日記から。
2017年1月16日
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今日も、朝日を浴びながらの起床。
朝のスープはトマト味。
娘くる。
アサがジジの顔を見て、イヤーとさけぶ。
こんな時期なのよと女房。
上に行こうとして目が合うとまた叫ぶ。うるさい、と一喝したら泣いている。女房がこちらを見て非難めいた顔をする。妙な雰囲気となったが、知らんぷりして上に退散。
昼に降りて行くとアサはいなかった。
私が昼の焼きそばとパスタを作る。
ミートソースは冷凍して置いたものを使うが、ソルトの調整蓋がキャプにくっ付き外れたのを知らず、塩がドバッと出る。薄めたりして手を施したが兎に角塩っぱいソースでした。
午後は、ゴタゴタになった絵に手を加えるが、修正不可能か。色々試して見る。注意することは、しっかりと乾いた後で次の段階にうつり、色を汚さないこと。あまり混色しないこと。水の力を借りること。見たままでなく、表現したい様に描くこと。今回は手遅れのきらいがあるのでガッシュやパステルなどを加えたらどうなるかをも試すことにする。
夕飯はおでんとかやくご飯。ハーもお絵かき教室を終えて来ていた。アサも来たが寝ている。少し、疲れたかな。
帰りには、気分良くハイタッチして孫と別れることができました、ちゃんちゃん。
さて、新聞紙上、高校授業料無償化の線引きで世帯の平均収入が問題になっているが、年金生活者の私はかなり平均よりも低い。
この様な数字に、まず、偏差値によって競争世代は慣らされ、無意味に振り回されたりするわけであるが、数字は数字として、自分の生き方に置いて、こんな平均にこだわることはない。こんな尺度しか持たない薄っぺらな人生を歩んではならない。
しっかりとした自分なりの信念と生き方を貫くことが大切である。
それが自分を大切にするという意味である。
自分に言い聞かせました。はい。
問題は、教育の無償化でしたね。
情熱という難しい問題が常に潜んでいる教育は、「仏作って魂入れず」になる恐れがあることを忘れてはならない。先ずは自戒の念から。
私は教育は公立においては全て無償化にすべきだと思う。人の学習権は生まれに左右されるべきではないから、当然のことである。
問題は、学習困難校の扱いである。勉強を全くする気もないのに、資格として学校だけは卒業しておきたいという我儘な輩に対する対策である。入り口も出口も簡単な学校の問題である。または、入ってしまえば何とかなるという制度運用である。そして、さっさと卒業させてしまえという教える側の態度である。
「悪貨は良貨を駆逐する」といわれる。それ故、おんぶに抱っことは問題外なのである。
だが、この場合にも学習権は保障しなければならない。それぞれにとっての良質の教育いかんという理念と情熱の問題が常に問われるのである。
先ずは、色々の多様な上級学校を作ることである。そして、それぞれのニーズにあった教育の付与が図られねばならない。そこで何を学んでもらうかを明確にすることである。相互の了解が必須である。
学習の先が見えない生徒に先をしっかり見せてやる教育でなければならない。
生活の知恵、学習資源の利用、彼らが必要としていることは山ほどある。教育の不毛とは、我々がそれに寄り添って答えていないだけかもしれない。
そして、一旦必要が決められたなら、要求される能力を身につけなければ卒業出来ないとしなければ教育制度の意味がない。人も資源も無駄にしてはならない。約束を貫くことが貴方の夢を実現することでもある。
この様な内容と組織運営に関しては、皆即ち教える側と学ぶ側双方の全てがこの価値観を共有・発展させなければならない使命を持つ。その為の確認と検証が課題実現の重要な過程となる。
あくまで理想かもしれない。でも、教師も生徒も最低限、やる気のある人の邪魔しちゃダメね。
足の引っ張り合い。これが人間として一番恥ずべき行為である。
さてさて、言うは易し、行うは難し!
さて、ここで一言。教師然とした人間は自己満足に終わり、真面目な教師は悩んで終わる。
ああ、教師って!
すみません、私も教師でした。今回は負の側面を表現してしまいました。
遺憾!もっと前をむかなければ!
