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Dear wonderful world

もっと強く。

死ぬことと永遠

2015-09-22 00:50:12 | 日記

こんばんは。

いつものように1か月ぶりです。


先ほどまで「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を観ていました。
いつもは1か月くらいかけてじっくりと書きたいことが溜まるんですが、
今回はこのドラマを見て不意に書こうと思い、パソコンに向かっています。

あ、もし「あの花」のワードで引っかかってこのブログを開いてしまった人は、
内容についての感想ではなくて自分で勝手に思ったことを書くだけなので、
そこのところははじめにご了承くださいね。


まあとりあえず、賛否両論あるでしょうが、僕は普通に泣いてしまいました。
あからさまに泣かせにくるようなものに弱いんですよね。


普段は僕、ほとんど泣かないんです。
中学校と高校の部活が終わった試合でも泣いていなかったし、
卒業式でも泣きませんでした。


でも、こういうドラマとかアニメに滅法弱いです。
あの花はアニメでも見て泣いていましたし、その他に泣いたのを覚えているのは、
「四月は君の嘘」でも泣きました。
ドラマで言えば、吉高由里子さんの「美丘」とか、
三浦春馬さんがALS患者の役を演じた「僕のいた時間」とかですね。

何が共通しているかって、言うまでもなく。
主人公か、ヒロインが死んでしまうんですね。
人の生き死ににとことん弱い。


今までのブログを読み返してもらうとわかるかもしれませんが、
僕はなんというか、生への執着が薄めなんです。

死にたい、と思うこともありますが、どちらかと言うと
生きたい、が少ないんですよね。


それなら、人の生死なんて興味ないんじゃないかと思いますが。
それがなぜか人の死というものには深い感情があるようです。


なぜかと考えてみましたが、ひとつ思いついたのが、
「死」というものが、数少ない僕が確実に信じるものの一つだからかもしれません。

僕は、何もかもを疑っています。懐疑主義です。
ニュースで聞くことも、ネットで見るものも、教科書に書いてあることも、全て疑っています。
というか、正確に言えば。便宜的に信じることはあっても、
自信を持って「これが真実」なんて言いきれるものなんてそうそうないと思います。

そんな中でも、死というものは絶対的なものと考えています。

死んだ人は戻らない。

今僕は、将来について明るい希望を持っているとは言えませんが、
実際のところ、可能性としては生きていれば何が起こるかわかりません。
もしかしたら、今想像しているのと真逆の人生を送るかもしれない。


しかし、死んでいまえば、その人にまつわる全てがそこで確定します。
確かに、死んでからその人の功績が発掘されるなんてこともありますが、
それだってその人が死んでから何かしたわけではありません。

死は、その人の全てを確定するとともに、
周囲の人々のその人に対することがら全てについても確定します。

その人に対して、どんなことをしてきたか、
どんなことを言ってきたか、どんな風に接してきたか。

そのことが、今回のあの花にも出てきましたが、
「最後にあんなことを言ってしまった」ですとか、
「最後まであのことを言えなかった」のような、
死んでしまった人に対する後悔の感情の深さを生むのだと思います。


死に関係する感情でもう一つ。

「自分が死を目の前にして、残りの時間をどう過ごすか。」
これは、「美丘」や「僕のいた時間」などに出てくる方ですね。

僕は常々、後悔をしないように、ということを心がけているつもりです。
というか、心がけたいと思っています。

自分が死ぬとき、我が生涯に一片の悔いなし、というのはまず無理でしょうが、
少しでも「ああ、良い人生だったなあ」、と思いたいものです。

結局のところ、終わり良ければ全て良しなのです。

自分の人生を振り返ったときに笑えるように、そういうことは日々ぼんやりとは考えていても、
自分がもうすぐ死ぬ、とわかったときに、本当の意味で理解できるのではないでしょうか。


ともあれ、後悔というものは、死によって、永遠のものとなってしまいます。

僕のような、常に後悔に苛まれているような人間にとって、
死は、圧倒的な問いかけを突きつけてきます。

おまえは本当にそれでいいのか。後悔しないのか。

全ての生と死に対して、全く後悔がないということはありえません。
しかしそれでも、自分自身や、身近な人の生と死に対しては、
できる限り後悔したくないなあ、と思うわけです。


