こんばんは。
いつものように1か月ぶりです。
先ほどまで「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を観ていました。
いつもは1か月くらいかけてじっくりと書きたいことが溜まるんですが、
今回はこのドラマを見て不意に書こうと思い、パソコンに向かっています。
あ、もし「あの花」のワードで引っかかってこのブログを開いてしまった人は、
内容についての感想ではなくて自分で勝手に思ったことを書くだけなので、
そこのところははじめにご了承くださいね。
まあとりあえず、賛否両論あるでしょうが、僕は普通に泣いてしまいました。
あからさまに泣かせにくるようなものに弱いんですよね。
普段は僕、ほとんど泣かないんです。
中学校と高校の部活が終わった試合でも泣いていなかったし、
卒業式でも泣きませんでした。
でも、こういうドラマとかアニメに滅法弱いです。
あの花はアニメでも見て泣いていましたし、その他に泣いたのを覚えているのは、
「四月は君の嘘」でも泣きました。
ドラマで言えば、吉高由里子さんの「美丘」とか、
三浦春馬さんがALS患者の役を演じた「僕のいた時間」とかですね。
何が共通しているかって、言うまでもなく。
主人公か、ヒロインが死んでしまうんですね。
人の生き死ににとことん弱い。
今までのブログを読み返してもらうとわかるかもしれませんが、
僕はなんというか、生への執着が薄めなんです。
死にたい、と思うこともありますが、どちらかと言うと
生きたい、が少ないんですよね。
それなら、人の生死なんて興味ないんじゃないかと思いますが。
それがなぜか人の死というものには深い感情があるようです。
なぜかと考えてみましたが、ひとつ思いついたのが、
「死」というものが、数少ない僕が確実に信じるものの一つだからかもしれません。
僕は、何もかもを疑っています。懐疑主義です。
ニュースで聞くことも、ネットで見るものも、教科書に書いてあることも、全て疑っています。
というか、正確に言えば。便宜的に信じることはあっても、
自信を持って「これが真実」なんて言いきれるものなんてそうそうないと思います。
そんな中でも、死というものは絶対的なものと考えています。
死んだ人は戻らない。
今僕は、将来について明るい希望を持っているとは言えませんが、
実際のところ、可能性としては生きていれば何が起こるかわかりません。
もしかしたら、今想像しているのと真逆の人生を送るかもしれない。
しかし、死んでいまえば、その人にまつわる全てがそこで確定します。
確かに、死んでからその人の功績が発掘されるなんてこともありますが、
それだってその人が死んでから何かしたわけではありません。
死は、その人の全てを確定するとともに、
周囲の人々のその人に対することがら全てについても確定します。
その人に対して、どんなことをしてきたか、
どんなことを言ってきたか、どんな風に接してきたか。
そのことが、今回のあの花にも出てきましたが、
「最後にあんなことを言ってしまった」ですとか、
「最後まであのことを言えなかった」のような、
死んでしまった人に対する後悔の感情の深さを生むのだと思います。
死に関係する感情でもう一つ。
「自分が死を目の前にして、残りの時間をどう過ごすか。」
これは、「美丘」や「僕のいた時間」などに出てくる方ですね。
僕は常々、後悔をしないように、ということを心がけているつもりです。
というか、心がけたいと思っています。
自分が死ぬとき、我が生涯に一片の悔いなし、というのはまず無理でしょうが、
少しでも「ああ、良い人生だったなあ」、と思いたいものです。
結局のところ、終わり良ければ全て良しなのです。
自分の人生を振り返ったときに笑えるように、そういうことは日々ぼんやりとは考えていても、
自分がもうすぐ死ぬ、とわかったときに、本当の意味で理解できるのではないでしょうか。
ともあれ、後悔というものは、死によって、永遠のものとなってしまいます。
僕のような、常に後悔に苛まれているような人間にとって、
死は、圧倒的な問いかけを突きつけてきます。
おまえは本当にそれでいいのか。後悔しないのか。
全ての生と死に対して、全く後悔がないということはありえません。
しかしそれでも、自分自身や、身近な人の生と死に対しては、
できる限り後悔したくないなあ、と思うわけです。
これらのことが、誰かの死の描写を通して、僕に心からの涙を流させるのだと思います。
もう少しうまくまとめたかった気もしますが、明日も早いので終わりにします。
とりあえず、あの花はいい話でした。
それではみなさん、ごきげんよう。