早いもので、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のブルーレイ/DVDが2012年6月16日に日本で発売になります。劇場でご覧になった方も、見逃した方も、ぜひもう一度!
公開時の私の感想は2回に分けて書いています。
その1:http://blog.goo.ne.jp/serenity27/e/b10467961738c5d8eaea783aca01d9f1
その2:http://blog.goo.ne.jp/serenity27/e/53a830efdde56e82fb6e26c184229686
で、私は待ちきれずにUS版ブルーレイを買ってしまいました。DVDとデジタルコピーのパスワード付きですが、このデジタルコピーというのが、US国内でしか使えないんですよねえ。これってひどいと思う。オンラインでダウンロードするんだから、US外でもいいじゃん、と思うんですが。
それはさておき、届いてからしばらくは仕事が忙しくて観られなかったのですが、ようやく、観ることができました。落ち着いて観直してみても、素直にいい映画だと思いました。トーマス君のセリフにはやはり少し硬さはあると思いますが、黙っているときの表情はとても自然。次の出演作も決まったらしいですが、この映画での演技は初めてだったからこそのものかどうか、今後、注目していきたいと思います。ただ、難しい年頃ですよね。
ブルーレイの特典映像はメイキング、オスカー役が決まるまで、あの日から10年後、そして、マックス・フォン・シドー特番みたいなもの、この4点で、残念ながら、本編の音声解説はありません。最初の2点には、サンディーのインタビューも少し含まれます。「あの日から10年後」は、本編の中で、犠牲者のビラがたくさん貼られている中で一瞬クローズアップされる「ダン・マッギンリーさん」、この方は実際の犠牲者で、そのご兄弟などがこの特典で思い出を語っています。ご遺族と、この映画のスタッフが友人だったそうです。最後の「マックス特番」(私の勝手な命名)は、マックスの息子さんが撮影したものなので、サンディーとの共演シーンがないため、残念ながらサンディーは出てきません。でも、なかなか面白いです。それぞれの特典映像の中には、未公開シーンもいくつか出てきます。
マックス「私ばっか出ちゃって、すまんねぇ」
さて、日本公開時には原作もかなり大々的に宣伝され、話題になりました。原作との比較は詳しく書きたかったのですが、時間がたつにつれ、映画は映画として成立すればそれでいいのではないかという気持ちがより強くなってきました。あの原作の映像化権をプロデューサーのスコット・ルーディンが獲得したとき、きっと、映画にするか、TVのミニシリーズにするか、迷ったんじゃないかなあと勝手に推測します。原作により忠実にしようとすれば、2時間前後の映画では不可能ですから。私は、祖父母のストーリー、ミスター・ブラックとの旅もしっかり盛り込んで、10回ぐらいのシリーズにしてほしいなあ。
ここから先は、原作に関しても、映画に関してもネタバレを気にせずに書きますので、知りたくない方は飛ばしてください。
1)リンダの描き方について
原作では母親に名前はありません。この「名前がない」ということが原作における母親像としては重要な部分だと思います。原作は、オスカーが一人称で語る部分と、祖父母の手紙の部分に分かれ、ほかの人物は完全に背景なのです。原作者ジョナサン・サフラン・フォアのうまいところは、徹底的に背景である母親という人物が、わずかな登場ですごくよく分かるということ。そして、原作の母親像と、映画でのリンダはかなり違います。原作の母親は弁護士(または法律事務所の調査員か事務員)であり、オスカーの目から見るととても冷静であり、被害者の会で知り合ったロンを家に招き入れるほど親しくなっています。オスカーにとって、母親に反発する気持ちの大きな部分は、パパが死んでまだ2年なのに、ママは悲しそうに見えず、もう恋をしている、という点にあります。映画では、リンダはオスカーから「一日の半分は眠ってて、残りの半分は眠ってたことを忘れてるくらいぼんやりしてて、僕は親がいないのとおんなじだ!」