柴田賢龍密教文庫「研究報告」

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真慶撰『諸流灌頂』の翻刻和訳紹介

2024-01-13 23:15:05 | Weblog
真慶撰『諸流汀(灌頂)等』の翻刻和訳紹介
其の一

宰相阿闍梨真慶(―1177―1219―)は平安末から鎌倉初期にかけての勧修寺流良勝方を代表する学僧の一人であり、聖教識語中にしばしば其の名を見出す事が出来ます。
又師僧の常光院良弘(1130―88―)は平清盛夫妻の帰依僧として出世して、良勝方の僧としては破格の法印権大僧都にまで成っていました。治承二年(1178)の建礼門院御産に際しては、女院の召しに依って天台座主・三井寺長吏・東寺長者等並み居る高僧を差し置いて、当時権少僧都の良弘は唯一人御産所の母屋の簾中に入って(加持護身をして)います(『山槐記』同年11月12日条)。
しかし平氏政権中枢との強い結びつきの故に、壇ノ浦で平家が滅亡した後に安徳天皇護持僧の良弘は流罪の憂き目に会い、其の高弟であった真慶も先途を失う事に成ったのです。
後日、本篇の執筆掲載が完了した後に、良弘と真慶の伝記をHP『柴田賢龍密教文庫』に執筆する予定です。
ここに翻刻して和訳紹介する真慶撰『諸流灌頂』は金沢文庫保管称名寺聖教の第312函19号に分類され、表紙の左に「諸流汀(灌頂)等 真慶記」と記されていますが、内題はありません。又後欠していて奥書類はありませんが、他の称名寺聖教諸本と同じく鎌倉後期の写本と見て問題ないでしょう。

翻刻和訳文は読みやすくする為に、改行や「」付をする事等があります。又()中に字句を補う他、適宜コメントを挿入させて頂きます。以下本文に成ります。

諸流汀等 真慶記

灌頂に大灌頂あり、小灌〼(頂)あり。謂く、兩部を以て大汀と為し、蘇〼〼(悉地)を以て小汀と為す。夫れ両界は大日を以て汀するが故に大汀と名け、蘇悉地は別尊なるが故に小汀と名く。(入壇時の)投花の一尊に付き印明を授くが故に小汀と云う。
又五佛の汀を以て(大)汀と名くなり。
[コメント]ここに「蘇悉地」と云うのは十八道法の事です。別尊法は普通十八道法を用います。」
不空羂索毘盧遮那(佛)大灌頂光明真言一巻を尺(釈)して云く、不空羂索とは是れ首題を表す。此の真言(光明真言)は、不空羂索経の中より出だせるが故なり。毘ルサナは大日なり。大灌頂とは、大日の灌頂印を授けるが故に。又光明真言は、大日遍照如来の真言なるが故なり。外題に依れば此くの如し。
又内の真言句義に依らば
(中欠)
[コメント]単に「大日灌頂印」と云う時は、『密教大辞典』に依れば、小島八印中の金界第三印である大日剣印、即ち三昧耶会の大日如来の印を指す事が多いようです。しかし今云う所は塔印、即ち無所不至印(大恵刀印)を念頭に置いていると思われます。後文を参照して下さい。」

(五部の三昧耶形。佛部は)塔、金剛部は五古、宝部は摩尼、〼(蓮)花部は、羯磨部は羯磨杵なり。五部大日の三形は此の如し。種子(シュジ)に於ては、ウーン(梵字 hum)字を以て五部大日と為す。惣種子なり【云云】。
(寛信法務の?)視聴抄に云く、灌頂印の事
進房(進士阿闍梨良勝?)記に云く、範俊は仁海僧正の説を語りて云く、灌頂印に三(ミツ)あり。第〼〼(一印)は唯我が門跡に留む。第二印〼(者/は)〼〼(醍醐?)覚源僧正、第三印は〼〼仁和寺宮(性心)なり。一宗普く知る【云云】。

灌頂印【勧】
初重印明【書の如し】 師(良弘?)云く、彼の印(無所不至塔印)を見るに二大(指)を開かず【云々】。具支(灌頂)等の作法の時に之を授くべし。但し已達(イダツ)の人には、此の事所望に依る。重受せしむるには相計らいて授くべし。
(一紙脱落あるか)
極か。且は其の例あり【云々】。 【三】
モギャサンボダラ(梵字 moghasammudra)
ア(梵字 a)
バン(梵字 vam)
[コメント]「モ」字と「ア」字の右肩に斜線を付しています。「モギャ」は「空」、「サンボダラ」は「海」ですから、モギャサンボダラは弘法大師を云います。即ち灌頂真言に関する大師の伝は、胎蔵ア、金界バンと記しています。」
(乍二塔(サニトウ)印の)口に云く、ソトバ(梵字 stubha)を(ア・バン)二明の中央に当てて書く事あり。乍二(フタツナガラ)ソト(梵字 stu)(バ)と云う〼(意?)なり。
又云く、一を以て不二と習うは猶〼〼〼一、不二と習うは至極なり。〼〼〼は兩部大日の本誓同じきが〼(故)に一印を用うなり。明は而二(ニニ)を説くが故に二を載するなり【云々】。【已上】
[コメント]勧修寺の灌頂印明に三重ある中の初重に付いて述べています。初重の印は兩部共に無所不至塔印です。是に付き兩部二つ乍ら塔印を用いますから「乍二塔印」と称するのが勧修寺流の口決です。初めの所に「二大を開かず」と云うのは閉塔印です。二大指の間を開く時は開塔印と云います。原本に脱落と虫食い欠損があって精確に理解しづらい面があります。」

〼(摂)大軌の無所不至印の事(但し善無畏訳『摂大軌』は無所不至印を説いて「大卒覩波」印と云います。大正蔵18 p.85a)
尋ねて云く、止観(両手)蓮未敷(未敷蓮合掌)とは印母(を云う)か。所謂(イワク)、塔印を作らんが為に先ず未敷蓮印を作るか。
〼云く、印母なり【云々】。 或が云く、小野の〼(説)の如きは別印か。之を思うべし。
小〇仁(海)の胎蔵次第に云く、【印の説文等は〼(皆)頌に依る。彼の自筆本を以て之を書く。】
止観未敷蓮 名けて遍照〼と曰う
方円角合掌 双円〼〼〼
両手月〼〼(竭?)
 口に云く、上二句は能住の大日を顕す。〼(下)三句は所住の塔婆表すか。【已上】常喜院(心覚の説)
彼の印(塔印)に於ては三重の口伝ありて、云く、
〼(第)一重に云く、摂大軌は大師の〼〼に非ず。此の印ありと雖もノ(除)クルナリ。
第二重。聖観音軌に云く、二〼(手)を以て心に当て合掌して、二頭指の中節を屈して横に相拄(ササ)えて、二大母指を以て二〼(頭)指の上節を並べ押すこと釼形の如し。【文】(「聖観音軌」とは不空訳『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』であり、此の印は「大日如来剣印」と云います。対応する真言は帰命「アクビラウンケン」です。大正蔵20 p.5bc)
口に云く。二風の上節に付く【云々】は説所明らかなる句なり。【私に云く、(二風の上節を)ソラスなり。】仍ち第二重なり。
第三重。二ギャ(梵字 ga 「大」の誤写?)は即ち理智の〼(大)日、二而不二(ニニフニ)なり。理智不〼(二)〼〼〼なり。〼(理)智(の各別)を顕さんが為に二を存して〼〼〼不二一体と曰う。二頭は智火なり。又釼なり。智火を以て〼薪を焼く〼〼。〼〼(釼の如きは)一切の物を摧滅が故に釼印と号すなり。喩(タトエ)を以て名と為すなり。真言八〼(遍)を誦す。
口に云く、台三反。三部を表す。金五反。五部を表す。【云々】
[コメント]以上を以て灌頂秘密印である塔印に付いて、口決に依る一応の説を述べた事になります。以下に文証を引いて詳しい検討が成されます。

纂要抄(成尊撰『真言付法纂要抄』)に云く、灌頂殊勝とは〼〼(青龍)和尚(恵果)相承の文に云く、即ち兩部〼(大)法阿闍梨位毘盧遮那根本最極伝法密印を授く。此の印は広智三蔵(不空)の南天より帰りて後、唯恵果一人に授く。恵果和尚は〼(又)唯弘法大師許りに授けて〼(余)人に〼(授)けず。〼(是)の故に恵朗は六(祖)を紹(つ)ぎて七(祖)と為れるも〼〼〼(師位を得)ず。(恵果付法弟子の)義明は印可紹接(伝持)すれども入室(ニッシツ)と謂わず。不空・恵果既に之を授けざれば誰に随いて伝うる哉。而れば〼〼(他家)と本處と力を争うこと、猶し游〼(夏)が聞かざること、張兎の漫(ミダリ)に読む(大正蔵「讒(ソシ)る」)が如きなる耳(ノミ)。」【子游は孔子の弟子なり。九哲の内なり。】
遺告(ユイゴウ)(『御遺告』第二十一条)の伝法灌頂の章に云く、〇是の章句は梵本に在り。経文幷に儀軌の外なるに〼(依)りて取り離ち出だして、密かに納める所なり。吾が三衣箱の底に納め置き、亦精進峯の入弟子沙門土心水(堅恵法)師に在り。
[コメント]『纂要抄』は、大師相承の灌頂秘印は不空・恵果の諸弟子の中でも唯大師一人が相伝したのであると云い、『御遺告』は、此の印言は漢訳諸経典の中には記されていない等と述べています。」
口に云く、「経文幷に儀軌の外なるに依りて」とは、経と儀軌の両本に非ず。儀軌は経中〼(従)り〼(其)の軌の文を切り出すと〼(云?)う。文中の儀軌とは聖観音儀軌なり。其の〼(文)に云く、「次に大日如来釼印を結べ。(中略)〼〼〼(釼印の如し)。此の印を結び已れば即ち自心の中に八葉蓮花ありと観ぜよ。々(蓮花)の中にア(梵字 a)を観ぜよ。金色の光を放ちて印と相応す。彼の(阿)字を(想うこと)了れば、一〼(切)法は本来不生なり。即ち真言を誦して曰く、
帰命(ノウマクサンマンダボダナン)アークビラウーンケン(梵字 ahvirahumkham)」
釼印とは塔印(無所不至印)なり。
[コメント] 『纂要抄』『御遺告』に云う大師一人相伝の灌頂秘印は、実には『聖観音軌』の「大日如来釼印」であると述べています。」

文証の事
(安然撰)金剛界対受記(第)七巻に云く、此の三昧耶印は略出経に云く、「金剛縛(契)を(作り)已って忍願(度)を(申(ノ)べて)、其の初分を屈して相拄(ササ)えて刀に為す。進力度を曲げて刀の傍らに附く。(大正蔵18 p.243c)」之に因って古来大日釼印と呼ぶ。今、文に謂いて「刀に〼(為)す」と云うは、〼(是)れ作印の詞(コトバ)なり。実には是れ卒都〼(波)印なり。何を以て之を(知る)。彼の略出経の灌頂法中に(云く)、「弟子の心中に月輪(相)ありて、(内に八葉蓮花あり)蓮台に阿字あり。部に随って三昧耶形を想え。(中略)毘盧遮那部には卒都波を想え。(師は弟子所得の部瓶を執り)上に其の部の物は瓶水の内にありと想え。各の其の所得の部契を結ばしめ、其を頂きの上に置かしめよ。其の部の真言七遍を誦し、而して用いて之を灌ぐ。(p.251b)」故に爾りと知んぬ。若し爾らざれば、台蔵大日無所不二(印)も刀形に作りて、而も摂大軌に卒都婆と名けること、其の文は尺(釈)し難し。【其の一】」(大正蔵75 p.186b)
【コメント】大日釼印という名称は其の外観に依るのであり、内実/内証に付けば卒都婆(塔)印なる事を明かしています。」
(同記に云く)凡そ三昧耶印は是れ三昧耶の標熾(幟)なり。其の大日の三昧耶形は是れ卒都波なるが故に、其の三昧耶印も〼(亦)卒都波印なり。【其の〼(二)】(p.186b)
口に云く、此の(聖観音軌の大日釼)印を以て四種マンダラ(梵字 madhara)と習う事は、二大指を両部の大日と想う。即ち大万タラの塔印と習う。此の印形は三昧耶万タラなり。二頭指より手頚に至るは方形なり。是をア(梵字 a)と想う。即ち法万タラなり。已上の三種は各の自業を成弁す。是を羊石(羯磨)万タラと云うなり。此の文は髻中の明珠なり。珍重すべし。但し、文は極事ならず。只(タダ)心に在る耳(ノミ)。
【コメント】「髻中の明珠」は如来所説の大乗方等妙典の喩(タトエ)(『涅槃経』 大正蔵12 p.380b)。

(図あり)(図は未敷蓮花印ですが、二大指の間を開けて、二頭指を二大指の甲の下に横さまに付けています。是は『摂大軌』の印文に依り作図したものでしょう。図の下に注記して、「(二大を)二中の本に付けよるは非なり。此の印は地水皆(ミナ)立てしむなり。」と云います。)
勧(修寺) 寛信云く、
(『摂大軌』に)「双佉(キャ/大指)を羅(ラ/中指)の本に依る」(p.85b)と者(イ)うは、二大指を以て二中指の本に付く。  安祥寺宗意云く、予は先師権大僧都厳覚の御前に於いて三度結びて師に見せしめ奉る。又師も三度結びて見せしめ給う。既に羅の本に依ると云えるも羅の本に付くべからず。其の後、法務(寛信)に此の義を付す。
(図あり)(此の図も前図とほぼ同じですが、二頭指を以て二大指の頭(ハシ)に拄(ササ)えています。注記して、「羅に依る事(?)は本文の如し。此の印は又地水皆(ミナ)立てしむなり。」と云います。)
真慶私に云く、先師常光院法印(良弘)の此の印を伝授せしむる時、羅の本に付けざること安祥寺の説の如し。又先師光堂法印(行海?)の真慶に授け給える時、羅の本に〼〼(付けず?)。而して先師(光堂?)法印は法務入室の灌頂弟子なり。(寛信法務は?)何ぞ二中指の本に付けしむべし(と云うや)。蓮光房闍梨(良勝)と法務御房は共に大僧都(厳覚)の御弟子なり。常光院法印は又蓮光房の弟子なり。共に以て異義あるべからざるなり。若しは安祥寺実厳律師の門弟の間に云いて出だせる事か。尤も不審なり【云々】。
[コメント]『聖観音軌』の「大日釼印」、即ち無所不至塔印の二大指を二中指の本に付けるべきかどうか、相伝に異説があると問題にしています。三位法印行海(1109―80)は良弘と共に真慶伝法の師僧ですが、「光堂法印」と称する事は他史料に見ない所です。やや判然としない所もありますが、先ず同じ厳覚の付法弟子でありながら、寛信と宗意では「付ける」と「付けず」の違いがある事を記しています。次いで真慶が良弘と行海?から伝法した分は共に「付けず」であり、而も行海は寛信の入室灌頂資、良弘の師僧良勝は寛信と同じく厳覚の灌頂弟子であるから、異説が生じるのは不審であると云う事でしょう。」

印次第の事
口に云く、先ず未敷蓮に作る事は、台(胎)内五位の時は蓮形なるが故なり。次に刀印に作る事は、刀形を成せるが故なり。其の増長の次第に依るなり。
四種万タラの事
口に云く、法万タラは慥に(タシカニ/察スルニ)五智の種子なり。
口に云く、摂大軌は大師の御請来に非ざるが故に証と為すに非ず。但潤色する(参考の為に彩を添える)許りなり。彼の聖観音軌、是れ証なり。
口に云く、先ず蓮(花)合(掌)して水(無名指)より大(指)に至るまで、アサバ(梵字 asava)三字を以て之を開く。此は心蓮を開敷する意なり。其の後、聖観音軌の印言を結誦す。三部・五部に当てて八反誦すなり。(真言は、帰命アークビーラウーンケン。 大正蔵20 p.5c)
此の印を以て大日釼印と云うは、頭指の上を釼と習うなり。略出経第二(大正蔵本は巻第三)に云く、
此の結壇法は、粉を以て之を作るを最初(最も)第一と為す。欲取久、固めて画作することも亦得(ウ)。次に画印法を説かん。鎫(輪)壇の中に蓮花台を画き、座の上に卒都婆を置く。此を金剛界自在印と名く。【已上】(大正蔵18 p.240b)

