
2025/08/17 sun
前回の章
仕事を終え、マンションへ直行する。
もう五月、あの忌々しいインターネットカジノ新宿クレッシェンドから半年近くも経ったのか。
時間が経つのは本当に早い。
飯野君から教えてもらった昨日の近隣の火事。
外から見るとマンションの最上階が煤で黒焦げになっていた。
部屋に戻ってから撮影してみる。
撮った写真を見て、アップにしないと分かりづらい事に気付く。
飯野君やけいこが心配したように、かなりの大きな火事だったようだ。
怪我人等出ていなければいいが……。
いつものように鳥の世話をする。
ベニとナミダは仲良しこよし。
ポツンと一人淋しそうなマゲ。
もう横浜のペットショップに十姉妹も入荷しているだろう。
明日辺り、仕事終わってからお忍びで横浜へ行くか。
目的はただ一つ。
マゲの彼女探し。
大倉斉藤コンビが朝までズルズルゲームにハマる。
金の尽きた大倉は斉藤へ無心した。
「はい、これで六万円」
機械的に言いながら金を渡す斉藤。
大倉は俺のほうを見て「入れて下さい」と金を渡してくる。
これが溶ければ十一万負け。
「大倉ちゃん…、あまり熱くなるなよ」
「ここまで引き直しでラッキーフル入らないのおかしいんですよ!」
熱くなる大倉を見ながら笑いを堪える斉藤。
いつも一緒にいるくせに、仲がいいのかよく分からない関係だ。
斉藤と昔のゲーム屋全盛の頃の話に花を咲かせる。
まだ知り合って数ヶ月。
客と従業員の関係。
それなのに彼とは昔から仲良かった不思議な感覚がする。
年も一歳しか変わらないという世代的なものだろうか。
過去を振り返ると、俺がちゃんと金を稼げ安定した生活を送れるようになったもの、皮肉な事に歌舞伎町のゲーム屋が始まりだった。
探偵も駄目、平子のスリーエスカンパニーも駄目、インチキ教材会社も駄目。
浅草ビューホテル辺りで一時期安定はしたか、喉で入院して終わる。
業務上過度なシフトにより喉を痛めての入院なのに、ホテルも配膳も治療費一円も出してくれなかったのは、考えてみればかなりおかしい。
日本生命にしてもそうだ。
保険降りますからと仕事を休ませ日本生命掛かり付けの医者の診断や、入院先の診断書を貰ってきてくれと言いながら、結局は保険降りませんだった。
解約していたのにまだ俺の口座から金を引き落としていたせいで、DOCOMOの携帯電話料金が払っていない状態になり強制解約。
今なら本当大問題になっているのではないか。
これも無知だった自分が悪い。
巨大な巨悪の都合によって、うまく誤魔化され続けられた事に当時は気が付く事すらできなかったのである。
まあ今の俺もそう昔と変わらないか……。
相変わらず騙され利用され、だからこんなところで時給千円で働いている。
まるで成長がない。
どこからやり直せたら俺は正しい道を選べたのだろう?
小学生の頃、おじいちゃんに養子にならないかと言われた事を思い出す。
家の財産を使いひたすら遊び呆ける親父を諦めたからこそ、あの時あのタイミングで言ったんじゃないか?
行く行くは岩上家を俺に託す為に……。
無邪気に深く考えず断った幼い俺。
少し淋しそうな表情で、俺の頭を撫でたおじいちゃん。
うん、あの辺りから俺は選択を間違えている。
いや、こんな事を今悔やんだところで意味がない。
おじいちゃんは亡くなり、俺はもう四十三歳になった。
本当今さらの話だ。
新宿駅から湘南新宿ラインで横浜駅へ。
一度マンションへ戻ると遠回りになるので、職場からそのまま直行した。
ルート的にどう浦木ペットショップまで行くか。
近いのは地下鉄ブルーラインで阪東橋駅。
行く前にどこかで腹ごしらえしてからにしよう。
せっかく横浜まで来たのだ。
さて、どこへ行こうかな?
関内辺りで降りて、洋食屋系?
