兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

勤皇の女傑・黒沢止幾

2015年04月05日 | 歴史
桂文庫の「江戸期の女たちが見た東海道」柴桂子著の本の中に「黒沢止幾(とき)」が大坂から唐丸籠で江戸の伝馬町の牢獄へ護送される際に、東海道の宿場で詠んだ歌が載っている。当時、女性の重罪人送りは珍しく、街道筋では一目見ようと見物客が詰めかけたと言われている。

黒沢止幾は常陸国東茨城郡錫高野村(現 茨城県東茨城郡城里町)出身で寺子屋の師匠をしていた。幕末、井伊直弼の開国政策に反対して蟄居を命じられた水戸藩徳川斉昭救済のため、京の朝廷・孝明天皇に直訴した罪で江戸送りとなった罪人である。しかし直訴と言っても単に天皇へ歌を献上しただけである。黒沢止幾は修験道と寺子屋を営む実家に生まれ、尊王の志が強かった。明治になり、私塾である寺子屋は小学校に変更され、日本で最初に小学校の教師になった女性として知られている。

その黒沢止幾が孝明天皇に献上した歌である。「よろつ代をてらす光のます鏡 さわやかにうつす しづが真心」
歌の意味・「水戸からわざわざ一人の女が訪ねてきて、現在の世相を真心という鏡に映しています。」「しづが真心」は静御前の「しづ」と下賤の女の賤「しづ」をひっかけている。

東海道五十三次宿場・御油(豊川市)は客引き留女・招婦で有名である。隣の赤坂宿との距離は十六町(1.7キロ)しかなく、客の争奪戦は激しかった。この宿で江戸送りの重罪人黒沢止幾が詠んだ歌 「わた海の波にうかべる月かげを 玉としも見ん 御油のさと人」歌の意味「海の波の上にうつる玉のように清らかな月影、御油の里人たちはそう思って見るのであろうか。御油には留女だけが住んでいるわけではない。心清楚な里人も御油の住民もいることを忘れてはいけない。」

次の吉田宿(豊橋市)はその入り口の豊川にかかる吉田橋で有名である。当時、吉田橋は、武蔵の六郷、三河の矢矧、近江の瀬田と並んで東海道の四大橋に数えられた。橋の南詰めには船着港があり、伊勢の白子河崎までの海路で約12時間で行けた。伊勢詣が、陸路より、三日以上早く着くことができるためかなりの人々が利用した。白子、桑名経由京都方面に行くにも便利な海路の良港である。そこの吉田宿・吉田橋で黒沢止幾が詠んだ歌 「入舟も出舟の波もよし田とて ふきおくらるゝ伊勢の神風」

当時、東海道・熱田の宮・桑名の七里の渡しの利用者が減少し、原因が正式認可されていない吉田宿・吉田湊からの海路であるとされ、尾張藩から渡航禁止の訴訟が起こされた。当時の吉田藩藩主は、1793年に寛政の改革・松平定信の後を引き継いだ松平信明であり、老中首座であった。そのために訴訟も相手にされず、その後も継続して吉田湊からの渡航は多く利用された。伊勢大湊、河崎湊経由の伊勢参りの参宮船一人分船賃は132文、現在の価値で約4,000円弱である。老中の権力の強さを感じる訴訟である。

黒沢家は、藤原一族の末裔で、江戸時代を通じて代々修験道と寺子屋を営んでいた。教育家庭で育った黒沢止幾は頭も良く、男勝りでもあった。19歳で嫁にいき、二人の女子を生む。24歳のとき、夫はポックリと死亡した。
止幾は実家に戻るが、実家の父、祖父も間もなく他界し、やむなく実家の修験道場と寺子屋を引き継ぐ。しかし女手で生徒も集まらず、寺子屋は閉鎖せざるを得なくなった。その後は、江戸で、くし、かんざし等を仕入れ、これを行商をして、二人の子供を養った。この時代に、女手ひとりで重い荷物を抱え、群馬県草津温泉方面まで、行商に出向いている。かなりの頑張り屋である。

黒沢止幾が孝明天皇に直訴のため、京に上ったのは54歳の2月22日である。草津から長野、塩尻を経由して、関ヶ原、大津へ向かう。東海道の関所を回避するための長旅である。京都到着は約1ケ月後の3月25日である。なんとか朝廷側近の座田右兵衛維貞と連絡を取り、歌を託すと大坂に向かった。しかしすぐに情報が流れ、役人に捕えられ、江戸伝馬町獄舎送りとなった。幕府は水戸斉昭の夫人の密命を受けていると疑い、伝馬町獄舎では厳しい拷問にかけられた。この獄舎には吉田松陰など多くの志士も捕えられていた。その疑いが晴れ、「江戸中追放」「郷里出入禁止」の刑が確定したのはその年の10月27日であった。

その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると幕府の威信も衰え、黒沢止幾の刑も次第に緩くなり、故郷で寺子屋の再開も許されるようになった。地元では水戸斉昭公の救済のため、天皇に直訴した誠実な女性と英雄視された。以前は、数人程度だった生徒数も80人の多数に達し、寺子屋も繁盛した。

明治5年8月、学制が発布され、黒沢止幾の寺子屋は錫高野地区の小学校に昇格し、止幾もその小学校の教師となった。止幾、68歳であった。1年余りで教師は退職したが、再び実家の私塾経営を継続し、85歳で亡くなるまで地元教育に携わった。明治天皇は、父孝明天皇へ献上した黒沢止機の歌を知り、その誠実さに感心して、10石の報償米を与えたと言われている。


ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
死出の旅の往来手形・勘助の草津の旅


参考 黒沢止幾 日本で初めての女教師

参考 ねずさんのひとりごと


写真は茨城県城里町にある黒沢止幾の生家。屋根も壊れ、荒れ果てている。


写真は生家の近くにある黒沢止幾の墓。城里町錫高野にある。


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