これらのことが、誰かの死の描写を通して、僕に心からの涙を流させるのだと思います。



もう少しうまくまとめたかった気もしますが、明日も早いので終わりにします。

とりあえず、あの花はいい話でした。


それではみなさん、ごきげんよう。

僕の場所

2015-08-20 23:12:36 | 日記

こんばんは。
一昨日帰省から東京に戻ってまいりました。
帰省中は本当に楽しくて、死にたいなんてこれっぽちも思わなくて、
このブログのことなんかも黒歴史かよみたいなくらいに思っていたのですが、
こちらに戻ってきてからのこの短期間で劇的な鬱の戻りを見ました。
そういった経緯でパソコンに向かってぽちぽちやっているわけです。


今回は帰省の間に感じたことを少し。

帰省の間は、地元の友達と遊びまくっていました。
その中で感じたのは、みんな少しずつ変わっていくんだなあ、ということ。

高校を卒業して1年半。
その間には皆、大学に入り(浪人の人もいますが)、一人暮らしをする人も少なくありません。
ここまで大きく環境が変化し、自分自身も十代の終盤ということでまだ思春期と呼べる時期です。
このような状況では、僕たちが変わるのも無理もないでしょう。

それでも僕たちの関係は変わらずにいられるのでしょうか?

「高校時代の僕」と「高校時代の君」の間に成り立っていた関係は、
「大学生の僕」と「大学生の君」、「社会人の僕」と「社会人の君」、
あるいは「おじいさんの僕」と「おじいさん・おばあさんの君」の間でも成り立つのでしょうか?

それは難しいのでしょうね。


僕は今大学よりも高校時代の方が楽しくて、
高校時代までの思い出が、崩れそうな僕をぎりぎりのところで支えてくれているのは確実です。

「僕には帰る場所がある。」
その想いだけで生きているようなものなのです。

そんな僕が、先月書いた話のように、再び「僕の場所」を失ったら、
どうなってしまうのでしょうか。想像したくもない。

また新しい「僕の場所」を見つけなければ、と思います。


僕だけに限らないと思います。
人間って、心から居心地がいいなと思える「自分の場所」がないと、
その人を待っているのは、深い、深い、絶望なのでしょう。
陳腐な言葉で言えば、「心のふるさと」。

それがない人は、おそらく、根無し草のように、自分がどこにいるのかもわからない、
自分が何者なのかもわからない。

僕のことを「過去にこだわっている」という人がいます。もちろん事実です。
でも、それを言うのは常に「今いる場所」を「自分の場所」に更新できるからなのです。
それができない僕のような人間は、昔あった「自分の場所」を、
大事に、大事に抱きかかえていくしかないのです。
そうしなければ、僕が崩れてしまいますから。


しかし問題は、さっきも書いたように、
人が変わっていくのに従って関係も変わってしまう、ということです。
つまり、昔あった「自分の場所」は永遠ではなく、有効期限があるのです。

どうしたら常に「自分の場所」を持っていられるのでしょうか。


その答えが、「愛」なんだろうなあ、と思います。
愛なんて言葉使わなさすぎて、「あい」の変換で随分下の方に追いやられていましたが。

いきなり安っぽいことを言うなあ、とお思いでしょうか。
しかし、これは本当に思うことなのです。

以前読んだ文章に、印象的なものがありました。
どこで読んだかも忘れてしまったので、引用元も書けませんがご容赦ください。
まとめると、こういうことです。

恋愛は、自分のアイデンティティを求めるゲームである。
私たち人間は、生まれたばかりのとき、ただ「自分が自分である」、
それだけで親から認められ、愛を受けることができた。
しかし、成長していくと、社会では「自分が自分である」だけでは、誰にも認めらない。
認めてもらうために私たちは、自分をよく見せようと様々な努力をしている。
だが、「愛」があれば、話は別である。
自分を愛してくれる人を見つければ、幼いころの
「自分が自分である」だけで認められることを取り戻すことになる。
それを求めて、私たちは「愛」を探すのである。