ユギ(梵字yuki)汀
[コメント]標題に「ユギ灌頂」と云いますが、『瑜祇経』とは関係が無いようです。伝法灌頂の事です。」
初重 五古印【金】 塔印【台】
先ず二羽を未敷蓮合してアビラウンケンを誦す。
次に塔印を成ず。未敷蓮は五輪(五大)の惣体なり。此の印を以て身の五輪に配当して、我が身は即ち五◦(輪)塔なりと想うべし。
ア(梵字 a)字(地輪)は諸法本不生なり。万法はは本よりア(梵字 a)字理体を具す。ビ(梵字 vi)字は水◦(輪)なり。水は寂静なり。寂静は理の義なり。理は女の義なるが故に(バ字に)三昧の点を加えて理を表すなり。水を以て地を潤して万物を生ぜしめて生〼(開?)あること、即ち女の義なり。ラン(梵字 ram/実にはraとすべきか)字は火◦(輪)なり。成就の用(ユウ)あり。水を煖めて熟(アツ)くせしむなり。ラン(梵字 ram)字(の字義)は塵垢不可得なり。塵とは諸の五塵なり。其の体性は都(スベ)て無なりと雖も、又諸塵無きにも非ず。空は即ち色なればなり。故に仮に常在あるなり。ウン(梵字hum)字は損減と増益(ゾウヤク)の二執ありと雖も、即ち中道に会するなり。ケン(梵字 kham)字は虚空に等しき義なり。第一義に大空三昧と謂うなり。万法を含みて常空常有なり。是れ大空三昧なり。
此の理を証するを大日如来と号す。我が身に本より此の理あり。三密加持の力に依りて、即身に法性五◦(輪)の卒都婆なり。法界に周遍する身なり。故に大日経に云く、我覚本不生 出過語言道(我は本不生を覚(サト)る 語言の道を出過せり)【云々】。(大正蔵18 p.9b)(安然撰)『教時義』に云く、大日一印の中に一切尊の印を具す。主伴和合して、(以て)一体と為る。【文】(大正蔵75 p.397b)

【有る師の説(に云く)】.
近来の結縁汀は受明汀の作法なり。結縁汀は只(投花)得仏の印言(真言?)のみを授けて全く印を授けず。天台には印明を授けず。只投花の尊を以て縁佛を教える許りなり。【云々】
受明汀は若しは佛菩薩にあれ、若しは金剛にあれ、得佛の印明を授く。伝法汀は先ず打ちたる所の別尊の印明を以て、中瓶を〼(取り?)加持すること三度して、水を灌ぎ了る。(次いで)得佛の印明を授くなり。是を受明汀と云うなり。然る後に大日の灌頂印可を授くなり。
伝法灌頂又結縁灌頂の事
口に云く、台(胎蔵)汀の後に大日経幷に台儀軌等を伝(授)すべし。金界も〼(又?)爾なり。妙成就(蘇悉地)汀の後に蘇悉地経等を受くべきなり。汀了って後に其の法を受くるが故に伝法汀と名くなり。大師の入唐灌頂次第も此の如し。又結縁汀は只投花得佛の一尊の印明許りを受く。之を以て結縁を為すが故に結縁汀と名くなり。
請来録に云く、受明灌頂に沐すること再三なり。【文】(大正蔵55 p.1060b)
口に云く、五佛の明を以て五瓶の水を加持し、頂上に灌ぐが故に、受明汀と名くなり。受の言は水を受く義なり。又結縁汀も自尊の明を受くるが故に、又受明汀と名く。然れども今云う所の受明汀は彼と同じならず。〼(又)再三とは、是れ両部を指すなり。或(アル)が云く、再とは両部を指し、三は蘇悉地を指す。【云々】此の義は相承(の口決)に違す。謂く、妙成就の汀は高野の古風に行わざる所なり。【云々】全く作法無くして之が汀を受得す。只妙拳士(「妙」は蘇悉地の意。は金剛「拳」大「士」)の手(印の意)明のみなり。但し伝教大師は順暁和尚の所に於いて、作法を受けて之の蘇悉地汀を受けたるが、全く両部灌頂を受けざるなり。
[コメント]伝教大師撰『顕戒論』巻上の注記に依れば、最澄は順暁和上より両部灌頂を受け、種種の道具を与えられました(但し略儀の受法と推測されます)。又その時の灌頂印信は、同大師撰『顕戒論縁起』巻上に「三部三昧耶を伝える公験(クゲン)一首」として採録されています。是を「蘇悉地汀」と云うのも誤りです。詳しくはHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」の(八)「『三種悉地軌』『破地獄軌』と兩部不二の事 其の一」の(一)「伝教大師の三種悉地法相伝の事」を見て下さい。」
抑(ソモソ)も上の再三の言は、是れ畳字の故に再三と云うなり。両部及び蘇悉地の三に非ざるなり。大師の御意は、両部の智水に浴するを再三と云うなり。抑(ソモソ)も上の妙拳士手明とは、妙は妙成就(蘇悉地)を謂い、拳は金(剛)拳を謂い、士は菩薩を謂い、手は印を謂うなり。而して印は三〼(摩)耶会拳菩薩の印を指し、明は羊石(羯磨)会〼〼(拳菩薩)の真言なり。羊石会の真言は、是れ尊容の号の梵号なり。三摩耶会は是れ尊の三(昧耶)形なり。之を以て最秘と為す【云々】。

請来録に云く、六月上旬、学法灌頂壇に入る。(是の日)大悲台大曼荼羅蔵の臨み(中略)、五部灌頂に浴して三密加持を受く。(p.1065)【已上】
口に云く、五部灌頂とは是れ五部の瓶水に沐すれば五部と名く。所以は、五瓶は是れ五佛の智水なるを以ての故に五部と云うなり。中台の瓶水は大日の明を以て之を灌頂す。中の上(右?)なる東の瓶水は不動(佛)の明を以て之を灌頂す。前なる南の瓶水は宝生の明を以て之を灌頂す。〼〼(左辺)の瓶水は無量寿の明を以て〼(之)を灌頂す。〼(後)なる北方の瓶水は不空尊の明を以て之を灌頂す。左方の金界は此の如し。台蔵界も之に准じて知そそるべし。凡そ五部灌頂は、台金共に五瓶水を指すなり。請来表(録)を見るべきなり。【云々】
又請来録に云く、命を留(学)の末に銜(フク)みて万里の外に問津(モンシン/行く先を探る)す。(p.1060b)
者(コレ)は宣旨なり。(留学の先例として)俗の留学には吉備大臣(真備)なり。在唐留学すること十八年なり。十三道に通達したり【云々】。
僧の留学者には、八家の外に天台の円載(?―838―77)も留学の人なり。帰朝の時に入海して逝去し了る。凡そ入唐〼〼(大師)等の宣下には〼(二)あり。一は留〼(学)の宣旨〼、学満を以て期と為す。二は請益(ショウヤク)の宣旨にして学未満なれども帰朝すなり。只入唐し、諸聖教を以て(請)益すなり。留学は是れ究法・長学して帰朝す。久しく唐土に留まり、年暦を積みて〼〼(求法)習教する(故に)留学と名くなり【云々】。

長寛元年(1163)十月七日甲〼()
列して酉酉(ダイゴ)蓮蔵院に於いて之を伝う。
[コメント]此の記が前後何れに付くか問題ですが、後文に石山寺の朗澄(1132―1208)が醍醐寺の亮恵阿闍梨(内山真乗房 1098―1186)より受法した事を記しているので、是はその時の事を記しているのでしょう。即ち朗澄は永暦年間(1160―61)に醍醐に於いて亮恵から受法していた事が知られており、東寺の賢宝は真慶が朗澄より其の伝を受けたと推測しています。詳しくは『日本密教人物事典』上巻の「朗澄」の条第4項を参照して下さい。猶「蓮蔵院」は、勧修寺の厳覚が四度加行を修した大谷の坊舎の寺院名です。」
口に云く、塔印を結び、二空を小(スコ)しく開く【〼(摂)大軌に見ゆ】。〼観ぜよ、其の塔内にバンウンタラクキリクアク(梵字 vam hum trah hrih ah)、アアーアンアクアーク(梵字 a a am ah ah)あり。即ち是れ両界の五佛なり。一の法界塔婆を開く時、両部海会の諸尊は俱時に顕現すと想うべし。但し台を行ずる時は、アアーアンアクアーク(梵字 a a am ah ah)バンウンタラクキリクアク(梵字 vam hum trah hrih ah)と誦すべし。金を行ずる〼(時)は〼(先ず?)金の五字を誦し、次に台を誦すなり。【已上は初重なり】
次に先の印の二頭指を相拄(ササ)えて円形に成す。是は心月〇の形なり。【厳覚の静与アサリに伝う】
[コメント]静与(誉)は範俊・厳覚両師の付法弟子です。」
師口に云く、彼の聖観(音)儀軌の印に文点を読むことを以て口伝と為す。(軌に云く、)二手を以て心に当て〼(合)掌して、二頭指の中節を屈して横(ヨコサマ)に〼(相)拄えて、二大母指を以て二頭指の上節を並べ押し釼形の如くにせよ。(【文】 p.5b)明は上の如し(帰命アークビラウーンケン)。
蘇(悉地) 金剛外縛。明は拳(菩薩)の明、バン(梵字 bam)なり。
[コメント]「師口」と云うのは特別な意味があるようです。次に「口に云く」として朗澄の相承血脈を出しているので、「師口」は先師の口決を云うらしく思われます。
明は羯磨会金剛拳菩薩の真言オン・バザラサンヂ・バンを云うのでしょう。」
口に云く、不空三蔵は更に龍智の御許(モト)に詣して之を伝え奉りて後、唯恵果一人に授く。恵果は又弘法に授くるも全く余人に授けず。故に秘密灌頂と名く。〼〼の由、秘蔵記に見ゆ。
 弘(法)〇  厳(覚) 寛(信) 淳(寛/観) 亮(恵) 朗(澄)
[コメント]口決の相承血脈です。朗澄の次の真慶は記していません。猶理明房興然(本名智海 1121―1203)も内山亮恵から委悉の受法をした人ですが、その相承次第は此の朗澄の血脈に同じです(『日本密教人物事典』上巻の「興然」の条第8項)。」

口に云く、(『御遺告』に)「是の章句は梵本と◦(土心)水師の所に在り」【云々】。彼の印を釼形に作ると者(イ)うは卒都ハの印なり。蓮花の上に月〇を観ぜよ。阿字八返、之を誦す。三部五〼(部)〼【云々】。秘中の秘には(虚空蔵)転明妃を五返〼〼(之を誦す?)。各(オノオ)の五〇(佛)を供養する義なり【云々】。
次に〼釼形を開き、後に二空を並べ〼。
[コメント]胎蔵法の虚空蔵転明妃真言は、金界法の普供養真言に相当するとされている。
結印の次第に付いて、初め閉塔、次に開塔、その後に閉塔と云います。」
大師の御記に云く、左は理にして台(胎蔵)の五智、右は智にして金の五智なり【云々】。真言不二と者(イ)えり。五智は〼(「菩薩」の略字ですが、「菩提」の略字の誤写でしょう)なれば(五智の中の)大円鏡智にも発心・修行・証・入あるべし。利生(方便)を本と為すが故に、方便にも又五〼(智)あるべし。皆此の義あり。仍って手(?)之あり。
金界は普賢に従いて成佛し、台界は観音に従いて成佛す。金剛蓮花は之に依りて有るべし。(塔印の)二大は両部大日なり。証文あり【云々】。
[コメント]以上の文も朗澄の口伝でしょう。是より以下は仁済の口伝らしく思われます。後程コメントします。」

大日経に云く(「大」の右肩に斜線)、
心の佛国を開き、心に正覚を成じ、〼(心)に大涅槃を証す。【文】
[コメント]『大日経』七巻に此の文は見当たりません。当時此の文を付した同経が存したのでしょうか。」
已〼(上)三句の心を以て三印と作す。々(印)〼は是れ一印に二言を用う。併(シカシナガ)ら口に在り。
無所不至印を結ぶ(書出しの「結」字の右肩に斜線)
バンウンタラクキリクアク(梵字 vam hum trah hrih ah)を誦して「心の佛国を開」くと謂うべし。次に二大指を開きてバンウンタラクキリクアク(上に同じ)を誦して「心に正覚を成」ずと唱うべし。次に二大指を入れてラ(梵字 ra/中指)の〼(本)に付けて「心に大真(涅槃)を証す」と唱え、帰命アソワカ(梵字 a svaha)と誦す。是は仁済の心中大事なり。真言に文共を加うるは皆由緒あり【云々】。
[コメント] 是は上に云う「三印/一印」「二言」に付いての口伝なのでしょう。
次出の文にも「仁済の口伝」なる由を注記していますが、真慶が地蔵房仁済(本名尊海)から直接受法したのか、或いは朗澄から仁済の口決を相伝したのか、何れとも決しかねます。『石山寺僧宝伝』は、朗澄律師の受法の師僧を列記して「尊海」を挙げています(『石山寺資料叢書 寺誌篇 第一』p.472)。」
無所不至印を結ぶ(書出しの「結」字の右肩に斜線【バン◦(ウンタラクキリク)アク(梵字 vam ah)/ア アーク(梵字 a ah)(五智明と五阿明を略記)】
次に蓮花合掌の印を結び「心の佛国」を庄厳す。
次に塔印を結び「心に正等覚を成ず」。
次に二大指を入れて「心に大真を」見る。
口に云く、別して真言無し。此の文を誦するを以て真言と為すなり。
  已上、仁済の口伝なり。
[コメント]前の「心中大事」と一対の口伝でしょう。」

初重【常の如し】
第二重 蘇悉地 印言は〼(拳)菩薩【常の如し】
第三重 如法花印【(塔印の)二大指を開きて塔の戸を開くなり。】
明に曰く、オン・バザラダト・バン(梵字 om vajradhatu vam)
口に云く、如法の花印 合(閉塔の印)
明に曰く、アビラウンケン【両部不二の言なり】
又云く、一のア(梵字 a)
 仁済云く、此を以て第三重の至極と為す【云々】。
小野の秘口伝に云く、大日経の肝心の文なる我覚本不生【文】(等の)五句は五字の功徳を説くなり。
[コメント]五句は『大日経』巻第二「具縁真言品の余」に説く「我覚本不生 出過語言道 諸過得解脱 遠離於因縁 知空等虚空」を云います(大正蔵18p.9b)。」
口授に云く、
オン(梵字 om) 我覚  ア(同 a) 本不生  ビ(同 vi) 出過  ラ(同 ra)  諸過  ウン(同 hum) 遠離  ケン(同 kham)
  已上、正念誦に之を用う。
印は五古外塔なり。
[コメント]印は外五股印であり、是は塔印であると云う事でしょう。外五股印を塔印と称する事に付いては『密教大辞典』の「塔印」の項(二)を参照して下さい。」
 小野の最極秘伝なれば胸臆の外に出すべからざるなり。仁済自筆の口伝なり【云々】。

文治二年(1186)二月九日戌時(イヌノトキ)、安祥寺の坊に於いて秘密灌頂を伝え奉る。
[コメント]誰が誰から灌頂を受伝したのか記していません。亦前後に空き行が無く、前文を受けるのか後文に続くのか判然としませんが、続けて灌頂印明を書き連ねているので後文に付くと思われます。是も朗澄が仁済から受法したのか、或いは真慶が朗澄から仁済の伝を受けたのか、又は真慶が仁済から直接相伝したのか、何れとも断定し難い事です。終わりに「勧修寺の秘密灌頂」と注記していますが、前のように朗澄の血脈を記していないので、是は勧修寺寛信法務の付法弟子仁済から真慶が直接伝法した事を云うのでしょう。」
口に云く、塔印なり。但し件の印は普通の塔印に似ず。虚心合掌の如くにして微(ワズ)かに掌を開き、塔の戸を開くと想うべし。此の内の(本尊から見て)左に台大日、右に金大日の並び坐す。
 明
アアーアンアクアーク(梵字 a a am ah ah)バーンウンタラクキリクアク(同 vam hum trah hrih ah)
次妙成就 高雄万タラの供〼(養)会大日の印なり。
明 オン・バザラボシュチ・バン(om vajra busti vam)
  アークン(梵字 akm)【アクム】 バークン(同 vahm)【ハクム】
  已上、了んぬ。
秘密灌頂【不二汀】
印は外五古なり。此を卒都婆と名く謂(いい)は、五古は即ち五ア(アアーアンアクアーク)のソトハなればなり。
真言 一のバン(梵字 vam) 若しは一のア(同 a)
 已上、勧修寺の秘密汀なり【委しくは〼(彼)が如し】。

