56.4キロ。今日も仕事帰りにジムで自転車40分、あと筋トレ器具をちょこっとしました。
お昼はバナナ1本とカロリーメイト1本。
56.4キロ。今日も仕事帰りにジムで自転車40分、あと筋トレ器具をちょこっとしました。
お昼はバナナ1本とカロリーメイト1本。
旅先でおいしいものを食べたい。そのためにもふだんの体重をもうちょっと落とさなくちゃ。
おなかがこだますいかのようにぽっこり出てしまいました。いや、それだけじゃない。むかしいくよくるよの漫才で「こんなところから足出して」と、くるよさんの腕のことを言ってたけど、まさに私。二の腕もいつのまにか太ももみたいになってしまいました。
本当に痩せなくちゃ。
今日はプールを50分。頑張る!ただいま57.4キロ
自分の能力はかなり劣化してきているのか、と思うことが最近よくある。
幸せでなんかないにのなぜ呆けているのか。
強い衝動にかられる。
誰か私の話しをただただ、そうだよね、そうだよね、と言ってひたすら聞いてくれる人はいないだろうか。
否定もせず、励ましもせず。ただ、そうだね、と。
私が涙を浮かべたら、その人も涙を。先に浮かべてくれているような。
甘えてるよなあ、自分。
この孤独はどこへもっていけばいいんだろう。
自分の最期を想像する。死後ひと月経っていた。
誰も助けてくれないし、いや、頼ってはいけないんだ。
死ねる日がくるまで、惰性で生きるしかない。これからの人生はいつも絶望の淵を歩くことになるだろう。
いちのひめとにのたろうはこんなことにならないように。そのことだけを祈って生きることにしよう。
こんな不幸は私だけで終わらせなければいけない。
不幸を引きずって生きていくのは恥ずかしい。だから生きていたくない。
枕ってあんまり重要視していませんでした。でも最近うちにある枕を使い始めると、首をいためてしまいました!痛くて起きる、痛くて日中動けない。
で、百貨店で自分にあう枕をみつけてもらって試しに…2万円もしましたが。すると5時間続けて眠りました!寝るのが楽しみです。
いろんな意味で年をとったなあと思う。
人から「それは気づかないふりをしているということもありうる」と教えられました。
そのことについて、自分の心にかかる人のことをあてはめてみると…いや、違う。それは私にそう教えた人が私についてそう思っているのでは?と。
自分のあさはかさを恥じます。
Aさんの学校では教室でプリントを配るとき、いつも生徒の人数より2部多く先生は印刷します。
今日、先生はプリントを配りましたが二部足りませんでした。欠席者二名の分をまわしても二部足りませんでした。
今日先生は結局何部しかプリントを刷らなかったのでしょう。
これ、実際にあったことなんですが、本当に、何部しか入れてなかったの?っていうのが分かりません…多分生徒の人数をXにして
X-なんとかってなるんだろうけど、これが分からない。いまだに…
で、どうしようとしているか。私は明日実際に学校に行って、そのクラスの人数を見て…それで、う~ん、どうやって計算するのかなあ。
おはじきがいるなあって思っています。いちのひめに尋ねると「そんなのX-いくつに決まってんじゃん。」と、こともなげに言います。
これが出来ないとは小学生並みだ、とも。あ、もちろんいくつっていちのひめは言うんだけど、正解がどうか分からないから伏せてあります。もし間違っていたら彼女がかわいそうだから、明かしません。
ド文系も、ええ加減にせんと。自分があほすぎる。画像は、今度着るサンバカーニバルでの私の衣装。いよいよ踊る本物のあほうになります。
生前の苦しかったことが終わると、いや、くぐり抜けるとこんなお顔になるんだっていうくらいに美しく尊いお顔でした。
もともとのお顔とはちょっと違っている。仏の顔…どこかでみた仏画に似ているの。それが思い出せなくて、困っています。
知る限り、本当に苦悶に満ちた人生でした。高校生のときに「そんなんなら、離婚したらいいねん。」
と言ったこと、思い出します。その人は「そうは言ってもなあ。それはでけへん。」
と、逃げることを選択肢に最初から準備していなかった。今ならもう一度、逃げたっていい場合も十分あったのでは…。未来を見せる鏡があれば、その人だってきっとあきらめたはず。「ここを抜ければ」「これを捨てては」常にそういう考えの方でした。
不本意なことを承知するってことを「棒をのむ思い」って言うと、聞いたことがあるけど、あの方はいったい、何本ののみにくい棒を飲み、飲まされたのか。
棺の前にたつ、悪意の塊でできているような人たちは、こう語りかけていました。「もう、心配させないでね。」何を言っているのか。
いろんな話を総合すると、悪意の塊の人たちは「もともと体の弱い人だった」という認識なのですね。でも私たちは違う。「こんな大変な体にさせられた。あんたたちに!」
棺の前で、奥向きの台所で、骨になってしまったところで、一つ一つのところで、こういった齟齬を感じました。
大好きなその人はもうそういう、もう恩讐の彼方にいってしまわれた、というお顔でした。まだ魂魄が残っているから、一つ一つのことを聞いている、見ている、と思っている人もいるようだったけど、私はそうではないと思う。ああいうお顔をされて逝かれたから、すでに、もうすでに、遠くて高くて、尊い場所に清浄なところに逝かれたと思う。だから、私たちのことにさえ、もう心残りがないのだと思う。それでいい、それがいいと思う。
残された私たちは、ただただあの人が極めたであろう高みの場所にむかって、ただただ手を合わせればいいんだ。
これまで地名をくっつけて、〇〇のおばさんって呼んでいたけど、もうそれも呼ばない。あの人はもうこの土地にはいないし、いつまでも〇〇のって私がその人をその土地に縛り付けているようで、それは違うと思うから。気持ちとしては戒名で呼んでいいと思うけど、それはちょっと私の心に忠実すぎて、一般的ではないから、その人の名前をよぶことに、これからはそうしようと思いました。
画像はその人のおうちの、とても印象深かったふる~い時計。こんなアンティークな時計を現役で使っているところが羨ましくて、小さいときから遊びにいけば、
「この時計、かっこいいなあ。」って言っていたら、その人はいつも言っていました。「そうやろ、骨董やろ。住んでる人も骨董やしね。」
この意味をもっともっと、理解するべきでした。住んでる人の体も骨董だったけど、考えが、その価値観が救いがたい骨董でした。