まあ様々な意見はあるでしょうが、概ねそうなのだろうな、と思います。
実際に愛を求めるのは進化論からいっても子孫を残すための本能でしょとも思いますが。
心の問題として考えたとき、同意できると思います。

「自分が自分であるだけで、認められる」
これ以上のことはありません。

多くの人が言う手垢のついた言葉でもあるように、
「誰か一人、心から信頼できる人がいれば、人間は生きていける。」

本当にそうだと思います。


「自分の場所」にいてくれる人は、そんなに多くなくていいのです。
一人でもいいのです。

誰か、どんな状況であっても自分を認めてくれる人が、たった一人いる。
それだけで十分でしょう。


先ほど昔の「僕の場所」には有効期限があると書きましたが、
「愛」となれば話は別です。
もちろん冷めてしまう愛もありますが、
いわゆる「永遠の愛」なるものもあるのではないかと思います。

それが見つかれば、人間は幸せです。

逆に、その「僕の場所」から離れていく人も、
新しい「自分の場所」を見つけたのでしょうから、祝福すべきかもしれません。

皆、僕も含めて、それぞれに「愛」を見つけて、
昔の「僕の場所」を卒業できたら幸せです。

そうなることを信じて、しばらく待ちましょう。



誰か、愛してください、愛させてください、誰もが愛されてください。
世界が愛で溢れてください。



やっぱり改めて見返してみても陳腐ですね。まあ良いです。

それではみなさん、ごきげんよう。

生きてゆく

2015-07-25 02:22:34 | 日記

とてもお久しぶりです。
前回までは1か月に一回ペースでしたが、
どうも最近忙しかった、のでしょうか。
とりあえず、2か月半ぶりですね。


今回は、もうすぐ二十歳になるので、その節目として、また少し自分について書いてみます。

みなさんおまえのことなんか知らねえよ、といったところだとは思いますが、
自分のための日記をインターネットに放り投げているだけなので、
どうかお気になさらず。


まず自分について考えたときに思いつくのは、
僕の人間的欠陥ですね。
一言でいうと、「愛情」なんでしょうか。

とはいえ、僕にも家族や友人や身近な人に対してはちゃんと親愛の情は湧きますし、
思いやりは人一倍強いと自負しています。

それが、いけなかったんだろうなあ、と。

自分で言うのもどうかとは思いますが、というのは今回は終始そんな感じなので、
これ以降は省くことにします。

小さいころから僕は、みんなの輪の中心に近いところ、でも決して中心ではなく、
例えばクラスの学級副委員長のような位置にいました。

積極的というわけではないけど、頼りがいがあって、優しくて、いいやつ。

そんなふうに思われて、期待されて、僕もそうあろうとしていました。
嫌なやつって思われるより、いいやつって思われたいに決まってるじゃないですか。

そうしてずっと言われてきたのは、
「おまえのこと嫌いな人はいないよ」「みんなの○○くん」

皆からそうやって頼られていたから、誰かを裏切ることなんかできない。

そんなふうにして僕が身につけてきたのは、「みんなに良い顔すること」。

誰にでもいいやつと思われようとして、だからといってそれは他人からの目を気にしているから
だけではなくて、自分も誰かを傷つけたり困らせるのが極端に嫌でした。

これが僕の、重い、重い足かせになってきました。
何かを選ぶということは、何かを切り捨てるということです。

それができないのです。

何かをを選ぶ、というのは人にも当てはまります。
誰かを選んで、その人のことだけを想う、ということができないようです。
その人だけを想って、ほかのものには目もくれない。
そうしないと、恋愛なんてできませんよね。


決定的だったのは、中1のころだったでしょうか。

僕はとても小さな町に住んでいて、ある人と両想いでした。多分。
多分、というのは、相手の気持ちがわからないのではなく、僕の気持ちがわからなかったのです。
相手には後でちゃんと好き、と言われましたから。
僕も、この人いいなあ、と思っていたのは確かです。

そしてその人の家で、ふたりっきりでいたとき。
僕も、その人が好きだ、という気持ちが芽生えていきました。
触れたい、という気持ちが大きくなっていきました。

そのことを言いました。確かに。
そのとき彼女は、少し照れて笑っていただけでした。

でも、僕は、いろいろ余計なことを考えて、そのことを人に知られたくありませんでした。
確かその後数か月で転校をすることが決まっていたから、
きれいな思い出、ということにしておきたかったのです。