五古印は内外等に通ず【云々】(「五」の右肩に斜線)
[コメント]空行はありませんが、是より以下に正覚房覚鑁(興教大師)の五股印に関する長文の口伝を記しています。末部の識語を参照して下さい。」
(五股印の標示する所は)五大所成の法界体性智なり。真金の体にして又是れ法界実【三十二相】理体なり。如来の十真如・十法界・十如来地を表して、以て上下十峯の金剛大空智処を成ず。五古は即ち五智なり。左の五指は台蔵界の〼(五)智にして、又衆生界の五智、亦本有の五智なり。右の五指は金剛界の五智にして、又佛界の五智、又修生の五智なり。各(オノオ)の五古印を成じ、惣じて二杵和して合成す。五古印は是れ兩部不二なる五大所成の五智なり。又五古印は五佛なり。五佛は即ち虚〼(空)を尽くし、法界に遍ず。無尽無余の佛は〼(聚(アツマ))りて此の五身を成ずなり。即ち五方の佛位に違立して十方佛土に摂在す。
又五古印は五菩薩なり。五佛頂なり。五大明王なり。五大力尊なり。故に(佛菩薩の)惣印なり。又五方天なり。五星なり。(菩薩定・縁覚定・声聞定・不定・無性の)五性なり。〼五戒なり。又五行なり【木火土金水等の五神なり】。乃〼(至)五龍王等なり。凡そ衆生界は五道の生死に流転し、五根本(貪瞋痴慢疑の五大煩悩)を或いは本と為して五輪の器界に依住して、五欲の境を貪愛す。五根・五識・五塵は和合して迷いを生ずること、皆是れ五古印の縁起なり。此の印の〼(加)持に依りて迷即悟なり。惣じて天地に亘り、内外に通じ、在情・非情に通ずるが故に無所不至印と名く。一切の五法は皆五古印を表す。々(印)〼〼は一切の五法を表す。是は五大願なり。(因行証入方便具足の)五句法門なり。五宝・五香・五穀・五薬なり。
又五古印は是れ諸尊の最極秘印なり。即ち究極(クゴク)秘密法界体なり。是れ大日の〼(極(キワミ))なり。是れ諸尊の秘なり。又五古の上に五部灌頂を〼(建)立す。是れ五部灌頂の源なり。五部惣持の秘印なり。又五佛の灌頂印なり。又台蔵の五輪成佛(支分生曼荼羅)なり。又アビラウンケン(梵字 avirahumkham)等なり。又金界の五相成身なり。バンウンタラクキリクアク(同 vam hum trah hrih ah)等なり。又五輪法界ソトハも皆〼(五)古なり。故にソトハ印と名く。塔の上に〼佛頂あり。五古〼(印)の中に五佛の位あることを表す。(五古の)下は五大〼(天?)及び一切外金剛部を表す。
又五秘密法なり。東方の一切金剛サタ等の法は五忍等の法を摂すなり。又(南方は)五大虚空蔵法なり。南方の一切〼(法)を摂して宝部法を摂すなり。又(西方は)五字〼(文)殊法なり。西方の観音・八字文〼(殊)等一切を摂して、蓮華部の法を摂尽す。又(北方は)金剛夜叉法なり。前五識を転じて成所作智を得(ウ)。此の智は此の尊なり。五眼を具するは是れ五古印なり。是は秘中の秘なり。又五々廿五法を〼〼(建立)し、以て羊石(羯磨)部の一切〼(法)を摂尽すなり。
又佛眼法は余の四眼を〼(以?)て、〼(中)央の一切佛法を摂尽すなり。凡そ五古印は一切灌頂の根本なり。金剛サタは受職灌頂の時に、親(マノアタリ)に大日如来より両部を相承す。之れ一切の灌頂も皆爾り。如来体性を成ぜんが為の故に今に嫡々相承して絶えず【云々】。
 五古印の極大事、大略之を記す。自余の義理は尽くし難き者なり。此は眼肝を守るが如くせよ【云々】。
  已上は正覚房(覚鑁)の口伝なり。
     浄法房、之を記す【云々】。
[コメント]「浄法房」は覚鑁上人の嫡資とされる兼海(1107―55)です。兼海は高野伝法院の学頭職を務め、亦密厳院を相伝して、後に伝(法院)流兼海方の祖とされるに至りました。
以下に空行があり、次に「伝法八印」等の諸流の灌頂印信を記していたらしく思われますが、残念ながら後欠しています。即ち外題の「諸流汀等」は後文に相応しています。次いで写本の裏書部が続きます。これらも相当な分量があるので、以上の和訳部を「其の一」とし、以下を「其の二」とします。」


(続く)
(製作途中です。本文を一部改訂する事があります。ご了承ください。)

和訳紹介『曼荼羅供記』第四回

2021-06-16 02:35:38 | Weblog
和訳紹介『曼荼羅供記』
副題『前承明門(ショウメイモン)院御周忌【正嘉二年】/報恩院』

第四回:布施取り・還列と職衆の事等 付:諷誦文の事
(正嘉二年(1258)七月五日)
次いで御布施、之を置かる。
 布施取りの公卿
粟田口(権)大納言【(近衛)良教】 土御門(権)大納言【(源)通行】
源(権)中納言【(北畠)雅家】 (神祇)伯三位【資職(資基王)】以下なり。

次いで御布施畢って先ず職衆の従僧等、進出して布施を取り、階下に於いて各の大童子に賜り畢んぬ。
次に大阿闍梨の御布施は十弟子四人、進出して之を撤し、大床の上【正面の間の東脇】に於いて大童子に賜り、大童子は地下に於いて清めて之を取る。
次に取玉幡□□□□幡□ 其の役は各の随勤し畢んぬ。 正面の間の縁に、大阿闍梨の御座の方にヨリテ皆蹲踞(ソンコ)シテ還列を相待つ。
次に還列。職衆は道場より進出す【下臈を前にす】。下りて縁に立てる時、十弟子の一・二臈は進出して、大阿闍梨より御前の居箱・香呂箱を賜り、本所に帰りて蹲踞す。
次いで大阿闍梨の立ちて草鞋を着けしめ御(オワ)す時、(十弟子の)草座の役人は進出して草座を賜りて退出す。座具に於いては兼ねて之を賜れる間、草座の役人退出の時、(座具の役人も)同時に座を立ちて階下に降り立ち、左右に各の立ち向かいて大阿闍梨の出御を相待つ。 其の後の還列の儀式は上堂の作法の如し。但し讃は只一段なり。
次に中門の外に於いて職衆は立ち留まりて、大阿闍梨の中門を出でしめ給える時、反しを推(?)して鉢音を止む。螺(ホラ)も同じく之を止む。
次に大阿闍梨は門前に於いて輿に乗(?)りて御宿所に入御す。【今夜、入御す。醍醐の御迎え無□沙汰之あり。】
次いで職衆の面々も退出す。

 職衆・役人等交名(キョウミョウ)
大阿闍梨
職衆十人
 【山(門)】智円法印【御前僧】 呪願  【東大寺】宗性法印【御前僧】
 【山】審隆法印【御前僧】   【山】聖憲法印【御前僧】
 【酉酉(ダイゴ)】雅賢大僧都【唄】   【酉酉】宗円律師【散花】
 【山】信超已講【御前僧】【鐃】   【酉酉】憲位阿闍梨【鐃】
 【酉酉】俊円阿闍梨【□体】   【酉酉】玄慶阿闍梨【讃頭】
  已上、御前僧五口、大阿闍梨の召し具す五口なり。抑も大阿闍梨御随身の職衆は不足せる間、他門たりと雖も、院宣に依りて信超已講の鐃役を勤めき。今度の珍事、此の事に有り。
十弟子四人
 勝舜【三宝院/□□】 俊経【遍智院/卿】
 覚誉【阿弥陀院/弁】 禅誉【同/刑部(卿)】
持幡二人 薬師丸 菊王丸【皆遍智院の中童子なり。】
執葢三人【俗(人) 本所、之を儲けらる。交名、尋ね注すべし。】
法螺吹二人 常乗 随仏【皆当寺金堂の預りなり。】
預り二人 常光【寺家の所司なり。 今一人は御所の承仕なるが名字を知らず。】
行事一人 賢尋【寺家の三綱。都維那なり。従僧を兼行す。】
従僧二人 賢尋 賢継【寺家の権官】
大童子二人 滝王丸 毘沙丸
御力者十二人 御手輿なり。

御所指図
(曼荼羅供の道場である「御所」の指図/見取図が折りたたんで挿入されています。)

  嘉元二年(1304)九月廿一日、成林院に於いて之を書く。記者は通海僧正(本名宗円)か。如法草本□、清書に及べる物者なり。点せしむる所、之多し。仍って□否は愚意に任せ畢んぬ。定めて批謬あるか。清書の本を相尋ねて交合すべき者なり。            東寺末資□(花押。或いは梵字か)
(原写本漢文の和訳は以上で終わります。)

 [コメント]
●参列の公卿
「布施取りの公卿」の中、粟田口大納言良教(1224―87)は近衛家の祖である関白基実の曾孫に当たり、『公卿補任』では家名を「二条」としていますが、『尊卑分脈』第一篇には「粟田口と号す」と云います(p.70)。
源中納言雅家(1215―74)は有名な北畠親房の曾祖父に当たる人です。
又神祇伯資職は『公卿補任』正嘉二年(1258)の条に記す「従三位 資基王」(1226―64)でしょう(「正月十三日、正三位に叙す。」と注記あり)。此の人は同『補任』に依れば、康元々年(1256)12月に神祇伯を子息の資緒に譲っていますから、正確には前神祇伯です。又『系図纂要』に依れば、資基王の家系は花山源氏であり、曾祖父の顕広王の時から神祇伯を世襲するようになって、後に伯家又は白川の家名で称されています(「別巻一」p.57等)。
●職衆中の御前僧の事
御前僧五口の中、山門の聖憲法印に付いては第三回のコメントで述べました。他の山門僧智円法印・審隆法印・信超已講に付いてはよく知らない所です。
東大寺の宗性法印(1202―78)は鎌倉中期を代表する東大寺華厳宗の学僧。維摩会や法勝寺御八講等の論議会出仕の記録は枚挙に遑(イトモ)ありませんが、今の曼荼羅供に職衆御前僧を勤めた記事は大変珍しいかと思われます。猶職衆中の第一臈である山門の智円法印は天台学の師僧です。(『日本仏教人名辞典』、平岡定海著『宗性上人之研究並史料』)
●職衆中の醍醐寺僧の事
職衆十口の余の五口は大阿闍梨(憲深)の随従僧で、皆醍醐寺の僧侶です。
その中の第一臈であり唄師を勤めた雅賢大僧都(1220―?)は憲深の入壇弟子であり、「権中納言(源)雅親の猶―(子)」ですから覚洞院親快法印の義兄弟になります(醍醐寺『研究紀要』第一号の築島裕翻刻『伝法潅頂師資相承血脈』p.55上)。
壇行事にして散花役を勤めた宗円律師(改名通海。1233―1305)も、前年(正嘉元年/1257)九月に憲深から伝法潅頂を受けています(同『血脈』p.56上)。此の人は後述する如く、本記録の作者と考えられています。
又憲位阿闍梨(1210―?)は此の年(正嘉二年/1258)二月に憲深から伝法潅頂を受けています(同『血脈』p.56上)。
又俊円阿闍梨(1215―?)は建長三年(1251)11月に憲深から伝法潅頂を受けています。此の人は大弍法印と称された上醍醐行樹房の住僧で、金剛王院流実西方を相承して多くの付法弟子があり、上醍醐の山務(別当)にもなった重鎮です。憲深の下に入壇したのは重受でしょう。(同『血脈』pp.55上,74下,77下。金剛王院流実西方に付いては『日本密教人物事典』中巻の「実西」の条を参照して下さい。)
最後に職衆中の最浅臈であり讃頭を勤めた玄慶阿闍梨(1218―98)は、まだ憲深から伝法潅頂を受けていませんでしたが、此の年(正嘉二年/1258)十月に憲深の下に潅頂入壇しました(同『血脈』p.56上)。式部法印と称された玄慶は三宝院流の支派である岳西院流の祖であるばかりで無く、醍醐の声明一流の祖でもあります。
●記録作者の事
本記録の奥書に「記者は通海僧正か。」と云い、作者を職衆中の宗円(改名通海)に比定していて、強いて是に異論を唱える必要は無いでしょう。
曼荼羅供の当日(七月五日)の条に於いて、先ず早旦(早朝)の宗円の動きを詳しく記している事や、「前供養の讃三段」の中の秘讃を玄慶阿闍梨が勤めた事に関して「宗円は此の曲を伝うと雖も、子細あって今度は助音せず。」とわざわざ注記を加えている事等、宗円の記と解するのが自然に思われます。
因みに宗円/通海の経歴について少しく述べれば、先ず本師憲深滅後の文永四年(1267)三月に座主定済僧正から(潅頂)重受しましたが、定済の嫡弟定勝(1245―83)の早逝等に依り、三宝院流定済方(宝池院流)の法流相承に於いて枢要の役割を果たした事が挙げられます。又通海が醍醐寺に建立した金剛輪院は近世に至るまで存続して座主住坊となり、遂には三宝院の再建を断念した寺家に依って三宝院と改称されて現在に至っています。

