柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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称名寺本『勝賢高野参籠記』の和訳紹介

2016-01-12 22:54:20 | Weblog
称名寺本『勝賢高野参籠記.』の和訳紹介

原本は称名寺聖教の第222箱4号「勝賢日記」(外題)一巻であり、鎌倉時代正応四年(1291)に親玄僧正御自筆本を以て定仙法印が書写し、是に称名寺第二世釼阿が識語を加えたものです(和訳紹介後にコメント)。原本2紙の小篇ですが巻子本に仕立ててあります。
勝賢は醍醐寺座主実運(明海)より伝法潅頂を受けたとは云え元来仁和寺の僧でしたから、実運の次に座主に補任された時(永暦元年1160五月)、同じく実運の付法資である乗海を中心とする醍醐生え抜きの僧侶からの反発は激しく、結局数年後に大衆の力によって醍醐寺から追い払われました(応保2年1162四月)。その後勝賢は仁和寺ではなく高野に登山して、しばらく世間の事から離れて隠棲し、これを機会に教学の道に精進したようです。
高野に於いて勝賢は往生院の心覚阿闍梨に会い、その密教の法器たるに感心して、醍醐から随身して持ち来った貴重な聖教の書写閲覧を許し、或いは是を伝授しました。本史料はその時の定海口・元海記『厚双紙』の伝授に関連して勝賢が書き記したものです。尤も勝賢の真撰とする証拠は至って乏しいと言うべきでしょう。特に後半部に於いて、嫡弟唯一人に授ける「唯授一人」を強調する一段には、鎌倉中期以降の筆法が感じられます。その他の内容に付いては、史実に合致するかどうか確認できない点もありますが、特に不審な記述は無いと思われます。
一方、勝賢は実運から詳しい諸尊法の伝授を受ける機会を逸したので、心覚から諸尊に関わる委細の伝授を受けたと考えられます。即ち心覚と勝賢は互いに師資となって密教の研鑽に努めたのです。これらの事に付いて『日本密教人物事典』上巻の「勝賢」と「心覚」の条に項目別に記してあるので、詳しく知りたい方は是非参照して下さい。

和訳(冒頭第一行の右側に8字程小字の書き込みがありますが、底本に用いた影印本では不鮮明であり解読できませんでした):
右の尊法等は祖師大僧都(元海)の自鈔なり。其の旨は記の如し。又誠に宗の秘法を多く注せらる所なり。尤も秘重すべし。而して大僧都、平生の時に此の鈔を以て具に先師僧都[実運]に授けられ了んぬ。先師、又重ねて口決を加えて勝賢に授けらる所なり。爰(ここ)に勝賢は不肖(「肖」は「背」を訂)の身と雖も、偏に師跡を思うが為に之を守ること眼精の如し。然る間、先年不慮の外に本寺(醍醐寺)乱離の尅、世間出世の雑物は一切随身能わずと雖も、件の書籍并に先師の秘記等、凡そ勝覚・定海、又厳覚・寛信等の自鈔等、都(すべ)て皮子三合に納むる所二百余巻、自然に取持せしめたり(「可」を「令」に訂して訓む)。偏に是れ大師の冥助に非ざるや。残る所の書籍も数十巻ありと雖も、全く此の類には非ざるか。勝賢には誤れる所無しと雖も、悪党の結構に依りて量らざる外に寺を離るる事、是れ又宿運の然らしむるなり。敢えて愁う所に非ず。只だ重宝を失わざるを喜ぶ。自余の事は全く■歎するに足らず。就中(なかんづく)住寺の時、世務に依りて忩々(アワタダシキ様)修学に遑あらず。誠に本懐に非ざれば、歎きて年を渡る。而れば今此の難に遭えること、還って善知識と謂うべき者か。仍ち彼の年より当山に籠居すること、偏に修学の本意を遂げんが為なり。爰に心覚阿闍梨は、年来の師弟・骨肉の親■に非ずと雖も、勝賢、殊に彼の遁世と求法の志芳等に随喜するにより、約すること已に深し。就中、秘密(「密」は「蜜」を訂)の器量は末代に遇(「遇」は「偶」を訂)い難き人なり。仍って且(かつう)は師跡を思うが為に、且は佛恩に報ぜんが為、此の鈔并に所伝の尊法等を大略付授し申す所なり。但し此の鈔の中、潅頂の大事は之を留む。其の故は、勝賢は年臈未だ至らざるに依り、入壇の儀は忽ち其の憚りあり。然れば強■の齢に及べば必ず此の事を遂ぐべきなり。凡そ件の一事に於いては祖師成尊・義範・勝覚・定海等、皆病床に臨みて之を授けらる[云々]。実に是れ道の肝心、只此れにある者か。仍って祖師の門弟、其の数多しと雖も、之を伝える者は只嫡弟一人なり。余人は全く名字さえ聞かず。然れば勝賢若し年齢に満たずと雖も、若し病を受くるに及べば必ず授け申すべきなり。偏に佛種を断たざらんが為なり。必ず此の結縁を以て、生々常に善友知識と為って此の法を弘め、永く成佛を期せん。誠に知んぬ、三州五県の契、六親九族の儀に勝れたり。此の事皆、両部諸尊・八大祖師を以て證明と為し奉る。委細の記請(「祈」請か)約諾、具に別紙に載せ了んぬ。
  時に長寛二年(1164)十月八日、沙門勝賢、之を記す。