いや、日ノ出町まで行って第一亭のホルモン定食もいいな。
イタリーノも捨てがたいし……。
決めた。
とりあえず日ノ出町駅へ行き、第一亭方面へ歩きながら入りたくなった店にしよう。
京急線で向かうが、いつも日ノ出町に着くと思う。
これ、電車とホームの隙間空き過ぎでヤバいんじゃないの?
いつか誰かしらここへ足挟まって、大事になるんじゃないだろうか?
どうでもいい事を考えながら外へ出る。
まずは道路を渡って……。
「岩上さーん!」
「え?」
「やっぱり岩上さんだ! どうしたんですか?」
有馬莉奈が立っていた。
「あれ? 莉奈さんこそどうしたの?」
「私はカラオケの指導もしてるじゃないですか。その帰り道ですよ。岩上さんこそどうしたんです?」
たまたま来た日ノ出町で凄い確率の偶然だ。
「俺はペットのマゲの彼女を探しに……」
俺が言い終わる前にゲラゲラ笑う莉奈。
「本当岩上さんは面白いなあ。でもこの辺ってペットショップありましたっけ?」
「横浜橋通商店街のほう、住所だと真金町になるのかな? あっちにあるよ」
「ここからじゃそこそこ距離あるじゃないですか」
「いや、ペットショップ行く前に飯でも食おうかなと思ってね」
「えー、いいなー。私も行きたいー」
莉奈も一緒だと洋食屋って選択肢じゃなくなるな。
「あ、どうせなら中華街行っちゃおうか? 久しく行けてない店があるんだよね」
「いいですね! 中華街行きましょう! どの店」
俺が行きたい中華街の店、決まっている。
横浜時代のオーナー下陰さんが連れていってくれた大新園しかない。
あそこの茹でワンタンが食べたかった。
タクシーを捕まえ中華街へ向かう。
食事しながら莉奈の同級生である小川絵美は元気でやっているのか、さり気なく聞いてみるか……。
久しぶりの大新園に到着。
毎年正月になるとこの店に集まり、お年玉をもらえた場所。
本当何故俺はあんないいオーナーの元を離れてしまったのだろう。
俺が頼みたいものはだいたい決まっている。
莉奈には好きなものを頼むよう言う。
まず茹でワンタン。
何か横浜に来たなあと実感する。
続いて揚げワンタン。
こっちも変わらないぐらい好きなんだよな。
楽しかった横浜での日々を思い出す。
コーンスープ。
一応女性連れなので頼んだ品。
莉奈は「ここ美味しいですね!」と舌鼓を打っている。
莉奈が注文したから料理名は分からないが、食べた感じ海鮮餡掛け揚げ焼きそばかな?
海老やイカを取り除いて食べる。
中華定番のエビチリソース。
浅草ビューホテルの車海老のエビチリも食べたくなった。
鳥とカシューナッツ炒め。
「莉奈さん、炒飯とラーメンいっちゃう?」
「そんな食べられないですよー。もうお腹いっぱいです」
「じゃああと餃子くらい?」
「だからもう無理ですって!」
俺は笑いながら会計を済ませた。
中華街からそのままタクシーに乗り、浦木ペットショップで俺だけ降りる。
莉奈へ二千円手渡し「これでタクシー代足りそう?」と声を掛けた。
「全然足りますって。すみません、ご馳走にもなりタクシーまで」
別に口説いている女という訳じゃないのに、こう格好つけるから俺は駄目なんだよな。
あ、小川絵美の話題さり気なく聞こうとしたのを忘れ…、いや、あんな薄情な女、今さらどうでもいいじゃないか。
莉奈が去ってから念願のペットショップへ入る。
白い十姉妹がたくさんいるぞ……。
全身白の背中に二本だけ線が入った目つきの鋭い鳥を見つける。
「おばさん、この子雌ですか?」
「ちょっと待ってね…。うーん、雌だね、この子」
「じゃあこの子にします! それと粟の穂も三つもらっていいですか」
「お兄さん、面倒見いいから安心して渡せるよ」
「新宿までなんですが、どう持って行ったらいいですかね?」
おばさんは小さな段ボール箱に鳥を入れて渡してくる。
よし、真っ直ぐ新宿へ帰ろう。
寄り道せずマンションまで到着。
箱を開け鳥籠に離す。
「ナァ、ナァ」
ナミダが驚く。
マゲですら「何だ、コイツ?」といった感じで少し離れて新入りを見ている。
写真を撮ってから、新しい雌の名前を考えた。
顔を見ていると地元川越の囃子連雀會のコロボックル真紀美に似ているんだよな。
背中に二本線あるし、二文字の名前にしよう。
「モツ……」
こちらを一瞬見るモツ。
「よし、おまえの名前はモツだ」
果たしてマゲの彼女の彼女になれるか?