〔諷誦文の事〕
『本朝文集』巻第68に収める藤原基長作「承明門院周忌の奉為(オオンタメ)の法会願文【源通行に代わる】」は、注記にある如く仏事上卿(ショウケイ)の土御門大納言通行に替わって製作されたものです。此の願文は第三回にコメントした正親町院の願文と比較すると、後嵯峨上皇主催の法会であっても、願文主体(願主)は第三者的な立場から願意を記しています。以下、文中に適宜注記・コメントを交えた上、段落を分けて和訳紹介します。「
胎蔵・金剛両界種子(シュジ)曼荼羅各一鋪を図絵し奉り、素紙墨字妙法蓮華経十部八十巻・無量義経十巻・観普賢経十巻・阿弥陀経十巻・転女成佛経十巻を摺写し奉る。(『転女成佛経』は劉宋の曇摩蜜多訳。大正大蔵経14所収。当経が加えられたのは、女院が早くに出家して修道に勉めた事から、来世の菩薩転生を願っての事であろう。)
右、尊像・妙典を図写すること斯の如し。夫れ紫元夫人(承明門院を云うか)は之れ仙陬(センソウ/仙人の住居)に在(イマ)せしなり。未だ必滅の境(迷いの世界)を出でざるも、玄衣督郵(ゲンイトクユウ/亀の異称)の寿域を誇るなり。遂に無常の波に随うこと、三界に安きは無くして一生は限りある者か。
伏して惟んみるに、禅定仙院(承明門院)は太皇春皇(土御門院)の聖母(ショウモ)にして、太上天皇(後嵯峨院)の祖母なり。芝の砌を卜して年を送る。仙院の号を儼(イカメシク)すと雖も、華界を欣(ヨロコ)ぶ。而れども日を経て、早くに比丘の容(カタチ)に化す。況や亦忍辱(ニンニク)を織りて衣服と為し、教法を味わい以て飲食(オンジキ)と為す。慈悲に住し以て室宇と為し、仁義を垂れ以て帷帳と為す。閑素は性(ショウ)を養い、彼蒼は善を興す。是を以て遂に仁治(年間)の龍興(後嵯峨天皇の即位)に逢い、再び恵沢の鴻賞を受く。天子は孝子なり。順孫(後深草天皇)は又曾孫なり。久しく三代(土御門・後嵯峨・後深草)の礼敬を忝くし、多く万機の諮詢(政務の相談)に及ぶ。豊かなる所は湯沐の邑(潔斎する所)。侍臣□陪之賜は各の差あり。厭う所は娑婆の郷。供佛・施僧の営みは独り懈ること匪ず。
然る間、老病の山は年を逐って弥(イヨイ)よ高く、虚仮(コケ)の月は暁を迎えて平穏なり。爾来、珊瑚・瑠瑚(璃?)の席は塵埋常坐の跡(となり)、観行・禅定の窓に嵐呑・来吊(ライチョウ)の声ありて、境に触れて之れ悲しく、涕泗(テイシ/涙と鼻汁)は従うこと無し(頻りなり)。昨年の今日は即世(逝去)の期なり。仍って彼の御忌に当りて聊か善業を修す。二界曼荼羅の数百尊は面々光を耀かし、十部法華経の百余巻は軸々玉を列ぬ。方(マサ)に今、前(権)僧正法印大和尚位(憲深)を屈請して大阿闍梨耶と為し、即ち瑜伽壇の軌儀を設けて金剛界に就く。而も讃揚するに十僧の禅衣を連ぬなり。寧(イズク)んぞ東陽二軌(軋)の芳類に非ざるや。群卿の法筵に臨むなり。多くは是れ西京七族の重臣なり。(前承明門院)尊崇の義は蓋し備うと云えり。
(「東陽二軌」の「軌」は「軋(アツ)」の写誤。「東陽の二軋」とは、中国江南の東陽の名僧として知られた軋俊と軋輔を云います(『大漢和辞典』6p.198c)。大阿闍梨と十口の職衆は其にも恥じない名僧であると讃揚しています。
「西京(セイキョウ)七族」は、西漢(前漢)代に后妃を輩出した七氏族を云い、今は参列の公卿の出身家族がやはり本朝后妃を多く出したと述べています。)
彼の漢朝の太后(次出の馮氏皇后か)は之れ黄老(黄帝と老子/神仙術)を好めり。恨むらくは尊儀寿考の期(長寿を云う)に及ばず。馮氏(フウシ)皇后(北魏の文成文明皇后)は之れ金仙を師とすなり。豈に克(ヨ)く聖霊鮮脱の因を投ぐるや。
(馮氏皇后/馮太后(442―490)は北魏の文成帝の皇后であり、文成帝の死後に献文帝との権力抗争に打ち勝って政治改革を断行しました。是によって北魏を全盛期に導いたとされています。馮太后は49歳で亡くなりましたから、長寿を全うする事は出来ませんでした。即ち是に対比して、今の承明門院が長命を享受した事を暗に強調しています。
又「金仙」は、時代が相応しませんが、唐睿宗の第八女にして道士となった金仙公主(689―732)らしく思われます。公主は玄宗の妹宮です。「金仙を師」として道教の教えを信奉しても、苦界得脱の善因にはならないと云うのでしょう。)
昔、四海の母となりて、万方悉く子来の歓心を成す(自ずから来集するを云う)。今、衆生の父となりて六趣遍く西利(刹?)の引導を仰ぐ者か。乃至順縁逆旅の三苦界をして宝樹・宝池の一佛土に請ぜしめん。敬って白(モウ)す。
(「昔」とは馮氏皇后の事で、その権力を慕って四方の人々が来集したと述べ、一方「今」は承明門院を指し、出家得道して「父(菩薩)」の如くに苦界の人々の帰依を受けると讃嘆しています。)」

『本朝文集』には上の諷誦文に続けて今一通の藤原基長作「同諷誦文」を載せています(p.413上)。是は前後二通の中の後の分です。追善仏事に於いては本願主の諷誦文の他にも、尊霊の縁者から達進(布施)を添えて諷誦文(達進文)が寄せられます。以下に和訳を載せます。「
 諷誦を請える事【三宝衆僧の御布施に麻布参百端】
右禅定前院(前承明門院)、南浮(ナンブ)の縁尽きて(浄土に)上生の期(トキ)来りてより以降(コノカタ)、双行(フタスジ)の愁涙は未だ乾かざるに、一周の御忌は早く至れり。是を以て両界の種子(曼荼羅)を図絵し、十部の貫花(『法華経』等)を摸写し、蕉布を捧げて僧鱗に施すなり。軽財を恥じると雖も、華鐘を叩きて佛駄を驚かすなり(禅定より出ださしめ奉る)。宜しく悲緒を憐れむべし。然れば則ち、聖霊平生八十七廻の宝算は天真に依りて齢を保ち、安養(浄土)上中下品の妙蓮は露情に答えて果を結ばん。乃至善力の覃(オヨ)ぶ所は利益限らず。仍って請う所、件の如し。敬って白(モウ)す。
  正嘉二年(1258)七月五日 」

(以上で「和訳紹介『曼荼羅供記』」を終わります。)

和訳紹介『曼荼羅供記』第三回

2021-05-21 02:12:11 | Weblog
和訳紹介『曼荼羅供記』
副題『前承明門(ショウメイモン)院御周忌【正嘉二年】/報恩院』

第三回 曼荼羅供当日の事

七月五日【壬(ミズノエ)子(ネ)】天晴
早旦に大阿闍梨(憲深)、京の御宿所【鷹司・万里(マデノ)小路。鷹司の南、万里小路の東、棟門は土門なり。】を御出あり。十弟子・持幡童以下の候人は皆御宿所に参ず。宗円は職衆と為(シ)て霊山(・・・・・)に参ぜるが、法印範成の坊より早旦に出立して土御門大納言の亭に参ず。右近大夫(藤原)長隆を招出して仏事の時刻、道場の様等、何様に候うべきやの由、之を尋ね申す。 返事に云わく、正親町院の御分として臨時の御仏事を此の程に修さるべき處、日次無き間、今朝早旦に之を修さるべきなり。御導師は聖憲法印なり。万荼羅供に於いては其の後に之を行わるべし。其の旨を存じて彼の御仏事以後に御所に参じて、道場を荘厳すべし。治部権少輔(平)高兼、奉行人と為る處、所労の事出来せる間、(藤原)高朝朝臣、之を奉行すべし【云々】。仍って退出し了んぬ。次いで大阿闍梨の宿所に参じて此の由を申し了んぬ。
次いで件の(正親町院御分の)御仏事の間、御宿所に於いて持幡童の装束、執葢等の荘厳、之あり。【但し葢に於いては大阿闍梨の御用意ありと雖も、本所に儲けられし間、持参に及ばず。】此の間、御前に於いて非時(の食事)に預り、能々沙汰を致され畢んぬ。

大阿闍梨の召し具さる職衆五口の内、清浄光院大僧都(雅賢)并に俊円・玄慶両阿闍梨は別宿するも、宗円并に憲位阿闍梨は御宿所に参ぜる者なり。
或いは別宿し、或いは御宿所に参じ畢んぬ。
次に奉行人の許より、御仏事は漸く事終わるべし。御出立あるべき由、之を申し送りき。
次いで御仏事は已に事畢んぬ。早く壇場を料理(弁備/仕度)すべき由、重ねて之を申し送りき。仍って預り【常光】の随身、壇・脇机并に道具・唐櫃等を御所に参ず。
次いで宗円は壇行事と為(シ)て御所に参じ畢んぬ。而るに猶御仏事の布施を撤せざる以前なり。仍って先ず集会所(シュエショ)【随身所】に着座して、僧衆の退出を相待てり。
次いで御導師以下退出の後、□中門廊の東沓脱に於いて公卿の座の前を経て南殿(ナデン)に至り、大壇を料理す。其の間に奉行人、職衆を催して参会す。【今度は張文を略されり。】大壇の荘厳畢って、奉行人に其の由を相触れり。
次いで職衆皆参ぜる後、大阿闍梨に案内を申す。大阿闍梨参入の後、公卿着座す。其の後に莚道を敷く。此の次第は先例なり【云々】。仍って奉行人、先ず案内を大阿闍梨に申す【云々】。
次いで大阿闍梨の御輿、門前に進ましめ給える時、職衆は皆集会所より進出して中門の庇□下に列立す。奉行人は大阿闍梨に早く進参せらるべき由、之を催さる。御返答に云わく、莚道を敷きて後に進参すべきなり【云々】。而るに猶又催し申されき。仍って賢尋を以て御使と為(シ)て申されて云わく、大阿闍梨先ず進参して着座する儀は之無く候う。莚道を敷ける後に門前より烈立あるなり【云々】。仍って早くに公卿着座せるも莚道は猶遅々たる間、暫く大阿闍梨と云い、職衆と云い、立ち乍ら之を相待つ。【其の間、審隆法印の聖憲法印に語りて云わく、列には大阿闍梨乗輿の儀、之あるべからざるか。既に輿より下り立てるは如何【云々】。聖憲云わく、列の時に乗輿の儀ありと雖も、存□儀の人は争(イカデ)か門外より直に乗輿すべきや【云々】。此の条は、列の時に乗輿の儀あるべし。先ず駕輿丁等、之あるべし。今度は之無ければ不審に及ばざるか。】次いで職衆の面々の従僧、物の具を堂前の(職衆の)座に置きて【今度は従僧の烈無し】退出す。【此の次第は聊か違例か。従僧の列無きと雖も、先ず物の具を置き、次いで莚道を敷くべきか。】
次に上堂の列。先ず法螺吹き二人【左を以て上臈と為す】、法螺を以て莚道の外の左右に立つ。次に職衆【下臈を前にす。左を以て上臈と為す。香呂を持たず。】、莚道の端に左右に列立す【鐃持ちは鐃□の従僕、之を勤む】。次に持幡二人【左を以て上臈と為す】、玉幡を捧げて莚道の左右の端に立つ。次に大阿闍梨【乗輿無し】、執葢役三人。次に十弟子【左を以て上臈と為す】、左右各(オノオ)のコイトリニ列立す。一臈は居箱(スエバコ)、二臈は香呂箱、三臈は草座、四臈は座具なり。猶従僧・大童子は中門の外に留まる。
次いで職衆は正面の階(キザハシ)を曻(ノボ)り【(左右に)折れ登りて一行】、簀子(スノコ)に群立す。但し正面の間に当たりて散花机を立てられて、其の左右は捷少なる間、列立すること能わず。即ち下臈は前に道場内に進み登りて、各の職衆坐(座)の前に列立す。鐃持ちに於いては便宜能うべからざる間、階下に止まり畢んぬ。仍って職衆は鉢許り之を突く。
次に大阿闍梨の長押(ナゲシ)を登御せしむる時、十弟子は同時に左右の脇より進出して【右は香呂箱と座具、左は居箱と草座】、居箱は左脇机の南端に之を置き、草座は御座(大阿闍梨の座)の畳上に之を敷き、座具は礼盤に之を敷く。【如意は兼ねて右脇机に之を置く。仍って(その)役人は之無し。】
其の後に二人、玉幡を以て大壇の前足に之を結い付く【紙捻(コヨリ)は兼ねて之に付け候いき】。二人は左右に之を扶し立て、今二人して各の之を結い付くるなり。
次に大阿闍梨は香呂を以て三礼す。次に礼盤に着御す。次に十弟子は西の公卿着座の前を経て、南殿と御持仏堂(の間)に候う簀子に着座せしむ。【□□□□】(十弟子の)路次を以て、其の座先例なる由を以て、奉行人の之を示しき。持幡童は幡を進めし後に御宿所に帰る。還列には前以て(道場に)帰参す。次に無言行道【衲衆。下臈前なり。】三迊(ソウ)すること畢って着座す。此の時、讃衆も鉢音を止めて同じく着座す。法螺も同じく音を止む。此の如き間、大阿闍梨は先ず方便畢りて、香呂を以て惣礼(ソウライ)を催さる【聊か御気色(ミケシキ)あり】。其の時、職衆は皆香呂を以て三度礼拝す。次に驚覚(キョウガク)の鈴なり。次いで大阿闍梨は香呂を取る。次に金(キン)二つ之を打つ【金の役は憲位阿闍梨、之を勤む。第八臈なり。】。
次に唄(バイ)【清浄光院大僧都雅賢、第五臈なり。御随身の職衆の一臈なり。】、先ず二句之を唱う。其の間に堂童(子)二人【名字   】進出して花筥(ケコ)を賦(クバ)る。 次に散花の頭【宗円、之を勤む】進出す【法則(ホッソク)は別に在り】。対揚(タイヨウ)畢んぬ。【金(キン)一打】 次に開眼【仏眼真言 丁/大日真言 丁】。 次に表白(ヒョウビャク)。 仏経の尺(釈)。 旨趣。 次に経題を揚ぐ【丁】。次に発願(ホツガン)。 四弘(誓願) 小祈願。 一切諷誦(フジュ)【丁】 次に小読経。 止経の金【丁】 次に諷誦□□□役【玄慶阿闍梨、之を勤む】、先ず諷誦文一通を以て之を(大阿闍梨に)進む。【御所の預り松□ 彼の人、堂下に鐘を催す。】達進(ダッシン)を出す。 次で諷誦文【頼通、重ねて之を奏す】之を進む。即ち前の諷誦文を以て賜りて、呪願を乞う【立って之を乞う】。呪願は職衆の一臈智円法印、之を勤む【立つ】。堂達(玄慶阿闍梨)は其の後に本座に着く。後の諷誦には鐘声を催さずして之を打つ。 次に又堂達は出て諷誦を賜りて呪願を乞う。【智円法印、前の如し。】
次に供養法は例の如し。 神分・祈願等の時に、承仕は鐃を持ちて進出して鐃打ちの前に置く。次いで続香を捻して、燈明を挑(カゝ)げ、本座に着く。
次に勧請(カンジョウ)・五大願・小祈願等【常の如し】。
次に前供養の讃三段【四智(梵語) 心略漢語 次秘讃【一伝の讃なり。助音無し。宗円は此の曲を伝うと雖も、子細あって今度は助音せず。】玄慶阿闍梨、之を勤む。】 次いで普供養・三力の偈畢んぬ【金一丁】。此の時、讃(?)衆は仏眼真言を念誦す。次に振鈴。此の時、又大日真言を念(誦)す。 次に大阿闍梨は散念誦畢って、一字(金輪)の金を催す御気色之あり。此の時に金一丁す。讃(?)衆は一字(金輪)の呪を唱う。 次に後供養 振鈴
次に讃三段【吉慶(キッキョウ)漢語の奥二段、金剛サタ(薩埵)讃、之を誦す。】 次に香呂を取りて【金一丁】回向。 次に回向方便【雅賢大僧都、之を出す。】
次いで解界等、了る。【金一丁】
次いで香呂を置きて下礼盤。
次に香呂を取って三度礼拝す。
次に香呂を置き、扇を取って下座に着御す。此の時、十弟子の上臈二人は進出し、一臈は脇机の居箱を取って大阿闍梨の左に畳上に之を置き、草鞋を取り直して本座に着く。此の間、同時に二臈は脇机の香呂箱を取って、大阿闍梨の右に畳上に置いて帰る。即ち礼盤の上の座具を取って本座に着く。□替座具役人 次に承仕二人は進出して職衆の前の鐃并に経机・散花机等、之を取り出す。芸装束【浄衣】の承仕等両三人、庭上に於いて清めて之を取り、撤(?)して西の御持仏堂の縁上に置く。鉢に於いては布施を置く時に煩い無き上、還列の時に道場より随身すべき間、之を取り出さず。 次に職衆の面々の従僧、進出して物の具を撤す。【草座に於いては□より之を出して従僧に賜うなり。】
(「第四回」に続く)