と言われるほど、悲しみから立ち直れていない母親として描かれています。息子を送り出すときにもまだナイトガウン姿だったり。私は、オスカーと母親の距離感としては、原作の設定のほうが説得力があると思いました。映画版では、オスカーがパパっこだったことはよく分かりますが、あそこまで母親から距離を置く理由が、「空っぽの棺を埋葬した」という点以外にあまり説得力がない。感想にも書きましたが、母親との関係の希薄さをもう少し描いておいてくれてたら、という気持ちはぬぐえません。ロン役のジェイムズ・ガンドルフィーニは、最初の予告編まではクレジットされていたので、撮影したことは間違いないと思うのですが、彼の存在の有無は大きな鍵だったと思います。映画版の最後に、オスカーがリンダに「また恋をしてもいいよ」と言うシーンがありますが、あれは原作にもあります。原作では、ロンとの関係が伏線にあるので自然なのですが、映画版ではちょっと唐突な印象もありますね。
2)「ビルにいたのがママならよかったのに」
オスカーのリンダに対する気持ちが分かる重大なセリフですが、原作では、これは前述のロンとの関係についての母と子の会話の流れで出てくるセリフです。映画版では、空っぽの棺を埋葬したことで激しく言い合った後のセリフですよね。オスカーの描き方も、表面的には原作と映画版ではかなり違います。映画版ではかなり感情を爆発させますが、原作ではそれを抑え込むように描かれています。「表面的には」と書いたのは、リンダの描き方とは違って、オスカーの場合は、原作も映画も中身は一緒だと思うからです。ちょっとそれましたが、このセリフに続いて、映画の中では唯一、オスカーの視点から外れてリンダの回想シーンになります。その、トーマスからの最後の電話の部分は、原作では、最後のほうで、リンダがオスカーに簡単に、でも深い意味をもって語る部分として出てきますが、その部分に母親の心情が集約されていて、私はとても好きです。
3)オスカーとリンダの近くて遠くて近いシーン
映画版で、オスカーがナイトガウン姿のリンダを残して出かけ、ドアを閉めたあとで、かがみこんで"I love you."と言うシーンがあります。リンダのほうは、ドアの下で影が動くのに気づいて、彼女もかがみこんでいます。
このシーンは、原作にはもちろんありません。でも、おそらくこの部分を脚色したんだろうな、という部分はあります。それは、2)に書いたキツい一言をオスカーから言われたあとで、原作では母親は黙ってオスカーの寝室から出ていき、ドアを閉めますが、オスカーは、ドアノブをつかめば、反対側の母親とドア越しにつながっているのではないかと考えるシーンです。ここは、原作も名場面だし、映画のほうもいいと思いました。オスカーの罪悪感がとてもよく伝わってきます。
4) 間借り人
映画版ではオスカーは間借り人と一緒に鍵穴探しをしますが、原作でオスカーと一緒に探すのはミスター・ブラックです。映画版では、一瞬だけ、「耳の聞こえないブラック」として登場します。ミスター・ブラックはとてもチャーミングなキャラクターなので映画版に登場しなかったのは残念ですが、間借り人に二役させたのは私は選択肢としてはアリだったと思いますね。ただ、原作で間借り人の長年の後悔をある意味で昇華させる場面(オスカーと一緒に棺を掘り返し、ずっと書いては投函せずにためておいた手紙を棺に入れる場面)がなかったのは残念ではあります。でも、祖父母の物語を省略するという選択をした段階でそれは消えたんでしょうね。映画では、オスカーは途中から間借り人=おじいちゃんだと気づきますが、原作では間借り人と会っていたときは気づかず、あとになってから気づく、ということになっています。私は映画版ではその点を説明しすぎだったかなあと思いました。
5)映画版になくて残念だったこと
これは私の妙な好み(笑)なんですが、原作ではオスカーが母親の服の背中のジッパーを上げるのがとても好きだ、という設定になっています。そのシーンが映画になくて残念でした。
6)映画版でちょっと笑えたこと
このブラックさん、覚えてますか?
