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平将門と朝敵

先日掛川で思いもよらず平将門に関する遺跡を見つけたわけですが、思えば将門に関してはほとんど知識がない。

平安時代に関東で反乱を起こし討たれ、京で首を晒されたがその首は飛んで関東に戻った・・・その程度。

子供の頃大河ドラマで加藤剛が将門をやったのを見た覚えがあるが、内容はほとんど記憶にない。

そこで将門について色々調べてみたらなかなか興味深い事が分かりました。

なんと言っても一番は「新皇」を名乗って独立宣言しちゃった事。

日本の歴史の中で自ら「王」を名乗って国家を樹立したのは後にも先にも将門だけじゃないだろうか?

桓武天皇の5代子孫なので、全く新しい皇統とか他民族による国家ではないが、天皇家の威光を利用して権力を握ったその他の支配者とは全く違う発想。

おかげで将門はその死後「朝敵」とされますが、江戸時代になると関東に幕府を開いた徳川家により朝敵ではなくなる。

しかし明治維新後、反徳川の政府によってやっぱり朝敵とされてしまう。

歴史の中でその評価は時代によってコロコロ変わるのです。

朝敵であるかそうでないかは日本人の価値観の中で非常に重要なウエイトを占めていると思う。

日本の歴代の権力者は朝廷から官位をもらうという形で自分の正当性を保障されてきましたから、反対勢力は朝敵にされました。

だから朝敵であるかないかは権力者にとってとても重要だったはずです。

例えば幕末、会津藩は京都守護職として孝明天皇に仕えます。ところが孝明天皇崩御後は戊辰戦争で幕府側に付いたので朝敵となってしまいます。

維新後も会津藩はずっと朝敵でしたが昭和になってようやく朝敵でなくなったと言われています。

一方長州藩は禁門の変で京都御所に大砲をぶっ放し朝敵になります。しかしその後薩長同盟によりいつのまにか官軍となり明治維新をむかえます。

朝敵かどうかはその時の権力者や政争によって簡単に変わるものですが、権力者はそれをすごく重要視してきました。

その価値観は日本人の心の奥底に刷り込まれ現在でもかなり大きな割合を占めているのではないかと思われます。

現在の日本人の皇室好きも実は朝敵になりたくないという深層心理が潜んでいるからかもしれない・・・などと意味不明な事を考えている今日この頃。
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