たろうくん(太郎)のつぶやき

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戦さとは!

2017-05-05 08:42:22 | 郷土史
戦とは?
戦に向かう時に、武者は鎧を着けていないのです。途中で着けたのだったと思います。馬に乗って進軍するのでも、ないのです。宣教師フロイスは、武士は戦になると何故か?馬を降りて戦うとあります。戦には、多くの物資が要ります。食糧も要るのですが、食糧は、現地調達する事が、多かったようです。記録を読み解くと戦場では、腹を減らして戦う武士達の姿が書かれています。それは、昭和迄の戦いでも同じだったようです。補給を考えない戦いは、最後に敗れるのです。合戦において、武将は自分の部下の損害を最小限に留めるのが、必要だったのです。戦の前に、相手や自分の家来をよく知って於かなくてはならない、之が今も昔も同じ自分を家臣たちも護る鉄則でしょうね。その為に必要なのが、情報です。「孫子の兵法」が、戦国の武将達に読まれたのは、この所以なのです。そこで、用いられたのが、伊賀、甲賀の忍者達です。乱破・素破・水波の呼び名もあります。氏照公の家臣にも、「直江山城守と言う忍びの名手」がと、活躍した記載もあります。彼らを、指揮していたのは、氏照公では無く、軍師と呼ばれた人物や影で支えていた、戦上手の家臣であったと思います。近藤出羽守綱秀もその一人と思います。作家の伊東潤氏が、「城をひとつ」と題する作品を書かれています。大藤氏について書かれた作品です、着眼点が素晴らしいと思いますね!最近、明智光秀について注目が集まっています。豊臣秀吉公の「大返し」を可能にしたのは、秀吉公が、明智光秀を唆して、信長公を本能寺に攻め滅ぼした、影の人物かも知れないと推測されているからなのです。秀吉の「大返し」が、何故可能だったのか?事前に事(謀叛)が起きることを知っていれば、あらゆる準備手段が可能です。秀吉公には、それらに対応できる知恵や軍資金に、加えて信頼できる家臣や忍者が、居たのだと思います。千早城の攻防の時に、新田義貞が、陣を払って持國へ還ってしまたのですが?鎌倉北条氏が、彼を追い詰めていたのは、確かなのです。それだけでは、ないと思います。楠木正成と新田義貞は、事前に好を通じていて、鎌倉北条氏に反旗を翻したのだと考えると、何故鎌倉北条氏に勝利出来たのかとの?疑問の答えに辿り着けます。越後の同族が、駆け付けて来れたのは、事前に旗挙げを知っていたからなのです。この際にも、事前の情報を知るための「手立てに」役立ったのは、忍者に似た者達と思われるのです。

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