  正応四年(1291)六月廿二日、親玄太政僧正房より御手ずから勝賢御自筆を賜り書写せしめ畢んぬ。  金剛資定仙

   此の文を勝賢高野参籠記と号す[云々]。
私に云く、上件の口決は去る弘安第八の年(1285)秋、祖師憲―(憲「静」か)上人の秘決を以て先師開山(審海)、授けしむ所の印の口決なり。故に覚洞院(勝賢)の御自筆たるに依るが上、祖師の先師に相附せる相伝たる間、記し留むる所なり。
       ケンア(梵字:kem-a/釼阿)〈花押〉 」

コメント:奥書等に付いて少し説明します。
先ず本文内容と最初の奥書である勝賢識語から此の『勝賢高野参籠記』は、勝賢が高野に於いて心覚阿闍梨に醍醐相伝の重書である元海記『厚双紙』を伝授した後に、伝授を差し控えた潅頂印明の部分を将来必ず授ける事を約した一種の誓約書であると言えます。
太政僧正親玄は一般に地蔵院大僧正の通称で知られています。実勝法印と並んで覚洞院法印親快の写瓶弟子であり、地蔵院流(三宝院流)親玄方の祖とされています。又関東(鎌倉)に於いて若宮(鶴岡)八幡宮別当の佐々目僧正頼助から潅頂を重受して贔屓(ひいき)の弟子と成りました。この頼助と親玄の師弟は執権北条貞時の帰依僧として鎌倉に於ける密教界の巨星であったと云えます。
親玄僧正から当書の書写を許された定仙は鎌倉亀谷(かめがやつ)清凉寺の学僧であり、三宝院諸方のみならず小野諸流を隈なく受法しています。称名寺聖教中には定仙の識語を有する史料が甚だ多く存在していますが、中でも『仙芥抄』は定仙自ら小野諸流の口決を記した抄物であり、鎌倉後期の関東真言のあり様を窺う好古の史料です。
最後の称名寺第二代釼阿識語は異筆の大き目の字で記されていますが、此の奥書に於いて訓み方に迷う所が一箇所あります。それは弘安八年に「件の口決」と同じ口決を授けたのが、憲―上人が先師開山審海に対してか、或いは審海が釼阿に対してなのか、という点です。文脈の上からは後者であるように思われますが、他史料を参照して決定すべきでしょう。

(以上)