マゲとの初遭遇。
種類の違うナミダなんぞ、もう追い掛けるなよ。
あいつはベニとできているんだから。
タバコを吸ってから部屋へ戻ると、早速二匹が仲良くくっついて巣壷に入っていた。
「何だよ…、もうおまえたち仲良しになったの?」
これでマゲのお尻プリプリダンスが始まれば、卵を産むのも夢じゃない。
遥々横浜まで探しに行った甲斐があったものだ。
これで錦華鳥と十姉妹が二匹ずつで、四羽。
近い内カップル同士にゆっくり過ごせるよう鳥籠をもう一つ購入しないと。
「……」
何か腑に落ちない。
チクショウ、これで独り者俺だけになったしまった。
マゲの野郎、モツとぬくぬくしやがって。
早く家族増やせよな。
世間一般はゴールデンウィーク。
でも、俺はずっと仕事。
どうせゲーム屋に来るような客も、暇人で独り者だろう。
哀れな寂しがり屋たちへ、弁当でも振る舞ってやるとするか。
飯島志穂からもらった皇室献上用梅干。
今日はこれも使うとしよう。
せっかく貰ったのに大事に取っておき使わないのは逆に失礼だからね。
マゲとモツはいつもくっついて一緒だ。
ベニとナミダに負けないほど熱々カップルになっている。
クソ…、自分でした事とはいえ、何かムカつくな……。
粟の穂を入れると、鳥たちは一斉に突き出す。
愛と食欲両方満たしてやがる。
ふん、呑気なものだ。
ヤケクソな気分で料理を始めた。
上海風醤油焼きそば。
鳥のグリル焼きに、冷凍してあったグラタン。
志穂から貰った梅干しに高菜を添えて完成。
さて、ゆっくり風呂入って仕事行くか。
まだ出勤するまで少し間があったので、フェイスブックを見ながら時間を潰す。
「ん、何だ、ありゃ?」
豚小屋の中川の写真付き投稿を見て、思わず声が出る。
レストランいづみ?
こんな心を鷲掴みにするような洋食屋が、新宿にあったのか?
俺は早速調べてみた。
昼もやっているのか……。
仕事終わったら早速行ってみよう。
弁当こんな作ったけど、まあ誰かしら食べるだろ。
こんな日に限って入客はいまいち。
高木が来たので強引に二つ弁当を食べさせた。
仕事を終え、少しだけ店で時間を潰す。
レストランいづみは新宿三丁目。
ここからだと徒歩三十分も掛からないだろう。
下調べでだいたいの地図は分かる。
それでも余裕を持って出発した。
靖国通りをひたすら進み、明治通りと交差するところで曲がる。
三番街商店街?
三番街通り?
三番街のところへ入って……。
「あったっ!」
念願のレストランいづみへ到着。
こんなお店をずっと待っていた。
いや、探していたが正解か。
テンションが上がる。
深呼吸をしてから店内へ入る。
「いっらしゃいませー」
妙に甲高いハスキーな声が聞こえてきた。
「はい、いらっしゃい」
ゴジラの息子のミニラに似た小さなおばさんが出迎える。
メニューをパッと見た感じ、ほとんどの料理が千円以下。
川越にあるグリルトーゴーのようなご飯もすべてセット価格なのだろう。
メニューだけで良心的な店というのが分かる。
店内は四人掛けテーブル席が五つ。
Bランチが魚フライにハンバーグ、クリームコロッケに目玉焼き、サラダついて八百五十円?
Aランチは魚フライじゃなく海老フライになったのと、目玉焼きがついてなくて八百円。
何でこの店こんな安いの?
新宿でしょ?
