高尾院 東京霊園内にある本堂です。常盤宗吾家が、お守りしていた、薬師堂に安置されていた「薬師如来」様を此の地に安置してあるのです。
東京霊園は、私が、中学校2生の春3月にアルバイトに行っていた所です。石を運んだりの重労働だったと思います、地域のご婦人も働いていました。お金💰を欲しかったのです。当時は、生活保護を受けている状態でした。掘っ立て小屋の屋根の上に、父が何処かで拾ってきた本が載せてありました。かなり、当時としては猥褻な記事や写真が載っていました。その本を読みながら、過剰な自慰をしていました。身体は、大きくても力仕事には向いていなかったのです。三年生の春、4月に片倉方面へ歩きの遠足で行きました。その時に、頭の後ろが、ズキズキとしていたのです。血圧が、高くなっていたのです。腎虚による、急性腎炎になったのかも知れません?市販の薬を💊買って飲みましたが、症状の改善に繋がりませんでした。南多摩病院から、車でお医者さんが往診に来てくれました。9月だと思いますが、南多摩病院へ入院する事になったのです。3ヶ月程でした、4人の子ども部屋でした。その時に、頭にあった火傷のハゲを縫い合わせて無くす整形手術もしましたが、失敗でした。「死んだ方が、いい」と思った最初の経験でした。18歳の頃から、山登りに熱中して其れが、24歳頃まで続きましたが、腎炎の再発は、有りませんでした。其れ以来、塩分の摂取を控える様に今もしています。血圧が、高いので、血圧降下剤を朝に二錠服用しています。
清水中世史研究所の看板を挙げているのです、ブログのサブタイトルが、「蘇えれ中世のひとびと」なのです。Googlemapローカルガイドは、其のブログのひとびと・神仏閣の神仏と、私に郷土史・詩を書かせて頂いている「文学の神さま」のなせる業(わざ)だと思っています。高尾院本堂は、恩方村ヘ続いている古くからの尾根道でした。其処ヘ八幡神社から官林迄、細い山道が、続いていたのです。焚き木を拾いに行く為の生活道路でした、志村義治叔父と弁当を食べ、箸がなかつたのです。小枝を切り箸の代わりにしました。 「今日のおかずは!メザシだよ‼️」と叔父が、大声で叫びました。其の場所が、多分⁉️此処 高尾院本跡だったと思います。其の思い出や出来事は、常盤宗吾家の薬師堂に安置されていた「薬師如来様」が、此処に来る様にと引き寄せる為の業(わざ)と考えたいです。