・ 【安乗岬灯台というのがありました】
志摩半島は沢山の岬が入り組んでまして湾の先端の一つが安乗岬なのです、40年前には賢島、前回は伊勢海老漁で有名な大王崎へ行きました
伊勢海老は名前の通り伊勢志摩が本場なのです、伊豆高原では小さい「ザリガニ」のようなサイズでも伊勢海老として扱っています
(伊勢海老は姿形は立派ですが、量も少ないし、食べ慣れていませんから食べてもさほど美味しいとは思いません)
灯台記念館がありました、灯台は有料の施設です、「シイタケ」は有料ならば原則入らないのです
・ 【灯台記念館の方は嬉しい無料なのです】
昔の灯台のランプが飾れられておりました、レンズを磨くのは手作業で燈台守が行っていました、TVでは「燈台守」の映画が
ボタン一つで上映される仕組みになっていましたからここで時間を潰せます、しょぼいブラウン管の小さい受像機でした
(無料ですからこれも仕方の無いことです)
喜びも悲しみも幾年月
「1932年(昭和7年)、新婚早々の燈台守・有沢四郎と妻・有沢きよ子は、四郎の勤務先の観音埼灯台で暮らし
始める。北海道の石狩灯台で雪野・光太郎の2人の子を授かり、九州の五島列島の先の女島灯台では夫婦別居も
経験する。その後、弾崎灯台で日米開戦を迎え、戦争で多くの同僚を失うなど苦しい時期もあったが、
後輩の野津と野津の妻・真砂子に励まされながら勤務を続ける。また、空襲を逃れて東京から疎開してきた
一家と親しくなるなど、新たな出会いもあった。
戦後、男木島灯台勤務の時、息子の光太郎が不良とのケンカで刺殺される。が、そうした悲しみを乗り越えた
先には喜びも待っていた。御前埼灯台の台長として赴任する途中、戦時中に知り合った疎開一家の長男・進吾と
娘の雪野との結婚話がまとまったのだ。御前埼灯台から四郎ときよ子の2人は灯台の灯をともして、新婚の雪野
と進吾がエジプトのカイロに向かうために乗り込んだ船を見守る。遠ざかる船を見ながら、四郎ときよ子は
「娘を立派に育てあげて本当によかった。灯台職員を続けていて本当によかった」と、感慨深く涙ぐむのだった。」
僕もこのストーリーには涙腺が刺激されます、今の若い人に通じますでしょうか?
「安乗半島」に向かって進んでいくと「なにわ」ナンバーで来ている叔父さんが釣り糸を垂れていました
・ 【ちょうど大きなフグが釣り人に掛かっていました】
今回の旅行ではじめて見る「魚が釣れた」風景でした、満月に釣り竿をしねらせており丁度魚が掛かったようで奮闘しています
吊り上げた魚をみますと結構な「とらふぐ」ですね、調理は出来ないけれど勝利者の顔になっていました、魚籠を見ますと
「メジナ」に「アイゴ」まで入れています、こちらでは「アイゴ」は食べるそうです、背中の針が痛くてねえ、さっきは刺されたのだよと言います、
所変われば品も変わって白身で美味しい魚だそうです、
(伊豆では皆さん一様に「アイゴ」かと言ってがっかりして捨てています、関西では「キュウセンベラ」も食べます)
天然トラフグは釣れても料理できないはずです、調理免許を持っている人の所へ行くのでしょうね
志摩半島には小さな島が沢山あって、渡し舟が用意されております
・ 【資材の運搬にも使われるようです】
モーターボートのような小さな船です、船長さんは一人で何役もこなします、来た船には観光のお客さんが乗船です、どうやら
島にはホテルや民宿が5件ぐらいありそうです、船は共同で運航されているようです、客から呼び出しがあったようで
タクシーの運転手が待っていました、お客さんが乗っていくと今度はビールケースを何箱も運んでいます、もちろん荷役も船長さんの役目です
(船長さんは船長さんらしい制服を着ているわけではありません、ポロシャツ姿で操船だけでなく、荷物の荷役までやるのです)
安乗海岸は太平洋の波が沸き立つ絶好の「サーフポイント」でもあるのです
・ 【平日なのにざっと10人以上が海に入っていました】
サーファーの日本選手権が開かれる位有名な所だそうです、宿のオーナーさんが熱心に語って暮れましても、紫さんではないので余り感心は湧かないのです
なるほど灯台の反対側には休日なら沢山サーファーが来ると思われるサーフショップやシャワー設備に駐車場の案内が目立ちました
