・ 【富戸の守り神:三島神社】
盛大に豊漁祭りが10月28,29、30日に行われます
富戸三島神社
「創建の年代は詳かでないが、現存する最古の棟札に『明暦四戊戌初秋三島明神是則天平年中(七二九~七四九)
出現国家擁護の神霊也』とあり、御祭神(三島大社の大神)が伊豆七島を開拓され、賀茂郡白浜村(現河津町白浜)
から田方郡三島町(現静岡県三島市)へ御巡幸途中富戸が御神徳に浴したことから、産土神として奉祭したと云う。
元、鹿島神社と云ったが、後に三島神社と改めた。
又、源頼朝が伊豆に閉居された折の祈願社十七社の内の一社である。
なお、現在の御本殿の創建を立証する当時の棟札二枚が、平成十一年三月三十日伊東市教育委員会より
市有形文化財に指定されましたが、これによりますと、御本殿は享和三年(一八〇三年)に建造された
「二間社流造」と云われ、一つの棟に二社を別々にお祀りしてあり、非常に珍しい造りであるとのことである。」
元は鹿島神社だったのです、道理で鹿島踊りという踊りが披露されています
旧デジカメの調子が悪くて済みません、神社の謂れが書いていると思います
・ 【鹿島踊りの歴史でしょうか】
「静岡県田方郡対島村富戸(現伊東市富戸)字宮の上に鎮座指定村社として、御祭神の積羽八重事代主命又
単に事代主命と申し、大国主命の御長子なり。
また、若宮八幡は、鎮座の由緒は定かではないが、源頼朝が伊豆閉居の折、伊東の庄の豪族であった
伊東祐親の娘八重姫との間に儲けた千鶴丸が、当時平家の有力武将であった祐親の命により、
伊東の川に流されたものが富戸の浦に流れ着き、これを大切にお守りしたものとの言い伝えがある。」
頼朝さんは若かりし頃からモテたようです、伊豆の島流しの刑に処せられましたが結構自由だった暮らしぶりですね
・ 【頼朝の子供は平家に遠慮して川に流されました】
「永暦元年(1160)伊豆に流された源頼朝は伊東祐親の三女八重姫と人目を忍ぶ仲となり男子が生まれた。
千鶴丸と名付けたが平家管領である祐親は清盛に知られては一大事と千鶴丸を八重姫から奪い家来に命じ
伊東八代田の川に千鶴丸の腰に石を付け沈めて殺した(後に稚児渕と云う)。
沈められた千鶴丸の腰の石がとれて川を下り海に出て富戸の海岸に着き、釣をしていた甚之右衛門が見付け
引揚げた処高価な着物を身につけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い遺体をこの石の上に安置し
着物を乾かして懇ろに葬ったと云う、
これによりこの石を産衣石と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となりここの三島神社の御祭神
三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され村人の平穏無事と五殻豊穣大漁が祈願される。
三島大明神と共に二年に一度神興の渡御があり、御旅所として此の石に据え暫時の御休憩をし、千鶴丸にも
祈りが捧げられる。
又甚之右衛門は千鶴丸がにぎっていた橘の枝が余りにも見ごとであったのでこれを三島神社の社殿の前に
挿した処、千鶴丸の怨念で根付いたが数年にして枯れたので同じ物を植えたのが現在に至り毎年香り高い
花を咲かせ当時を偲ばせてくれる。千鶴丸が握っていた橘は千鶴丸が稚児渕に連れて行かれる途中の
鎌田神社境内に丁度香り高い匂いをつけた橘をせめてもの慰めにと家来が持たせたと云う。
後にこれを知った頼朝は甚之右衛門を呼び出して賞賛の言葉と生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を
授与されたと云う。生川(うぶかわ)の姓は今では生川(なまかわ)と云う屋号で、甚之右衛門の生家は
現在の三好伍郎家である。」
城ヶ崎海岸のガソリンスタンドは三好さんと言います、三好一族が生き残っているのです(真贋はわかりません)