[コメント]
●憲深僧正の宿所の事
始めに大阿闍梨を勤める憲深僧正の京都(洛中)の宿所は、「鷹司・万里小路。鷹司の南、万里小路の東。」である旨、注記がされています。此の住所は、南北朝期に三宝院賢俊が創建した法身院の場所に近接していて興味をそそられます(同所の可能性もあります)。法身院の住所も「土御門/鷹司・万里小路」であり、是は「永嘉門院御所の跡」であったと記録されています(『醍醐寺文書之十四』No.3297「伝法潅頂等覚書」、『東寺長者補任』巻第四の応安三年(1370)条)。又永嘉門院(1272―1329)は鎌倉六代将軍宗尊親王(後嵯峨院皇子)の娘瑞子であり、母親は堀川家の祖である大納言通具(土御門内大臣通親の子)の息男左中将具教の娘ですが、後宇多上皇の猶子/後宮に成っています。
●霊山(リョウゼン)の事
職衆の宗円(改名通海)は仏事当日の早朝に「霊山」の「法印範成の坊」より出立して、土御門大納言通行の邸宅に参じた旨が記されています。当時霊山なる通称で知られていた京都の寺院に、実相房円照上人(1221―77)が住持していた東山の鷲尾山金山院があります。金山院は平安時代に栄えた雲居寺(ウンゴジ)の跡です。しかし東山の霊山の麓(今の円山公園の南方。高台寺の近辺)には他にも寺院があったでしょうから、今の「霊山」を比定する為には更に詳しい検討が必要です。
●正親町(オゝギマチ)院御分の仏事の事
当日は「本所」(前承明門院御所か)に於いて、曼荼羅供の前に「正親町院の御分」として別して追善の御仏事が行われました。正親町院(覚子内親王/1213―85)は土御門天皇の皇女であり、母親は弟宮である後嵯峨天皇と同じく源(土御門)通宗の娘通子です。土御門宰相と称された通宗(1168―98)は内大臣通親の長子であり、後に左大臣正一位が追贈されています(『尊卑分脈』第三篇p.499)。
即ち覚子内親王は承明門院の孫娘ですが、弟宮の天皇と同様、幼少期より祖母の女院に養育されていました。その事に付いて『本朝文集』巻第68に収載する「正親町院、承明門院周忌の奉為(オゝンタメ)に功徳を修す願文」(藤原明範作)に於いて、
弟子(正親町院)は未識の曾初より撫育の洪恵を蒙りて、一日も禅床(承明門院)の近側を離れず。多年共に仙院の崇号に並べり。(中略)三聚浄戒は早くに受くる所なり。
と述べています(p.419下)。因みに『系図纂要』第一に依れば、覚子内親王は寛元々年(1243)六月廿六日に門院号の宣下を受けて正親町院を称しました。「尼と為る。(法名)真如覚」とも記していますが、出家の年月日は未詳です。しかし「多年共に仙院」と称されたと云いますから、門院号の宣下より数年後かとも思われます。
●御導師聖憲法印の事
又女院御分の周忌仏事は御前僧五人が中心になって営まれたと思われ、其の中の聖憲法印が「御導師」を勤めた旨を記しています。上記の女院願文に於いては「廼(スナワ)ち法印大和尚位聖憲を屈して(招いて)唱導師と為す」と述べていますから(p.419下~)、聖憲の説法/唱導が御仏事の眼目であったようです。
聖憲法印は『尊卑分脈』第二篇に於いて、藤原通憲(信西入道)の子息貞憲(弁入道生西)の孫である法印権大僧都貞実(山門僧)の真弟子とされています(p.487)。貞実は、安居院流唱導の祖澄憲法印(1126?―1203/貞憲の兄弟)の孫である隆承法印(同篇p.492)の弟子であり、又論義会の証義を勤める程の学識があった人です。但し同篇の頭注に依れば、聖憲の実の父親は貞実の兄弟である山門僧貞雲です。
以上の事から聖憲も亦安居院流唱導に堪能であったと推測されますが、実際「文治(年間)の澄憲、文永(年間)の聖憲」と評される程、その技量は卓越したものであったと伝えられています(『中世文学』第27巻の福田晃「安居院と東国」p.51)。
又後文に見る如く、聖憲法印は続いて行われた曼荼羅供に於いても、御前僧五口の一員として職衆に参仕しています。
●莚道の施設に付き大阿闍梨、奉行を指導する事等
職衆の一員であり壇行事役の宗円律師は、当日早旦(早朝)に土御門大納言通行の亭(邸宅)を訪ねて右近大夫(藤原)長隆に面会し、仏事の開始時間や道場設営等に付き問いただした所、長隆は平高兼が奉行人を勤める予定であったが所労(体調不良)の為に(藤原)高朝朝臣に変更された旨伝えています(高兼に付いては第二回を参照して下さい)。
以後の文章では「奉行人」としか記されていませんが、高朝朝臣が正親町院御分と曼荼羅供両方の仏事を奉行したのでしょう。高朝は勧修寺流藤原氏の大蔵卿為隆の子孫であり(九条流)、父親は中納言忠高ですが自身の官職は右(衛門)権佐止まりでした(『尊卑分脈』第二篇p.69)。
さて庭儀曼荼羅供は大阿闍梨以下の僧衆が庭上の莚道を進列する事から始まりますが、奉行人は莚道の施設を済ませる前に大阿闍梨(憲深)に対して早く道場に進参するよう案内しました。是に対して憲深は、先に莚道を敷かなければ事が始まらない旨を伝えたので、急ぎ莚道を敷く作業が始められました。此の作業が遅々として進まず、参列の公卿が道場に着座した後も続けられて、僧衆は進列の起点である中門に於いて立ちながら待機する破目になった事が記されています。
 ●表白と諷誦文(願文)の事等
追福(追善)の仏事に於いては、供養の仏像(仏画)の開眼が行われた後に導師表白があり、続いて供養の仏経の題目が職衆中の題名僧に依って読み上げられます。次いで堂達(職衆中の下臈の役)が施主の追善願文である諷誦文を大阿闍梨に進め、大阿闍梨は一見の後に是を堂達に返し渡します。次いで堂達は是を呪願師に進めて願意を読み上げるよう乞います。今回の仏事では諷誦文が二通ありました。又堂達(諷誦文役)は玄慶阿闍梨、呪願は山門僧の智円法印が勤めました。

和訳紹介『曼荼羅供記』第二回

2021-04-15 00:56:34 | Weblog
和訳紹介『曼荼羅供記』
副題『前承明門(ショウメイモン)院御周忌【正嘉二年】/報恩院』

第二回:院宣と仏事支度等の事
(六月)廿日、昨日の御領状に就きて(仏事の細々に付き)不審の事等条々、座主御房(定済)より尋ね申されし處、大納言(通行)御返事に云わく、
  彼の大阿闍梨御領状(の事)、返(す)々す悦び入り候う。且(カツウ)は昨日の次第を今朝(院御所?に)申し入れ候い了んぬ。
一 御供養の仏・経の事。御仏は両界万荼羅【種子(シュジ)】に候う。御経は素紙の法花経に候う。
一 職衆人数の事。同じく付して申し候い了んぬ。之を(院より)仰せ下さるに随いて申すべく候う。
一 施(?)主の御事。同じく付して申し入るゝ後、左右申すべし。
一 道具の事。御随身候う条、尤も宜しかるべく候う。且は八幡大塔供養の時に大阿闍梨随身せしめ候いき。公物に於ては具わざる物等も候うか。然れば期に臨み定めて違乱の事も出来し候うか。
一 御宿所の事。此の御所の辺には然るべき所見えず候う。下品の所、あるべからず。若しは意を用うべく候う。
一 定めの日は(七月)五日に候うなり。他事又々申すべく候う。
 恐々謹言
   六月廿日    (土御門) 通行
廿一日、重ねて職衆員数・施主の事等の条々 (に付き) 不審 (の事) 、座主御房より尋ね申さる處、御返事に云わく、
昨日、西山殿【円満院御所▢原殿の事なり】に申し入れ候う處、先ずは(憲深僧正の)御領状、返す々す御本意なる由、仰せ下され候う。職衆人数の事は逐って忩(イソ)ぎ仰せ下さるべき由に候う。施主の御事は昨日承け給わり候う間、本日付し申さんと欲し候う。庭儀 (の事) 同じく付し申すべく候う。御宿所の事は、見苦しきを顧みず相尋ぬべく候う。大阿闍梨の装束の事は、調え下さるかの事、承り及ばず候う。御願文の事、(願文を挟む為の) 鳥口(トリグチ)を用いらる儀は不可に候うか。分経の事は伏すべく候う。恐々謹言
  六月廿一日    通行
抑も御状の装束の事に於ては最前の御使、理性院に於て御装束の寸法は何様に候うやの由、尋ね申し畢んぬ。仍って兼て調え下さるべきか。然らざれば用意の為に内々に之を尋ね申され▢。
廿三日、大納言 (通行) より 座主御房(定済)に進められし状に云わく、
  御尋ねの条々御不審、付して申し入れ候う處、此の如く(後嵯峨院より)仰せ下され候う。
一 職衆人数の事は十口に候う。其の内、御前僧に五口候うべきなり。大阿闍梨の御随身も亦五口たるべく候う。
一 御仏事施主の御事は、前承明門院本所の御法事の儀に候う。
一 庭儀、尤も候うべきなり。
一 御願文・名香(ミョウゴウ)等には鳥口を用いらるべからず。只兼ねて置かるべく候う。
一 分経の事は兼ねて置かるべく候うなり。
  条々此の如し。此の由を以て伝え申さるべく候う。又奉行人は定直に申さしめ候うかの由、同じく御意得あるべく候う。恐々謹言
   六月廿三日    通行
  座主法印御房
   【端書】
    召し具され候はんする(ワンズル)持幡童已下の人数は内々に注し給うべく候う。又讃衆も僧綱何人、凡僧何人と注し預くべく候う。
廿五日、院宣到来す。(云わく、)
  来月五日 前承明門院周忌御法事に曼荼羅供養を修さるべく候う。讃衆五口を率いて如法、辰の刻に御参あるべき由、仰せ下され候うなり。仍って上啓、件の如し。
   六月廿三日 治部権少輔(・・・・・)高兼奉
  謹上 報恩院僧正御房 (憲深)
   逐啓
    両界曼荼羅【種子】・法花経十部、供養せらるべく候う。讃衆は十口たるべく候う。其の中、五口は御前僧を勤仕すべく候う。今五口をして御率参あるべき由に候うなり。兼ねて又壇敷・仏供等の用途内々に注し給いて申し沙汰すべく候う。道具等は一向に御随身あるべき由、其の沙汰候うなり。六(十?)弟子なと(ド)の人数、兼ねて承り存ずべく候う。布施は意の料を用い候うなり。
御請文(ウケブミ)に云わく、
  来月五日 前承明門院御周忌曼荼羅供養の事、謹みて承け候い了んぬ。予、讃衆五口を率いて参勤せしむべき旨、然るべき様、御披露あるべく候う。憲―(深)誠恐謹言
   六月廿五日 前権僧正憲―(深)請文(ウケブミ)
  逐申
   仏経の事、此の旨を存ずべく候う。壇敷・仏供等の注文、内々に之を進(マイラ)せ候う。道具の事、承り存じ候い了んぬ。但し散花机、同花箱・覆い・地敷、経机・礼盤(ライバン)・磬(ケイ)等は本所に候う旨、先日内々に相存じ候い了んぬ。仍って随身すべからず候う。抑も仰せ下されしが如きは讃衆十人【云々】。若し庭儀にて候わば、鐃(ニョウ)鉢の役ある間、難治(ナンジ)の子細等候うべきなり。然れば庭儀を止められ候うか。若しは大阿闍梨随身の職衆員数加増せらるべく候うか。此等の様、御計あって、忩(イソ)ぎ左右承るべく候う。日数相迫り候う故なり。此の如き事を定められし後、十弟子等の員数も注進すべく候うなり
【別紙に注して之を相制せらる。】
蘇(ソ) 蜜 名香
造花廿五本【若しは時花(ジケ)/白赤黄青黒各五本】
▢[草冠に「的」](蓮花)【若しは時花】
白仏供八坏
四色染仏供十六坏
  赤黄青黒【各四坏】
   以上廿四坏、花は是れ之に盛る。【料米壹斛】
燈油一斘(ショウ)
仏布施(ブップセ)二裹(ツツミ)【絹裹】
壇敷の絹一疋
   【已上、折紙に之を書く。】
廿七日【辰の刻】の奉行人の状に云わく、
(七月)五日の曼荼羅供養の事、御請文の旨を申し入れ候う處、庭上の儀猶候うべきなり。讃衆五口を御率参あるべく候う。庭上一▢饒役は別の御定にて御前僧信超已講之を勤仕すべき由、内々已に仰せ合わせられ候い了んぬ。此の上五口の御率参候わば、更に其の煩いあるべからざる由、其の沙汰候うなり。去年の(承明門院)御中陰にも讃衆十口にて【候いき】。仍って今度も十口なる由、仰せ定められ候うなり。此の上は別の子細あるべからず候う。御存知の為に委しく申さしめ候候うなり。
兼ねて又唱礼(ショウライ)は座を徙(ウツ)さるべく候うか。或いは同じ座にて候うや。本座乍ら之を勤めるは同じならず候う間、存知の為に申さしめ候うなり。
壇敷・仏供・燈明等の事、進預せられ候う。夫々雑掌に引付すべく候なり。更に懈怠あるべからず候う。且は又違乱無き様、毎事御沙汰あるべく候うか。
六(十?)弟子人数の如きも兼ねて承存し候いて、御布施なと(ど)雑掌に下知すべく候う。細々仰せを蒙るべく候うなり。仍って執啓件の如し。
 六月廿七日 治部権少輔高兼奉
謹上 報恩院僧正御房
御返事【案(文)を留められざるか。】
役人等注文に云わく、
  曼荼羅供役人の事
 執蓋三人
  御所にて定めて召され候うか。
 堂童子二人
  御所にて定めて催され候うか。
十弟子四人
行事僧一人
持幡童二人
預り二人
  一人は御所の預り【云々】。仍って大阿闍梨の随身に一人なり。
法螺吹き二人
鐃持ち二人
  已上
此の外に衆僧の前【俗(人)】
庭儀の時、前ノ有無を定めず候うか。御計を為すべく候う。
   已上。此の定めに折紙を以て注進せられ了んぬ。
廿九日、庭幡并びに職衆の香呂箱随身等の事、(憲深が)細々尋ね仰せられし
處、大納言の御返事(に云わく)、今度の曼荼羅供に庭幡を立てらるや否やの事、大阿闍梨の御計たるべく候うか。
職衆随身の香呂箱の事、去年の儀を信超に相尋ね候う處、立列せずに前以って之を置きし由、返答し候う。
御願文の草(文章)は(藤原)基長朝臣の勤仕し候う。未だ進めず候う。到来の時、忩(イソ)ぎ進ずべく候う。来月五日の(後嵯峨院)御幸の有無は未だ承定せず候う。件の日の法勝寺御幸は延引して七日に為すべく候う。
仏供等下行の由、雑掌に申さしめ候う。仏布施・壇敷は当日早旦に沙汰を致すべき由、申し候う。壇道具・造花・蘇・蜜などは御随身あるべく候うなり。道場は十二間候へば壇程などは御計あるべく候う。本所には経机・散花机・同箱・礼盤などは候うなり。恐々謹言
    六月廿九日    通行
同日の奉行人の状に云わく、
  仏供以下壇敷等の用途は、雑掌、沙汰を致し候う【云々】。委細は預り、定めて申さしめ候か。凡ては煩い無き様に細々の事、相計らわしめ給うべく候うか。壇・造花・蘇・蜜・名香等は御用意候いて壇承仕▢調候わば、宜しかるべく候うか。散花机・同花筥・経机等は本所に相儲けらるべく候うなり。此の外の道具は一々御随身あるべく候うなり。
  甲袈裟の事、此の由を各の相触れ候い了んぬ。
  信超已講の従僕、鐃を持つべき由、仰せ候い了んぬ。鐃をば持参せしめ給うべく候うなり。已講は只従僧に下知し候わんずる許りと存じて候うなり。此の条、勿論に候うか。恐惶謹言
   六月廿九日 治部権少輔高兼【奉】
(「第三回」に続く)
[コメント]
座主定済からの「施主」に関する問い合わせに対して、土御門通行は6月23日の書状に於いて「御仏事施主の御事は、前承明門院本所の御法事の儀」である旨回答している。やゝ判然としないが、後嵯峨上皇の請定院宣が憲深宛てに発給されているから、仏事の主催者が上皇であることは間違いない。但し其の用途(費用)は「前承明門院本所」が沙汰するという事であろう。又仏事の道場は故女院(ニョウイン)の御所であろうか。後文に於いて単に「本所」と記されている。
6月25日に同23日付の(後嵯峨上皇の)院宣が到来して、憲深は即日(25日)に請文を差し出した。院宣の奉者治部権少輔(平)高兼(1219―81)は今度仏事の奉行人でもある(但し七月五日の当日は所労に依り奉仕せず)。
又高兼は院宣の「逐啓」に於いて、「讃衆」(職衆)は十口であるが其の中五口は「御前僧」であり、余の五口が大阿闍梨の随伴分である。御前僧とは、葬儀に際して亡者の棺を先導する役僧であるが、周忌仏事に於ける役割・作法等はよく知られていないと思われる。今度の御前僧は皆醍醐寺以外の僧である(後文に詳しく記される)。
一方、憲深は請文の「逐申」に於いて、道場の荘厳・設営の事や特に庭儀を行う上での職衆員数の問題を指摘し、更に折紙を以て壇荘厳の料(シナ)を注文した。是に対して27日の奉行人高兼の状に於いて、曼荼羅供は庭儀を以て行う事を伝えて上で、員数不足の問題を指摘された(持)鐃役に付いては御前僧の信超已講を勤仕させる事で解決できる旨を回答している。
又29日の大納言通行の状に於いて、「御願文の草」は藤原基長が勤仕(製作)すると述べている。藤原基長(―1237―89)は式家の人で当時は文章得業生であったが、後に(弘安四年/1281)文章博士に成った。今の和訳紹介の最後に、『本朝文集』に収載する此の御願文も紹介する予定をしている。
(以上)