おかしいよ、値段設定……。
もう絶対に愛すべきお店だ。
散々迷ってからBランチを選択。
色々と目移りするメニュー、多過ぎでしょ。
Bランチか運ばれてくる。
ハンバーグもミニサイズではあるが、それでも中々のボリューム。
「いらっしゃいませー」
客が次々入ってきて、マスターの甲高いハスキーボイスが店内に響き渡る。
地声なんだろうけど、何であそこまで甲高いんだろ?
何だか凄いご飯も運ばれてくる。
ライスの上にカレーがちょっと掛けてあり、四分の一に切ったコロッケまで乗っかっていた。
「あのー、これって……」
「いやー、お客さんにはねー。ほんと感謝してるのよー。だからねー、感謝の意味も込めて、ご飯にちょろっとねー」
甲高い声でマスターが答えてくれる。
何て凄い店なのだろう。
もう素晴らしいの一言に尽きる。
幸福感に満足感、様々なプラスの感覚に全身が包まれた。
また絶対行こう。
一つだけ気になった点が……。
値段も安いし、ボリュームもそこそこあるかなり良心的な店。
だがマスターの声が妙にハスキー過ぎる。
レストランいづみを出て、三番街という妙にレトロチックな懐かしい通りを歩いてみた。
少し進んだところに、アルルという古めかしい喫茶店を発見。
アルルと言えば俺の中ではアルルの女。
ビゼー作曲アルルの女といえば、俺の作品である『忌み嫌われし子』。
うん、ちょっとした運命的なものをこの店から感じる。
外観もいい感じの雰囲気を醸し出す喫茶店だ。
これでクラシック音楽ビゼーのアルルの女が掛かっていたら完璧なんだけどな。
よし、入ってみるか。
さっきいづみで食べたばかりだから、コーヒーだけでもいいや。
内装は古ぼけた昔ながらのレトロ喫茶。
音楽はノンヴォーカルのジャズが静かに掛かっている。
メニューを眺める。
何だか凄いぞ、ここも……。
オムライスあるわ、ハンバーグ弁当あるわ、焼肉弁当あるわ、カレーライスにピラフ、ナポリタンにイタリアン?
どう見てもパスタなのに、イタリアンって何だ?
写真を見る限りカルボナーラのようなクリーム系パスタのようだが。
それに弁当って表記しているけど、一つの皿にハンバーグとご飯、サラダが乗っているから、これってハンバーグプレートのほうが響きいいんじゃないのか?
イタリアンが無性に気になった。
一体何なのこのスパゲティ?
メニューを見れば見るほど気になるが、ここは無難にナポリタンを注文。
待てよ…、さっきレストランいづみで食べたばかりじゃん……。
まあいいか。
サラダも乗せた王道的なナポリタンが出てくる。
不思議なのが何故かバナナを切ったものと、ジャイアントコーンも一緒に出てきた点だ。
確かにミックスナッツの中でもジャイアントコーンは好きだ。
でもナポリタンの付け合わせで何故一緒に出てくるのか不思議な店である。
漫画本もそこそこ置いてあり、カイジや魁・男塾が全巻完備。
この通り、いづみはあるわ、アルルはあるわで凄い商店街だ。
ゆっくり時間過ごしたい人なんて、この店本当にいいんじゃないかな。
あ〜、この辺で部屋借りれば良かった。
どうやらこの辺りは俺の中で一番のお気に入りになってしまったようだ。
今日初めて来たばかりなのに。
さすがに二軒連続で食べたので、お腹一杯。
久しぶりに苦しい。
翌日仕事明け、昨日あれだけ胃袋へ大量に詰め込みようやく帰った俺。
何故か今日も仕事を終えてからマンションの方向へ行かず、靖国通りをひたすら歩いている。
懲りてないとかではなく、またあのレストランいづみの不思議な磁力に引き寄せられたという表現がピッタリだ。
今回昨日と違うのは岡部さんも一緒にいる事。
そして今日は休み。
何度注意しても理解してくれない木村がまたいきなり夜出たいと言ってきたので、急遽シフトを代わったというだけの話ではあるが。
事の始まりは、昨夜出勤してから始まった。
「岩上さん、明日の夜出たいんですけど」
「だから…、何度同じ事言わせんだよ? 夜出てくれるのは助かるけど、急に言うのはやめてくれって言ってんじゃん!」
「いえ、カラオケのバイトが入れなかったので……」
「……」
本当にコイツの頭の中は空っぽなのか?
