こえてくる。
何かの曲ではない。
ただ、単音をたまに鳴らしている。
そんな感じだ。
誰もいない部屋で、弾かれるピアノ……。
音に合わせて、鍵盤まで勝手に動いていた。
俺は少しだけ、背筋に冷たいものが走った。
いい……。
こういう映像を俺は望んでいたのだ。
音は不規則になり続けていた。
単音で、『ド』と鳴らすと、次は『ラ』『ファ』といった具合に……。
不思議な光景だった。
高級なホテルのティーラウンジとかなら、自動で鳴るピアノがるのは知っている。
ただ、今映っているのは普通の電子ピアノなのである。
もちろん電子ピアノだって、自動で曲を鳴らす機能がついたタイプもあるだろう。
しかしそれはあくまでも曲だ。
こんな不規則な音ではないはずだ。
十分ほど、その光景が映し出され、画面が切り替わった。
美和がこの映像を見ていなくて、本当によかったと感じる。
俺でも、少しばかり恐怖を感じたぐらいだ。
これは、残り二作品も相当期待できそうだ。
今頃美和は、キッチンで鼻歌でも歌いながら笑顔で料理を作っているのだろう。
Bさん(仮名)という、同じようなテロップで二作品目が始まる。
今度は四十代の男性だった。
当然目線にはモザイクがある。
「この作品を応募されたきっかけって、何なのでしょうか?」
「うーん、ワシはよー、霊だとか、お化けってのは、まったく信じない性質なんだわ」
「ええ。でも、それで何故、応募を?」
「仕方ないんだわ。ワシの飼っている犬なんだけども……」
「はい」
「それを散歩させている時、ビデオカメラ回してたらよー、おかしいんだわ」
「どのようにですか?」
「うーん、うちの犬。名前、コロって言うんだけども、撮っている時は何も思わんかったけど、あとで見たら、足、消えてんのさ」
「足…。そのペットの犬の足が消えてると?」
「ああ、そうなんだ。ただ、さっきも言ったべ。ワシは、霊とか信じんって……」
「はい」
「数日してから、コロが車に跳ねられてな……」
「……」
「どういう訳さ、知らんけども、コロの消えていた足が切断されてて……」
俺はまた、背筋に冷たいものが走る。
Bさんは、今にも泣き出しそうだった。
映像に収められたのを見た時、異変に気づいていれば、コロを助けてあげられた。
そんなせつない気持ちのような気がする。
「では、続いて映像に移らせてもらいます」
―― 事故の前触れか?ペットの足が消える ――
「ほれ、コロ。もっとさ、走れ」
田舎の田んぼ道を散歩する映像が映し出される。
真っ白な犬のコロ。
舌をハァハァと、出しながら懸命に走っている。
画面には映らないが、撮影者のBさんは自転車に乗っているのだろう。
コロの走るスピードで分かった。
しっぽを振りながら走るコロ。
Bさんの運転する自転車に負けまいと、頑張っている。
ひたすら田んぼ道を走る退屈な映像だった。
十分ほどして、コロの前足が消えたように見える。
後ろ足は、はっきりと映っていた。
前足だけが、見事に透明であった。
その前足が映っている部分に、景色が普通に映っている。
ただの映像トラブルというだけで、こんなに都合よくなるのだろうか?
消えていた時間は、だいたい一分ほど。
現代の映像技術を使えば、このようなものも作れるはずだ。
しかし、誰がこんなものを作って得をするというのであろうか?
実際にコロは、この数日後に車で跳ねられ、前足を切断して亡くなっているのである。
まるで、これから何かがあると、警告しているようにも見えた。
かなり大きめの犬だったが、Bさんは非常にショックだったであろう。
この映像のあとコロがこれから事故に遭い、両足を切断されるのだ。
見ていて奇妙に感じるDVD。
素直にそう感じた。
投稿作品自体は、不可解なものばかりだ。
ただそのあと、どうなったのか。
スタッフは投稿者に、何のアドバイスもしていない。
これじゃ、見世物にされたのも同然だ。
あとで、謝礼でも渡しているのだろうか?
しかし、これを借りてきて正解だった。
ベタなホラーなどよりも、このような作りのほうが面白い場合もある。
俺はそう感じた。
近年、ワーとか、ギャーといった驚かせばいいという作品が多くなっている。
ホラー好きの俺は、それでも楽しく思う。
しかし何故もっと刺激の強いホラーを求めるのか?
それは俺が、本当の霊体験を味わいたいからだ。
その点では、この作品はかなり合格ラインに達している。
少し物足りないといえば、実際に霊が映っていないところである。
薄暗い中、勝手に音を奏でるピアノ……。
散歩中に、前足が消えた犬……。
それだけなのだ。
あとは無駄な映像があるだけのDVD。
三つ目の投稿作品は、是非とも霊が映っていてほしい。
真剣に心の中で祈った。
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