和訳紹介『曼荼羅供記』

2021-03-03 22:14:56 | Weblog
和訳紹介『曼荼羅供記』

副題『前承明門(ショウメイモン)院御周忌【正嘉二年】/報恩院』

正嘉二年(1258)七月五日に催された、後鳥羽院妃であり土御門天皇の母后でもある承明門院(1171―1257.7.5)追福の為の仏事である曼荼羅供の記録です。底本に用いたのは国立歴史民俗博物館蔵「田中穣(ユタカ)氏旧蔵典籍古文書」第10号の写真版です。原写本は嘉元二年(1304)「東寺末資kam(?/梵字)」の書写であり、表紙を含めて原状が保たれているようです。記録の作者に付いては、書写奥書に「記者は通海僧正か」と述べています。通海は本曼荼羅供に於いて職衆を勤めた「宗円律師」の事です(改名通海)。
仏事の主催者は院(後嵯峨上皇)、執行責任者である上卿(ショウケイ)は権大納言源(土御門)通行(1203―70)と考えられ、又曼荼羅供の大阿闍梨は醍醐寺の報恩院僧正憲深(1192―1263)でしたが、此の記録をよく理解する為には追善尊位である女院(ニョウイン)の経歴・家族関係を詳しく知ることが欠かせません。
承明門院源在子は『尊卑分脈』第三篇に依れば、後鳥羽上皇の院政期に権勢を振るった事で知られる土御門内大臣源通親(1149―1202)の娘ですが、注記があって、
但し勅に依りて猶子(養女)と為す。実には法印能円の女(ムスメ)なり。
と記しています(p.513)。能円(1140―99)は白河天皇御願の大寺院であった法勝寺の執行(シギョウ)です。
一方、在子の母親は従三位刑部卿藤原範兼の娘範子(?―1200)です。範子は父親の死後に妹の兼子(卿二位 1155―1229)と共に叔父の藤原範季に養育され、始め能円法印の妻となって在子を産みましたが、離縁して土御門通親と再婚しました。範子は妹の兼子と共に後鳥羽上皇の乳母になりましたが、兼子は「院の伝奏(テンソウ)」に取り立てられて朝廷内で次第に大きな影響力を行使した事はよく知られています。
在子は養父の通親によって後鳥羽天皇の後宮に入れられましたが、天皇の寵愛を得て皇子(土御門天皇)を産み、かねてより権勢を強めていた通親は、建久九年(1198)に土御門天皇が即位すると天皇の外祖父として朝政を掌握し、一方国母となった在子は建仁二年(1202)に院号(承明門院)宣下を受けました。
その後、承久三年(1221)に承久の乱が起きて土御門上皇は土佐(後に阿波)に配流されましたが、不遇の中でも女院は上皇の御子達の養育に努めました。仁治三年(1242)に四条天皇が皇嗣の無いまま崩御し、新天皇には土御門天皇の皇子邦仁(後嵯峨天皇)が擁立されました。即ち承明門院が養育していた孫が天皇に即位したので、女院は裕福な晩年を送った事と推測されます。
又仏事(曼荼羅供)の上卿を勤めた土御門通行は通親の子息であり、承明門院の義弟です。更に注意すべき事として、当時の醍醐寺座主は憲深弟子の定済(ジョウゼイ/1220―82)法印でしたが、此の人は後嵯峨天皇の擁立に大きな功績があった内大臣土御門定通(1188―1247/通親の子)の子息であり、後嵯峨天皇から強い信頼と後援を得ていました。憲深僧正が曼荼羅供の大阿闍梨に選ばれたのには、潅頂弟子である座主定済の熱心な推挙があった事も考えられます。


第一回:報恩院僧正憲深を請定(ショウジョウ)する事

正嘉二年六月十七日、土御門大納言【通行】、使者右近大夫長隆を以て座主御坊(定済)に進められて云わく、
  来る七月五日、前承明門院御一周忌に曼荼羅供を行わるべし。大阿闍梨に報恩院僧正御房(憲深)御参勤し候う哉の由、伝え申さるべし【云々】。抑(ソモソ)も此の事は昨日【十六日】、或る青侍を以て申さしむる處、使者は理性院観俊法印の許に罷り向いきと、此の由を申したり。仍って観俊法印は成祐阿闍梨を以て観心院僧都(良成)に申さしめ、僧都は又玄慶阿闍梨を以て報恩院に申さしめ畢んぬ。其の御返事に云わく、去年(1257)正月より暫く閑居の身に罷り成り候う間、然るが如き大阿闍梨に参勤すること叶い難き由と【云々】。使者は帰参して此の趣(オモムキ)を申す處、座主御房に参ずべき由、即ち仰され畢んぬ。而して理性院に行き向かえる条返す々尾籠(ビロウ)の由、▢鼻。仍って使者を差し改めて今日重ねて申さるゝ所なり【云々】。
即ち此の趣(オモムキ)を報恩院(憲深)に申さるゝ處、御返事に云わく、
  子細は先度御使(オツカイ)を賜りし時、粗(アラア)ら申さしめ候い畢んぬ。所詮、女院(ニョウイン/承明門院)去年崩御の時、護摩師に参勤(サンゴン)すべき由、円満院宮(円助法親王)より度々仰せ下されきと雖も、閑居の身なれば参勤し難き旨、遂以て辟(避)け申し候い畢んぬ。今年又此の御導師参勤の事、子細は前に同じく候う。重ねて仰されし上は猶辟(避)け申し候う条、其の恐れ少なからずと雖も、此の閑居の事は聊か身の慎みに依りて其の勤めを致さんが為に暫く隠居して、明年三ヶ年に罷り成るべく候う。其の間は此の如き事、御免を蒙るべく候うか【云々】。仍ち此の由を申され畢んぬ。
(六月)十九日、先度の御使長隆、大納言(通行)の(座主定済宛)書札を帯して又参入して、重ねて猶御参勤あるべき由なり。其の状に云わく、
  彼の大阿闍梨御参の事、一昨日の御返事の趣を以て委しく申し入れ候う處、所詮御仏事の様の如きは外人に見られ難く候う。而して彼の御辺(憲深)は故内大臣殿(土御門定通)の御時より一向に内外の事無く【云々】候いシカハ、相構えて別儀を以て御参勤し候う哉の由、仰せ下され候う。御参候わば且(カツウ)は執▢の面目たるべく候うか。能々御詞(コトバ)を加えて伝え申さしめ給うべく候う。恐々勤言
   六月十九日    通行
  座主法印御房
  【端書】
  今度の儀は真実別の子細あり。無心を顧みず此の如く仰せ下され候うか。猶相構えて勧申せしめ給うべく候う【云々】。
使者の詞は又委細慇懃(オンゴン)なり。之に就きて、勅定已に三ヶ度なり。争(イカデ)か辟(避)け申さしめ御(オワ)し候う哉の由、座主御房より重ねて報恩院に申さしめ御せる間、今度は御領状なり。仍って座主御房より其の由の御返事に云わく、
  彼の大阿闍梨の事、重ねて仰せの趣きを以て具に僧正に伝え申し候う處、
先に度々仰せ下され候う条、殊に畏れ入り候う。所存の次第は重々申し入れ候うか。然して御定既に数度に及び候う上、御仏事の様は外人に見え難きに依り内外無く思(オボ)し食さるゝ御計に及べる由、仰せ下され候う上は、縦(タト)い何なる子細候うと雖も、争か遁れ申すべく候う哉。此の上は早く不肖を顧みず参勤すべく候う由、申さしめ候うなり。其の間の子細委曲は御使に申さしめ候い了んぬ。恐惶謹言
  六月十九日    定済
(「第二回」に続く)

[コメント]
仏事の上卿である権大納言通行からの招請に対して、憲深は当初「閑居の身」である事を理由に辞退する旨返答しました。又此の「閑居」とは、明年(1259)まで三箇年の「身の慎み」即ち謹慎であると述べています(即ち正嘉元年(1257)から三箇年)。憲深が謹慎するに至った理由は、恐らく覚洞院親快法印(1215―76)が遍智院から院主の通円(本名定尊)を追放した事件等に関係していると考えられます。
即ち親快と憲深は宣陽門院(覲子内親王/1181―1252)の後ろ盾を得て、醍醐寺座主の金剛王院勝尊僧正を免職させる事に成功し、建長三年(1251)に憲深が新座主に補任されました。一方、親快は将来の醍醐一円支配を実現する上で障害となる遍智院の通円を実力で追放しました。通円は内大臣土御門定通の子息であり(定済の舎兄)、親快と同じく道教僧都の弟子ですが、道教の滅後に憲深の弟子となって伝法潅頂を受けています。
然しながら翌年(1252)六月に親快の後ろ盾であった宣陽門院が崩御し、憲深は親快との約束を破って蓮蔵院実深に座主職を譲り、建長七年(1255)正月頃には後嵯峨上皇の勅許を得て定済が親快に替って遍智院の院主となりました。続いて憲深から座主職を譲られていた実深は同職を辞退して定済が新座主になり、醍醐寺の勢力関係は大きく変化しました。こうした流れの中で憲深は、三宝院を管領支配するに至った経緯(や当時座主でありながら親快の通円追却を黙認した事)に付いて、定済ひいては後嵯峨院に釈明する必要に迫られました。
憲深は建長七年(1255)正月十七日付の定済宛書状の中で、三宝院は通円の譲りを以て定済に支配権がある事を認め、又定済が憲深一期の間の猶予を申し出た事に対して謝意を表しています。その後こうした一連の問題に結着をつける意図もあってか、憲深は正嘉元年(1257)12月28日に座主定済に三宝院の譲状を与えて、自身は「今暫く籠居」する旨伝えました。(以上の事に付いて詳しくは『日本密教人物事典』中巻の「憲深」の条第16・18項を参照して下さい。)
一方、憲深は去年の女院崩御の時に円満院宮円助より護摩師に参勤すべき旨の仰せを再三蒙りながら、是を辞退した事を述べています。此の事から宮は女院の葬儀に於いて中心的な役割を勤めていた事が伺われます。三井寺長吏の円助法親王(1236―82)は後嵯峨天皇の皇子であり、従って承明門院の曾孫に当たります。又母親は権中納言(藤原)能保の娘であり、円助と女院とは血縁関係の上では特に密接な関係は認められません。(『系図纂要』第一p.354 同第六p.329 参照)。
しかし宮は父天皇と同様、女院の庇護を受けて養育されたのです。『本朝文集』巻第68に宮が今度の女院周忌法要に寄せた諷誦文(フジュモン)が採録されています。「円満院無品法親王家、承明門院周忌の奉為(オオンタメ)に冥福を修する諷誦文」と題された文(藤原明範作/後欠)の中で、阿弥陀三尊の造立と法華経等六部の摺写・開題を述べてから、
  弟子(円助)、先皇(土御門院)の遺詔を守って聖霊の至孝を竭すに、忘れ難きは鞠育の恩なり。歴劫と雖も、歴生と雖も報尽すべからず。祈る所は金刹(極楽浄土)の縁なり。(中略)先皇に代わり奉りて後事を相営む。
と記していますから(p.418)、女院に養育された事に加えて宮は女院所生の故土御門院の名代として追福の仏事を修した事も知られます。(『本朝文集』に承明門院周忌の諷誦文・願文が収録されている事はジャメンツ・マイケル氏からの連絡で知りました。ここに氏の御教示に謝意を表します。)
(以上)

称名寺本『勝賢高野参籠記』の和訳紹介

2016-01-12 22:54:20 | Weblog
称名寺本『勝賢高野参籠記.』の和訳紹介

原本は称名寺聖教の第222箱4号「勝賢日記」(外題)一巻であり、鎌倉時代正応四年(1291)に親玄僧正御自筆本を以て定仙法印が書写し、是に称名寺第二世釼阿が識語を加えたものです(和訳紹介後にコメント)。原本2紙の小篇ですが巻子本に仕立ててあります。
勝賢は醍醐寺座主実運(明海)より伝法潅頂を受けたとは云え元来仁和寺の僧でしたから、実運の次に座主に補任された時(永暦元年1160五月)、同じく実運の付法資である乗海を中心とする醍醐生え抜きの僧侶からの反発は激しく、結局数年後に大衆の力によって醍醐寺から追い払われました(応保2年1162四月)。その後勝賢は仁和寺ではなく高野に登山して、しばらく世間の事から離れて隠棲し、これを機会に教学の道に精進したようです。
高野に於いて勝賢は往生院の心覚阿闍梨に会い、その密教の法器たるに感心して、醍醐から随身して持ち来った貴重な聖教の書写閲覧を許し、或いは是を伝授しました。本史料はその時の定海口・元海記『厚双紙』の伝授に関連して勝賢が書き記したものです。尤も勝賢の真撰とする証拠は至って乏しいと言うべきでしょう。特に後半部に於いて、嫡弟唯一人に授ける「唯授一人」を強調する一段には、鎌倉中期以降の筆法が感じられます。その他の内容に付いては、史実に合致するかどうか確認できない点もありますが、特に不審な記述は無いと思われます。
一方、勝賢は実運から詳しい諸尊法の伝授を受ける機会を逸したので、心覚から諸尊に関わる委細の伝授を受けたと考えられます。即ち心覚と勝賢は互いに師資となって密教の研鑽に努めたのです。これらの事に付いて『日本密教人物事典』上巻の「勝賢」と「心覚」の条に項目別に記してあるので、詳しく知りたい方は是非参照して下さい。

和訳(冒頭第一行の右側に8字程小字の書き込みがありますが、底本に用いた影印本では不鮮明であり解読できませんでした):
右の尊法等は祖師大僧都(元海)の自鈔なり。其の旨は記の如し。又誠に宗の秘法を多く注せらる所なり。尤も秘重すべし。而して大僧都、平生の時に此の鈔を以て具に先師僧都[実運]に授けられ了んぬ。先師、又重ねて口決を加えて勝賢に授けらる所なり。爰(ここ)に勝賢は不肖(「肖」は「背」を訂)の身と雖も、偏に師跡を思うが為に之を守ること眼精の如し。然る間、先年不慮の外に本寺(醍醐寺)乱離の尅、世間出世の雑物は一切随身能わずと雖も、件の書籍并に先師の秘記等、凡そ勝覚・定海、又厳覚・寛信等の自鈔等、都(すべ)て皮子三合に納むる所二百余巻、自然に取持せしめたり(「可」を「令」に訂して訓む)。偏に是れ大師の冥助に非ざるや。残る所の書籍も数十巻ありと雖も、全く此の類には非ざるか。勝賢には誤れる所無しと雖も、悪党の結構に依りて量らざる外に寺を離るる事、是れ又宿運の然らしむるなり。敢えて愁う所に非ず。只だ重宝を失わざるを喜ぶ。自余の事は全く■歎するに足らず。就中(なかんづく)住寺の時、世務に依りて忩々(アワタダシキ様)修学に遑あらず。誠に本懐に非ざれば、歎きて年を渡る。而れば今此の難に遭えること、還って善知識と謂うべき者か。仍ち彼の年より当山に籠居すること、偏に修学の本意を遂げんが為なり。爰に心覚阿闍梨は、年来の師弟・骨肉の親■に非ずと雖も、勝賢、殊に彼の遁世と求法の志芳等に随喜するにより、約すること已に深し。就中、秘密(「密」は「蜜」を訂)の器量は末代に遇(「遇」は「偶」を訂)い難き人なり。仍って且(かつう)は師跡を思うが為に、且は佛恩に報ぜんが為、此の鈔并に所伝の尊法等を大略付授し申す所なり。但し此の鈔の中、潅頂の大事は之を留む。其の故は、勝賢は年臈未だ至らざるに依り、入壇の儀は忽ち其の憚りあり。然れば強■の齢に及べば必ず此の事を遂ぐべきなり。凡そ件の一事に於いては祖師成尊・義範・勝覚・定海等、皆病床に臨みて之を授けらる[云々]。実に是れ道の肝心、只此れにある者か。仍って祖師の門弟、其の数多しと雖も、之を伝える者は只嫡弟一人なり。余人は全く名字さえ聞かず。然れば勝賢若し年齢に満たずと雖も、若し病を受くるに及べば必ず授け申すべきなり。偏に佛種を断たざらんが為なり。必ず此の結縁を以て、生々常に善友知識と為って此の法を弘め、永く成佛を期せん。誠に知んぬ、三州五県の契、六親九族の儀に勝れたり。此の事皆、両部諸尊・八大祖師を以て證明と為し奉る。委細の記請(「祈」請か)約諾、具に別紙に載せ了んぬ。
  時に長寛二年(1164)十月八日、沙門勝賢、之を記す。