ご神木の巨木(タブの木)です、イチョウの木もあって、銀杏が拾われないで残っていました
・ 【タブの木はイメージ湧かないです】
伊東市では銘木に番号が付いて管理されております
・ 【これがタブの木です】
富戸のお祭りの進行
「10月29日の例祭当日には、鹿島踊り・下方(シャギリ)・神楽・万灯の保存会が祭礼に関わる。
まず、早朝6時30分より清めの儀式として、神楽舞が境内にて奉納される。続いて8時30分頃から、
力自慢の若者により万灯が奉納される。9時30分祭式が斉行されるが、鹿島踊りの舞人は、修祓を受けた後
直ちに境内中段にて鹿島踊りを奉納する。この間祭式は粛々と行われ、鹿島踊りの終了を以って直ちに
神輿渡行に移る。神輿の担ぎ手は、鹿島踊りの舞人12名が務め、決して声を発しる事のないよう
口紙を銜える。境内の階段を静々と降りた神輿は大庭(鳥居手前の広場)に降りるや、
シャギリ(お囃子)に合わせ所狭しと練り廻る。そして、30分から40分練ったころ、神社から里内に出る
ため、鳥居に向かって突進する。
しかし、古くから里人たちから、神輿が鳥居を出てしまうと祭は終わりと言い伝えられてきたことから、早く
里内に出て行きたい神様と、里人との鬩ぎ合いから幾度となく神輿は境内に戻され、神様と里人との気持ちが
一致した時をみて鳥居を潜ることができるのである。神社を後にした神輿は海岸のお旅所を目指し、
例祭参列者を先導に粛々と進み、この間練ることはない。海岸のお旅所に着いた神輿は、千鶴丸伝説の産衣岩に安置される。
暫しの休憩後神楽舞が奉納され、引き続き鹿島踊りが奉納される。奉納後、神輿は神社に還る。
神輿は、境内到着後シャギリに合わせ少し練って社殿に入る。御神体がご本殿に還って例祭は終わるが、
例祭の締めとして再度鹿島踊りが奉納され、午後1時30分頃祭礼の全てを終了する。」
来年は進行次第がわかりましたのでじっくり見てみたいね!
盛大に豊漁祭りが10月28,29、30日に行われます
富戸三島神社
「創建の年代は詳かでないが、現存する最古の棟札に『明暦四戊戌初秋三島明神是則天平年中(七二九~七四九)
出現国家擁護の神霊也』とあり、御祭神(三島大社の大神)が伊豆七島を開拓され、賀茂郡白浜村(現河津町白浜)
から田方郡三島町(現静岡県三島市)へ御巡幸途中富戸が御神徳に浴したことから、産土神として奉祭したと云う。
元、鹿島神社と云ったが、後に三島神社と改めた。
又、源頼朝が伊豆に閉居された折の祈願社十七社の内の一社である。
なお、現在の御本殿の創建を立証する当時の棟札二枚が、平成十一年三月三十日伊東市教育委員会より
市有形文化財に指定されましたが、これによりますと、御本殿は享和三年(一八〇三年)に建造された
「二間社流造」と云われ、一つの棟に二社を別々にお祀りしてあり、非常に珍しい造りであるとのことである。」
元は鹿島神社だったのです、道理で鹿島踊りという踊りが披露されています
旧デジカメの調子が悪くて済みません、神社の謂れが書いていると思います
・ 【鹿島踊りの歴史でしょうか】
「静岡県田方郡対島村富戸(現伊東市富戸)字宮の上に鎮座指定村社として、御祭神の積羽八重事代主命又
単に事代主命と申し、大国主命の御長子なり。
また、若宮八幡は、鎮座の由緒は定かではないが、源頼朝が伊豆閉居の折、伊東の庄の豪族であった
伊東祐親の娘八重姫との間に儲けた千鶴丸が、当時平家の有力武将であった祐親の命により、
伊東の川に流されたものが富戸の浦に流れ着き、これを大切にお守りしたものとの言い伝えがある。」
頼朝さんは若かりし頃からモテたようです、伊豆の島流しの刑に処せられましたが結構自由だった暮らしぶりですね
・ 【頼朝の子供は平家に遠慮して川に流されました】
「永暦元年(1160)伊豆に流された源頼朝は伊東祐親の三女八重姫と人目を忍ぶ仲となり男子が生まれた。
千鶴丸と名付けたが平家管領である祐親は清盛に知られては一大事と千鶴丸を八重姫から奪い家来に命じ