しかし、その人は、他の人に言ってしまったようでした。
広まったのは、僕が転校してからのことでした。

そのことは、僕が転校した後に、相当なスキャンダルになっていたようです。
一番仲の良かった友人からメールで、「これはどういうことなのか」、と聞かれました。
「俺たちの間に隠し事はなしだろ?」と。

いろいろ余計なことを考えて、と先ほど書きました。
詳しくは書けませんが、その人との関係が暴かれることは、僕のその小さな町のコミュニティでの立場が
大きく変化する、崩れることと言っても過言ではないものだったと思います。
そこで過ごした日々はあまりに楽しかったし、絶対に失いたくなかった。

そうして、僕は嘘をつきました。そんなことはない、と。

友人は(本心はわかりませんが)僕を信じてくれ、彼女は「嘘つき」になりました。
彼女のことを切り捨てたのです。

しかし、僕は、その場所を失いました。
そこに帰ったときのよそよそしさ、やるせなさ。
それは考え方によっては、中学生という一番心が大きく変化する時期に離れていたから、
という理由で説明できる程度のことにも思えます。
それに、本当に仲の良かった数人の友人は今でも気にせず接してくれます。

しかし、一度立った噂は、否定したとしても、完全になかったことにはできなかったのでしょう。

さらに、彼女もその後は学校でうまくいかなくなったようです。
もともと少し不安定で、皆から煙たがられているところはありました。
それに、そうなったのは僕とのことが広まってからだいぶ経ってからでした。
だから、僕とのことが直接的な原因になったのかはわかりません。

それでもやはり、僕のせいで彼女に取り返しのつかない傷をつけてしまったと思っています。
本当に後悔しかありません。
もう連絡先も知りませんが、もしも叶うなら、彼女に謝りたい。心から。


ところがその後も僕は、懲りることなく、みんなに良い顔をし続けていました。
転校生として新しい場所になじむために、そうする以外の方法を知らなかったのです。

そうして僕は取り返しのつかないところまで、その性格を極めてしまいました。


それ以降は、あれほどの失敗をすることはありませんでした。
慎重さを身につけたからです。


しかし、その慎重さが、先ほども書いた、今も僕が引き摺り続ける足かせです。
この足かせは、僕の罪への罰なのでしょう。
いつか、外せる日がくるまで、彼女に謝り続けて、誠実であろうと努め続けます。

結局、誰も傷つけたくないという想いと、後悔が、僕という人間の芯なのです。
身につけられなかったのは、人に嫌われてもいいという勇気と、うまく嫌われる技術です。


悲劇のヒーローなんて気持ちでいてはいけないのはわかっています。
僕は何も選んでいないなんて言いながら、全てのことは僕がもたらす帰結です。
自分を見つめ続けて、誰か一人を愛せる日まで。


二十歳の抱負ですか。今言ったことでしょうかね。
一社会人として立派に云々、というのは、また今度気が向いたら考えます。



今回の文のタイトルは、KANA-BOONさんの曲です。
本当はもっと内容に合う曲があるのかもしれませんが、この曲で。



いつだって、いつだって僕は、後悔と生きてゆく。
いつだって、いまだって君は、あの日のままです。




最後に彼女に、もう一度。
本当にすみませんでした。
許してくれなくてもいい。
今でも元気でいること、心から願っています。
どうか、あなたは幸せになって。



果てしない自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございました。
それではみなさん、ごきげんよう。


この不完全な世界

2015-05-10 23:09:43 | 日記

こんにちは。
最近1か月に一回ペースが定着してますね。

この1か月はうつ病が深刻でずっと希死念慮と戦ってたわけですが、
なんとか抜け出して今はケツメイシの
「また君に会える」でノれるくらいにはなりました。

なんでこんなに病んでいたのか。
サークルでは全くやりたくもないことを押し付けられ、
周囲には春の雰囲気に心躍っている姿を見せつけられ、
今までできていたことも全くできなくなっていました。
例えば、関係先に挨拶をしに行くとか、
いろいろな段取りを決めるとか。