  正応四年(1291)六月廿二日、親玄太政僧正房より御手ずから勝賢御自筆を賜り書写せしめ畢んぬ。  金剛資定仙

   此の文を勝賢高野参籠記と号す[云々]。
私に云く、上件の口決は去る弘安第八の年(1285)秋、祖師憲―(憲「静」か)上人の秘決を以て先師開山(審海)、授けしむ所の印の口決なり。故に覚洞院(勝賢)の御自筆たるに依るが上、祖師の先師に相附せる相伝たる間、記し留むる所なり。
       ケンア(梵字:kem-a/釼阿)〈花押〉 」

コメント:奥書等に付いて少し説明します。
先ず本文内容と最初の奥書である勝賢識語から此の『勝賢高野参籠記』は、勝賢が高野に於いて心覚阿闍梨に醍醐相伝の重書である元海記『厚双紙』を伝授した後に、伝授を差し控えた潅頂印明の部分を将来必ず授ける事を約した一種の誓約書であると言えます。
太政僧正親玄は一般に地蔵院大僧正の通称で知られています。実勝法印と並んで覚洞院法印親快の写瓶弟子であり、地蔵院流(三宝院流)親玄方の祖とされています。又関東(鎌倉)に於いて若宮(鶴岡)八幡宮別当の佐々目僧正頼助から潅頂を重受して贔屓(ひいき)の弟子と成りました。この頼助と親玄の師弟は執権北条貞時の帰依僧として鎌倉に於ける密教界の巨星であったと云えます。
親玄僧正から当書の書写を許された定仙は鎌倉亀谷(かめがやつ)清凉寺の学僧であり、三宝院諸方のみならず小野諸流を隈なく受法しています。称名寺聖教中には定仙の識語を有する史料が甚だ多く存在していますが、中でも『仙芥抄』は定仙自ら小野諸流の口決を記した抄物であり、鎌倉後期の関東真言のあり様を窺う好古の史料です。
最後の称名寺第二代釼阿識語は異筆の大き目の字で記されていますが、此の奥書に於いて訓み方に迷う所が一箇所あります。それは弘安八年に「件の口決」と同じ口決を授けたのが、憲―上人が先師開山審海に対してか、或いは審海が釼阿に対してなのか、という点です。文脈の上からは後者であるように思われますが、他史料を参照して決定すべきでしょう。

(以上)

智証大師と『瑜祇経』

2015-04-17 21:22:58 | Weblog
智証大師と瑜祇経

―円珍・高向公輔共作『佛母曼拏羅念誦要法集』の事―

ホームページ『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に新しく「北極星と北斗七星の密教化」(仮題)と題して星宿法の成立史等に関する論稿を製作していますが、その過程で『大日本佛教全書』27(智証大師全集第三)と『日本大蔵経』41「台密章疏一」に収載する『佛母曼拏羅念誦要法集』に記す七曜各別真言の本説が気になり当書を通読して、当書の主要部が『瑜祇経』(金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経)の「金剛吉祥大成就品」からの抄出である事が判りました。『佛書解説大辞典』等の仏典解説類にその事は記されていないようなので、ここに撰述者と内容に付いて簡単に述べておきます。
当書に付いては題名をやや異にするものの安然撰『八家秘録』巻上の「佛眼佛母法二」に、
「佛眼佛母曼荼羅要集一巻〔珍和上、高大夫と共に集む〕」
と記載されている本と同じであると考えられます(大正蔵55 p.1119b)。
仏教全書本は京都「花山観中院御経蔵」本に依る高山寺蔵本を底本とし、大蔵経本は石山寺蔵本を底本とし対校に大通寺本を用いています。又仏教全書本は尾題に「佛母念誦法要集」、大蔵経本は同「佛母曼荼羅念誦法要集」と記されています。『秘録』の注記に云う「高大夫」とは慈覚大師円仁の弟子であった湛慶阿闍利(817―80)の事であり、すぐれた学識を有していましたが宮中での不祥事に依って還俗し、高向公輔(たかむこのきんすけ)を称して讃岐守に補任しました。『三代実録』の陽成天皇元慶四年(880)十月十九日の条に「散位従四位下高向朝臣公輔」の卒伝があります。公輔は還俗しても仏法の研鑽に努めていたらしく、その学識は当時の天台僧の珍重する所でした。
その事を示す一例として大正蔵20『宗叡僧正於唐国師所口受』の「慈覚大師(所伝の)大随求印」の夾註に「讃岐守の安然に伝う」と記されています(寛治七年(1093)写の対校甲本)。台密の碩匠五大院安然が讃岐守高向公輔から随求法の伝授を受けていたのです。「珍和上」即ち智証大師円珍も、慈覚の弟子として同門である公輔の学識を恃(たの)んで此の『佛母曼拏羅念誦要法集』を共作したのでしょう。
さて本書はその題名が示すように仏眼仏母尊の念誦供養法を明らかにしようとした撰述書です。但し此の仏眼尊は胎蔵曼荼羅遍智院の尊では無く、『瑜祇経』の「金剛吉祥大成就品」に説く「一切佛眼大金剛吉祥一切佛母」(略して仏眼仏母/金剛吉祥)であり、此の仏眼尊は金剛薩埵の所変身である事が経に説かれています。又その像容は高山寺明恵上人の念持仏であった有名な国宝の仏眼仏母画像に於いて経説の通り忠実に描き出されています。本書の主要部は「金剛吉祥品」からの二箇所の抄出であり、その前後に加筆して以って一部の仏眼仏母法次第の体裁を整えています。
二箇所の抄出部の中、先ず前の部分に付いてその内容を概説します。始めに「爾の時に金剛薩埵は復一切如来の前(みまえ)に於いて、又一切佛眼大金剛吉祥一切佛母心を説く」と云って此の「心(真言)」の功能を説き、続けて「時に金剛薩埵は一切如来の前に於いて忽然として一切佛母身を現作して大白蓮に住す」以下に、一切仏母の一切支分より出生した無数の諸仏が「一字頂輪王を化作(けさ)」し、次いで此の頂輪王の請願に応じて仏母金剛吉祥は「根本明王」を説きます。此の「根本明王」とは諸尊法に広く用いられる仏眼大呪の事です。更に此の真言の功能を説く中で、「一切宿業重障・七曜二十八宿も破壊(はえ)すること能(あた)わず」と述べて、別して七曜二十八宿の障碍(しょうげ)に対する効験を記しています。此の事は平安時代中後期に成立した密教の星宿法に於いて、一字頂輪王(釈迦金輪)と仏眼仏母が果たす役割を考える上でも示唆に富んでいます。この後で仏眼印を説いて抄出前部は終わります。
抄出後部は「画像曼拏羅法」であり三重の八葉蓮花を以って構成されます。その要点は中台に本尊仏母、その前の蓮葉に「一切佛頂輪王」を安じてから右回りに残り七葉の各蓮葉の上に「七曜使者」を旋布します。是が初重の蓮花であり、第二重蓮に「八大菩薩」、第三重に「(八)大金剛明王」を画きます。又これらの諸尊が愛染王と同じく「皆師子冠を戴く」事は『瑜祇経』の著しい特徴を示していて、本経の成立背景を検討する上で重要な手懸りと成っています。
さて此の三重蓮花の曼荼羅に於いて注目すべき事柄として、七曜が中尊仏母金剛吉祥乃至その化作仏である頂輪王の内眷族と成っている点が挙げられます。その事は「金剛吉祥品」に説く「金剛吉祥成就一切明」が七曜の各別略真言から構成されている事とも符合しています(此の事に付いてはHP『柴田賢龍密教文庫』の「研究報告」欄に掲載する「七曜九執真言の本説の事」第二章末部に於いて詳しく述べました)。即ち本尊仏眼金剛吉祥は七曜が代表する諸星の支配者とも、或いは本地とも考える事が出来ます。又『瑜祇経』が成立したインド的文化圏の世界に於いては、七曜乃至二十八宿の運行(働き)が社会と個人の運命にとって大きな脅威であると考えられていた事が伺われ、北極星(北辰)や北斗七星が中心の中国天文学の世界と大きな対照を見せています。
以上の『瑜祇経』からの抄出に依って本尊の性格とその曼荼羅は示されたのですが、修法次第としては本尊以外の諸尊の真言が必要ですから、続けて頂輪王と七曜・八大菩薩・八大明王の各別真言が記されています。ところが入唐八家の時代に於いては、北極星である北辰菩薩(妙見)や北斗七星を尊崇する多分に道教的な星祭りは盛んであったかも知れませんが、いまだ密教の星宿法は成立していませんでした。従って此の『佛母曼拏羅念誦要法集』に於いて七曜各別真言が記されている事は後の密教星宿法の成立を考える上で大変注目に価します。
それでは円珍と公輔は一体いかなる典籍を用いて是を記したのかが問題に成ります。七曜各別の真言は『大正大蔵経』第21巻に収載する四種の星宿儀軌に見る事が出来ます。それらは一行撰『宿曜儀軌』、金倶吒(こんくた)撰『七曜攘災決』、一行撰『北斗七星護摩法』、撰者未詳『梵天火羅九曜』です。此の中で智証大師と高向公輔の存命中に本邦に請来されていた事が記録に依って確認できるのは宗叡請来の『七曜攘災決』だけです。(『七曜攘災決』は宗叡の請来であろうという指摘を最初栃木県の小林清現師から頂戴しました。ここに改めて謝意を表します。)
即ち入唐請益僧であった宗叡(809―84)が帰朝して、貞観七年(855)十一月に東寺に戻って製作した『新書写請来法門等目録』に「七曜攘災決一巻」と記載されています(大正蔵55p.1111b)。禅林寺僧正宗叡は東密僧ですが、最初潅頂入壇の本師は智証大師円珍であり、又此の請来録に記載された「雑法門」は円珍の法兄である入唐留学僧円載法師(―838―877)の長安西明寺内の住坊に於いて書写されたものです。こうした事情を勘案すれば、智証が『七曜攘災決』を宗叡から借覧書写したとして何の不思議もありません。
『七曜攘災決』の作者である金倶吒の伝歴は、該書の始めに「西天竺国婆羅門僧金倶吒、之を撰集す」と記されている以外に知られる所は無いようです。本書にはインドには無かったはずの「北斗七星真言」(北斗総呪)や「招北斗真言」が記されていますが、是は金倶吒が中国の実情に合わせて書き加えたのでしょう。本書に記載された七曜各別真言の音写漢字を『念誦要法集』と比較するとほぼ同じであると云えますから、円珍と公輔は此の『七曜攘災決』によって七曜真言を記したのであると考えて間違いないでしょう。但し、金倶吒の書には七曜と羅睺星・計都星を合せた九執の各別真言が記されているのですが、『念誦要法集』は此の二星を採り上げていません。それは仏眼曼荼羅の三重蓮花葉の上に此の二尊が存在しないのですから当然でしょう。
弘法大師が請来した『瑜祇経』に対する最初の詳細な注釈は、台密教理の大成者と目される五大院安然(841?―915?)の三巻の疏(『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経修行法』三巻)によって為されました。安然は智証大師円珍よりは一世代後の人ですから、恐らくそれより早く智証大師もそれなりに『瑜祇経』に対する関心を抱いていたのです。智証はその代表作に挙げられる『菩提場経略義釈』(一字頂輪王経疏)五巻の撰述から明らかなように
一字頂輪王に深い関心を寄せていましたから、それとの関連で『瑜祇経』所説の仏眼仏母に興味を持ったのかも知れません。

(以上)

愛染『秘密要術』と「九佛愛染(愛染曼荼羅)」について

2014-11-08 16:42:19 | Weblog
愛染『秘密要術』と「九佛愛染(愛染曼荼羅)」について


(一)愛染『秘密要術』
大正大蔵経『図像』第五巻の『覚禅鈔』81「愛染法下」に於いて染愛王の形像として法三宮(真寂親王)作とされる『ラギャ(梵字:raga)記』の説を引用した後で、更に続けて『佛母愛染最勝真言法』と『秘密要術』の説を引用紹介していますが、『秘密要術』の説に付いては理性院宗命撰『授心抄』の中でより広範な引用がある事に気が付きました。
先ず『覚禅鈔』の文は以下の通りです。
「秘密要術に云く、其の形は両頭にして左は白、右は赤なり。四臂ありて、左右の(第)一手に刀印を作り、次の左右は三鈷杵にして、赤蓮に坐す〔云々〕。」
次に金沢文庫保管重文称名寺聖教の第18箱1.2『授心抄』巻中の「ラギャダルマ(梵字:ragadharma)」(愛染王法)に於いて、「或る書」に依って記す愛染曼荼羅の文中には上記「其の形は」以下と同文があるので、此の「或る書」とは『秘密要術』なる典籍であると考えられます。以下にその一節を書き出しの部分から紹介します。
「又(先師理性房賢覚の口伝に)云く、或る書の中に愛染王マンダラ(梵字:matara)を説く。〔但し才学の為に記す。云く、毀(こぼ)つべき説なり。之を用うべからず。〕三重マンダラ(梵字:matara)の中央の院に愛染王あり。其の形は四面五首(「目」の誤写)〔額に一目、左右の本目、下に各一目あり〕にして、首(こうべ)に宝冠を戴き、髪は火焔の如くして、身色は皆白色なるが少しき青色なり。四臂ありて、左の(第)一手に弓を持して空に上げ、右の(第)一手に箭を持して胸間に当てて七星を射らんと為しむる相なり。左の(第)二手に彼を取らしめ、右の(第)二手に白蓮華を持して彼を打つ勢なり。四足ありて、左の二足は上に置き、右の二足は下に垂れて金蓮華を踏む。凡て(全身)白蓮華に坐して月輪に住す。彼の座の下に四面の師子あり。四足にして下に各の蛇を踏む。其の師子は口より如意宝珠を雨(あめふら)す。蓮の上、次いで中院に両頭染愛菩薩あり。其の形は両頭なるが左は白、右は赤なり。四臂ありて、左右の(第)一手を刀印に作し、次の左右(の手)に三股杵を依持す。赤蓮に坐して、月輪に住す。是を名づけて東方の衆と為す。(以下略す) 」
此の『秘密要術』に説く愛染曼荼羅は、大正大蔵経『図像』第12巻の別紙37「三面愛染明王曼荼羅」に相当します。『図像』の方は三面ですが、大きく描かれた中央面上の師子面を加えれば四面に成ります。その他は、『図像』の師子座の部分がほとんど欠損しているにしても、両者の尊容は完全に合致していると云えます。