伊東八代田の川に千鶴丸の腰に石を付け沈めて殺した(後に稚児渕と云う)。
沈められた千鶴丸の腰の石がとれて川を下り海に出て富戸の海岸に着き、釣をしていた甚之右衛門が見付け
引揚げた処高価な着物を身につけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い遺体をこの石の上に安置し
着物を乾かして懇ろに葬ったと云う、
これによりこの石を産衣石と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となりここの三島神社の御祭神
三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され村人の平穏無事と五殻豊穣大漁が祈願される。
三島大明神と共に二年に一度神興の渡御があり、御旅所として此の石に据え暫時の御休憩をし、千鶴丸にも
祈りが捧げられる。
又甚之右衛門は千鶴丸がにぎっていた橘の枝が余りにも見ごとであったのでこれを三島神社の社殿の前に
挿した処、千鶴丸の怨念で根付いたが数年にして枯れたので同じ物を植えたのが現在に至り毎年香り高い
花を咲かせ当時を偲ばせてくれる。千鶴丸が握っていた橘は千鶴丸が稚児渕に連れて行かれる途中の
鎌田神社境内に丁度香り高い匂いをつけた橘をせめてもの慰めにと家来が持たせたと云う。
後にこれを知った頼朝は甚之右衛門を呼び出して賞賛の言葉と生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を
授与されたと云う。生川(うぶかわ)の姓は今では生川(なまかわ)と云う屋号で、甚之右衛門の生家は
現在の三好伍郎家である。」
城ヶ崎海岸のガソリンスタンドは三好さんと言います、三好一族が生き残っているのです(真贋はわかりません)
ご神木の巨木(タブの木)です、イチョウの木もあって、銀杏が拾われないで残っていました
・ 【タブの木はイメージ湧かないです】
伊東市では銘木に番号が付いて管理されております
・ 【これがタブの木です】
富戸のお祭りの進行
「10月29日の例祭当日には、鹿島踊り・下方(シャギリ)・神楽・万灯の保存会が祭礼に関わる。
まず、早朝6時30分より清めの儀式として、神楽舞が境内にて奉納される。続いて8時30分頃から、
力自慢の若者により万灯が奉納される。9時30分祭式が斉行されるが、鹿島踊りの舞人は、修祓を受けた後
直ちに境内中段にて鹿島踊りを奉納する。この間祭式は粛々と行われ、鹿島踊りの終了を以って直ちに
神輿渡行に移る。神輿の担ぎ手は、鹿島踊りの舞人12名が務め、決して声を発しる事のないよう
口紙を銜える。境内の階段を静々と降りた神輿は大庭(鳥居手前の広場)に降りるや、
シャギリ(お囃子)に合わせ所狭しと練り廻る。そして、30分から40分練ったころ、神社から里内に出る
ため、鳥居に向かって突進する。
しかし、古くから里人たちから、神輿が鳥居を出てしまうと祭は終わりと言い伝えられてきたことから、早く
里内に出て行きたい神様と、里人との鬩ぎ合いから幾度となく神輿は境内に戻され、神様と里人との気持ちが
一致した時をみて鳥居を潜ることができるのである。神社を後にした神輿は海岸のお旅所を目指し、
例祭参列者を先導に粛々と進み、この間練ることはない。海岸のお旅所に着いた神輿は、千鶴丸伝説の産衣岩に安置される。
暫しの休憩後神楽舞が奉納され、引き続き鹿島踊りが奉納される。奉納後、神輿は神社に還る。
神輿は、境内到着後シャギリに合わせ少し練って社殿に入る。御神体がご本殿に還って例祭は終わるが、
例祭の締めとして再度鹿島踊りが奉納され、午後1時30分頃祭礼の全てを終了する。」
来年は進行次第がわかりましたのでじっくり見てみたいね!
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