何回おまえの為に店を営業している訳ではないと説明しても、未だ無関係な事ばかり平気で持ち出してくる木村。
「じゃあ出てもいいけど、二日連続入れ」
「え…、明日の一日だけでいいですけど?」
「そういう事を言ってんじゃねえんだよ! おまえが明日明後日と遅番出て、たまには俺に連休ぐらい取らせろって言ってんの」
「は、はあ……」
こうして二階のヤクザ直営ゲーム屋で働き出して一度も連休を取った事が無い俺は、どさくさに紛れて初の連休を取る事にした。
たまには地元の川越でも顔を出してみようかな。
朝方になり客がすべて帰ると一服してから〆をやろうかとゆっくりする。
携帯電話が鳴り、実家で働いていた元従業員の伊藤久子からの着信。
随分久しぶりだな。
何の用件だろう?
「あ、智ちゃん、久しぶり」
「どうしたんですか?」
「あのさ…、私が言ったって言わないで欲しいんだけど、智ちゃんのおじいさんがあんたに会社の株を遺産として残していたのね。私、由美子さんと未だ交流あるでしょ? それで聞いちゃったんだけど、あの家全体的に智ちゃんの遺産放棄させようとして実印と印鑑証明をうまく借りようとしているのね」
「……」
叔母さんのピーちゃんと弟だった貴彦の養子縁組。
内緒にして白を切る貴彦に怒った俺を諫めようとした弟の徹也。
なるほど…、おじいちゃんの遺産相続の件であいつらグルになっていたのか……。
伊藤久子の密告により、何となく悪巧みの全貌が少し理解できた気がする。
「だからあの手この手で智ちゃんの実印を貸してとくるだろうけど、絶対に貸しちゃ駄目だよ」
「何故伊藤さんは俺にそんな事をわざわざ言ってくれるんです?」
ピーちゃんと未だ付き合いがあるのなら、向こうにしてみれば裏切り行為になる。
「私が岩上クリーニングをあなたのお父さんからクビにされた時あったでしょ? あなただけだもの。私を気遣ってくれたのは」
「でも、あの時俺は金も無かったし、何もしれやれなかったです。本当に無力で逆に伊藤さんに食事までご馳走になってしまって……」
「あー、懐かしいねー。オーちゃんと三人で焼肉行ったもんね」
「オーちゃんは元気なんですか?」
俺が新宿クレッシェンドの本を出したあとぐらいだから、二千八年頃だったか?
当時幼稚園だったオーちゃん。
伊藤久子がベビーシッターで引き受けたのがその子だった。
「あの子さー、中学生になっても高校生になっても、たまに私のところ顔を出してくれるんだよ。いつもその時智ちゃんはって、ずっとあなたの事覚えているんだよね」
そう…、俺はこの人に小説を酷評された事もあったが、色々世話にもなったのだ。
「伊藤さん、俺明日明後日って、久しぶりの連休なんですよ。たまには川越帰るから、良かったら美味しいものでも食べに行きませんか? 俺、ご馳走しますから」
「あーら、嬉しいねー」
「一旦寝て、夕方ぐらいには川越行くようにしますから」
親父と同じ年の伊藤久子。
俺はお袋とは疎遠で親交は何一つ無い。
せめて同世代の彼女をもてなす事で、形を変えた偽装の親孝行をしたいだけなのかもな……。
少しだけ浮かれながら仕事を済ませ、朝になって早番と交代。
本来なら岡部さんが来るシフトだったが、入江も勘違いして出勤してしまう。
この勘違いも木村の急なシフト変更のせいが原因だった。
例えると早番のシフトを木村は突然火曜日と金曜日を水曜日と日曜日に変えてほしいと二人に言う事が多々あり、本人たちも本来出勤するべく曜日感覚が狂ってしまう。
新庄も何でこんな使えない奴を店に入れてしまったのかと恨めしく感じた。
こうした木村のツケの尻拭いするのは早番だと岡部さんであり入江、遅番だと俺になる。
「入江さん、俺今日はいいから仕事入りなよ」
岡部さんが気を利かせて入江に仕事を譲る。
「ワイが勘違いで来ただけなのに、それじゃ岡部さんに申し訳ないですよ」
