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怪談 黒の森 27

2020年05月14日 | 怪談 黒の森(全30話完結)
「……藤島様……」
 呆然としている声が、おくみの背後から聞こえた。お千加だ。おくみは咄嗟に藤島に背を向けてお千加を抱きしめる。斬られるなら自分が、と、おくみは思った。
「……藤島様……」お千加が藤島に緩々とした声で呼びかける。お千加の顎がおくみの左肩に乗っていた。まだ状況を飲み込めていないようだ。「……どうなさったんです?」
「お千加さん!」おくみはお千加の肩を掴むと激しく揺さぶった。目を真ん丸に見開いたお千加の顔を、おくみは正面から見据える。「いいかい! しっかりおし! 藤島様は、憑りつかれちまったんだよ! もう、人の言葉が聞こえないのさ!」
 そう言うと、おくみは涙を流す。お千加はその涙で我に返った。お千加はおくみ越しに、刀をだらりと右手に下げ、白濁の双眼を陽光に光らせる藤島を見上げた。お千加は短く悲鳴を上げる。おくみは振り返って藤島と対峙し、背後にお千加を隠すように両腕を広げる。恐ろしさに胴震いがする。広げた腕も震えている。冷たい汗が全身を伝う。歯の根が合わず音が鳴る。
 藤島は三尺ほど手前で立ち止まる。おくみには、藤島の全身から黒い霧が立ち上っているのが見え、腐ったような嫌な臭いが漂っているのが分かる。……ここまでかい。やれやれ…… おくみは覚悟した。それでも、亭主の留吉の事は思い浮かばない。
 藤島は白濁の双眼をおくみ越しにお千加に向けている。そのままで藤島は歩み寄ってくる。いけない、これじゃ、お千加さんが…… おくみは背後のお千加の息遣いが、怖ろしさに荒くなってきたのを知った。
「ええい! 畜生!」おくみは叫ぶとからだを伸ばして藤島の右腕にしがみついた。「お千加さん! 逃げな! わたしがここは押さえ込んでおくから!」
 おくみの背後で立ち上がる気配があった。お千加は腰が抜けてはいなかったようだ。おくみは立膝になるのが精一杯だった。歯を食いしばり、藤島の鋼のように硬い腕にしがみつく。
 藤島は右腕を上げた。しがみついたままのおくみが持ち上がる。それでもおくみは離れない。藤島は右腕を一振りした。それほど大きな動きではなかったが、おくみは手を離し、地を二転三転した。全身が痛む。顔を上げ藤島を睨むが、藤島は立ち尽くしているお千加を見つめている。
「やい! まだおくみ姐さんは死んじゃいないよ!」おくみは叫ぶ。全身に痛みがぶり返し、唸ってしまう。藤島は振り返りもしない。「……畜生! 畜生……」
 藤島はお千加を見つめている。お千加が竦み上がっていた。
 藤島の刀を持つ右腕が無造作に動き、刀を大上段に構えた。獣のような唸り声を藤島は発している。お千加は相対する恐ろしさに耐えかね、目を閉じ、耳を手で塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。藤島はその震える小さな肩を見つめている。
「お千加さん!」
 おくみは叫ぶ。涙声になっている。おくみは目を閉じた。お千加の無残な様を見たくなかった。
 振り上げた刀をそのままに藤島は動かない。藤島の全身が細かく震えている。お千加を無残に殺めようとする動きを、何かが止めているようだ。
 おくみはそっと目を開けた。
 藤島を包んでいる黒い霧が激しく揺らめいている。黒い霧はまるで憤っているようにおくみには見えた。……ひょっとして、藤島様の本心が霧に負けじと戦って下さっているのかも…… ……お坊様も、藤島様はお千加さんを好いているっておっしゃっていたから、傷つけまいとなさっておいでなのかも…… おくみはいつの間にか、ぐっと握り拳を作っていた。
 突然、黒い霧が四方に散った。藤島から霧は離れた。刀を持つ右腕がだらりと下がる。……藤島様が勝った! おくみはほっとして、深く息を吐く。
 しかし、四方に散ったと思われた霧は、藤島目がけて一斉に向きを変えた。そして、獲物を目がける鷹の如く、霧は藤島を急襲した。霧は藤島の全身から、その体内へと潜って行った。
 途端に、藤島は咆哮を上げた。片膝を付き、刀を地に突き立て、倒れまいとからだを支えている。全身が激しく震えている。再び咆哮を上げた。こめかみに太い血の筋が浮き上がる。腐ったような嫌な臭いが強烈に漂う。おくみは吐きそうになった。
 気配を察したのか、お千加は恐る恐る目を開ける。藤島の白濁の目がお千加を捉えた。お千加は弾かれたように尻餅を搗くが、腰が抜けたのか、肌蹴た裾から覗く脚は、ただ地を掻いているだけだった。
 藤島はお千加を見つめながら、のそりと立ち上がった。全身から黒い霧が立ち上り始めた。右手を上げた。手にしている刀の切っ先が陽光を反射する。


つづく

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