兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

彰義隊戦死者を埋葬した博徒・三河屋幸三郎

2022年12月01日 | 歴史
薩長による江戸城攻撃の噂が高まったとき、勝海舟の依頼で、「こんな下衆な私でよろしければ」と言って、江戸の治安維持に協力した侠客がいた。それが三河屋幸三郎である。神田旅篭町に一家を構え、いい顔の親分だった。本名は浅岡幸三郎という。

(博徒名) 三河屋幸三郎   (本名) 浅岡幸三郎
(生没年) 文政6年(1823年)生まれ~明治22年(1889年)5月5日 享年67歳 
      肺炎発症による病死

幸三郎の父・与兵衛(与平ともいう)は湯島天神の門前町で金貸しを営んでいた。与兵衛は享和2年(1802年)32歳のとき、高利貸しの罪で、八丈島に流された。それから25年後、文政9年(1826年)12月放免となった。与兵衛には八丈島の女との間に男の子がいた。その子を3年後に江戸へ呼び寄せた。これが幸三郎である。人は彼を「島小僧」と呼んだ。

幸三郎は先見の明があり、商売上手だった。横浜築港の際には、人足を手配して港工事に協力した。開港後は、弁天通りに外国人相手の金銀、べっ甲、珊瑚細工の装身具の問屋を開業した。これが図に当たり、港貿易取引でひと財産を築き上げた。

上野戦争では、彰義隊の武器を自らの蔵に預かり、逃げ込んだ彰義隊を匿い、戦死者を手厚く葬うなど、勝海舟との約束を実行した。そのため官軍からにらまれて、一時検索されかかった。明治2年、横浜にいた幸三郎の所に、ヤクザ風の男が舞い込んだ。幸三郎はわらじ銭をもらいに来た男と考え、軽くあしらった。

その男は江戸無宿鉄五郎と名乗った。榎本武揚と共に江戸を脱走、五稜郭に立てこもり、函館の牢に入れられた「石川忠恕」が獄中で記述した「函館脱走一件」の始末記を、その男は保持していた。石川忠恕から三河屋幸三郎に渡してほしいと頼まれたと言った。

鉄五郎に事情を聴くと、鉄五郎は江戸から津軽に流れ、ある寺の賭場へ通っていた。その寺が仮牢になっており、石川が入牢していた。石川は近いうちに切腹か、打ち首が決まっていた。「江戸から脱走したと汚名を着せられ、我々の行動の真実が正当に評価されないのは残念である。後世に真実を伝えるためにも、三河屋に始末記を渡して、公表してもらいたい」と頼まれたと話した。

三河屋幸三郎は、鉄五郎にお礼として百両を渡そうとした。鉄五郎は「島っ子」から金をもらう訳にはいかないと、断り、一文も受け取らず立ち去った。幸三郎は始末記公表の機を狙った。しかし時節柄、旧幕臣の刊行は難しく、預かっている間に、明治22年(1889年)5月5日、肺炎で幸三郎は死亡した。

幸三郎の七回忌に際し、幸三郎の息子・浅岡岩太郎がこれを公刊した。福地桜痴、三宅雪嶺が序文を書き、後に有名となった「説夢録」である。この頃から旧幕臣の記録が刊行されるようになった。明治30年、大鳥圭介の「獄中記」が「旧幕府」という雑誌に発表された。25年間、散逸させず、保存し続けた三河屋幸三郎と息子・浅岡岩太郎の義理固さは特筆すべきであろう。


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賊軍幕府兵を埋葬した博徒たち

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写真は江戸屋幸三郎の墓。左側の墓である。右側の墓は娘婿の草刈家の墓。多摩ひばりケ丘東本願寺別院にあった。現在は横浜市久保山墓地の浅岡家の一角に移転されている。
久保山墓地には元奇兵隊士で御用商人となった山城屋和助の墓もある。また東条英樹らA級戦犯7名が秘密裏に火葬された久保山斎場もここにある。



写真は荒川区南千住円通寺にある上野彰義隊顕彰碑「死節之墓」である。元は幸三郎の向島の別荘にあったものを円通寺に移転した。(日本伝承大鑑より)
幸三郎と円通寺住職・達磨和尚は上野戦争で戦死した隊士266名を同寺に埋葬し、顕彰碑を建立した。



写真は彰義隊戦死者の墓。明治37年5月15日榎本武揚建立。墓碑銘は榎本武揚の書である。


写真は三幸翁之碑。明治23年三河幸三郎が建立した。


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