「いいよいいよ。俺は久しぶりに智一郎と飯を食いに行ってくるから」
こんな感じで俺と岡部さんは店を入江に任せ、外へ出た。
「岡部さん、洋食好きですよね?」
「好きだよ。もう昔ほど食えないけどね」
「昨日新宿でいい洋食屋見つけたんですよ。三丁目のほうですが」
「へー、じゃあそこ行ってみる?」
「いいですよ」
こうした流れでレストランいづみへ向かう。
岡部さんに道順を説明しながら進む。
「靖国と明治通りがぶつかるところを曲がると…、あそこにサカゼン見えるじゃないですか」
「うん」
「その向かい側に三番街って通り見えます?」
「ああ、見えるよ」
「そこを入ってすぐなんですよ」
レストランいづみへ到着。
昨日今日と俺は二連荘。
岡部さんは外に書いてあるメニューを見ながらニヤリとしている。
「どうですか? 中々いい感じの店ですよね?」
「いいねー」
入口左手にある小さなショーウインドーにあるメニューに、右手には黒板に手書きで各品が掛かれているのをしばらく眺める岡部さん。
「岡部さん、本当メニュー見るの好きですよね」
「こういうの見るの、結構好きなんだよな」
店内へ入る。
「いらっしゃいませー」
マスターのハスキーな甲高い声が聞こえてきた。
席に腰掛けメニュー表を眺めながら「随分あのマスター甲高い声してるな」と岡部さんが呟き、俺は吹き出しそうになる。
やはりそう思ったのは俺だけではないのだ。
昨日Bランチだったので、今日はAランチを注文してみる。
まだ二日間連続来店しただけなのに「いつもありがとねぇ〜、サービスでいっぱい盛っておくよぉ〜」とカウンター越しの厨房から機嫌良さそうなハスキーボイスが聞こえ、目の前に料理を運んできた。
「智一郎…、すげえボリュームじゃねえかよ…。俺、こんな食えないぞ?」
食べる前から岡部さんは泣きが入り、妙に弱気になっている。
ご飯の盛りも明らかに昨日より大盛りになっていて、カレーの量も増えていた。
エビフライ、ハンバーグ、クリームコロッケと、これだけおかずがあるのにさらにライスの上にはコロッケがサービスで乗っかっている。
不思議なのは付け合わせのサラダのところに、茹で卵やパイナップル一切れ、苺まで乗っている点。
マスターなりの感謝であり配慮なのだろう。
「おまえよー。中学生や高校生じゃねえんだから。こんな食えねえって」
こんな出てくるなら最初に説明しとけと言わんばかりの岡部さん。
それでも何とか残さず食べていた。
「俺、この店かなりお気に入りなんですよ」
「おまえは大食いだからいいよ。俺、もう限界だよ」
「明日もまた来ようかなと」
呆れ顔で岡部さんはタバコに火をつける。
「日曜は定休日なんですよぉ~」
厨房からマスターの甲高い声が聞こえる。
三日間連続通いは無理か……。
会計を済ませ外へ出る。
「タクシー拾いますか?」
「いや…、苦し過ぎて少し歩きながら胃袋消化させる」
明治通りを真っ直ぐ進み、花園神社へ出る。
「俺は川越帰るけど、おまえはどうするの?」
「今日夕方からうちの実家で働いていた元従業員と食事行くんで、一緒に川越行きますよ」
「おまえの家の従業員? 随分珍しい組み合わせだな」
「おじいちゃん亡くなって、遺産相続の事でうちの叔母さんや徹也、貴彦が虎視眈々と俺の実印狙っているみたいだからって電話もらったんですよ」
「うーん…、なるほどな……。俺はおまえの家の事は何も口出さないからな! みんなひろむ時代から知ってんだから」
「分かってますって。あ、川越行く前にうちのマンション寄ってもいいですか?」
「いいけど何で?」
「鳥の世話をしてからじゃないと心配で」
笑いながら一度マンションへ戻り、マゲたちの餌や水を入れ替える。
「何だよ、数が増えているじゃねえか」
「十姉妹と錦花鳥のつがい同士にしてますからね。これから卵を産みもっと増やす予定です」
鳥の世話を終えると、俺と岡部さんは西武新宿駅へ向かって歩き出した。