次郎長の一の子分は大政である。次郎長の軍師であり、槍の腕前は相当のもの、やくざには惜しい男である。本名は原田熊蔵、のちに政五郎と改名した。常滑の回漕問屋の長男で、学もあり、次郎長の手紙などの代筆をした。身長は6尺2寸(186cm)、体重は30貫(112キロ)堂々たる体格である。
若い頃、町道場で槍を修行した。一方、相撲好きで相撲取りの仲間に入り、そこで博奕を覚えて、嘉永2年(1849年)18歳で次郎長の子分となった。人柄も良く、腕も立つので、子分たちから「政兄い」と慕われた。次郎長の喧嘩には、大政がリーダーとして指揮、先頭で戦い、次郎長が前面に出ることは無かった。明治7年、次郎長が富士山麗開墾のため、清水を留守にすると、次郎長一家を束ねた。
(博徒名) 清水の大政 (本名) 原田熊蔵(後に政五郎と改名する)
(生歿年) 天保2年(1831年)~明治14年(1881年)2月15日 病死 享年50歳
子供の無い次郎長の最初の養子は小政である。小政が獄死すると、大政が正式に次郎長の養子となり、山本政五郎となった。明治になって、清水港に落ち着いてから「おたね」という女房を貰い、世帯を持った。おたねはしっかり者で、のんびり屋の大政を助け、豊かでない家計を切り盛りした。あまりにがっちりしているので、「清水のしわん坊」と呼ばれた。男1人と女2人の子供を生み、長男の小三郎はその後、小沢惣太郎として清水一家の2代目を継いだ。
大政は大酒飲みだった。次郎長から体のために控えるよう言われていたが、止められない。次郎長は巴川畔の大政の住居を訪れるとき、気を遣って、まず裏口で「政や、政や、居るかい、俺だ、俺だ」と呼んでから、ゆっくり玄関に回る。その間に吞んでいた徳利、盃を片付け、「へい、親分、政は居りやすよ」と出迎えた。
大政は明治14年2月15日、男盛りで病死した。病死したとき、次郎長は「俺の死に水を取ってもらいたかった!」と嘆いたと言う。葬儀は盛大で、全国の親分衆、代理が集まった。武州の高萩万次郎、島帰りで高齢の津向文吉も参列した。次郎長、万次郎、文吉は、逆送りになると、墓地に行かず、2階から見送った。
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写真は静岡市清水区の梅蔭禅寺にある大政の墓。後の左に見えるのが石松の墓。
若い頃、町道場で槍を修行した。一方、相撲好きで相撲取りの仲間に入り、そこで博奕を覚えて、嘉永2年(1849年)18歳で次郎長の子分となった。人柄も良く、腕も立つので、子分たちから「政兄い」と慕われた。次郎長の喧嘩には、大政がリーダーとして指揮、先頭で戦い、次郎長が前面に出ることは無かった。明治7年、次郎長が富士山麗開墾のため、清水を留守にすると、次郎長一家を束ねた。
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(生歿年) 天保2年(1831年)~明治14年(1881年)2月15日 病死 享年50歳
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