「失礼します!」
百合恵は強い口調で言うと、靴を脱ぎ、廊下を駈け、リビングにある階段を駈け上がった。
さとみの部屋のドアは開いていた。明かりも点いていた。ポコちゃんの姿のままのさとみが床の絨毯に正座していた。目は開いているが虚ろだった。
「さとみちゃん!」百合恵が呼びかけるが、さとみは反応しない。「……さとみちゃん……」
「きっと、いつものあれですわ」付いて来ていた母親がのんびりした口調で言う。「この子、目を開けたまま寝るのが特技ですから」
「……そうでしょうか?」百合恵は不安そうだ。「正座したままで……?」
「え? 寝ているのかい?」母親の後に付いて来た父親が言う。「返事が無いからさ、電気をつけたら、さとみが正座していてさ、しかもぽうっとしているだろう? もう、驚いちゃったよ。でも、そうか、寝ているのか……」
「いえ、寝ているのではありませんわ」さとみの前にしゃがみ込んだ百合恵が言う。「……でも、意識は無いようで……」
「……どう言う事でしょうか?」母親は首をひねる。「まさか、気を失っている、とか?」
「そう言えば、たまに、こんな風にぽうっとしている事があったなぁ……」父親が腕組みをしてつぶやく。「でも、しばらくしたら、元に戻っていたよ。どうしたんだって訊いたら、『うん、ちょっとね。でも何でもないの』って、言ってたから、気にはしなかったんだけど……」
「そうでしたの……」
百合恵は言って、さとみを見た。その時には、霊体を抜け出させていたのね。百合恵は思った。さとみの事だ、いらない心配をかけたくなくて、自分の能力については両親に話をしていなかったのだろう。そこで、百合恵は気がついた。
と言う事は……
今、さとみは霊体を抜け出させていると言う事になる。百合恵は周囲を見回す。さとみの霊体はいない。
「……どこへ行ったのかしら……」
百合恵はつぶやく。生身を離れてそう遠くへは行けないし、行ったとしても長い時間は厳しい。百合恵はぽうっとしたままのさとみを見つめる。
「まさか……」百合恵は険しい表情になった。「……楓のヤツ……」
「え? 楓?」父親が言う。「それは誰です? さとみの同級生ですか?」
「楓ちゃん?」母親が言う。「聞いた事がありませんよ。でも、名前からだと、かわいらしいお嬢さんって感じですわねぇ」
二人は楓を知らない。楓は、さとみの同級生と言うほど若くはないし(実際、何百歳になるのやら)、かわいらしくもないし(色っぽいかもしれないが)、お嬢さんでもない。とんでもなく悪い霊なのだ。
「学校へ行ったのかしら……」百合恵は不安そうな顔でつぶやく。「まさかねぇ……」
「学校? さとみはここに居ますけど……?」母親は混乱しているようだ。「百合恵さん、どう言う事ですの?」
「この、ぽうっとしている事と関係があるのですか?」父親が訊く。「たしか、ぽうっとしている時には、何を話しかけても、好物の『さざなみ』のメロンパンを目の前でちらつかせても、反応が無かったですからねぇ……」
と、そこへ珠子と静と富が壁から現われた。珠子が百合恵にうなずいて見せる。
「……お父様、お母様」百合恵が笑顔を二人に向ける。「ご心配はありませんわ。わたし、もう少しさとみちゃんを調べてみます。すぐに元に戻ると思いますわ。ですので、さとみちゃんと二人きりにして頂けませんか?」
「え? まあ、良いでしょう」父親が言う。「お母さんはどうかな?」
「そうですわね」母親はうなずく。「構いませんわ。ぽうっとしたままの方が手が掛かりませんけど、それじゃ育て甲斐がありませんものねぇ」
「ははは、お母さんの場合は、からかい甲斐じゃないのかね?」
父親は笑いながら、階段を下りて行った。母親もそれに続く。百合恵はさとみの部屋のドアを閉めた。珠子と静と富はさとみの前に立った。百合恵はさとみの背後に立ち、
「こりゃあ、大変な事になったねぇ……」富がため息をつく。「さとちゃん、霊体を抜け出させてしまっているねぇ……」
「楓の仕業かねぇ?」珠子がさとみを見ながら言う。「だとしたら、厄介だねぇ」
「やっぱり、あの時、消しちまえば良かったんだよ」静がむっとした顔で言う。「最初に学校の屋上で見た時から気に入らなかったんだ。少しはお仕置きしてやったけどさ。思えば、あの時、一思いにやっちまえば良かったねぇ……」
「相変わらず、物騒な物言いだ。我が娘ながら怖くなるよ」珠子が呆れ顔で言う。「……でも、その方が良かったかもしれない」
「今はそんな事を言っている時ではありません」百合恵が割って入る。「さとみちゃんは楓に連れ出された可能性が高いです。となれば、行先は学校でしょう……」
「学校か……」静がつぶやく。「と言う事は、さゆりの所か……」
「くれぐれも一人では動かないでと言っておいたんですけど……」百合恵が困惑の表情で言う。「言い足りなかったのかしら……」
「いや、そうじゃないね」珠子が言う。「楓にそそのかされたんだろうさ。何かうまい事を言われて一緒に行ったんだよ」
「さとちゃん、まだまだ世間を知らないからねぇ」冨が言う。「みんなを救ってやりたいって言う思いは良いんだけどねぇ」
「まあ、どこにでも碌で無しってのは居るもんさ」静がうんざりした顔で言う。「でも、長い事、霊体を抜け出させてはおけないだろう?」
「そうですね」百合恵はうなずく。「戻って来てくれますかねぇ……」
相変わらず、ぽうっとしたままのさとみを見て、皆はイヤな予感に包まれていた。
つづく
百合恵は強い口調で言うと、靴を脱ぎ、廊下を駈け、リビングにある階段を駈け上がった。