本当に気分のせいでパフォーマンスが30分の1くらいになってました。

それも少し和らいだので、今こうしてブログを書いてみているのです。


今回書こうと思ったことは、大人の不完全さについてです。


大学生になって1年と少し過ごして思ったことなんですが、
大人って不完全なんだなあってつくづく感じるのです。

子どもの頃、大人って完全なもの、とまではいきませんが、
少なくともみんな立派ですごいものだと思っていました。
今になって思うと、本当に馬鹿馬鹿しいですよね。

小さい頃は、大人になるのはまだまだ先で、自分と大人というのも
全く別の存在のように感じられていたのです。

ちゃんと考えたわけではなかったと思いますが、
こんな複雑な世界を回している大人ってすごいんだろうなあ、と、
漠然と感じていたように思います。

さらに、中学生や高校生になっても、まだまだ自分は学生だし、
社会人になるまでのあと数年で、世の大人のような仕事をする能力や心構え、
あとは、例えば家事や行政上の手続き、子育て、車の運転のような、
生きる術のようなものが身につくのだろうと思っていました。


なんというか、学生までの人生と社会人としての人生の連続性が考えられなかったんですよね。

でも、今日までの1年と少しで、
人ってみんな不完全なまま大人になるんだなあ、と思ったわけです。
社会というのは不完全な人間の集まりなんだ、と。


どうしてこんなことを思うようになったのでしょう。
きっかけはたくさんありました。

きっかけの一つは、アルバイトで塾講師をしていることですかね。
僕なんて教育の研修もほとんど受けてないし、
そんなぺーぺーが人様に授業まがいのことをしてお金をいただく。
世の中ってそんなものなのか、と思いました。

他にも、ホテルのスタッフのアルバイトもしたことは前に書きましたが、
そのときも、気に入らない人にはきつくあたるし、悪口も言う。
失敗だっていくらでもする。

そんな大人の世界を直に感じたのも初めてで。


さらに、僕は学校祭の実行委員をやっているのですが(先ほど悪態をついたサークルとは別です)、
それも関係しているだろうと思います。

学校祭を一度運営したことによって、それなりのものを自分たちにも作れたこと。
それ以降、テレビ番組をはじめとしていろいろなイベント、
さらにはあらゆるものの運営について自分の経験に沿って見るようになったというか、
よりリアルに感じるようになりました。
これは大いに影響していますね。


もう一つ、友人が社会人になっていったことも理由としてあるのでしょう。
高校は進学校でしたから、就職した人は一人も知りませんが、
中学までの友達の中には社会人になって働き、給料をもらっている人もいます。

それがどうも違和感があるのです。

その人は僕の知っている小学校や中学校時代の彼、彼女と何ら変わらないのに、
「この世界を回している。」

彼らでも社会人になれる、というと非常に言い方が悪いですが、
社会を構成しているのは、どうやら特別な何かを身に着けた人間ではなくて、
僕自身の延長線上のような人間であるようだ。

誰だって何も持たないまま、社会に放り出される。


そんなこんなで、大人というものの不完全さに気づいたことが、
高校を卒業した後の1年間で自分が大きく変わったことの一つなのです。


世界は想像するよりもずっと不完全で、それでも回り続ける。

不完全な人間が回す、不完全な世界。

ある意味自分でもできるのではないかと安心する一方で、
こんな世の中が不安になったりもします。


だから、僕はこれからどうしていけばいいのでしょうね。

やっぱり、社会に出るために何か準備をしよう、なんて思うはずはありません。

世の中こんなものなんだ、と高をくくっていく所存です。

恐らくすぐに打ち砕かれるのでしょうけど。
それならそれでもいいのです。


今回はこのくらいにしましょう。



今日は書いた文章を見返して、なんて薄っぺらい文章なんだろう、って
つい苦笑いしてしまいました。
大丈夫。何も考えずに生きていきましょう。
完璧なものなんて何もありませんから。



それではみなさん、ごきげんよう。

みんな空の下

2015-04-10 00:52:41 | 日記

こんばんは。
新年度になりました。
今年度も相変わらず思ったことを書いていこうと思います。


さて、最近はといえばですが、僕はとても忙しいけど充実しない生活を送っています。
ただ忙しいだけ。
全て投げ出したい。
新入生の勧誘だったり、サークル内の仕事だったりするわけですが、
本当に何も楽しくないですね。

