
僕が生まれる前に住んでたとこ。
今は無人島です。
ウィキペディアより抜粋
19世紀に石炭の存在が確認された。明治時代初期には鍋島氏が経営。1890年から三菱財閥の所有となった。石炭採掘のため周囲を埋め立て、また大正期以降には日本最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。海上から見たそのシルエットが、1921年当時、三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島の通称で呼ばれてきた。
戦時中に「アメリカ潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂があったが、実際は潜水艦ティランテ (USS Tirante, SS-420)が、停泊していた石炭運搬船白寿丸を狙って撃沈したものだった。1945年6月11日の出来事である。
良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万トンを出炭。最盛期を迎えた1960年には人口5,267人を数え、人口密度は東京特別区部の9倍以上に達した。これは当時としては世界一の人口密度である。炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により漸次衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。この時期は、日本の高度経済成長の終焉と重なる。
端島に残る集合住宅は、保存運動で話題になった同潤会アパート以上の長い歴史を持っている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、国内でも最初期の鉄筋コンクリート造の高層アパートである。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(大正7年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられた。
典型的な高層アパートは中庭を中心に設け、周りを廊下が囲むプランで、地下に売店が設けられたものもあった。各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけで、トイレも落下式のところが多かった。
僕が生まれたのはとなりの「高島」
軍艦島は「端島」(はしま)が正式名称です。
端島と高島は石炭、そう炭鉱の島です!
東京でここに住んでた方に会いました。かなり前ですが。
うれしかったですね~
長崎にしろ岡山にしろ故郷が寂れてゆくのは悲しいですね!