志摩半島は沢山の岬が入り組んでまして湾の先端の一つが安乗岬なのです、40年前には賢島、前回は伊勢海老漁で有名な大王崎へ行きました
伊勢海老は名前の通り伊勢志摩が本場なのです、伊豆高原では小さい「ザリガニ」のようなサイズでも伊勢海老として扱っています
(伊勢海老は姿形は立派ですが、量も少ないし、食べ慣れていませんから食べてもさほど美味しいとは思いません)
灯台記念館がありました、灯台は有料の施設です、「シイタケ」は有料ならば原則入らないのです
・ 【灯台記念館の方は嬉しい無料なのです】
昔の灯台のランプが飾れられておりました、レンズを磨くのは手作業で燈台守が行っていました、TVでは「燈台守」の映画が
ボタン一つで上映される仕組みになっていましたからここで時間を潰せます、しょぼいブラウン管の小さい受像機でした
(無料ですからこれも仕方の無いことです)
喜びも悲しみも幾年月
「1932年(昭和7年)、新婚早々の燈台守・有沢四郎と妻・有沢きよ子は、四郎の勤務先の観音埼灯台で暮らし
始める。北海道の石狩灯台で雪野・光太郎の2人の子を授かり、九州の五島列島の先の女島灯台では夫婦別居も
経験する。その後、弾崎灯台で日米開戦を迎え、戦争で多くの同僚を失うなど苦しい時期もあったが、
後輩の野津と野津の妻・真砂子に励まされながら勤務を続ける。また、空襲を逃れて東京から疎開してきた
一家と親しくなるなど、新たな出会いもあった。
戦後、男木島灯台勤務の時、息子の光太郎が不良とのケンカで刺殺される。が、そうした悲しみを乗り越えた
先には喜びも待っていた。御前埼灯台の台長として赴任する途中、戦時中に知り合った疎開一家の長男・進吾と
娘の雪野との結婚話がまとまったのだ。御前埼灯台から四郎ときよ子の2人は灯台の灯をともして、新婚の雪野
と進吾がエジプトのカイロに向かうために乗り込んだ船を見守る。遠ざかる船を見ながら、四郎ときよ子は
「娘を立派に育てあげて本当によかった。灯台職員を続けていて本当によかった」と、感慨深く涙ぐむのだった。」
僕もこのストーリーには涙腺が刺激されます、今の若い人に通じますでしょうか?
「安乗半島」に向かって進んでいくと「なにわ」ナンバーで来ている叔父さんが釣り糸を垂れていました
・ 【ちょうど大きなフグが釣り人に掛かっていました】
今回の旅行ではじめて見る「魚が釣れた」風景でした、満月に釣り竿をしねらせており丁度魚が掛かったようで奮闘しています
吊り上げた魚をみますと結構な「とらふぐ」ですね、調理は出来ないけれど勝利者の顔になっていました、魚籠を見ますと
「メジナ」に「アイゴ」まで入れています、こちらでは「アイゴ」は食べるそうです、背中の針が痛くてねえ、さっきは刺されたのだよと言います、
所変われば品も変わって白身で美味しい魚だそうです、
(伊豆では皆さん一様に「アイゴ」かと言ってがっかりして捨てています、関西では「キュウセンベラ」も食べます)
天然トラフグは釣れても料理できないはずです、調理免許を持っている人の所へ行くのでしょうね
志摩半島には小さな島が沢山あって、渡し舟が用意されております
・ 【資材の運搬にも使われるようです】
モーターボートのような小さな船です、船長さんは一人で何役もこなします、来た船には観光のお客さんが乗船です、どうやら
島にはホテルや民宿が5件ぐらいありそうです、船は共同で運航されているようです、客から呼び出しがあったようで
タクシーの運転手が待っていました、お客さんが乗っていくと今度はビールケースを何箱も運んでいます、もちろん荷役も船長さんの役目です
(船長さんは船長さんらしい制服を着ているわけではありません、ポロシャツ姿で操船だけでなく、荷物の荷役までやるのです)
安乗海岸は太平洋の波が沸き立つ絶好の「サーフポイント」でもあるのです
・ 【平日なのにざっと10人以上が海に入っていました】
サーファーの日本選手権が開かれる位有名な所だそうです、宿のオーナーさんが熱心に語って暮れましても、紫さんではないので余り感心は湧かないのです
なるほど灯台の反対側には休日なら沢山サーファーが来ると思われるサーフショップやシャワー設備に駐車場の案内が目立ちました
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