さとみの部屋のドアは開いていた。明かりも点いていた。ポコちゃんの姿のままのさとみが床の絨毯に正座していた。目は開いているが虚ろだった。
「さとみちゃん!」百合恵が呼びかけるが、さとみは反応しない。「……さとみちゃん……」
「きっと、いつものあれですわ」付いて来ていた母親がのんびりした口調で言う。「この子、目を開けたまま寝るのが特技ですから」
「……そうでしょうか?」百合恵は不安そうだ。「正座したままで……?」
「え? 寝ているのかい?」母親の後に付いて来た父親が言う。「返事が無いからさ、電気をつけたら、さとみが正座していてさ、しかもぽうっとしているだろう? もう、驚いちゃったよ。でも、そうか、寝ているのか……」
「いえ、寝ているのではありませんわ」さとみの前にしゃがみ込んだ百合恵が言う。「……でも、意識は無いようで……」
「……どう言う事でしょうか?」母親は首をひねる。「まさか、気を失っている、とか?」
「そう言えば、たまに、こんな風にぽうっとしている事があったなぁ……」父親が腕組みをしてつぶやく。「でも、しばらくしたら、元に戻っていたよ。どうしたんだって訊いたら、『うん、ちょっとね。でも何でもないの』って、言ってたから、気にはしなかったんだけど……」
「そうでしたの……」
百合恵は言って、さとみを見た。その時には、霊体を抜け出させていたのね。百合恵は思った。さとみの事だ、いらない心配をかけたくなくて、自分の能力については両親に話をしていなかったのだろう。そこで、百合恵は気がついた。
と言う事は……
今、さとみは霊体を抜け出させていると言う事になる。百合恵は周囲を見回す。さとみの霊体はいない。
「……どこへ行ったのかしら……」
百合恵はつぶやく。生身を離れてそう遠くへは行けないし、行ったとしても長い時間は厳しい。百合恵はぽうっとしたままのさとみを見つめる。
「まさか……」百合恵は険しい表情になった。「……楓のヤツ……」
「え? 楓?」父親が言う。「それは誰です? さとみの同級生ですか?」
「楓ちゃん?」母親が言う。「聞いた事がありませんよ。でも、名前からだと、かわいらしいお嬢さんって感じですわねぇ」
二人は楓を知らない。楓は、さとみの同級生と言うほど若くはないし(実際、何百歳になるのやら)、かわいらしくもないし(色っぽいかもしれないが)、お嬢さんでもない。とんでもなく悪い霊なのだ。
「学校へ行ったのかしら……」百合恵は不安そうな顔でつぶやく。「まさかねぇ……」
「学校? さとみはここに居ますけど……?」母親は混乱しているようだ。「百合恵さん、どう言う事ですの?」
「この、ぽうっとしている事と関係があるのですか?」父親が訊く。「たしか、ぽうっとしている時には、何を話しかけても、好物の『さざなみ』のメロンパンを目の前でちらつかせても、反応が無かったですからねぇ……」
と、そこへ珠子と静と富が壁から現われた。珠子が百合恵にうなずいて見せる。
「……お父様、お母様」百合恵が笑顔を二人に向ける。「ご心配はありませんわ。わたし、もう少しさとみちゃんを調べてみます。すぐに元に戻ると思いますわ。ですので、さとみちゃんと二人きりにして頂けませんか?」
「え? まあ、良いでしょう」父親が言う。「お母さんはどうかな?」
「そうですわね」母親はうなずく。「構いませんわ。ぽうっとしたままの方が手が掛かりませんけど、それじゃ育て甲斐がありませんものねぇ」
「ははは、お母さんの場合は、からかい甲斐じゃないのかね?」
父親は笑いながら、階段を下りて行った。母親もそれに続く。百合恵はさとみの部屋のドアを閉めた。珠子と静と富はさとみの前に立った。百合恵はさとみの背後に立ち、
「こりゃあ、大変な事になったねぇ……」富がため息をつく。「さとちゃん、霊体を抜け出させてしまっているねぇ……」
「楓の仕業かねぇ?」珠子がさとみを見ながら言う。「だとしたら、厄介だねぇ」
「やっぱり、あの時、消しちまえば良かったんだよ」静がむっとした顔で言う。「最初に学校の屋上で見た時から気に入らなかったんだ。少しはお仕置きしてやったけどさ。思えば、あの時、一思いにやっちまえば良かったねぇ……」
「相変わらず、物騒な物言いだ。我が娘ながら怖くなるよ」珠子が呆れ顔で言う。「……でも、その方が良かったかもしれない」
「今はそんな事を言っている時ではありません」百合恵が割って入る。「さとみちゃんは楓に連れ出された可能性が高いです。となれば、行先は学校でしょう……」
「学校か……」静がつぶやく。「と言う事は、さゆりの所か……」
「くれぐれも一人では動かないでと言っておいたんですけど……」百合恵が困惑の表情で言う。「言い足りなかったのかしら……」
「いや、そうじゃないね」珠子が言う。「楓にそそのかされたんだろうさ。何かうまい事を言われて一緒に行ったんだよ」
「さとちゃん、まだまだ世間を知らないからねぇ」冨が言う。「みんなを救ってやりたいって言う思いは良いんだけどねぇ」
「まあ、どこにでも碌で無しってのは居るもんさ」静がうんざりした顔で言う。「でも、長い事、霊体を抜け出させてはおけないだろう?」
「そうですね」百合恵はうなずく。「戻って来てくれますかねぇ……」
相変わらず、ぽうっとしたままのさとみを見て、皆はイヤな予感に包まれていた。
つづく
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