日本キリスト教団 聖峰教会

苦しい心が少し楽になるために、聖書、詩、名言を紹介します。

花の季節です

2017年06月08日 | こころ

花から

とりのぞける

ものはない

花に

付け加えられる

ものもない

星野富弘『花の詩画集 速さの違う時計』(偕成社)より

青空の下、教会の花壇に花がいっぱい咲きました。

 

野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。

働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。

映画を極めたソロモンでさえ、

この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、

かみはこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか…

 

(聖書 マタイによる福音書6章28〜30節)

 

6月11日、日曜日は、花の日・子どもの日合同礼拝です。


ひとりじゃない

2016年09月05日 | こころ

貧しさにはいろいろあります。

経済的にはうまくいっているように思われる国さえも、

奥深いところに隠された貧しさがあるのです。

それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が

抱えている極めて強烈な寂しさです。

 

「マザー・テレサ 愛と祈りの言葉」(PHP文庫)


聖書のみことば

 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

これを見た人たちは皆つぶやいた。

「あの人は罪深いところに行って宿をとった。」

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを4倍にして返します。」

イエスは言われた。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

人の子は、失われたものを捜して救うためにきたのである。」

(新約聖書 ルカによる福音書19章2〜10節)



 子どもたちにとって、夏休みがおわってまた始まる学校生活。ゆるんだ気持ちをキュッと締めると、お腹もなんとなく痛くなるような、心が重い9月の朝を迎えているかもしれません。

 知らない人ばかりの中、初めて会う人たちの中、緊張している時に、「◯◯さん」と声を掛けられると緊張がほぐれます。硬くなっている顔もほぐれます。

 「わたし」というたったひとりの存在を見つけ出してくれる方がいるだけで、私たちは変わることができます。

 「急いで降りてきなさい。」

 急ぐのは「わたし」ではなく、急いで来て「わたし」を探し出してくださったのです。

「もう大丈夫、あなたはひとりじゃない」と言うために。

不安の中にいる時、心の中に急いで来てくださるのはイエスさま。


ねがい

2016年06月18日 | こころ

当てはずれ


あなたは私が

考えていたような

方ではなかった


あなたは私が

思っていたほうからは来なかった

私が願ったようには

してくれなかった


しかしあなたは

私が望んだ何倍ものことを

して下さっていた

(星野富弘著『あなたの手のひら』より引用、偕成社)

 

聖書のことば

 それで、そのために思いあがることのないようにと、わたしの身にひとつのトゲがあたえられました。それは思いあがらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

 だからキリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜならわたしは弱い時にこそ強いからです。

コリントの信徒への手紙二12章7〜10節


願 い 

 私たちは願い事をします。キリスト教の神さまに祈る人、八百万の神さまに祈る方、仏様に祈る方もいます。願い事が叶えば、ご利益があったということになりますが、祈りが聞き届けられなかったたという時は、どう受け止めるのでしょうか?

 キリスト教では自分の願い事が叶わなかったときも、神様は祈りを聞いてくださったのだと受け止めます。自分の思ったようにはならなくても、神様が私たちに良いと思われたことをしてくださっているのです。

 星野富弘さんは願ったこととは違うけど、結果的に自分にとってよかった、十分に幸せと思えるようになられたのです。神様は自分の祈りを聞いてくれなかったのではなく、自分にとって別の道があることを示して導いてくださったということです。

 自分の思いから自由になることも、気持ちが楽になる生き方なのだと思います。