2017年1月17日
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朝起きて部屋のドアを開けると、例のごとくガチャと下の方で音がする。今回はもう一度試して見た。矢張り音がする。冷蔵庫の製氷の音の様だが、このところ製氷庫は氷で一杯で、水は入れていない。しかし、部屋の戸を開ける度に音がする。おかしい。
女房が起きたので一つ女房にドアを開けてもらう。音がしない。私が開ける。音がする。もう一度女房。今度はちゃんと音がする。
ドアの音じゃない、と女房。ん!本棚の出っ張ったプラスチック表紙のノートが開けたドアにぶつかって音を立てていた。それだけのことだった。音は階下からしていると最初に認知してしまった私にはドアが音を立ててるとは思いもよらなかった。初動認識の誤りを最後まで引きずっていた。まるで、最初の読みを間違えて誤導捜査をして事件を迷宮入りにしてしまう頭の固い捜査官の様だな。バイアスのかかり方が酷い。
朝は昨日の残りのスープその他。
快便。ありがたい。
ステキな日差しが逃げてしまわないうちに部屋に戻る。冬の日の黄金の朝の日差しを満喫。
孫のアサの誕生日プレゼントをアマゾンで。なんかカードを作ると二千円割引とか。加入無料と書いてある。但し、五百円以上の買い物を一年間のうちにすること、となっている。
ハードルは低い。「よし」と申し込み手続きに入る。
が、よく見ると、次年度も会費無料と書いてある。ということは、そのあとは有料という事かな、と疑問になる。
手続きを戻して、年会費の記載を探す。ありました、ありました。最後の方にやっと千なんぼと記載されています。
危うく引っかかるところでした。もっとも、知った以上無料のうちに解約すれば問題はないか。
前に、楽天のゴールデンカードでポイントの誘惑で引っかかり、セブンカードでは、カード書き換え後、使わないのに今でも会費を取られている。
ツタヤのお試しでは、お試し期間を過ぎれば自動的に有料になることも知らず、使わないのに半年ぐらい取られていた。確か、期間が過ぎる時に解約確認をしようとしたのだが、記載が見つからず、見逃して、そのままで大丈夫なものと解釈してしまったのだった。
そして、きわめつけはスマホの分かりづらい自動延長と違約金。契約更新時を通知し契約内容の検討チャンスを与えるものとしますとカッコ良く言えばいいのに。自動延長させながら、解約すれば違約金なんて姑息な手を使って、企業イメージも、ないものだろうと思う。
これが、資本主義の契約というものの陥穽だ。力の弱い、一般消費者の立場は約款では十分に考慮されているとは言い難い。欲にそそのかされたり、不注意だったり、無知識のお前が悪いんだということになる。この様な誤解を誘う様な契約の様式は形式的な平等に堕する嫌いがある。民法上、そのために錯誤無効というものがあるが、主張が通るか否かは微妙である。知らなかったことに重過失は無かったか、一般に錯誤者の立場に立って知っていれば契約を結ばなかったといえるか(?)が問題だった様な気がする。
ただ、昨今はTwitterといったSNSが盛んであるから、それなりに市民も戦う武器をえた。
いずれにせよ、資本主義ファーストという企業利益優先の本末顛倒な社会の流れは、市民ファーストへと少しづつ見直しが迫られていることは確かだろう。
基本的人権を担保するための実質的な民主主義が在っての経済の自由に他ならないのであるから。
みんなでステキな世界を目指したいものだ。そのために生きているのだから。
新聞の週刊誌広告欄を見れば、笑い、呼吸、日光の勧めが目についた。それらに加えて運動を入れれば心身の活用法としては殆ど完璧ではないか。ただ、心身は人生の道具に過ぎないのだから、目的いかんが問われねばならない。これ無くしては、生きることも虚しい。結局は、上記の効能さえも衰えることになる。これを一般的にいうなら、愛の実現ということが可能であろう。さあ、愛の実現に向かって今日も生き抜くか!いや、生き抜かん!
昼は昨日の晩の残りのおでんとバター味和風炒めご飯。
絵の方をいじっているが一向に良くならない。ゴタゴタするばかり。矢張り、水彩の濃く塗った後の修正は難しい。
散歩も兼ねて、女房の誕生日プレゼントの代金を下ろしにセブンまで。
ビールを飲んで、風呂に入って運動をして、夕飯。
ジワッと幸せの波。ありがとう、色々のことを思って、しかし真白の心にして、お休み。
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以上、取り留めもなく日記に書いてみました。今回はプライベートなことも多少入れました。
今年も素敵な年にしてください。
最後は心一つの置き所です。
心して気を入れてそして無にして生きましょう。
自戒です。