怪談 黒の森 17

　外は月が煌々とし、昼のように明るかった。
　坊様は引き戸のすぐ傍に伏し倒れてるお千加を見つけた。着物は帯で何とか身に纏っていると言った状態だった。肌蹴た背は、背骨のへこみが作る影がその白い肌と対照をなし、剥き出しとなった脚は、脹脛とその太腿の裏側が艶めかしい。次いで、坊様は周囲を見回すが、何の気配も無かった。やはり、藤島が走り去り、森の主に憑かれた新吉がその後を追いかけて行ったと言う所なのだろう。
「やれ、困ったのう……」坊様はお千加に顔を戻すと、その滑らかな背中を見ながら頭を掻いた。「……おくみさん、出て来てくれんかね？」
　しばらくして引き戸がゆっくりと少しだけ開いた。そこからおくみが恐る恐ると言った風に顔を覗かせる。月明りの下、おくみの顔はさらに蒼く見えた。
「おお、ありがたい」坊様はおくみに笑顔を向ける。「ここに伏しているのはお千加さんだ。気を失っているんだが、見ての通りの姿でな、坊主には手が出せんのだ」
「……お千加さん、大丈夫なんですか？」おくみは言うが、小屋からは出てこない。「まさか、いきなり起き上がって、襲って来るなんてのは無いんでしょうね？」
「大丈夫だ。藤島さんが気を失わせてくれたお蔭で、邪気は祓われた。もう普通のお千加さんだよ」
「さいですか……」
　おくみはそろそろと小屋から出てきた。森のどこかで鳥が羽ばたき、一声荒れた声で啼くのが聞こえた。おくみは大慌てで小屋に戻る。
「ははは」坊様はおくみを見て笑う。「言ったろう？　怖いと思ったら怖くなるとさ。心配する事はもう無いのだぞ」
　おくみは恥ずかしそうな表情で小屋から出て来た。坊様はうんうんと大仰に頷ずいて見せた。おくみは照れ臭そうに笑みを浮かべた。それから、おくみは足元に倒れているお千加に目を転じた。
「……こりゃ、何ともな格好ですねぇ……」おくみは眉を顰める。「たしかに坊様には目の毒だねぇ……　いや、男衆全部にかねぇ……」
「すまんが、着物を直して貰えんかのう」
「よござんすけど、お千加さんは小柄とは言え、こうぐったりしていると、女と言えども重いもんなんですよ」
「そうなのかね？」
「そりゃ、そうですよ」
「じゃあ、お千加さんより大きいおくみさんは中々の重さと言う事かのう……」
「大きなお世話ですよ！」おくみはぷんと頬を膨らませる。「そんな事よりも、手伝って下さいまし」
「……手伝う、とな？」
「そうですよ。……持ち上げて立たせてくれなきゃ、直しはできません」
「拙僧に、裸同然のお千加さんに触れろと言うのかね？」
「何をあたふたしてんですか？」おくみは、子供のようにおろおろしている坊様を見ながら、にやりと笑う。……坊様の弱点見つけたり！　おくみから恐怖心が消えた。「生臭物を平気で食べるお坊様じゃござんせんか。平気でしょうよ」
「いや、それとこれとは、ちと違う……」
「いいですから、早くしてくださいましな。お千加さん、風邪を引いてしまいますよ」
「……分かった」
　坊様は不承不承と言った様子でしゃがみ込むと、お千加の腋の下から手を入れて、よいしょとばかりに立ち上がった。大柄な坊様の前にお千加がぶら下がっている。お千加の爪先が宙で左右に揺れている。坊様は目を閉じ顔を背けている。おくみはその妙に不慣れな様子に口元が緩んだ。
「お坊様、腋の下に直接手を入れてしまっては、背中と胸元が整えられませんよ」
「えっ？」眼を閉じたままで坊様が驚く。「じゃあ、どうすれば良いのだね？」
「帯の所を支えて下さいな」
「帯か……」
　坊様は呟くと、観念したように目を開け、お千加の両足をそっと地に着けると、腋の下から素早く手を抜き腰を左右から押さえ直した。その際に、安定を失ったお千加のからだは後ろへ倒れそうになり、坊様は自分の胸で支えた。
「おくみさん、早くやってくれい！」
　坊様はお千加の腰を支えたままで再び目を閉じ、悲鳴に近い声を出す。おくみはにやにやしながら着物を整え始めた。
「さ、終わりましたよ」おくみはぽんとお千加の帯を軽く叩いた。「小屋に運んで下さいな」
　おくみは言うと先に小屋に戻った。坊様はお千加の腰を押さえたまま、引き摺るような態で不器用な後ろ歩きをしながら小屋へと入った。しばらくして、引き戸が閉められた。


つづく