もし今の自分のまま去年の4月に戻ったら、
確実にインカレバレーボールサークルに入って何も考えない学生生活を送るでしょう。

全てのことに関して、なんで俺こんなことやってんだろうなあ、と思ってしまいます。

やりたいことはたくさんあるのに、何一つできてない。

野球をしたいし、バレーもしたいし、旅行もしたいし、
ピアノも弾きたいし、バンドにも挑戦したいし、女の子とデートもしたい。

本当にもどかしい。

大学生活本当にこのままでいいのか、と思います。

ただ、友達はそれなりにいるのが救いですけどね。



こんな不満ばっかり言っててもどうしようもないので、楽しかった話をしましょう。

春休みは免許取って帰省して終わったんですが、帰省って本当にいいもんですね。
帰省するために生きてんのかなあ、とか思います。

北海道に帰ると自然と頬が緩んでしまうんですよね。
それで、毎日のようにいろんな人と遊んで、幸せそのものなんです。
遊びすぎて貧血になってぶっ倒れたりもしましたが、それでも楽しいんです。

こっちの人に対する気持ちと全然違うと思います。
クラスとか部活とかがあって一緒に過ごす時間の濃さが違うっていう話は前にも書きましたが、
向こうにいたときはそこまで仲良いと思っていなかった人に対しても、
こっちの人にはないような自然な好意といったものが感じられるんです。

とってもとっても愛おしいな、って思います。

この人たちには本当に幸せになってほしいな、って。


そういえば、僕には数人、特に幸せになってほしい人がいるんです。
これは恋愛感情なのかと言われると少し違う気がします。

なぜなら、隣にいるのが僕じゃないとしても、
その人が笑顔でいられたらそれでいい、という感情だからです。

どうしてこういう感情が起きるのかわかりません。

それでも、夜、たまにふと思い出してその人の幸せを神様にお祈りをするんです。
幼稚園がカトリックでしたからね。
そんな都合のいいときだけするお祈りなんて、
聞き入れてもらえないよなあ、とも思うんですけど。

とにかく、彼女たちのために僕は祈るんです。


もしかしたらこういうことを思っているのは僕だけなのかもしれませんけど、
さらに今度は逆を考えてみるんです。

僕がその人を想い、その人のために祈るように、
誰かが僕のために祈ってくれているかもしれない。

そんな可能性って本当に低いかもしれませんが、
そうだとしたらすごく幸せだし、救われる気持ちになりませんか。


今日のタイトルですが、僕の大好きな曲に、絢香さんの「みんな空の下」という曲があります。
その歌詞の中に、


「星が顔を出し あなたが眠る頃
 同じ空の下 願う人がいる
 明日もあなたが笑ってられますようにって」


という言葉があります。
まさに僕の気持ちと同じなんです。

直接伝えることはできないけど、その人が苦しくて心が折れそうなとき、
僕の祈りが届いてほしいな、って思います。
君のことを想っている人がいること、忘れないでほしい。


それと同時に、僕も誰かに想われていると信じたい。

これまた僕の好きな曲なんですけど、
Mr.Childrenの曲で「いつでも微笑みを」という曲があります。


「もし僕がこの世から巣立って逝っても
 君の中で僕は生き続けるだろう
 そう思えばなんだかやっていけそうだよ」


誰かの心の中に生き続けられたら、それで十分です。

僕はこの世に何の愛着も執着もないですが、
もし他の人より先に僕がいなくなるとしたら、
誰か一人には覚えていてほしいな、と思います。
そして、たまには思い出してほしい。

生まれてきたからには、歴史になんて名を残さなくていいけど、
身近な大切な人にだけは覚えていてほしいです。
それだけでいい。


人間、知性なんて持ってしまったから苦しいんだと思っていますが、
これだけは人間の好きなところです。


だから、人との繋がりを大切になんて言うと陳腐ですが、
そういうことです。


今日もよくわからないことを書いてしまいましたが、
わりと伝わってほしいことでした。


それでは、明日も皆さんが笑っていられますように。
ごきげんよう。