リー・アン・ブラック。オスカーもリンダも追い返してしまう意地悪なおばさんです。私はこの人の名前が「リー・アン」ということで、「しあわせの隠れ場所」のリー・アンを連想して笑ってしまいました。原作には出てこなかった名前だと思うので(記憶違いかもしれません)、サンディーがふざけて付けたのかなと思ったり。
7)リンダの行動
ニューヨークという大都会で、小学生が一人で歩き回れるものなのか、という点は、原作を読んだときから疑問でした。以前に見たドキュメンタリーで、ニューヨークでは確か12歳以下の子供が街を歩くときには必ず付き添いが必要という規則があることを見ていたからなのですが、原作でも映画でも、「子供を一人で出歩かせるなんて、無責任な親だ」と思われる母親が、あとでじつはちゃんと行動を把握していたのだということがわかる、ということになっています。それでもねえ・・・という疑問は残りますけれども。原作では、オスカーの一人称の語り、ということもありますが、母親が彼の行動を知っていた点は、アビー・ブラックとの会話から発覚します。読み手には、それまでにも伏線として「もしかすると」と思える点は出てきますが。映画では、その部分は終盤の見せ場として描かれますね。サンディーの貴重な登場場面としてうれしかったですが、原作のままでもよかったなとも思います。
8)留守電
原作と映画の違いで、これだけは原作のままのほうがよかったのに、と思ったのが、留守電です。メッセージのことではなく、留守電そのものを、オスカーがいつ交換したのか、という点。映画では帰宅したリンダが「留守電にメッセージは?」と聞くと、オスカーは首を振ります。そして夜、おばあちゃんが眠ってしまったあとで、オスカーがこっそり家を抜け出して、同じ機種の留守電を買いに行き、交換しますね。私はそれがどうしても不自然に思えました。リンダの行動として、自分でも留守電を確認するだろうと思うのです。息子を疑うというのではなく、確認せずにはいられないのではないかと思うんですよ。だって、トーマスはリンダに電話で、「これからオスカーに電話をする」と言ってたんだし。原作では、オスカーは留守電の交換を最後のメッセージを聞いた直後に済ませておくのです。父親の死を悟った小学生の行動としては、何もできないでいるほうが自然ですが、留守電を交換、ということを考えると、夜までの間にリンダが確認しないことのほうが不自然だと思います。ところで、2001年ごろのアメリカでは、留守電のみの機械がまだ普通に使われていたんですねえ。
ネタバレ関係は以上です。
そのうち、原作をまたじっくり読み直したいと思っています。実はまだ、タイトルの意味がはっきり理解しきれてないんですよね。きっと1つではないと思うのですが。
もう来月にはDVD発売になっちゃうんですね。
あちゃ~σ(^_^;)
原作を読んでいたら、楓さんの記事もよく分かるんだろうなぁと思いつつ、しっかり読ませていただきました。
ブラックさんのひとり、リー・アンさん。
初めて観たとき、ちょっと考えてしまったんですよね。
名前もそうだし、何となくお顔も似てるような・・・。
でも、それは考えすぎだよな~って、自分を納得させてました(^_^;)
この原作は分厚いので物理的に読みにくい、というのもありますよね。
バッグに入れるには重いし。
でも、読み始めるとわりと一気に読めると思うので、ぜひ。
私も「留守番電話取り代え」のタイミングが不自然でおかしいなぁと初めから疑問でした。
まぁそもそも新品に代えたら気づくだろう?という意味では原作から疑問ちゃ疑問でしたけど・・・・。
でも、聴いてからすぐに買い換えるのが自然ですし、オスカーの必死な気持ち(罪悪感)が伝わりますよね。
それからロンの不在も同意。
これもやはり残念だし、オスカーと母のすれ違いを表現するにはさらりとでも存在が必要だったかなぁと。
ミスターブラックは個人的にも好きなキャラクターなので残念でしたが、あれだけにまとめるにはやむを得ないですね。
オスカーが間借り人にマシンガントークをするシーンはとても好きです。
特に数字を手で表すしぐさがいい。
逆にトム・ハンクスの「肩をすぼめる」しぐさが私にはどうも苦手でした。。もっと自然なイメージだったので。。興ざめポイント。
リンダの描き方は回想シーンや最後の本をめくるシーンなどあの原作を「こういう風に表すんだ」と上手いなぁという部分もありますね。
ただ・・・ファンの私でも最後のネタあかしシーンはちょっと・・・・。
長すぎる気がしました。
ファンだから嬉しいんだけど。。
ハグ好きのブラックさんもいいけど・・・・サンディらしいシーンでしたけど。。うーん。画面作りの色合いが変わり過ぎかな?と。
リー・アンには気づかず(笑)
逆に原作にない最後のブランコにあったアレは私は好きでした。
見えないパパの存在感と包容力をちゃんと感じさせるあのシーン。泣きましたよ。
ちなみに一緒に見た人はあのシーンはあざといと言っていたので、やはり人それぞれですね(笑)
それから個人的に収穫はウィリアム・ブラック演じるジェフリー・ライトの好演でしょうか。
少ししか出てこないのにオスカーを包む温かさが感じられて良かったです。
原作、また読み返そうっと。
トム・ハンクスの肩のすくめ方は、私もちょっとわざとらしいなあと思いました。
ブランコのシーンは、第6区の伏線からうまく持っていきましたよねえ。確かに、きれいにまとめすぎてる印象もありますが、映画としての独自性があっていいと思いました。
私はその前のオスカーの手紙でも泣けました。「こんな自分をパパはきっと誇らしく思ってくれる。僕はそれが願いだった」というあたりで。
http://www.studiomagonline.com/features/interview-extremely-loud-and-incredibly-close-studio-magazine/
http://cinema.pia.co.jp/news/157976/46884/