(二)「九佛愛染(愛染曼荼羅)」
大正大蔵経『図像』第五巻の『覚禅鈔』81「愛染法下」の裏書644に、
或る抄に云く、一面三目六臂の像を以って中尊と為し、十二臂大日・両頭二臂尊・不動・大威徳・観音・弥勒・宝幢・剣龍を加えて一曼荼羅と為す。
と云い、その図像(図像287)を載せています。但し、「大威徳」は当該図像の持ち物を見る限り三面四臂の不動明王と思われます(次文で再述)。
本図(曼荼羅)は明らかにバークコレクション本「愛染曼荼羅」と同本であり『日本の美術』No. 376『愛染明王像』に於いて両図を並べ掲載していますが(第117,118図)、写真が小さくて残念です。バークコレクション本は平安時代の優れた白描図像であり、そのより鮮明な画像は『在外日本の至宝 1 仏教絵画』の図90に見る事が出来ます。それに依れば、向かって左下の尊が結ぶ印は内縛して二中指を立て合わせる大威徳の根本印(宝棒印)に見えますが、内縛して二頭指を立て合わせる不動の根本印(大独股印)であった可能性も考えられます。面貌は大威徳に相応し、不動の面影はありません。しかし、その尊容は大威徳明王の著しい特徴である六足では無く四臂二足であり、とりわけ左右の第一手に剣と索を持つ事は、何よりも不動明王である事を示唆しています。結局、この尊の正体に付いて確かな事はよく分からないと云えます。
又図90の解説に依れば、紙背左端の識語に「愛染王曼荼羅」と題名を記し、更に伝写の経緯に付いて、
嘉承二年(1107)三月五日、三昧阿闍利(良祐)の□を以って書き了んぬ。
と云い、更に注記して、
件の本に云く、大原僧都(長宴)の御本〔云々〕。
と述べています(掲載写真に依る)。即ち、(皇慶)―長宴―良祐―写本作者、という伝写次第です。
さて『覚禅鈔』の裏書には続けて、
右曼荼羅図は安養房(芳源)の抄にあり。(同抄に云く?)皇慶闍利(云く)、三井の山王院大師(円珍)、愛染王マンダラ(梵字:matara)一幀を(唐より)渡さる。爰に北山隠士(芳源自身を云うか)あり。竊に釈を作りて云く、前後の二尊は慈悲の一双なり。所謂く、弥勒は大慈三昧の尊、観音は大悲行門の士なり。左右の二三昧耶は福智の一双なり。幢は福を表し、剣は智を表すなり。艮坤(向かって右上・左下)の二尊は主伴の一双なり。大日は主、不動は使者なり。巽乾(右下・左上)の二尊(「大威徳」と両頭染愛王)は愛憎の一双なり。其の義は顕然なり。〔彼の大師の御持念目録の中に此のマンダラ(梵字:matara)あるも、其の法名は無し。〕
と云います。四角(よすみ)の尊は図像287と配置を異にしますが今は無視します。此の「安養房の抄」に記す「北山隠士」の釈は、真言宗全書36に収載する蓮道記『覚源抄』巻上末の「第十一。九佛愛染王の事」に於いて、高野伝法院の「(五智房融)源阿闍利の口伝」として記されていますから、上記愛染曼荼羅は高野では九佛愛染とも称されていたのです(「蓮道」は蓮道房宝篋かと思われます。『覚源抄』や宝篋に付いては拙著『日本密教人物事典』の「宝篋」の条参照)。
一方、『覚源抄』は巻上末「第四。一身両頭愛染王の事」に於いて、
是(両頭愛染王)は他門より出でたる事なり。所謂(いわ)く、智証大師の九佛愛染王を作り給えるが、其の(中の)随一なり。説所として分明なる文は無し。只だ是れ随意(意楽/いぎょう)して愛染王の内証を作り顕し給える許りなり。経文には全く見えざる處なり。
と云い、上の皇慶阿闍利の説とは違って、此の愛染曼荼羅は請来本では無くて智証大師の意楽の作であると主張しています。
さて大正図像第九巻の『阿娑縛抄』115「愛染王」には、此の九佛愛染曼荼羅に関する興味ある物語を記しています。始めに、
愛染王の師子無き像あり〔師子の四足に蛇を踏む〕
  私に云く、中尊を加えて九尊あり。角の四(尊)は龍に乗る。
と云い、標題に云う「師子」とは面上の獅子冠の事であり(愛染明王は宝瓶の上の華座に坐しています)、注記の「師子」はここで言及する異像が乗る師子の事です。続けて本文には以下のように記されています。「
恵什闍利云く、清水寺の虚空蔵〔智者〕某(智虚空蔵と称された定深)が始めて造画して出だせし者なり。為隆卿(藤原 1070―1130)、有間(有馬)に於いて院(白河上皇)に進上す。件の本は甚だ異様の事なり〔云々〕。
観雲闍利云く、偽物なり。本院、御湯治の為に有馬に幸せしめ給える時、左大弁為隆は国司たるに依って御儲けを勤仕す。御護りと為(し)て、覚猷法印(鳥羽僧正 1053―1140)を以って愛染王を画かしめたる處、件の像を画けり。観雲、之を拝して云く、此れは是れ偽物なり。法印は此の由を知らずして之を画き進めたり。尤も不便(憫)なり。本院は此の由を聞し食して、故藤中納言〔顕隆〕(葉室 1072―1129)を以って問わしめ給う。仍ち以って陳し了んぬ。頗る法印の失(あやまち)なるか〔云々〕。 」
「私に云く」の注記と芳源阿闍利の弟子である恵什(斉朝)の説に依れば、智証大師が請来、或いは作画した曼荼羅とは別に清水寺の定深が新作した九佛愛染曼荼羅があったのです。それは「師子の四足に蛇を踏む」という注記と「甚だ異様」なる表現からして、『覚禅鈔』同巻の裏書の中にある図像288が是に相当すると考えられます。本図に関する同鈔の記事は以下の通りです。「
或る伝に云く、其の形は四面にして、面毎に五目あり。所謂く、額に一目、左右の本目、下に各一目なり。首(こうべ)に宝冠を戴き、髪は火焔の如し。身色は白色なるが少しく青色なり。四臂ありて、左の一手に弓を持ちて空に上げ、右の一手に箭を持ちて胸間に当つ。左の一手に彼を取らしめ、右の一手の白蓮花にて彼を打つ勢いなり。四足ありて、左の二足を上に置き、右の二足を下に垂れて蓮花を踏む。白蓮花に坐して、日輪に住す。彼の座の下に四面の師子ありて、四足の下に各の蛇を踏む。其の師子は口より如意宝珠を雨す〔云々〕。 」
この後に図像288が入り、続けて、
右の二像(図像287,288)は智証大師の御請来〔云々〕。但し、八体の菩薩等は(図像288では)之を略す。
と云い、図像288に関して清水寺定深の関与に言及していません。又「或る伝」の説は、(一)に述べた『秘密要術』の文に一致します。即ち大正図像第12巻の別紙37「三面愛染明王曼荼羅」が今の「或る伝」(図像288)の全体画像と考えられます。尤も『阿娑縛抄』では「角の四(尊)は龍に乗る」と云っていますが、別紙37では向かって右上角の尊は龍に乗っていますが、左上角の尊は一部欠けてよく分りませんが獅子に乗っているようです。下角の二尊は欠失して全く確認できません。

(以上)平成26年11月15日


小野静誉方と随心院血脈

2014-07-17 21:05:07 | Weblog
小野静誉方と随心院血脈

小野僧正仁海の遺跡(ゆいせき)である曼荼羅寺は範俊以後百年余りの寺内状況を示す史料に乏しく確かな事は分からないのですが、鎌倉時代の深賢口・親快記『土巨(とこ)鈔』に依れば、範俊は同寺を上足の弟子である良雅や厳覚では無く白河法皇の御子である仁和寺御室(覚法)に譲ったのです。そして同寺経蔵(小野経蔵)に収納されていた「十二合」と称する範俊相承の法門(聖教)や道具類も、法皇御所である鳥羽殿の経蔵に移されてしまいました。しかしながら小野の法流を伝える人達は寺内、近辺で伝法を続けて法燈を護持し、とりわけ厳覚の弟子増俊(1084―1165)が建立した随心院は顕厳を経て第三世の唐橋大僧正親厳(1151―1236)の時代に寺家(曼荼羅寺)に有職(阿闍利)三口を賜る等寺勢の回復を果たしました。以後曼荼羅寺は随心院に依って代表されるに至り、同寺の由緒が現在にまで伝えられる事に成ったのです。従って随心院の法流は増俊―顕厳―親厳と次第相承されたのですが、実には親厳相承の法流は普通に云う「随心院流」血脈より幅の広いものです。
『密教大辞典』に載せる法流血脈譜には奇妙で信じがたい相承次第が多くあります。今の「親厳方」の項に出だす安祥寺流の略系もその一例です。それは、
〔流祖〕宗意 念範 仁済 成宝 淳寛(しゅんかん) 増仁 仁禅 尊念 〔方祖〕親厳 良印 真空 頼瑜 (以下略す)
と云うものであり、年代を考えれば理性房賢覚の弟子である淳寛(1101―50―)が成宝(1159―1227)から受法する事はあり得ません。それでは正しい法流血脈は如何と云えば、政祝の『諸流潅頂秘蔵鈔』の「安祥寺流内。唐橋親厳僧正方」に、
範俊 厳覚 宗意 淳観〔寛か〕 増仁 仁禅 尊念 親厳
と記されていて(『真言宗全書』27 p.348上)、こちらの方は信用できそうです。即ち淳寛は流祖の宗意から直接付法しています。東寺長者・法務・大僧正として著名な親厳は、随心院第二世の顕厳から法流・門跡共に相承して同院第三世と成りましたが、単に「親厳方」と云う時は何故か安祥寺流の伝法血脈を指すようです。
さて親厳は尊念から安流の相伝を遂げたのですが、尊念からは静誉方も受けていて、実には随心院の法流を考える時に此の静誉方の血脈が非常に重要です。『諸流潅頂秘蔵鈔』の「勧修寺〔小野〕 静誉方」の項目に於いて、
成尊 範俊 静誉 〔随心院〕増俊〔阿闍梨〕 禅然 尊任 道範 (以下略す)
なる血脈が示されていて、密大辞「静誉方(一)」の項も是を踏襲し、私も是を信じて拙著『日本密教人物事典』上巻の「増俊」の条第5項に此の血脈を掲載しました。
ところが『金沢文庫古文書』第九輯に載せるNo. 6512「潅頂口伝」血脈や随心院聖教52箱36号「(随心院流系図)」を参照する時、今の『秘蔵鈔』の血脈は誤りであり実には、
範俊 静誉 増仁 仁禅 尊念 親厳
のように訂正すべきであると思われます。増俊は静誉から付法していないようです。一方、親厳は尊念から安祥寺と静誉方の両流を受けた事が分かるのです。越前阿闍梨と称された静誉(1079―1145―)は、小野の血脈類によれば厳覚からも重受して範俊の法流を究めようとした事が伺えます。又『(醍醐寺)研究紀要』第一号所載の『伝法潅頂師資相承血脈』の範俊付法の条では「静誉」に「光明山」なる注記があって、中川(なかのかわ)実範上人終焉の地とされる光明山寺(京都府南部/廃絶)を活動の場としていた事が知られます。
さて親厳の師である尊念は上の「(随心院流系図)」によれば「近江僧都」と称し、亦増俊の付法資である顕厳の潅頂弟子と成っていますから、親厳にとっては師であると共に同門(法兄)でもありました。此の「(随心院流系図)」は特に親厳以後の付法次第が大変詳しく記されていますが、親厳の相承分としては静誉方と増俊の法流を挙げるのみで安祥寺流の記載はありません。
猶、「(随心院流系図)」は『小野随心院所蔵の密教文献・図像調査を基盤とする相関的・総合的研究とその探求』の米田真理子「随心院蔵「随心院流系図」」に影印紹介されています。同「系図」の本奥書に、
 右当流血脈は旧記髣髴にして摩尼と燕石とを分たずと雖も、更に今案加減に非ず而已。
 至徳元年(1384)臘月(十二月)九日
と記されています(一部、文字等を改変しています)。
又、本稿に於いては煩雑を避けて随心院二世顕厳の事績に付いて言及しませんでした。顕厳の伝歴に付いては誤伝もあり、一般にほとんど知られる事が無いので、後日記事にしようと思っています。

(平成26年7月17日)

不動・愛染一体の口決と『毘廬遮那三菩提経』

2014-05-13 20:08:25 | Weblog
不動・愛染一体の口決と『毘盧遮那三菩提経』

先般、HP『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス第二集」欄に於いて「愛染・不動合体尊の事」と題して、鎌倉後期の不動・愛染一体の口決に関する諸相に付いて記しました。此の口決の濫觴を尋ねれば平安末期に遡るであろう事が推測されますが、その事を裏付ける信頼するに足る最良の史料として、『園城寺文書』第七巻に収載されている慶範撰『宝秘記』中の一節があります。本書は主として三井寺の大宝院大僧正真円(1117―1204)の口決を記した大部の諸尊口伝集であり、著者の慶範法印(1155―1221)は真円の写瓶資と目される学僧です。亦此の慶範は、同文書同巻の『伝法潅頂血脈譜』に依れば証月上人慶政(1155―1221)に伝法潅頂を授ける等、鎌倉前期に於ける三井寺の法流を知る上で興味ある重要な人物です。同寺の法流は智弁(余慶)の次に智静(観修)方と智観(勝算)方に分かれますが、真円の師である大宝坊良修法眼は両方を相承して是を真円に伝えていますから、『宝秘記』は平安末から鎌倉初の三井寺本流の相承口伝を直接伺う事ができる好個の史料と云えます。
さて『宝秘記』第三十二に「不動・愛染一体事」という項目があり、先ず「
(真円)仰せ云く、台蔵をば不動尊、金剛界にて愛染王、是は愛菩薩なり。不動と愛染王と一体の事は三菩提経に見たり。
建久三―(1192)八月五日(下文に係るか)
仁和寺の勝遍律師云く、不動と愛染王とは一体なる事、随分の秘事なり。法性寺殿(藤原/九条兼実か)御尋ね候いしかば、件の証文・本経并びに儀軌等を検べ申せしに御感あり云々。
予(慶範)申し云く、此の事は如何。
仰せ云く、(不動・愛染)一仏の証文を検ぶ(べき)なり。彼の門跡には秘事とて一仏と習学するか。但し、此の門跡は別して一仏と云いて習う事は無けれども、一仏と云うべきにや。検文等、之あり云々。 」
と述べています。
即ち鎌倉初期に忍辱山流勝遍方の祖とされる勝遍律師が、不動・愛染一体の口決を伝えていた事が確認できます。又真円の「仰せ」に云う「三菩提経」に付いては、『宝秘記』に於いて上文の続きに抄記引用されています。以下の文を示せば、「
毘盧遮那三母提経に云く、ヒルサナ○後に三界の有情の生死に輪転するを見て、大悲台蔵より吽(ウン)字を流出して、調伏の為の故に金剛愛染三昧に入る。神変加持の為の故に三昧より起って「ウン・ウーン」(特殊字の為入力不可)を字輪中に出だして、後に金剛光明郝奕(かくやく)大火光三昧を現す。■諸菩薩の微細煩悩習摂及び所知障を(「破し」か)、後に諸摩羅及び諸部衆を焼く。此の三昧の中に於いて証成せる応身金剛明王聖者を無動明王と名く。〔文〕
  私に云く、大日の愛染三昧等に入り了んぬ、無動尊と名く〔文〕とあり。此の文は愛染即不動を明かす証なるか。
仰せ云く、尤も然るべし。此の文は其の証なり云々。予の申し云く、東寺の人は瑜祇経に証文ある事云々(と云えり)。
仰せ云く、(愛染王の)一字心真言ト(大日経)息障(品)の下文とは、断障の文義相い叶えり。故に彼(瑜祇経)を以って其の証と為す。之を検ぶべし云々。 」
と記されています。
此の『毘盧遮那三菩提経』なる経典の由緒に付いては不詳と云う他ありませんが、平安時代後期に制作された各種の真言典籍にも所見が無いので、一応台密の阿闍利による本邦撰述の経軌であろうと考えられます。又撰述の主要な意図が不動・愛染一体の口決を保証する事にあったろう事も容易に推察されます。
近日中にHP『柴田賢龍密教文庫』に於いて、上の『三菩提経』引用箇所の解説と慶範のコメントを含めて、不動・愛染一体の口決に関する広範な記事を掲載する予定です。

(以上)
(平成26年5月16日)

HP『柴田賢龍密教文庫』の「愛染明王に付いて」の第三記事として『愛染・不動一体の口決に付いて』を掲載し、その第三章に『毘盧遮那三菩提経』引用箇所の詳しい解説を記しました。
(平成26年6月14日)